「天涯の遊子」銀桂篇+土桂篇
銀時と桂と土方と。
新八、神楽、長谷川、沖田、近藤、ほか。
竜宮篇以降、モンハン篇よりまえ。
回数未定。其の六。土方、桂、原田、山崎、沖田。
「夕飯(メシ)までまだ小一時間ある。さきにひとっ風呂浴びてきな」
で、食ったらとっとと寝ちまえ。
帰路、なんどか欠伸を嚙み殺すさまに、土方は屯所に着くなりそう声を掛けた。少年は眠そうに頷くが、考えてみれば着替えもない。まあいい。下着ならコンビニでも揃う。男所帯の哀しさで昨夜(ゆうべ)はそこまで気が回らなかったが、寝間着代わりの浴衣くらいは土方のでもなんでもなんとかなるだろう。
自室の箪笥から洗い替え用の比較的新しい浴衣を引っ張りだして持たせて、少年を浴場へ連れて行くと、土方は取って返してコンビニに向かった。
屯所は集団生活の場だから、風呂場もちょっとした大浴場だ。
たいがいは幹部連、すなわち局長、副長、隊長格から入るのが習わしだが、近藤の人柄もあってかそのあたりはけっこう曖昧というかいいかげんなもので、入浴の順列などはあってなきがごとしで守られた試しがない。たとえきのう入隊したばかりのぺいぺいが局長と湯船で肩を並べようと、近藤自身がそれを気にもしないのだから、土方がとやかく云ったところで無駄なのだ。非番なら小原庄助を気取ったところでべつだん咎め立てされることもないかもしれない。さすがに土方の手前、そこまでやるものはいないにせよ。
「俺もついでにすませちまうかな」
コンビニで調達した新品の下着を懐に、土方は手ぬぐいと着替えを手にして浴場へと足を向けた。そういや、あいつちゃんと入れてるだろうな。失くしているのは記憶のなかの極々個人的な部分だけで、日常的な事柄や生活一般の習慣などはそのまま残っているようだからふだんの生活に支障はない、とは医者にも云われている。だが想像するような良家の武家育ちなら、大勢と入浴することにはもとからあまり慣れていないかも知れない。まあこの時間ならまだ、あまり湯をつかおうと考える隊士はないだろうからだいじょうぶだろう。
そう思い巡らせながらも、浴場への廊下を歩む足取りは、気持ち早足になっている。と、その向かう先からすさまじく弾けるように引き戸を閉めたのか開け放ったのかの音がして、おとこがまろびころげる勢いで飛び出してきた。
「原田。なんでぇそのざまは」
見れば、腰に手ぬぐい一枚をかろうじて当てただけの半濡れの態で、顔が真っ赤だ。その頭部の形状も相俟ってさながらゆでだこのようである。土方の存在に初めて気づいたようすで、原田は焦ったような上擦った声をあげた。
「なななななんだじゃないじゃないっすすすよ。なんで風呂場におんなのこがいる、いるん、すか」
「はあ?」
いま風呂場にいるとしたらあの少年のはずで、たしかに綺麗な顔立ちだが、ついているものを見れば、おとこかおんなかくらいわかるはずだ。
「いいから、落ち着け。てめえがここまで泡食うなんざ、らしくもねぇ」
「だから、風呂場に、湯船に、おんなのこが。しかもとびっきりの美少女が」
いいながら土方の背を押してくる。体格で土方に勝るような大のおとこが、問答無用で、いま飛び出してきたばかりの脱衣場にその背を押し込んだ。
よほど周章てて飛び出してきたらしく、浴場の大扉は閉めた反動でか隙間が空き、脱衣場と湯船や洗い場を隔てる内戸も中途半端に開け放たれたままで、湯気がこちらまで雪崩れ込んできている。原田のあまりの狼狽っぷりに気圧されたかたちで、土方はその戸口から湯船を覗き込んだ。
「んなわけねぇだろ、どこに目を付けてやが…」
云い止して、土方の口はぽかんと象られたままうごきをとめた。
