「天涯の遊子」銀桂篇+土桂篇
銀時と桂と土方と。
新八、神楽、長谷川、沖田、近藤、ほか。
竜宮篇以降、モンハン篇よりまえ。
回数未定。其の五。土方、桂、長谷川、近藤。
「おじさんはあいにくとその日暮らしのこんなざまで。たすけてやりたいが、ぼうやのちからにはなってやれそうにねぇんだ。すまねぇなぁ」
珈琲を飲み干して、おとこは缶のラベルを確認すると、足もとの袋には入れず、少し離れたくずかごに放り入れた。スチール缶だったようだ。
「ふむ。それはいたしかたのないことだ」
少年は気落ちするふうでもなく、やけに堂に入った落ち着きっぷりで、頷いてみせた。
「なんかなぁ。おじさん、どっかで見たことあるような気がするんだけどよ。ぼうやに似た顔を。どこでだったかな。いや、ぼうやみたいな年頃の子に知り合いなんていねえから、気のせいなんだろうが…」
「よくある顔なのではないか?」
思案げにしげしげと眺めていたおとこは、ひらひらと片手を振った。
「まさか。それはねぇよ。ぼうや、ちゃんと鏡見てみな。あと数年もしたら、とんでもない美人になるぜ」
「美人? おれはおなごではないぞ。たぶん」
そう云いながらおのれでおのれを確かめるようなしぐさをみせる。
「うん。ついているからには、おとこだろう」
おとこは一瞬呆気にとられたような顔をしてから、げらげらと笑い出した。
「いや、おもしろいな、ぼうや。あんた、大物だ。大物になるぜ」
笑いすぎて滲んだ目尻の涙を拭いながら、ふと、気づいたような視線を此方へ投げた。
「あ、真選組の」
「真選組?」
少年が小首を傾げて、つられたようにおとこの視線の先へ顔を巡らせる。
「警察だよ。江戸のお巡りさんだ。ちょうどよかった」
サングラスのおとこは立ち上がって、公園の外れで一服する土方のもとへと足を向けた。
「ちょいと事情を説明してくるよ。あとはお巡りさんがなんとかしてくれるから、安心しな、ぼうや」
ぼんやりとベンチでのその一風変わったやりとりを眺めていた土方は、やれやれ、と煙草を吐き捨てブーツの爪先で揉み消した。
とたん、サングラスのおとこの後方から声が飛んできた。
「おい!真選組とやら。ポイ捨てするな。吸い殻を拾わぬか」
土方が面食らったように、声を放った少年のほうを見た。近寄ってきたサングラスのおとこが、苦笑を浮かべて土方に声を掛ける。
「じつは出会い頭に、俺もやられたんだよ。野火になると叱られた」
「長谷川さん、だっけ。あんた、とんでもねぇのを拾ったんじゃねぇのか」
じいいっと睨むように見つめてくる少年の視線に負けて、土方は踏みつけた吸い殻を拾い上げると、隊服のポケットに落とし込んだ。見届けた少年が満足そうに頷いているのが見える。そういえば、綺麗な顔立ちだがさっきからにこりともせずに、こどもらしくもなく淡々としている。だれかに似ているなと、土方は思った。
煙草のことといい、あの口調といい、長い黒髪といい、桂がこどものころはこうだったのではないか、と思わせた。
ひさしく、意識から追い出そうとしては失敗していた存在を思い起こして、土方は後ろ頸を撫でた。後遺症など残っているわけではないが、いまもあのときの感覚は生々しい。いや、これも後遺症なのか。からだにではなくこころのほうに、桂はたしかな痕跡を刻みつけた。
江戸市中に現れた高杉を追いつめたはずの土方は、桂によって高杉を取り逃がし、桂によって自らのいのちを長らえもしたのだ。
思い起こすたび、残酷で甘美な疵痕が疼く。
消すことの叶わない片恋の狂っていく恋情は、自覚はできても歯止めが効かない。銀時も高杉も、その恋着をどう抱えておのれ自身と付き合っているのだろう。これを越えないうちは、桂を希もうにも土方には、恋仇と並び立つことさえできないでいるわけだ。
