「天涯の遊子」土桂篇。
土方と桂。と、高杉。 山崎、沖田、銀時、ほかも。
動乱篇以降、攘夷志士試験の後日。
全7回予定。其の一。土方、沖田、山崎。
連作時系列では、銀桂『弦月』、沖桂『落陽』よりあと。
土桂『陽炎』、高桂『水際』の流れを受け継ぐ。
どうしてこんなことになったんだろう。
薄れゆく意識の中で、ぼんやりとして土方は思った。高杉に刃を突きつけていたのは自分だったはずなのに。いま倒れ伏しているのはなぜこの身なのか。血の流れでる感触はない。ああ、まだ死ぬわけではないらしい。だがいっそ、死んだほうが楽だったかもしれない。
桂。
いま、その白皙の頬に刻まれているのは。酷薄の笑みか。憐憫の涙か。
* * *
密偵として潜入捜査に向かったまま、山崎が戻ってこない。
「下手を打ったか。あいつ」
真選組の屯所の庭に面した縁側に座り込み、きょう何本目かも覚えちゃいない煙草に火を点けながら、土方はひとりごちた。無事潜入を果たせたのなら、なんらかのつなぎを取ってくるはずで、それが、十日あまりも立ついまもってないということはしくじったと考えるべきだろう。ただしくじったのならどやされるのを覚悟で屯所に戻ってくればすむ。だがそれすらないとなると、ことは穏やかではない。
だから、反対だったんだ。山崎の直接の上司は自分だから、命(めい)を下したのは土方だったが、攘夷派を内部から洗って一網打尽にするなどと、現場を知らない頭でっかちの、脳天気な幕吏の考えそうなことだ。使命を忠実に果たそうとしたであろう山崎の心境を思うと、柄にもなく走狗の悲哀を愚痴りたくなってくる。
いまの桂はたしかに穏健派だがふぬけたわけでなし、土方が私的に知り得た部分でも、どこかしら抜けてる一面があるのはぬぐえないとしても。だからといってあのおとこが、自らの懐にじかに飛び込んできた敵方の密偵を見抜けぬとは思えない。そんなことすらも上層部にはわからないのだ、と溜息が出る。
監査方で隠密行動を担う以上は山崎も万一のときの覚悟はできているだろうし、どうあれ自らが下した命(めい)であるからには土方も、失態の責任は自らに帰することを承知している。しているにせよ、空しさは消せない。
「生きてますかねィ。ザキのやつ」
ぎくりとするようなことを平然と云って、沖田が背後から土方の傍らに立った。
「縁起でもねぇ」
土方は振り向きもせず、紫煙を吐き出す。
「あれ。意外と甘いんじゃありやせんか。土方さん。攘夷の連中にとって真選組は目の上のたんこぶですぜィ」
「かんたんに殺しゃしねぇだろう」
「ならそのぶん、拷問に掛けられてるって可能性は高まりまさぁね」
淡々とした沖田の指摘は、先刻からの土方の懸念のひとつだ。直接に飛び込んだ相手が桂なのだから、殺される可能性は低いと見ていいだろう。だが山崎の真選組への、近藤や土方への忠義の厚さを知るだけに、捕らえられた際にはそれが徒とならないはずはなかった。
「そんなに気になるんなら。桂に、直接訊ねてみちゃぁどうですかい?」
縁側の沓脱石で煙草を揉み消して、土方が立ち上がる。
「ばかか。んなこと、できるわけねぇだろうが」
そのようすをちらりと見、沖田は心持ち抑えた声音でぼそりと呟いた。
「なんででさぁ。土方さん、桂の連絡先知っていなさるんでやしょう?」
「それとこれとは、話がべつだ」
「桂とのあいだに、職務上のいざこざを持ち込みたくないんですかィ?」
庭先に降り立ち、午後の見廻りのため玄関口へ回りかけて、土方は立ち止まった。
「総悟。なにが云いてぇ」
「仮に桂に、山崎が…仲間が殺された日にゃ、あんたぁどうするつもりでィ」
あいかわらず淡々と、だが沖田の指摘には容赦がない。土方がこころのうちで密かに抱く一抹の不安を暴きたてる。
土方が即座には応えあぐねていると。沖田は返事を期待していたわけではなかったのか、自嘲気味の笑みを洩らして、ふいと背を向けた。
「ほんと、どうするんだろうねィ」
そのまま部屋の奥へと戻ってしまった沖田に、土方は訝しむような視線を投げた。なんだろう、この感じ。たしかに沖田も、桂に拘っている一面を覗かせていたことはあったが。いまのは。あれではまるで自身に問うているような。
「まさか、な」
土方はひとつあたまを振って、山崎への懸念と浮かび掛けた雑念とを振り払うと、その足で屯所をあとにした。