白く立ちこめた湯気が戸口へと流れ出たためか、湯船のうえは淡く霞がかったようで、揺れる水面が静かな水音とともにうっすらと顔を覗かせている。まだ戸外は明るさを残しているから浴場の灯りも控えめで、ところどころに影が射し、妙に幻想的に見えた。
そのなかで、ぽつねんと、やけに鮮やかな黒がある。ひとつに結ばれた長い黒髪をさらに括って頭頂にまとめたその下は、湯気とはまたちがう真白い真珠の肌。たおやかなうなじにほつれて濡れた後れ髪。
それが件の少年であることに思い至ってとうぜんのはずの土方は、だがそれを目にしたその刹那、その事実を遥か彼方へと飛ばしてしまっていた。
その幼さの残るなめらかな肩越しに、少年が振り返る。
「ほら!いるじゃないっすか!!!」
原田は土方の背後から、怯え畏れるこどものように顔を出し、小声で叫んで指さした。
白皙の肌にわずかに血が昇り、桜色にほんのり染まった頬と首筋、両の肩。その桜色が滑るように湯水を纏って、そこだけぼうっと浮かびあがるかのように、淡いひかりの輪郭を描いている。
ごくり、と鳴った喉は、土方のものだったのか。原田のそれか。
屯所の風呂場がどこか仙境の秘湯にでもなったかのような、そんな錯覚さえ覚えた。
「そこのもの、湯殿の戸を開け放していくなど、なっておらんぞ」
その空気を一瞬にして染め変える声が、湯船から上がった。ふたりともが、とっさに返すことばが出ないでいると、少年が怪訝そうに小首を傾げる。
「土方どの。湯浴みのときは着ものは脱ぐものだ。むかしの蒸し風呂ならば、いざ知らず」
江戸も随分以前は蒸し風呂が主流だったというが、と、どうでもよさそうな話題に転じ掛けた少年の関心を、土方のひとことが引き戻した。
そんなばかな。だったら医者がそう云うはずだ。そう思いながら気がついたときには零れでていたのだ。
「おめ…、おんなだったのか?」
沈黙が落ちた。
ぱっかぁぁぁぁん。
湯殿に、手桶のぶつかり立てた高い音が、反響する。
「いってえぇぇ」
土方は額を押さえてその場にしゃがみ込んだ。土方のあたまを直撃した手桶が、勢いよく反転して洗い場の濡れた床板を転がる。痛みのあまり涙目になった土方と、呆気にとられたような原田の目のまえには、湯船のなかで憤然として立ち上がっている少年の姿があった。
「貴様らの目は節穴か」
たったいま、手桶を投げつける所業に及んだとは思えない平坦な声が、広い浴場に静かに響く。立ち上がった姿は、どこからどう見てもおんなではありえない。ありえないのだが。
抜けるような透明感を持つ肌、というものが実在するのだと思い知らされる。少年の湯に濡れた肢体は浮世離れして美しく、反面、古の伝説よろしく、その羽衣を剥いで地に留めよと云わんばかりの艶めかしさを湛えていた。
背後で、原田がもぞもぞする気配があった。手ぬぐい一枚では隠しきれない昂ぶりが兆している。察して土方は、気づかぬふりで声を掛けた。
「原田、見てのとおりだ。こいつは預かりもんの迷い子でおとこだ。驚かしてわるかったな。風呂はメシのあとにしてくれや」
促されて、ほっとしたようにそそくさと、というには些かぎこちない足取りで脱衣籠に向かい、原田は周章てて隊服を着直すと廊下へと逃げるように立ち去った。
「いや、すまねぇ。つい」
こんどは少年に詫びて、土方は手にした下着を示した。
「着替え、置いておくからよ」
少年は、あ、という表情をしてぺこりとちいさくお辞儀した。
「相済まぬ。かたじけない」
「いいから、湯に浸かれや。意外と、気短だな。手が先に出るって」
そのままではなんとなくやはり正視しづらくて土方が促すと、ちゃぷんと音を立てて身を沈ませた少年は、すいと泳ぐようなしぐさで湯船のへりに寄って掛けた両腕にあごを乗せ、拗ねたように土方を睨める。