桂とは幼なじみであるという銀時と高杉が、二十余年を費やして至った場所へ駆け上るには、土方がそれをなぞっていては駄目なのだ。途は違えても、おなじ核を共有しているような連中に、太刀打ちできるわけがない。
高杉の一件があったあとでも、桂はけろりとしている。先般、バイト先のかまっ娘倶楽部で顔を合わせたヅラ子は、土方のほうが拍子抜けするくらい頓着していなかった。拘っているのが自分だけなら、ばかみたいではないか。もとより土方の存在などその程度のものなのだと云われているようで、鬱々となる。いや、だがそうではないのだ。それが桂というひとのひととなりなのだ、と土方にもようようわかってきている。
桂は土方個人を嫌ってはいない。高杉の危急を救いながら土方の助命を図るほどには好かれているのだと思いたい。だがこれ以上どう近づいていいのかがわからない。それを考えまいとするほどに、気がつけば意識は桂に囚われている。だから土方は途方にくれていた。
長谷川から託された記憶喪失らしい少年を連れて屯所に戻ると、はや夕飯の時刻が近い。
あらためて近くで見ると身なりは整っているが、ところどころ着衣に擦れたようなあとがある。あたまを打ったのかも知れない。まずは警察病院で診察を受けさせるべきだろうか。土方は思案しつつ、さてだれに担当させようか、いま手隙なのはどの隊だったろうかと、あたまのなかでメモを繰る。
執務室までおとなしく連れられてきていた少年が、土方の隊服の上衣の裾を引っ張った。
「すまぬが、腹が空いた。なにか食わせてもらえるだろうか」
夕食じたくのざわついた空気や漂いはじめた匂いが空腹を刺激したらしい。屯所という真選組の詰め所の雰囲気に臆するでもなくまっすぐ目を見て話してくる少年に、ああやはり似ている、と土方は思う。思いながら、そう思う自分はかなり末期だなと考えた。
「おっと。そいつはすまねぇな。気が利かなくてよ。待ってろ。いま配膳係に食堂からなにか運ばせる」
「貴殿は、ここではえらいのか?」
「うん? なんでそう思う」
「さっきから、すれ違うものがみな黙礼してゆく。簡素な隊服のものも貴殿とおなじような隊服のものもいたが、みな。それに見知らぬこどもを連れてこの建物に入ってきたのに、だれも咎め立てしない。食堂からわざわざ膳をここまで命じて運ばせられるなら、相応の身分のものであろうかと」
滔々と語る少年に、土方は瞠目した。
こいつはたいしたタマだ。記憶をなくしているのが事実かどうかはまだわからないが、それが真実ならさぞや心細いであろう状況にも恐慌を来さず、土方が警察の人間と聞かされているとはいえ、見ず知らずの相手に連れられた見ず知らずの場所で、冷静に周囲を観察するだけの目と気持ちのゆとりがあるというのか。
「まあ、形式的には屯所じゃ二番目だな。俺は真選組副長、土方十四郎だ」
「ひじかた副長どのか」
「土方でいい。隊士でもないものに副長と呼ばせる趣味はねぇよ」
云いながら、通りがかった隊士に食事を運ぶよう指示をだす。
「ふむ」
小首を傾げて考え込むようなしぐさをみせた少年に、土方は問い掛けた。
「どうした。なんか思い出したか」
「いや、どこかで聞いたようなことがあるようなないような」
そう思案する表情は真剣でそれでいてどこかしら覚束なく、記憶喪失というのはけして虚言や戯れ言ではないのだ、と窺い知れるのだった。
「とにかく、きょうはもう遅いからここに泊まれ。病院にはあす連れて行ってやる。精密検査しとかねぇとな。そのまえにメシをすませたら近藤さんに挨拶だ。もう戻る頃合いだろうからよ」
早々に運ばれてきた膳を挟んで、対面に座らせる。少年は品のあるしぐさで袴の裾を捌いて座に着いた。なるほど、こいつは育ちがいいようだ。
「こんどうさん、とは」
「うちの局長だよ。つまりここでいちばんえらいひとだ」
