二十万打御礼リクエスト。
【しあわせな高桂。というよりしあわせな晋ちゃん】
高杉と桂(子桂)。河上、来島、武市。
しあわせなのかわかんない感じですが…。
背もたれのモチーフは、某さまから了承済でいただいたもの。
一陣の風が舞った。
花霞のもとで、そこに待つであろう人影が、吹き散らされた花片の向こうに佇んでいる。
* * *
「晋助さまぁ、あそこあそこ、あのあたりなんか眺め抜群っスよ」
来島が大きな弁当包みを抱えて小走りに駆ける。
「ほら、なにやってんスか武市先輩。早く茣蓙!茣蓙!」
「また子さぁん。だから私は肉体労働むきじゃないんですよ。なんで私が茣蓙運びなんですか」
「つべこべ云ってないで、さっさと敷くっス」
枝垂れ桜の大木を目指して突き進む来島に、花茣蓙を両腕に抱えた武市がえっちらおっちらとついてゆく。その少しあとを煙草盆と吊り下げた酒瓢箪を手に河上がつづく。
山懐に抱かれた枝垂れ桜は、周囲の薄緑の葉と桜花の咲き初(そ)める山桜よりひとあし早く、零れんばかりの満開を迎えている。平日の昼間のまだ浅い時間、幸いにもほかに先客はなく、大樹はその枝垂れた花影に静けさを湛えたままだ。
鮫小紋の長袋を片手に、最後尾で悠然と煙管を吹かしながら、高杉は目を細めた。
こんなふうに花見に興じた日々はたしかにあって、いまそれをちがう仲間と過ごすというのも、また一興ではある。
一陣の風が舞った。
来島がうわっともうきゃぁともつかぬ、叫び声を上げる。
風は枝垂れた桜の枝を激しく撓り打ち振るわせて、一行の視界をさくら色に染めた。吹き散らされた花片が舞い上がり舞い踊って、苔生す岩肌や緑の下生えに舞い落ちる。
「なんなんスか、あれぇ」
つづけて素っ頓狂な声を上げた来島の指差したさきに、みなの視線が集まった。
河上がヘッドホンに絡んだ花片を払いおとしながら首を傾げる。
「おや。いつのまにやらさきを越されていたでござるか」
「おやおやおやおや、あんなかわいらしい御子がひとりとは。迷子でしょうかね」
こころなしうれしげに呟いた武市を、来島が睨めた。
「武市変輩。ロリもたいがいにしてくださいよ。てか、いきなり現れたんっスよ!さっきまでたしかにうちらが一番乗りだったんっスから」
さきほどまでたしかにだれもいなかった枝垂れ桜の根もとには、その大木の木肌に眠るように頬を寄せ、ちいさな腕で届かない幹を抱きしめる幼子の姿があった。
「そうですよね、晋助さま。…晋助さま?」
「晋助。どうしたのでござる」
来島の呼びかけにも上の空の高杉に、河上が訝しげに振り返り見る。その声も、高杉の耳には届いていなかった。目のまえに忽然と顕れたその幼子に、瞠られた隻眼の視線は吸い寄せられたままだ。
「きみ、きみ。どこの子かね」
武市が近寄りながら掛けた声にようやくわれに返ったようすで、高杉はそれを制した。
幹に抱きついていた少年が、周囲の気配に気づいてかやっと目を開け、きょとんとした表情で一行を見返る。
武市が息を呑むのがわかった。来島が呆れて舌打ちをしかけて、それを忘れる。河上が、ほう、と溜め息のように呟いた。
幼いながらも腰に短刀を佩き羽織袴で、長い髪をうしろでひとつに結い垂らしている。それは艶やかな鴉の濡れ羽色。見つめるその双眸もまた濡れたように煌めく漆黒の宝玉。茱萸の色の口唇が真珠の肌に乗せられていて、ちいさく開かれる。
「おはなみですか」
小首を傾げそう声に出されなければ、この世のものとも思えなかったろう。いっそさくらの精とでも云われたほうが頷けたであろうくらいに、それは人外の麗容だった。かわいいと呼べるその年頃には似つかわしくなくも、うつくしい、という形容がむしろしっくりくるようなこどもだった。
「これは、なんの悪戯だ?」