「道端でおなごにまちがわれるならめずらしくもないが、湯殿で、だぞ」
「だから、つい、錯覚して。…てか、思い出したのか? そういうことがあったって」
「あれ?」
いや、なんとなくそんなような気がしたのだ、と少年はまた小首を傾げた。
かわいいな、とそんな表現が脳裡に浮かぶほど、そのしぐさは土方の気を惹いた。そういえば、桂も。似たような癖を持っていなかったか。
考え込んだような土方がその場からうごかぬのを見て、少年が訝しむ。
「貴殿も湯浴みに来たのではないのか。入らぬのか?」
「ん、いや、ああ。そのつもりだったが。もうすぐメシの時間になるし」
そこで躊躇ったのは、土方自身にも原田と大差ない衝動がたしかにあったからだった。こいつは、やばい。土方のなかの危ういものをそれと気づかぬまま引き摺り出されるような、そんな予感とも畏れともつかぬものを抱いて、土方は知らず首を振った。
なんてこった。こんな。似てるってだけで、そんな莫迦な。
「おめぇも、そろそろあがりな。メシは食堂でとるか? 運ばせるか?」
自身に湧き上がった得体の知れない情動を振り払うように、土方はつとめて気楽な声を出す。
「そうなんども手を煩わせてはもうしわけがない。食堂でかまわぬ」
そんな土方の惑乱に気づくはずもなく、少年はすなおに湯船を出ると、終いの掛け湯をして手ぬぐいで身を拭った。
やはり、綺麗だ、と土方は思った。立ち居振る舞い所作しぐさ、どれをとってもそこにはそこはかとない品が醸しだされていて、そのくせいっそ無頓着なまでに自然体だった。
「煙草のにおいがする」
脱衣籠のまえで用意された土方の浴衣を身に纏おうとして、少年がそう顔を蹙めた。
「え?そうか? ちゃんと洗って仕舞ってあったやつなんだがな」
些か周章てて土方はその袖をとって鼻に当てる。
「土方どのはよほどのへびーすもーかーなのだな。肺を病んで死ぬぞ」
淡々とことばでは刺しながら、だが顔を蹙めたわりには意に介すでもなく、袖を通す。
どこまでも桂をおもわせるこの記憶のない迷い子の少年を、自分はいったいどうしたいのだろう。そんなことを、ふと、また思った。
食堂に少年を伴うと、隊士たちが物珍しげに見てゆく。身に纏っているのが土方の浴衣だからか、それを連れているのが鬼の副長だからか、遠巻きにして眺めている。ちっとばかし、拙ったか。土方は内心で舌を打った。
湯上がりの少年の浴衣姿は眼福とも云えるが、原田の例に洩れず、女っ気のない屯所では目の毒だ。それを証拠に、あきらかに勘違いして赤面するくらいのものはまだしも、少年とわかりながらもちらちらと盗み見るような視線をしつこく投げてくるものまでいて。土方の、ただでさえよくない目つきが、その凶悪さを増す。
周りにもそれは伝わるのだろう、無遠慮な視線を投げかけながらも、さすがにわざわざ話しかけに寄ってくるような輩はいない。
渦中の少年はといえば、我関せずなのか、鈍くて気づいていないだけなのか、厨房からカウンター越しに定食の盆を受け取って、土方につづいて空いていた長卓のその横に腰をおろした。
なんの衒いもなく土方のとなりに着いた少年に、土方は妙なくすぐったさを覚えた。近藤の言ではないが、たしかにこいつは物怖じしない。ことばも態度も風変わりではあるが、行動がすなおだ。記憶のない状態で、面倒をみるかたちになった土方を、やはりどこかしら頼みにしている部分があるらしい。そう感じとって立ちのぼってきた面映ゆいような感覚に、土方自身が心持ちとまどっていると。
そんな空気をものともしない隊士が若干二名。山崎が湯気の立つ盆を手に、人懐っこく寄ってきた。