「そうか。それは挨拶をせねばならんな。夕餉のあとでよいのか?」
「まだ帰ってねぇからな。まったくどこをほっつき歩いているんだか」
ほっつき歩いている場所は、志村家かスナックすまいるのふたつしかないが、さすがにそれをこども相手に云う気にはなれない土方である。
いただきますの挨拶のしぐさをしてから、膳から箸を手に取り、汁物の椀に添えて口を湿すまでの、少年の一連の所作は流れるようだった。土方が江戸へ出てから教科書どおり習い覚えた、儀礼的に必要に迫られる席で辟易としながらする作法を、このこどもは日常的に行っているということか。記憶は失くしても身に染みついたものまでは消えないらしい。
どこの若さまだよ、まったく。
付け焼き刃ではないそれは、このこどもがまちがいなく相応の武家の出であることを物語っていた。
「近藤さん、帰ってるかい」
からりと障子戸を開けて、局長の私室をのぞく。
「おう、トシか。留守中変事は?」
「ねぇよ、と云いたいところだが、ちょっと、あってな」
許可など無用の態でするりと這入り込んで土方は、坐卓でノートパソコンに向かっていた近藤の正面に着座した。
「そいつはめずらしい。で、ちょっと、なにがあったって?」
画面から目を離さないまま、近藤が応じる。
「なに熱心に見てるんだ?」
「いや、ここのところポンチ侍殿からの返信がなくてな。ちょっと心配なんだが。肉球愛好会やファミコン懐旧会の掲示板にも出てこないし」
「ポンチ侍…って、近藤さんあんた、あいつとメル友なのか」
思わず呆れたような声が出たのは、おのれの動揺を悟られぬためだった。
ポンチ侍、というのは桂のハンドルネームだ。近藤は断固として同一人物ではないと見え見えの否定をするが、ネット上では近藤と桂はおたがいがおたがいにまんざら知らぬなかでもないのである。それは承知していたが、返事がないと案じられるほどのものとは思っていなかった。
「いや、メル友というわけではないんだが、俺の書き込みにはレスを付けてくれる、律儀なやつなんだよ。それがないから、ちょっとな。いや、たんに忙しいのかも知れん。きっとそうだ。それで、トシ、話はなんだ?」
ひとりぎめに納得して、話を振ってくる。だからそれ以上問うことをせずに土方は、公園で長谷川から託された少年とその事情とをかいつまんで話した。
結局、土方自身が警察病院へ連れて行くことになった。
近藤曰く、いまどき武家礼法のきちんと身についた子というなら、ぞんざいに扱うわけにもいかんだろう。うちは田舎ものの集団だから、なにかと失礼があってもいかん。トシ、おまえがいちばん適任だ。記憶を失くしても平然と、鬼の副長相手に怯えるようすもないなんざ、肝の据わったこどもじゃないか。行く末が楽しみだ。
豪快に笑って呑気に云われた。局長のお達しとあっては、いたしかたない。ともあれその晩は土方の私室からつづきになっているひと間、本来なら副長付きの隊士が寝泊まりする場所だが隊の再編でいまは空室になっているそこへ、その少年を泊まらせた。
翌日。連れて行った警察病院であれやこれやと検査をし、半日がかりで外因性の一時的な記憶喪失だろうという見立てが下った。少年が訴えなかったので気にもとめなかったが、ところどころに擦過傷やら軽い打ち身やらもあったようだ。長谷川から伝え聞いた前後の状況から考えて、その丘の崖から落ちたのだろう。身元を証明できるようなものもやはり所持しておらず、彷徨っていたとき少年が手になにを持っていたかも判明しなかった。
いずれにせよ、肉親があるなら今日明日にでも行方不明の届け出が為されるだろう。いまこうしているうちにもあるかも知れない。検査疲れからかちいさく欠伸をする少年の背をぽんぽんと叩いて、その日はまっすぐ屯所に戻った。
続 2009.01.21.
