連作「天涯の遊子」の番外、高桂篇。其の三。終話。
高杉と桂。と、高杉 in エリザベス。
ヅラ誕 2008、in エリー番外三部作の破。晋誕合わせ。
番外は、天涯の遊子設定での、もうひとつの世界。
しんすけ。
おのれの名を呼ぶちいさな声に、高杉はぎょっとして耳をそばだてた。
行くな。 晋助。 そっちへ行ってはだめだ。
声はふわふわと、とぎれとぎれに続いて、だが明確に語りかけるそれではない。
寝言か?
いまの桂が、その懐かしい名で高杉を呼ぶことは、多くない。
小太郎…。むかしの夢でも見ているのか。
だめだ、だめだ。あぶない。行っちゃだめだ、しんすけ。
声はだんだんと幼く、せつなさをまして、高杉は無意識に耳を塞いだ。
やめろ。やめてくれ、そんなふうに呼ぶんじゃねぇ。
そのくせ、その声は高杉のこころの奥深くをつよく揺さぶり、惹きつけて、いつまでも聞いていたくなる。
両手で耳を押さえたまま、その声に神経を集中させるという矛盾した行動を取りながら、高杉はついに耐えきれず、ついたてに立てきられた向こう側へと身を乗りだした。
ふとんから上空に腕を伸べて空間を空しく掻きつかんでいた桂の、その手を思わず取る。
瞬間、ぱっと眸を見開いた桂が、高杉の姿を認め抱きつくように縋った。
「しんすけ! ああ、よかった。そこにいたのか」
ぎゅっ、と高杉の身を抱きしめる。つよくつよく抱きしめてくる。
刹那、高杉はいまを忘れた。応えるようにそれ以上のちからで抱きしめてやると、安心したのか、桂はまたふわりと眸を閉じる。
寝惚けているのか。
やがて続いた寝息は穏やかで、高杉は、ふたたび桂が夢に魘されることのないよう、起こさぬよう、そのまま桂の身を抱きしめて、その一夜を過ごした。
「すまなかったな、エリザベス」
翌朝、目覚めた高杉に、桂は開口一番そう云った。
「どうも、夜中に寝惚けておまえに迷惑をかけたようだ。一晩中抱きつかれて眠るなど、疲れただろう。突き返して夜具に押し込んでくれればよかったものを。ふとん代わりにしてしまったな」
おまえはふわふわで心地よいから。
そう付け足して笑う桂に、高杉は半分眠ったままのあたまで寝惚けまなこを向けていた。
ああ、俺はいまあの白いものの着ぐるみのなかにいるんだった。
……………あれ?
でもゆうべ、桂は俺を見て。
よかった、しんすけ、そこにいたのか。
あれは寝惚けていたからか。寝惚けて、このエリぐるみ姿を幼い晋助だとでも思ったのだろうか。あんなにぱっちりと瞠った眸で見つめていたのに。あんなにきつく抱きしめてきたのに。あのままずっと抱きしめていたのに。
まさか。
まさかまさかまさか。
来島が伝えてきた坂本のことづてを思い出す。
遅れて届いた祝いというのは、もしかして。
『桂さん』
プラカードで問い掛ける。
「うん? なんだ?エリザベス」
『どうして、この時期に取材を承けられたんですか』
桂は、それが癖の、ちょっと小首を傾げるしぐさでエリザベスを見た。とうに身支度も調えられていて、あのあとはよく眠れたらしく、そのおもてに疲労は伺えない。
「いや、ほんとうは夏のうちにすませる予定でいたのだが。けどほら、天竺へ出かけてしまっていたものだから、果たせなかったのだ」
朝食の膳を運んできた修行僧に軽く会釈をして、エリザベスを座に促した。
「坂本の口利きでもあったし、いんたびゅーだけでなく、ぐらびあやでーぶいでーの撮影もしたほうが効果的だと云うものでな。こうしたことも攘夷活動の一環というなら、無下にはできまい」
やっぱりだ、あのバカ本。
それならば、白いペンギンお化けの態度にも、納得がいく。