「隠し子ですか、副長」
「土方さん、あんたいくつのときにやっちまった子でィ」
そのうしろから、沖田が毒突く。
「迷子だ、迷子。記憶失くして身元がわからねぇから夕べから屯所であずかってんだよ」
白飯にもおかずにもなみなみとマヨネーズを絞り出しながら応える土方を、箸と茶碗を両の手にしたまま少年がしげしげと見つめて、眉を顰める。
「悪食だな。からだに障るぞ」
そうひとこと云うだけ云って平然とおのれの食事を再開するあたり、ことばほどには気にしていないらしい。さっきといい、いまといい、こいつは。
奇妙な既視感に襲われて、土方の手が止まった。
まえにもなかったか、こんなこと。
沖田が、少年のその反応に興味を抱いたように、その顔を覗き込んでいる。
「あれ。なんでィこいつ。どっかで見たことあるような…」
なにか思い当たったような声を出した。
「ほんとうか、おい。総悟、こいつ見知ってんのか」
「いや、でもちがうか。俺が見たのは、もっとうんと、ちっこいガキだった」
めずらしく迷いのある声で沖田が呟く。
「なんですか、沖田隊長。知り合いかなんかで?」
土方と少年の斜めまえに陣取って食事をはじめていた山崎が、となりで立ったまま首をひねっている沖田を見あげる。土方が先を促した。
「何日かまえに警邏中に万事屋の旦那に出くわしやしてね。スクーターのうしろにちびっこいの乗せてたんで。めずらしいなと見たら、またえらく面(つら)のいいガキで、そのときのそいつによく似てるんでさぁ」
この眸(め)がなぁ。そっくりだ。そう訝しむ沖田に、
「じゃあひょっとして、兄弟とかだったりして」
山崎がのほほんと応じて、考えるように頷いた。
「でも、そういえば、だれかに似てるような気がしますね」
続 2009.02.07.
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「夕飯(メシ)までまだ小一時間ある。さきにひとっ風呂浴びてきな」
で、食ったらとっとと寝ちまえ。
帰路、なんどか欠伸を嚙み殺すさまに、土方は屯所に着くなりそう声を掛けた。少年は眠そうに頷くが、考えてみれば着替えもない。まあいい。下着ならコンビニでも揃う。男所帯の哀しさで昨夜(ゆうべ)はそこまで気が回らなかったが、寝間着代わりの浴衣くらいは土方のでもなんでもなんとかなるだろう。
自室の箪笥から洗い替え用の比較的新しい浴衣を引っ張りだして持たせて、少年を浴場へ連れて行くと、土方は取って返してコンビニに向かった。
屯所は集団生活の場だから、風呂場もちょっとした大浴場だ。
たいがいは幹部連、すなわち局長、副長、隊長格から入るのが習わしだが、近藤の人柄もあってかそのあたりはけっこう曖昧というかいいかげんなもので、入浴の順列などはあってなきがごとしで守られた試しがない。たとえきのう入隊したばかりのぺいぺいが局長と湯船で肩を並べようと、近藤自身がそれを気にもしないのだから、土方がとやかく云ったところで無駄なのだ。非番なら小原庄助を気取ったところでべつだん咎め立てされることもないかもしれない。さすがに土方の手前、そこまでやるものはいないにせよ。
「俺もついでにすませちまうかな」
コンビニで調達した新品の下着を懐に、土方は手ぬぐいと着替えを手にして浴場へと足を向けた。そういや、あいつちゃんと入れてるだろうな。失くしているのは記憶のなかの極々個人的な部分だけで、日常的な事柄や生活一般の習慣などはそのまま残っているようだからふだんの生活に支障はない、とは医者にも云われている。だが想像するような良家の武家育ちなら、大勢と入浴することにはもとからあまり慣れていないかも知れない。まあこの時間ならまだ、あまり湯をつかおうと考える隊士はないだろうからだいじょうぶだろう。