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「おじさんはあいにくとその日暮らしのこんなざまで。たすけてやりたいが、ぼうやのちからにはなってやれそうにねぇんだ。すまねぇなぁ」
珈琲を飲み干して、おとこは缶のラベルを確認すると、足もとの袋には入れず、少し離れたくずかごに放り入れた。スチール缶だったようだ。
「ふむ。それはいたしかたのないことだ」
少年は気落ちするふうでもなく、やけに堂に入った落ち着きっぷりで、頷いてみせた。
「なんかなぁ。おじさん、どっかで見たことあるような気がするんだけどよ。ぼうやに似た顔を。どこでだったかな。いや、ぼうやみたいな年頃の子に知り合いなんていねえから、気のせいなんだろうが…」
「よくある顔なのではないか?」
思案げにしげしげと眺めていたおとこは、ひらひらと片手を振った。
「まさか。それはねぇよ。ぼうや、ちゃんと鏡見てみな。あと数年もしたら、とんでもない美人になるぜ」
「美人? おれはおなごではないぞ。たぶん」
そう云いながらおのれでおのれを確かめるようなしぐさをみせる。
「うん。ついているからには、おとこだろう」
おとこは一瞬呆気にとられたような顔をしてから、げらげらと笑い出した。
「いや、おもしろいな、ぼうや。あんた、大物だ。大物になるぜ」
笑いすぎて滲んだ目尻の涙を拭いながら、ふと、気づいたような視線を此方へ投げた。
「あ、真選組の」
「真選組?」
少年が小首を傾げて、つられたようにおとこの視線の先へ顔を巡らせる。
「警察だよ。江戸のお巡りさんだ。ちょうどよかった」
サングラスのおとこは立ち上がって、公園の外れで一服する土方のもとへと足を向けた。
「ちょいと事情を説明してくるよ。あとはお巡りさんがなんとかしてくれるから、安心しな、ぼうや」
ぼんやりとベンチでのその一風変わったやりとりを眺めていた土方は、やれやれ、と煙草を吐き捨てブーツの爪先で揉み消した。
とたん、サングラスのおとこの後方から声が飛んできた。
「おい!真選組とやら。ポイ捨てするな。吸い殻を拾わぬか」
土方が面食らったように、声を放った少年のほうを見た。近寄ってきたサングラスのおとこが、苦笑を浮かべて土方に声を掛ける。
「じつは出会い頭に、俺もやられたんだよ。野火になると叱られた」
「長谷川さん、だっけ。あんた、とんでもねぇのを拾ったんじゃねぇのか」
じいいっと睨むように見つめてくる少年の視線に負けて、土方は踏みつけた吸い殻を拾い上げると、隊服のポケットに落とし込んだ。見届けた少年が満足そうに頷いているのが見える。そういえば、綺麗な顔立ちだがさっきからにこりともせずに、こどもらしくもなく淡々としている。だれかに似ているなと、土方は思った。
煙草のことといい、あの口調といい、長い黒髪といい、桂がこどものころはこうだったのではないか、と思わせた。
ひさしく、意識から追い出そうとしては失敗していた存在を思い起こして、土方は後ろ頸を撫でた。後遺症など残っているわけではないが、いまもあのときの感覚は生々しい。いや、これも後遺症なのか。からだにではなくこころのほうに、桂はたしかな痕跡を刻みつけた。
江戸市中に現れた高杉を追いつめたはずの土方は、桂によって高杉を取り逃がし、桂によって自らのいのちを長らえもしたのだ。
思い起こすたび、残酷で甘美な疵痕が疼く。
消すことの叶わない片恋の狂っていく恋情は、自覚はできても歯止めが効かない。銀時も高杉も、その恋着をどう抱えておのれ自身と付き合っているのだろう。これを越えないうちは、桂を希もうにも土方には、恋仇と並び立つことさえできないでいるわけだ。
桂とは幼なじみであるという銀時と高杉が、二十余年を費やして至った場所へ駆け上るには、土方がそれをなぞっていては駄目なのだ。途は違えても、おなじ核を共有しているような連中に、太刀打ちできるわけがない。