くくく、と笑いを秘めた声で、高杉は知らず問いかける。
「小太郎、…だよな」
だってこんな姿をほかに知らない。ほかにあろうはずがない。それがどれほど荒唐無稽な局面であったとしても。
まだごく幼い少年は、びっくりしたようにまなこを開いた。
「晋助さま、この子…どちらのお知り合いっスか」
おずおずといったさまで、来島が弁当を取り分けた小皿をふたつ、差し出しながら窺い見る。高杉は少年をとなりに座らせて、さきほどから機嫌よく杯をかさねている。説明したところで信じられまいし、だいいち高杉自身からして理解の及ぶ現象ではないから、適当に受け流す。
「しんすけ、というのか? おんみも」
物怖じしない少年は招かれるままに座にも馴染んで、勧められるままに花見の弁当をすなおに食んでいる。
肯く高杉に、少年はどことなくうれしそうな親しみを感じさせる笑みを浮かべた。
「おんなじなまえの知り合いがいるんだろう?」
高杉が揶揄うようにけれどやわらかに語りかける。
「そうなのだ。ふしぎなこともあるものだなぁ…」
「なぁに。俺もな、おめぇにそっくりなやつをよく知ってるってぇだけだ」
「そのおひとが、こたろう、というのか?」
「そんなところだな」
大樹の根もとに敷かれた花茣蓙に座してまったりと語らう高杉と幼い少年には、穏やかな、そのくせ妙に近寄りがたい、余人が立ち入ってはならぬような空気が醸しだされている。
それをいささか遠巻きに、もう一帖の花茣蓙で弁当に箸を付けながら来島は首をひねった。
「意外っス…晋助さまがあんなにこども好きとは知らなかったっスよ」
となりでお茶を啜りながら、武市はさもありなんとばかりに肯いている。
「あれほどの原石では無理からぬというもの。いやはや末恐ろしいというか末がたのしみな…。いやまあ、おなごであればもっと、こう…」
「武市変輩。あんたがいうといやらしく聞こえるから止めるっス」
「圧倒的な美をまえに、ひとはすべからく跪くものですよ、また子さん」
「晋助さまはそんなんじゃないっスよ! そうっスよね、万斉先輩」
「………」
「ちょ、なんでそこで無言なんスか!」
もういっぽうのとなり、手酌でやっていた河上は、平杯に徳利の酒をまた注ぎながら、やや思案げに首を巡らせた。
「美云々は知りもうさぬが、いま晋助があの少年に囚われているのはたしかでござろう」
「まあ、たしかにびっくりするくらいきれいな子っスけどぉ…」
心持ちうっとりと見蕩れるように呟いて、来島はふいと思いなおしたようにぶんぶんと首を振る。
「あの桂とおんなじなまえってのが気にくわないっス」
「桂小太郎…あのおとこも、あの年頃にはああだったのでござろうか」
どこか遠いものを見る眼差しで、河上は高杉とその少年とを見遣っている。
「だったら、なんなんスか」
「いや。だとすれば晋助の執着にも合点がいくというもの、ではござらぬか」
いい具合に過ごして平杯を置き、さていっぷくでもと腰差しの煙管を取り出す。煙草盆を引き寄せて刻み煙草をまるめ雁首に詰めかけたところで、高杉はじいいいいっと見つめてくる視線にその手を止めた。
「…………」
「そういや、おめぇ、ここでなにしてたんだ。かくれんぼでもしてたのか」
視線の意味に気づいていながらわざと高杉は、その矛先を変える。
「ひとを待っていたのだが、なかなか来なくてな」
応えながらもじいいっと、少年は高杉の手許を見つめている。
「そいつぁ、さっき云ってた知り合いかい?」
そんな約束など幾度となくあった、幼き日々。
「うむ。しんすけどの…さくらが煙たがるのではないか?」
面影そのままを宿すその口から、案の定のことばが紡がれて、高杉は笑みを怺えた。
「そうさなぁ…しかし俺ぁこいつがたのしみでね」
「むう…」
少年は納得がいかぬげにちいさく頬を膨らませる。