そう思い巡らせながらも、浴場への廊下を歩む足取りは、気持ち早足になっている。と、その向かう先からすさまじく弾けるように引き戸を閉めたのか開け放ったのかの音がして、おとこがまろびころげる勢いで飛び出してきた。
「原田。なんでぇそのざまは」
見れば、腰に手ぬぐい一枚をかろうじて当てただけの半濡れの態で、顔が真っ赤だ。その頭部の形状も相俟ってさながらゆでだこのようである。土方の存在に初めて気づいたようすで、原田は焦ったような上擦った声をあげた。
「なななななんだじゃないじゃないっすすすよ。なんで風呂場におんなのこがいる、いるん、すか」
「はあ?」
いま風呂場にいるとしたらあの少年のはずで、たしかに綺麗な顔立ちだが、ついているものを見れば、おとこかおんなかくらいわかるはずだ。
「いいから、落ち着け。てめえがここまで泡食うなんざ、らしくもねぇ」
「だから、風呂場に、湯船に、おんなのこが。しかもとびっきりの美少女が」
いいながら土方の背を押してくる。体格で土方に勝るような大のおとこが、問答無用で、いま飛び出してきたばかりの脱衣場にその背を押し込んだ。
よほど周章てて飛び出してきたらしく、浴場の大扉は閉めた反動でか隙間が空き、脱衣場と湯船や洗い場を隔てる内戸も中途半端に開け放たれたままで、湯気がこちらまで雪崩れ込んできている。原田のあまりの狼狽っぷりに気圧されたかたちで、土方はその戸口から湯船を覗き込んだ。
「んなわけねぇだろ、どこに目を付けてやが…」
云い止して、土方の口はぽかんと象られたままうごきをとめた。
白く立ちこめた湯気が戸口へと流れ出たためか、湯船のうえは淡く霞がかったようで、揺れる水面が静かな水音とともにうっすらと顔を覗かせている。まだ戸外は明るさを残しているから浴場の灯りも控えめで、ところどころに影が射し、妙に幻想的に見えた。
そのなかで、ぽつねんと、やけに鮮やかな黒がある。ひとつに結ばれた長い黒髪をさらに括って頭頂にまとめたその下は、湯気とはまたちがう真白い真珠の肌。たおやかなうなじにほつれて濡れた後れ髪。
それが件の少年であることに思い至ってとうぜんのはずの土方は、だがそれを目にしたその刹那、その事実を遥か彼方へと飛ばしてしまっていた。
その幼さの残るなめらかな肩越しに、少年が振り返る。
「ほら!いるじゃないっすか!!!」
原田は土方の背後から、怯え畏れるこどものように顔を出し、小声で叫んで指さした。
白皙の肌にわずかに血が昇り、桜色にほんのり染まった頬と首筋、両の肩。その桜色が滑るように湯水を纏って、そこだけぼうっと浮かびあがるかのように、淡いひかりの輪郭を描いている。
ごくり、と鳴った喉は、土方のものだったのか。原田のそれか。
屯所の風呂場がどこか仙境の秘湯にでもなったかのような、そんな錯覚さえ覚えた。
「そこのもの、湯殿の戸を開け放していくなど、なっておらんぞ」
その空気を一瞬にして染め変える声が、湯船から上がった。ふたりともが、とっさに返すことばが出ないでいると、少年が怪訝そうに小首を傾げる。
「土方どの。湯浴みのときは着ものは脱ぐものだ。むかしの蒸し風呂ならば、いざ知らず」
江戸も随分以前は蒸し風呂が主流だったというが、と、どうでもよさそうな話題に転じ掛けた少年の関心を、土方のひとことが引き戻した。
そんなばかな。だったら医者がそう云うはずだ。そう思いながら気がついたときには零れでていたのだ。
「おめ…、おんなだったのか?」
沈黙が落ちた。
ぱっかぁぁぁぁん。
湯殿に、手桶のぶつかり立てた高い音が、反響する。