だが、幸いにも。懸念は杞憂に終わる。
その翌日。伊東の謀反の際に河上の凶刃からいのち長らえたときのように、ひょっこりと山崎が屯所に帰ってきたのである。
* * *
潜入に失敗した身が無事だったわけで、黙して山崎は多くを語らない。なにも云わないでは当然すまないが、報告書には簡単に、こうあっただけだ。
真選組の監査方という身分がばれて一時的に身柄を拘束されたが、幹部でもない人間から引き出せる情報などたかが知れていると思ったのか、お定まりの尋問のあとは、捕虜に無駄に飯を食わせる余裕はない、とおっぽり出された。万が一、変心や二重スパイを疑われたときには土方にこう伝えるがいい、と云い置かれて。
『これで借りは返した』
「もうしわけありませんでした」
執務室で報告書に目を通す土方のまえで、山崎はうなだれる。最後の一文を読んで、土方は苦い顔になった。が、
「もともと無理な注文だったんだ。気にするこたぁねえ」
思いもよらぬことばだったのか山崎は、土方の顔をおそるおそる見返した。あいかわらず表情は不機嫌だが、怒っているわけではないとわかると、とたんに山崎の好奇心の虫がうずきだしたらしい。
「副長。借りって、なんのことですか」
土方はじろりと山崎を睨んだ。
「さあな。覚えがねえ」
低く繰り出されたことばに、ふたたび山崎が身を縮める。だが好奇心から量ると云うよりは、どこか縋るような目で見てきた。
「まあ失態は失態だ。始末書の一枚くらいは覚悟しとくんだな。下がっていいぜ」
山崎の態度に若干の違和感を感じつつも土方が告げると、山崎はまだなにか云いたげに身じろいだが、結局もういちど謝罪のことばを述べてあたまを下げた。
「なにか、あったな。ありゃ」
山崎が退出して、土方はまた煙草に火をつけながら、ぽつりと呟く。
紅桜に斬られた桂を土方が介抱し内密のままにしたことを、桂はなんだかんだ云いながらも借りと思っていたわけか。それはそれで複雑な気分なのだが。
桂が山崎を無事戻すことでその借りを返したのだとしても。あの桂とじかに相対して、山崎が対等に渡り合えたとは思えない。山崎は優秀な監査方ではあるが、今回ばかりは相手がわるすぎる。土方や沖田をさえ煙に巻くような、ばけものじみた党首さまだ。めずらしく部下への仏心も起きようというものだ。
土方のほうとて桂との経緯を追求されるのは拙いわけで、この件はここで終わらせるのが賢明だ、という判断もあった。
懸案事項がどうあれひとつ解決して、そうなると現金なもので、桂に会いたくなる。
伊東の一件からこっち、真選組の立て直しやら引き締めやらに追われて、ろくに連絡も取れないでいたところへ、山崎の件がかさなって、気がつけばもう何週間も桂にメールを送っていない。かなしいかな、土方から連絡を入れないかぎり桂からの通信は望めないので、姿や声はおろか、メールの文字でさえも桂に触れていないのだ。妖刀の呪いはねじ伏せられても、恋心だけはいかんともしがたいというのは、やっかいだとつくづく思う。当然のように桂のバイト先であるかまっ娘倶楽部にも顔を出していなかった。
最後に会ったのはいつだっけ。騒動の以前だからもうずいぶんになる。
ああ、そうだ。その店にふらりと立ち寄ったときだ。あの日はたまたま桂、じゃなくヅラ子が、幸運にも店に出ていたのだ。先客がいて少し待たされはしたものの、桂と過ごすことができた、その短い時間。あれ以来か。
そう思えば、ますますおもいは募る。片恋だという自覚があるだけに、自分から動かないかぎり桂との未来はないと知っている。一連のことでは万事屋の世話になったという自覚もあったが、だからといって退く気にはなれない。
思い立ったその夜、土方は桂に宛ててメールを打った。
桂のことだから、今回の山崎の潜入はおろか先の伊東の起こした騒動のことも、おおかたお見通しなのだろう。関わっていたのが高杉率いる鬼兵隊なら、なおのこと。だがおなじ攘夷浪士でも、裏で糸を引いていたのが高杉であったことは、土方をある意味安堵させた。
沖田の指摘を待つまでもない。これが桂だったなら、おのれは。真選組ひいては近藤への忠節と、桂への恋情に、まちがいなく引き裂かれていたはずだ。
続 2008.06.28.