「おめぇも煙はいやかい」
「いやというのではないが。せっかくの花がもったいない」
「梅とちがってさくらは匂いをたのしむってものでもなかろうよ」
「それはひとのりくつだ。さくらとておなじ愛でられるなら、煙などないほうがうれしかろうとおもうのだ」
ああ、小太郎だなぁと高杉は思う。むかしもいまも変わりねぇ。
苦笑を浮かべて煙管を懐中に仕舞い込んだ高杉に、少年は黒眼勝ちな眸をやや見開き、やがて花がほころぶかのように笑んだ。
こんなことで笑うなら、幾度だって叶えてやりたい。
けれど幼い時分もいまも、それをすなおにできるおのれでないことを、高杉はいやというほど知っていた。いまこうしてなんの悪巫山戯か、幼い桂に相対するのがおとなの自分であるという、現実にありえるはずのない状況であればこそ、それは叶えられるのだ。
喫わないことに安心したのか腹がくちくなったからか、少年は口に手を当てあくびを嚙み殺そうとして、失敗する。
ふわぁ。
と、かわいらしい吐息が漏れて、まだかな、おそいな、と呟いた。
「そいつが来たら起こしてやるよ。かまわねぇから、ちょっと寝てな」
喫うのをやめたはいいが手持ちぶさたになり、代わりに手を伸ばした長袋から三味線を取り出す。少年はちょっと迷うかのような素振りで小首を傾げて、なにを思ったか高杉のその背に、こてん、とちいさな背を凭せ掛けた。
ぎょっとなった。
高杉の背は反射的に強張り、すぐさま意識的にそれが解かれる。表情の薄い桂の、そのくせ無防備なまでにひとなつっこい一面を承知してはいたが、衒いなくそれを見せられて高杉は内心の動揺を押し隠した。
どうせこれは現(うつつ)とも呼べぬ。刻のはざまが見せる夢幻(ゆめまぼろし)のたぐい。夢魔でないのが幸いじゃないか。いずれ泡沫に消える夢語りなら、いまをたのしめばいい。
あずかった華奢な背のぬくもりが、これは夢であって夢ではないと告げている。それともその温度さえもが、錯覚であったろうか。
「あったかいなぁ、しんすけどの」
どこかのんびりと、間延びしたような口調で、背の少年が囁く。
「しんすけ、でいい」
それに引き摺られるように、長閑に返した。
「…しんすけ」
少年はそう呟いてなにがおかしいのかくすくすと笑い、ほどなくそれは秘やかな寝息に取って代わる。
「晋助さま」
来島が背の荷物を気遣って声を掛けてくる。高杉はちいさくかぶりを振って、そのままに三弦を爪弾いた。
花霞に絃(いと)の調べが溶ける。知らぬまにもうひとつの絃の音色がかさなって、まるでその背の子をあやすように、その睡りを妨げぬようにと、二棹の三弦が低くおだやかに音を奏でる。
それを邪魔しないようにと声には出さぬものの、来島はさも意外そうに河上を見遣る。
「拙者もたまには子守歌くらい弾くでござるよ」
音になるかならぬかのいらえを返す河上の、色硝子の眼鏡の向こうの表情は見えない。
高杉はべつだん気にするでもなく、爪弾く指先で、背のちいさなぬくもりに語り続けた。
おまえの知るしんすけの、未来の姿がこの俺だと知れば、おまえは哀しむだろうか。
穏やかな微睡み。
かろやかなぬくもりが重みを増して、高杉の背に掛かる。
ああ、これをずっと抱いていけたら、俺は。
* * *
その人影が、こちらを見た。どうやらさくらの大樹を背にうたた寝していたものらしい。覚束なげに目を擦り、こちらの姿を認めておおきく手を振るや、笑んだ。
それほど待たせたろうか。そんなつもりはなかったけれど、おのれに向けられたその天上の笑みに、めずらしくすなおに詫びのことばが口を吐いた。
枝垂れた淡墨のさくらがまた風に舞って、花片がふたりを包みこむ。
雪化粧のような桜の絨毯に幼い足跡を残して。
了 2011.04.16.