高杉がエリぐるみを活用できる機会を、わざわざお膳立てしてくれたというわけだ。夏に。たぶんおそらくいやきっと。当初のそれは八月十日に予定されていただろう。
そして。
『桂さんは、』
どう云おう。どう確かめよう。いや、もう聞くまでもないのだが。
そもそも昨晩、桂が幼い日の高杉の夢を見たのは。あんなにせつなく呼んだのは。そこに自分がいたからだ。それで誘発されたんだ。きっとそうなのだ。
云い淀んだのをどう捉えたのか、桂はやわらかに微笑して、
「いただこうか、エリザベス」
右の指先でわずかに擡げた箸先に左手を軽く副え、右手を握りの根元から下側へすべらすようにして箸を手に取る。
見慣れた品のよい所作だが、その流れるような、ごく自然なうごきをじかに目にするのはひさしぶりだった。育ちゆえに身についてしまった作法を意図的に崩していった高杉とは違い、桂はそんなところも変わらない。この揺るぎなさこそが、桂そのひとなのだった。
そのくせ、しれっと云ってのける。
「おまえは暑さに弱いから、かえってこのくらいの季節でちょうどよかった」
ああ、やはり。承知のうえで。こいつは、桂は、承けたのだ。
生真面目なくせに、というかある意味、だからなのか、桂はこうしたばかげた演しものを、嬉々として大まじめに演る傾向がある。
どうしよう。どうしてやろう。どうしてくれよう。
ふたりして、ひとをおちょくりやがって。かつぎやがって。
だがそれなのに。高杉は怒るに怒れないでいる。腹は立つのに、立っているはずなのに。なぜ。
なぜもなにもないのだった。理由は明白だ。
桂が最初から、このエリザベスをエリぐるみの高杉と承知していたのなら。いや、途中気づいたのであったとしても。高杉が必ず入れ替わって化けに来ると、坂本のお膳立てを知って乗っかったのなら。
きのう一日、この白いものに向けられていた桂の、まなざしもことばもしぐさも、すべては高杉に向けられたものだったことになる。
高杉と知って過ごす時間に、桂は終始、やわらかに笑んでいたのだから。
ほら、ちょうどいまのように。
『紅葉が見ごろだったなら、もっとよかった』
看板を掲げながら、エリぐるみの高杉は座敷から朝靄の庭に目をやる。
「そう云うな。おれにはこれでも充分だ」
おなじ視線のさきを眺めた桂が、ちいさく頷くのが、視界の片隅に見えた。そうしてそのあとは、ふたり静かに朝餉をとる。
射し込む陽の光とともに、立っていた朝靄は薄らぎ、淡く色付いた紅葉の庭が、また姿を見せはじめた。こころなし、きのうよりも鮮やかだ。
こうして日一日と色づいていくのろう。
箸を置いて手を合わせ、ごちそうさまの挨拶をしながら、桂が呟く。
「またいつか。来ような」
ああ。ほんとうに、またいつか。
つと、立ち上がったエリぐるみの高杉は、縁側から庭へと降りて沓脱石のまえで桂を見た。差し出された白いものの手に、桂は素直に手を乗せる。取材に追われてゆっくり眺めるいとまのなかった庭を、小半時ほど散策した。
「またきょうも忙しくなるな」
紅葉の木陰で。黄色いおおきな嘴の上半分を擡げて顔を覗かせた高杉は、そう云った桂の振り向きざまに、口接けた。
* * *
背中合わせの桂と白いものの写真は、美しく舞う紅葉を散りばめられ、攘夷穏健派機関誌第三期第三号の表紙と附録DVDのジャケットを飾った。
その後も高杉は、おのれがつとまりそうな役目のときを択んではエリザベスに成り代わり、エリぐるみのひととなって、秘かに桂のとなりに立っている。
それを桂が気づいているかどうかは、定かには知れない。
了 2008.10.04.