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どうしてこんなことになったんだろう。
薄れゆく意識の中で、ぼんやりとして土方は思った。高杉に刃を突きつけていたのは自分だったはずなのに。いま倒れ伏しているのはなぜこの身なのか。血の流れでる感触はない。ああ、まだ死ぬわけではないらしい。だがいっそ、死んだほうが楽だったかもしれない。
桂。
いま、その白皙の頬に刻まれているのは。酷薄の笑みか。憐憫の涙か。
* * *
密偵として潜入捜査に向かったまま、山崎が戻ってこない。
「下手を打ったか。あいつ」
真選組の屯所の庭に面した縁側に座り込み、きょう何本目かも覚えちゃいない煙草に火を点けながら、土方はひとりごちた。無事潜入を果たせたのなら、なんらかのつなぎを取ってくるはずで、それが、十日あまりも立ついまもってないということはしくじったと考えるべきだろう。ただしくじったのならどやされるのを覚悟で屯所に戻ってくればすむ。だがそれすらないとなると、ことは穏やかではない。
だから、反対だったんだ。山崎の直接の上司は自分だから、命(めい)を下したのは土方だったが、攘夷派を内部から洗って一網打尽にするなどと、現場を知らない頭でっかちの、脳天気な幕吏の考えそうなことだ。使命を忠実に果たそうとしたであろう山崎の心境を思うと、柄にもなく走狗の悲哀を愚痴りたくなってくる。
いまの桂はたしかに穏健派だがふぬけたわけでなし、土方が私的に知り得た部分でも、どこかしら抜けてる一面があるのはぬぐえないとしても。だからといってあのおとこが、自らの懐にじかに飛び込んできた敵方の密偵を見抜けぬとは思えない。そんなことすらも上層部にはわからないのだ、と溜息が出る。
監査方で隠密行動を担う以上は山崎も万一のときの覚悟はできているだろうし、どうあれ自らが下した命(めい)であるからには土方も、失態の責任は自らに帰することを承知している。しているにせよ、空しさは消せない。
「生きてますかねィ。ザキのやつ」
ぎくりとするようなことを平然と云って、沖田が背後から土方の傍らに立った。
「縁起でもねぇ」
土方は振り向きもせず、紫煙を吐き出す。
「あれ。意外と甘いんじゃありやせんか。土方さん。攘夷の連中にとって真選組は目の上のたんこぶですぜィ」
「かんたんに殺しゃしねぇだろう」
「ならそのぶん、拷問に掛けられてるって可能性は高まりまさぁね」
淡々とした沖田の指摘は、先刻からの土方の懸念のひとつだ。直接に飛び込んだ相手が桂なのだから、殺される可能性は低いと見ていいだろう。だが山崎の真選組への、近藤や土方への忠義の厚さを知るだけに、捕らえられた際にはそれが徒とならないはずはなかった。
「そんなに気になるんなら。桂に、直接訊ねてみちゃぁどうですかい?」
縁側の沓脱石で煙草を揉み消して、土方が立ち上がる。
「ばかか。んなこと、できるわけねぇだろうが」
そのようすをちらりと見、沖田は心持ち抑えた声音でぼそりと呟いた。
「なんででさぁ。土方さん、桂の連絡先知っていなさるんでやしょう?」
「それとこれとは、話がべつだ」
「桂とのあいだに、職務上のいざこざを持ち込みたくないんですかィ?」
庭先に降り立ち、午後の見廻りのため玄関口へ回りかけて、土方は立ち止まった。
「総悟。なにが云いてぇ」
「仮に桂に、山崎が…仲間が殺された日にゃ、あんたぁどうするつもりでィ」
あいかわらず淡々と、だが沖田の指摘には容赦がない。土方がこころのうちで密かに抱く一抹の不安を暴きたてる。
土方が即座には応えあぐねていると。沖田は返事を期待していたわけではなかったのか、自嘲気味の笑みを洩らして、ふいと背を向けた。
「ほんと、どうするんだろうねィ」
そのまま部屋の奥へと戻ってしまった沖田に、土方は訝しむような視線を投げた。なんだろう、この感じ。たしかに沖田も、桂に拘っている一面を覗かせていたことはあったが。いまのは。あれではまるで自身に問うているような。
「まさか、な」
土方はひとつあたまを振って、山崎への懸念と浮かび掛けた雑念とを振り払うと、その足で屯所をあとにした。
だが、幸いにも。懸念は杞憂に終わる。