「いってえぇぇ」
土方は額を押さえてその場にしゃがみ込んだ。土方のあたまを直撃した手桶が、勢いよく反転して洗い場の濡れた床板を転がる。痛みのあまり涙目になった土方と、呆気にとられたような原田の目のまえには、湯船のなかで憤然として立ち上がっている少年の姿があった。
「貴様らの目は節穴か」
たったいま、手桶を投げつける所業に及んだとは思えない平坦な声が、広い浴場に静かに響く。立ち上がった姿は、どこからどう見てもおんなではありえない。ありえないのだが。
抜けるような透明感を持つ肌、というものが実在するのだと思い知らされる。少年の湯に濡れた肢体は浮世離れして美しく、反面、古の伝説よろしく、その羽衣を剥いで地に留めよと云わんばかりの艶めかしさを湛えていた。
背後で、原田がもぞもぞする気配があった。手ぬぐい一枚では隠しきれない昂ぶりが兆している。察して土方は、気づかぬふりで声を掛けた。
「原田、見てのとおりだ。こいつは預かりもんの迷い子でおとこだ。驚かしてわるかったな。風呂はメシのあとにしてくれや」
促されて、ほっとしたようにそそくさと、というには些かぎこちない足取りで脱衣籠に向かい、原田は周章てて隊服を着直すと廊下へと逃げるように立ち去った。
「いや、すまねぇ。つい」
こんどは少年に詫びて、土方は手にした下着を示した。
「着替え、置いておくからよ」
少年は、あ、という表情をしてぺこりとちいさくお辞儀した。
「相済まぬ。かたじけない」
「いいから、湯に浸かれや。意外と、気短だな。手が先に出るって」
そのままではなんとなくやはり正視しづらくて土方が促すと、ちゃぷんと音を立てて身を沈ませた少年は、すいと泳ぐようなしぐさで湯船のへりに寄って掛けた両腕にあごを乗せ、拗ねたように土方を睨める。
「道端でおなごにまちがわれるならめずらしくもないが、湯殿で、だぞ」
「だから、つい、錯覚して。…てか、思い出したのか? そういうことがあったって」
「あれ?」
いや、なんとなくそんなような気がしたのだ、と少年はまた小首を傾げた。
かわいいな、とそんな表現が脳裡に浮かぶほど、そのしぐさは土方の気を惹いた。そういえば、桂も。似たような癖を持っていなかったか。
考え込んだような土方がその場からうごかぬのを見て、少年が訝しむ。
「貴殿も湯浴みに来たのではないのか。入らぬのか?」
「ん、いや、ああ。そのつもりだったが。もうすぐメシの時間になるし」
そこで躊躇ったのは、土方自身にも原田と大差ない衝動がたしかにあったからだった。こいつは、やばい。土方のなかの危ういものをそれと気づかぬまま引き摺り出されるような、そんな予感とも畏れともつかぬものを抱いて、土方は知らず首を振った。
なんてこった。こんな。似てるってだけで、そんな莫迦な。
「おめぇも、そろそろあがりな。メシは食堂でとるか? 運ばせるか?」
自身に湧き上がった得体の知れない情動を振り払うように、土方はつとめて気楽な声を出す。
「そうなんども手を煩わせてはもうしわけがない。食堂でかまわぬ」
そんな土方の惑乱に気づくはずもなく、少年はすなおに湯船を出ると、終いの掛け湯をして手ぬぐいで身を拭った。
やはり、綺麗だ、と土方は思った。立ち居振る舞い所作しぐさ、どれをとってもそこにはそこはかとない品が醸しだされていて、そのくせいっそ無頓着なまでに自然体だった。
「煙草のにおいがする」
脱衣籠のまえで用意された土方の浴衣を身に纏おうとして、少年がそう顔を蹙めた。
「え?そうか? ちゃんと洗って仕舞ってあったやつなんだがな」
些か周章てて土方はその袖をとって鼻に当てる。