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しんすけ。
おのれの名を呼ぶちいさな声に、高杉はぎょっとして耳をそばだてた。
行くな。 晋助。 そっちへ行ってはだめだ。
声はふわふわと、とぎれとぎれに続いて、だが明確に語りかけるそれではない。
寝言か?
いまの桂が、その懐かしい名で高杉を呼ぶことは、多くない。
小太郎…。むかしの夢でも見ているのか。
だめだ、だめだ。あぶない。行っちゃだめだ、しんすけ。
声はだんだんと幼く、せつなさをまして、高杉は無意識に耳を塞いだ。
やめろ。やめてくれ、そんなふうに呼ぶんじゃねぇ。
そのくせ、その声は高杉のこころの奥深くをつよく揺さぶり、惹きつけて、いつまでも聞いていたくなる。
両手で耳を押さえたまま、その声に神経を集中させるという矛盾した行動を取りながら、高杉はついに耐えきれず、ついたてに立てきられた向こう側へと身を乗りだした。
ふとんから上空に腕を伸べて空間を空しく掻きつかんでいた桂の、その手を思わず取る。
瞬間、ぱっと眸を見開いた桂が、高杉の姿を認め抱きつくように縋った。
「しんすけ! ああ、よかった。そこにいたのか」
ぎゅっ、と高杉の身を抱きしめる。つよくつよく抱きしめてくる。
刹那、高杉はいまを忘れた。応えるようにそれ以上のちからで抱きしめてやると、安心したのか、桂はまたふわりと眸を閉じる。
寝惚けているのか。
やがて続いた寝息は穏やかで、高杉は、ふたたび桂が夢に魘されることのないよう、起こさぬよう、そのまま桂の身を抱きしめて、その一夜を過ごした。
「すまなかったな、エリザベス」
翌朝、目覚めた高杉に、桂は開口一番そう云った。
「どうも、夜中に寝惚けておまえに迷惑をかけたようだ。一晩中抱きつかれて眠るなど、疲れただろう。突き返して夜具に押し込んでくれればよかったものを。ふとん代わりにしてしまったな」
おまえはふわふわで心地よいから。
そう付け足して笑う桂に、高杉は半分眠ったままのあたまで寝惚けまなこを向けていた。
ああ、俺はいまあの白いものの着ぐるみのなかにいるんだった。
……………あれ?
でもゆうべ、桂は俺を見て。
よかった、しんすけ、そこにいたのか。
あれは寝惚けていたからか。寝惚けて、このエリぐるみ姿を幼い晋助だとでも思ったのだろうか。あんなにぱっちりと瞠った眸で見つめていたのに。あんなにきつく抱きしめてきたのに。あのままずっと抱きしめていたのに。
まさか。
まさかまさかまさか。
来島が伝えてきた坂本のことづてを思い出す。
遅れて届いた祝いというのは、もしかして。
『桂さん』
プラカードで問い掛ける。
「うん? なんだ?エリザベス」
『どうして、この時期に取材を承けられたんですか』
桂は、それが癖の、ちょっと小首を傾げるしぐさでエリザベスを見た。とうに身支度も調えられていて、あのあとはよく眠れたらしく、そのおもてに疲労は伺えない。
「いや、ほんとうは夏のうちにすませる予定でいたのだが。けどほら、天竺へ出かけてしまっていたものだから、果たせなかったのだ」
朝食の膳を運んできた修行僧に軽く会釈をして、エリザベスを座に促した。
「坂本の口利きでもあったし、いんたびゅーだけでなく、ぐらびあやでーぶいでーの撮影もしたほうが効果的だと云うものでな。こうしたことも攘夷活動の一環というなら、無下にはできまい」
やっぱりだ、あのバカ本。
それならば、白いペンギンお化けの態度にも、納得がいく。
高杉がエリぐるみを活用できる機会を、わざわざお膳立てしてくれたというわけだ。夏に。たぶんおそらくいやきっと。当初のそれは八月十日に予定されていただろう。