高杉の一件があったあとでも、桂はけろりとしている。先般、バイト先のかまっ娘倶楽部で顔を合わせたヅラ子は、土方のほうが拍子抜けするくらい頓着していなかった。拘っているのが自分だけなら、ばかみたいではないか。もとより土方の存在などその程度のものなのだと云われているようで、鬱々となる。いや、だがそうではないのだ。それが桂というひとのひととなりなのだ、と土方にもようようわかってきている。
桂は土方個人を嫌ってはいない。高杉の危急を救いながら土方の助命を図るほどには好かれているのだと思いたい。だがこれ以上どう近づいていいのかがわからない。それを考えまいとするほどに、気がつけば意識は桂に囚われている。だから土方は途方にくれていた。
長谷川から託された記憶喪失らしい少年を連れて屯所に戻ると、はや夕飯の時刻が近い。
あらためて近くで見ると身なりは整っているが、ところどころ着衣に擦れたようなあとがある。あたまを打ったのかも知れない。まずは警察病院で診察を受けさせるべきだろうか。土方は思案しつつ、さてだれに担当させようか、いま手隙なのはどの隊だったろうかと、あたまのなかでメモを繰る。
執務室までおとなしく連れられてきていた少年が、土方の隊服の上衣の裾を引っ張った。
「すまぬが、腹が空いた。なにか食わせてもらえるだろうか」
夕食じたくのざわついた空気や漂いはじめた匂いが空腹を刺激したらしい。屯所という真選組の詰め所の雰囲気に臆するでもなくまっすぐ目を見て話してくる少年に、ああやはり似ている、と土方は思う。思いながら、そう思う自分はかなり末期だなと考えた。
「おっと。そいつはすまねぇな。気が利かなくてよ。待ってろ。いま配膳係に食堂からなにか運ばせる」
「貴殿は、ここではえらいのか?」
「うん? なんでそう思う」
「さっきから、すれ違うものがみな黙礼してゆく。簡素な隊服のものも貴殿とおなじような隊服のものもいたが、みな。それに見知らぬこどもを連れてこの建物に入ってきたのに、だれも咎め立てしない。食堂からわざわざ膳をここまで命じて運ばせられるなら、相応の身分のものであろうかと」
滔々と語る少年に、土方は瞠目した。
こいつはたいしたタマだ。記憶をなくしているのが事実かどうかはまだわからないが、それが真実ならさぞや心細いであろう状況にも恐慌を来さず、土方が警察の人間と聞かされているとはいえ、見ず知らずの相手に連れられた見ず知らずの場所で、冷静に周囲を観察するだけの目と気持ちのゆとりがあるというのか。
「まあ、形式的には屯所じゃ二番目だな。俺は真選組副長、土方十四郎だ」
「ひじかた副長どのか」
「土方でいい。隊士でもないものに副長と呼ばせる趣味はねぇよ」
云いながら、通りがかった隊士に食事を運ぶよう指示をだす。
「ふむ」
小首を傾げて考え込むようなしぐさをみせた少年に、土方は問い掛けた。
「どうした。なんか思い出したか」
「いや、どこかで聞いたようなことがあるようなないような」
そう思案する表情は真剣でそれでいてどこかしら覚束なく、記憶喪失というのはけして虚言や戯れ言ではないのだ、と窺い知れるのだった。
「とにかく、きょうはもう遅いからここに泊まれ。病院にはあす連れて行ってやる。精密検査しとかねぇとな。そのまえにメシをすませたら近藤さんに挨拶だ。もう戻る頃合いだろうからよ」
早々に運ばれてきた膳を挟んで、対面に座らせる。少年は品のあるしぐさで袴の裾を捌いて座に着いた。なるほど、こいつは育ちがいいようだ。
「こんどうさん、とは」
「うちの局長だよ。つまりここでいちばんえらいひとだ」
「そうか。それは挨拶をせねばならんな。夕餉のあとでよいのか?」