「土方どのはよほどのへびーすもーかーなのだな。肺を病んで死ぬぞ」
淡々とことばでは刺しながら、だが顔を蹙めたわりには意に介すでもなく、袖を通す。
どこまでも桂をおもわせるこの記憶のない迷い子の少年を、自分はいったいどうしたいのだろう。そんなことを、ふと、また思った。
食堂に少年を伴うと、隊士たちが物珍しげに見てゆく。身に纏っているのが土方の浴衣だからか、それを連れているのが鬼の副長だからか、遠巻きにして眺めている。ちっとばかし、拙ったか。土方は内心で舌を打った。
湯上がりの少年の浴衣姿は眼福とも云えるが、原田の例に洩れず、女っ気のない屯所では目の毒だ。それを証拠に、あきらかに勘違いして赤面するくらいのものはまだしも、少年とわかりながらもちらちらと盗み見るような視線をしつこく投げてくるものまでいて。土方の、ただでさえよくない目つきが、その凶悪さを増す。
周りにもそれは伝わるのだろう、無遠慮な視線を投げかけながらも、さすがにわざわざ話しかけに寄ってくるような輩はいない。
渦中の少年はといえば、我関せずなのか、鈍くて気づいていないだけなのか、厨房からカウンター越しに定食の盆を受け取って、土方につづいて空いていた長卓のその横に腰をおろした。
なんの衒いもなく土方のとなりに着いた少年に、土方は妙なくすぐったさを覚えた。近藤の言ではないが、たしかにこいつは物怖じしない。ことばも態度も風変わりではあるが、行動がすなおだ。記憶のない状態で、面倒をみるかたちになった土方を、やはりどこかしら頼みにしている部分があるらしい。そう感じとって立ちのぼってきた面映ゆいような感覚に、土方自身が心持ちとまどっていると。
そんな空気をものともしない隊士が若干二名。山崎が湯気の立つ盆を手に、人懐っこく寄ってきた。
「隠し子ですか、副長」
「土方さん、あんたいくつのときにやっちまった子でィ」
そのうしろから、沖田が毒突く。
「迷子だ、迷子。記憶失くして身元がわからねぇから夕べから屯所であずかってんだよ」
白飯にもおかずにもなみなみとマヨネーズを絞り出しながら応える土方を、箸と茶碗を両の手にしたまま少年がしげしげと見つめて、眉を顰める。
「悪食だな。からだに障るぞ」
そうひとこと云うだけ云って平然とおのれの食事を再開するあたり、ことばほどには気にしていないらしい。さっきといい、いまといい、こいつは。
奇妙な既視感に襲われて、土方の手が止まった。
まえにもなかったか、こんなこと。
沖田が、少年のその反応に興味を抱いたように、その顔を覗き込んでいる。
「あれ。なんでィこいつ。どっかで見たことあるような…」
なにか思い当たったような声を出した。
「ほんとうか、おい。総悟、こいつ見知ってんのか」
「いや、でもちがうか。俺が見たのは、もっとうんと、ちっこいガキだった」
めずらしく迷いのある声で沖田が呟く。
「なんですか、沖田隊長。知り合いかなんかで?」
土方と少年の斜めまえに陣取って食事をはじめていた山崎が、となりで立ったまま首をひねっている沖田を見あげる。土方が先を促した。
「何日かまえに警邏中に万事屋の旦那に出くわしやしてね。スクーターのうしろにちびっこいの乗せてたんで。めずらしいなと見たら、またえらく面(つら)のいいガキで、そのときのそいつによく似てるんでさぁ」
この眸(め)がなぁ。そっくりだ。そう訝しむ沖田に、
「じゃあひょっとして、兄弟とかだったりして」
山崎がのほほんと応じて、考えるように頷いた。
「でも、そういえば、だれかに似てるような気がしますね」
続 2009.02.07.
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