そして。
『桂さんは、』
どう云おう。どう確かめよう。いや、もう聞くまでもないのだが。
そもそも昨晩、桂が幼い日の高杉の夢を見たのは。あんなにせつなく呼んだのは。そこに自分がいたからだ。それで誘発されたんだ。きっとそうなのだ。
云い淀んだのをどう捉えたのか、桂はやわらかに微笑して、
「いただこうか、エリザベス」
右の指先でわずかに擡げた箸先に左手を軽く副え、右手を握りの根元から下側へすべらすようにして箸を手に取る。
見慣れた品のよい所作だが、その流れるような、ごく自然なうごきをじかに目にするのはひさしぶりだった。育ちゆえに身についてしまった作法を意図的に崩していった高杉とは違い、桂はそんなところも変わらない。この揺るぎなさこそが、桂そのひとなのだった。
そのくせ、しれっと云ってのける。
「おまえは暑さに弱いから、かえってこのくらいの季節でちょうどよかった」
ああ、やはり。承知のうえで。こいつは、桂は、承けたのだ。
生真面目なくせに、というかある意味、だからなのか、桂はこうしたばかげた演しものを、嬉々として大まじめに演る傾向がある。
どうしよう。どうしてやろう。どうしてくれよう。
ふたりして、ひとをおちょくりやがって。かつぎやがって。
だがそれなのに。高杉は怒るに怒れないでいる。腹は立つのに、立っているはずなのに。なぜ。
なぜもなにもないのだった。理由は明白だ。
桂が最初から、このエリザベスをエリぐるみの高杉と承知していたのなら。いや、途中気づいたのであったとしても。高杉が必ず入れ替わって化けに来ると、坂本のお膳立てを知って乗っかったのなら。
きのう一日、この白いものに向けられていた桂の、まなざしもことばもしぐさも、すべては高杉に向けられたものだったことになる。
高杉と知って過ごす時間に、桂は終始、やわらかに笑んでいたのだから。
ほら、ちょうどいまのように。
『紅葉が見ごろだったなら、もっとよかった』
看板を掲げながら、エリぐるみの高杉は座敷から朝靄の庭に目をやる。
「そう云うな。おれにはこれでも充分だ」
おなじ視線のさきを眺めた桂が、ちいさく頷くのが、視界の片隅に見えた。そうしてそのあとは、ふたり静かに朝餉をとる。
射し込む陽の光とともに、立っていた朝靄は薄らぎ、淡く色付いた紅葉の庭が、また姿を見せはじめた。こころなし、きのうよりも鮮やかだ。
こうして日一日と色づいていくのろう。
箸を置いて手を合わせ、ごちそうさまの挨拶をしながら、桂が呟く。
「またいつか。来ような」
ああ。ほんとうに、またいつか。
つと、立ち上がったエリぐるみの高杉は、縁側から庭へと降りて沓脱石のまえで桂を見た。差し出された白いものの手に、桂は素直に手を乗せる。取材に追われてゆっくり眺めるいとまのなかった庭を、小半時ほど散策した。
「またきょうも忙しくなるな」
紅葉の木陰で。黄色いおおきな嘴の上半分を擡げて顔を覗かせた高杉は、そう云った桂の振り向きざまに、口接けた。
* * *
背中合わせの桂と白いものの写真は、美しく舞う紅葉を散りばめられ、攘夷穏健派機関誌第三期第三号の表紙と附録DVDのジャケットを飾った。
その後も高杉は、おのれがつとまりそうな役目のときを択んではエリザベスに成り代わり、エリぐるみのひととなって、秘かに桂のとなりに立っている。
それを桂が気づいているかどうかは、定かには知れない。
了 2008.10.04.
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