「まだ帰ってねぇからな。まったくどこをほっつき歩いているんだか」
ほっつき歩いている場所は、志村家かスナックすまいるのふたつしかないが、さすがにそれをこども相手に云う気にはなれない土方である。
いただきますの挨拶のしぐさをしてから、膳から箸を手に取り、汁物の椀に添えて口を湿すまでの、少年の一連の所作は流れるようだった。土方が江戸へ出てから教科書どおり習い覚えた、儀礼的に必要に迫られる席で辟易としながらする作法を、このこどもは日常的に行っているということか。記憶は失くしても身に染みついたものまでは消えないらしい。
どこの若さまだよ、まったく。
付け焼き刃ではないそれは、このこどもがまちがいなく相応の武家の出であることを物語っていた。
「近藤さん、帰ってるかい」
からりと障子戸を開けて、局長の私室をのぞく。
「おう、トシか。留守中変事は?」
「ねぇよ、と云いたいところだが、ちょっと、あってな」
許可など無用の態でするりと這入り込んで土方は、坐卓でノートパソコンに向かっていた近藤の正面に着座した。
「そいつはめずらしい。で、ちょっと、なにがあったって?」
画面から目を離さないまま、近藤が応じる。
「なに熱心に見てるんだ?」
「いや、ここのところポンチ侍殿からの返信がなくてな。ちょっと心配なんだが。肉球愛好会やファミコン懐旧会の掲示板にも出てこないし」
「ポンチ侍…って、近藤さんあんた、あいつとメル友なのか」
思わず呆れたような声が出たのは、おのれの動揺を悟られぬためだった。
ポンチ侍、というのは桂のハンドルネームだ。近藤は断固として同一人物ではないと見え見えの否定をするが、ネット上では近藤と桂はおたがいがおたがいにまんざら知らぬなかでもないのである。それは承知していたが、返事がないと案じられるほどのものとは思っていなかった。
「いや、メル友というわけではないんだが、俺の書き込みにはレスを付けてくれる、律儀なやつなんだよ。それがないから、ちょっとな。いや、たんに忙しいのかも知れん。きっとそうだ。それで、トシ、話はなんだ?」
ひとりぎめに納得して、話を振ってくる。だからそれ以上問うことをせずに土方は、公園で長谷川から託された少年とその事情とをかいつまんで話した。
結局、土方自身が警察病院へ連れて行くことになった。
近藤曰く、いまどき武家礼法のきちんと身についた子というなら、ぞんざいに扱うわけにもいかんだろう。うちは田舎ものの集団だから、なにかと失礼があってもいかん。トシ、おまえがいちばん適任だ。記憶を失くしても平然と、鬼の副長相手に怯えるようすもないなんざ、肝の据わったこどもじゃないか。行く末が楽しみだ。
豪快に笑って呑気に云われた。局長のお達しとあっては、いたしかたない。ともあれその晩は土方の私室からつづきになっているひと間、本来なら副長付きの隊士が寝泊まりする場所だが隊の再編でいまは空室になっているそこへ、その少年を泊まらせた。
翌日。連れて行った警察病院であれやこれやと検査をし、半日がかりで外因性の一時的な記憶喪失だろうという見立てが下った。少年が訴えなかったので気にもとめなかったが、ところどころに擦過傷やら軽い打ち身やらもあったようだ。長谷川から伝え聞いた前後の状況から考えて、その丘の崖から落ちたのだろう。身元を証明できるようなものもやはり所持しておらず、彷徨っていたとき少年が手になにを持っていたかも判明しなかった。
いずれにせよ、肉親があるなら今日明日にでも行方不明の届け出が為されるだろう。いまこうしているうちにもあるかも知れない。検査疲れからかちいさく欠伸をする少年の背をぽんぽんと叩いて、その日はまっすぐ屯所に戻った。
続 2009.01.21.
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