その翌日。伊東の謀反の際に河上の凶刃からいのち長らえたときのように、ひょっこりと山崎が屯所に帰ってきたのである。
* * *
潜入に失敗した身が無事だったわけで、黙して山崎は多くを語らない。なにも云わないでは当然すまないが、報告書には簡単に、こうあっただけだ。
真選組の監査方という身分がばれて一時的に身柄を拘束されたが、幹部でもない人間から引き出せる情報などたかが知れていると思ったのか、お定まりの尋問のあとは、捕虜に無駄に飯を食わせる余裕はない、とおっぽり出された。万が一、変心や二重スパイを疑われたときには土方にこう伝えるがいい、と云い置かれて。
『これで借りは返した』
「もうしわけありませんでした」
執務室で報告書に目を通す土方のまえで、山崎はうなだれる。最後の一文を読んで、土方は苦い顔になった。が、
「もともと無理な注文だったんだ。気にするこたぁねえ」
思いもよらぬことばだったのか山崎は、土方の顔をおそるおそる見返した。あいかわらず表情は不機嫌だが、怒っているわけではないとわかると、とたんに山崎の好奇心の虫がうずきだしたらしい。
「副長。借りって、なんのことですか」
土方はじろりと山崎を睨んだ。
「さあな。覚えがねえ」
低く繰り出されたことばに、ふたたび山崎が身を縮める。だが好奇心から量ると云うよりは、どこか縋るような目で見てきた。
「まあ失態は失態だ。始末書の一枚くらいは覚悟しとくんだな。下がっていいぜ」
山崎の態度に若干の違和感を感じつつも土方が告げると、山崎はまだなにか云いたげに身じろいだが、結局もういちど謝罪のことばを述べてあたまを下げた。
「なにか、あったな。ありゃ」
山崎が退出して、土方はまた煙草に火をつけながら、ぽつりと呟く。
紅桜に斬られた桂を土方が介抱し内密のままにしたことを、桂はなんだかんだ云いながらも借りと思っていたわけか。それはそれで複雑な気分なのだが。
桂が山崎を無事戻すことでその借りを返したのだとしても。あの桂とじかに相対して、山崎が対等に渡り合えたとは思えない。山崎は優秀な監査方ではあるが、今回ばかりは相手がわるすぎる。土方や沖田をさえ煙に巻くような、ばけものじみた党首さまだ。めずらしく部下への仏心も起きようというものだ。
土方のほうとて桂との経緯を追求されるのは拙いわけで、この件はここで終わらせるのが賢明だ、という判断もあった。
懸案事項がどうあれひとつ解決して、そうなると現金なもので、桂に会いたくなる。
伊東の一件からこっち、真選組の立て直しやら引き締めやらに追われて、ろくに連絡も取れないでいたところへ、山崎の件がかさなって、気がつけばもう何週間も桂にメールを送っていない。かなしいかな、土方から連絡を入れないかぎり桂からの通信は望めないので、姿や声はおろか、メールの文字でさえも桂に触れていないのだ。妖刀の呪いはねじ伏せられても、恋心だけはいかんともしがたいというのは、やっかいだとつくづく思う。当然のように桂のバイト先であるかまっ娘倶楽部にも顔を出していなかった。
最後に会ったのはいつだっけ。騒動の以前だからもうずいぶんになる。
ああ、そうだ。その店にふらりと立ち寄ったときだ。あの日はたまたま桂、じゃなくヅラ子が、幸運にも店に出ていたのだ。先客がいて少し待たされはしたものの、桂と過ごすことができた、その短い時間。あれ以来か。
そう思えば、ますますおもいは募る。片恋だという自覚があるだけに、自分から動かないかぎり桂との未来はないと知っている。一連のことでは万事屋の世話になったという自覚もあったが、だからといって退く気にはなれない。
思い立ったその夜、土方は桂に宛ててメールを打った。
桂のことだから、今回の山崎の潜入はおろか先の伊東の起こした騒動のことも、おおかたお見通しなのだろう。関わっていたのが高杉率いる鬼兵隊なら、なおのこと。だがおなじ攘夷浪士でも、裏で糸を引いていたのが高杉であったことは、土方をある意味安堵させた。
沖田の指摘を待つまでもない。これが桂だったなら、おのれは。真選組ひいては近藤への忠節と、桂への恋情に、まちがいなく引き裂かれていたはずだ。
続 2008.06.28.
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