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一陣の風が舞った。
花霞のもとで、そこに待つであろう人影が、吹き散らされた花片の向こうに佇んでいる。
* * *
「晋助さまぁ、あそこあそこ、あのあたりなんか眺め抜群っスよ」
来島が大きな弁当包みを抱えて小走りに駆ける。
「ほら、なにやってんスか武市先輩。早く茣蓙!茣蓙!」
「また子さぁん。だから私は肉体労働むきじゃないんですよ。なんで私が茣蓙運びなんですか」
「つべこべ云ってないで、さっさと敷くっス」
枝垂れ桜の大木を目指して突き進む来島に、花茣蓙を両腕に抱えた武市がえっちらおっちらとついてゆく。その少しあとを煙草盆と吊り下げた酒瓢箪を手に河上がつづく。
山懐に抱かれた枝垂れ桜は、周囲の薄緑の葉と桜花の咲き初(そ)める山桜よりひとあし早く、零れんばかりの満開を迎えている。平日の昼間のまだ浅い時間、幸いにもほかに先客はなく、大樹はその枝垂れた花影に静けさを湛えたままだ。
鮫小紋の長袋を片手に、最後尾で悠然と煙管を吹かしながら、高杉は目を細めた。
こんなふうに花見に興じた日々はたしかにあって、いまそれをちがう仲間と過ごすというのも、また一興ではある。
一陣の風が舞った。
来島がうわっともうきゃぁともつかぬ、叫び声を上げる。
風は枝垂れた桜の枝を激しく撓り打ち振るわせて、一行の視界をさくら色に染めた。吹き散らされた花片が舞い上がり舞い踊って、苔生す岩肌や緑の下生えに舞い落ちる。
「なんなんスか、あれぇ」
つづけて素っ頓狂な声を上げた来島の指差したさきに、みなの視線が集まった。
河上がヘッドホンに絡んだ花片を払いおとしながら首を傾げる。
「おや。いつのまにやらさきを越されていたでござるか」
「おやおやおやおや、あんなかわいらしい御子がひとりとは。迷子でしょうかね」
こころなしうれしげに呟いた武市を、来島が睨めた。
「武市変輩。ロリもたいがいにしてくださいよ。てか、いきなり現れたんっスよ!さっきまでたしかにうちらが一番乗りだったんっスから」
さきほどまでたしかにだれもいなかった枝垂れ桜の根もとには、その大木の木肌に眠るように頬を寄せ、ちいさな腕で届かない幹を抱きしめる幼子の姿があった。
「そうですよね、晋助さま。…晋助さま?」
「晋助。どうしたのでござる」
来島の呼びかけにも上の空の高杉に、河上が訝しげに振り返り見る。その声も、高杉の耳には届いていなかった。目のまえに忽然と顕れたその幼子に、瞠られた隻眼の視線は吸い寄せられたままだ。
「きみ、きみ。どこの子かね」
武市が近寄りながら掛けた声にようやくわれに返ったようすで、高杉はそれを制した。
幹に抱きついていた少年が、周囲の気配に気づいてかやっと目を開け、きょとんとした表情で一行を見返る。
武市が息を呑むのがわかった。来島が呆れて舌打ちをしかけて、それを忘れる。河上が、ほう、と溜め息のように呟いた。
幼いながらも腰に短刀を佩き羽織袴で、長い髪をうしろでひとつに結い垂らしている。それは艶やかな鴉の濡れ羽色。見つめるその双眸もまた濡れたように煌めく漆黒の宝玉。茱萸の色の口唇が真珠の肌に乗せられていて、ちいさく開かれる。
「おはなみですか」
小首を傾げそう声に出されなければ、この世のものとも思えなかったろう。いっそさくらの精とでも云われたほうが頷けたであろうくらいに、それは人外の麗容だった。かわいいと呼べるその年頃には似つかわしくなくも、うつくしい、という形容がむしろしっくりくるようなこどもだった。
「これは、なんの悪戯だ?」
くくく、と笑いを秘めた声で、高杉は知らず問いかける。
「小太郎、…だよな」
だってこんな姿をほかに知らない。ほかにあろうはずがない。それがどれほど荒唐無稽な局面であったとしても。
まだごく幼い少年は、びっくりしたようにまなこを開いた。
「晋助さま、この子…どちらのお知り合いっスか」
おずおずといったさまで、来島が弁当を取り分けた小皿をふたつ、差し出しながら窺い見る。高杉は少年をとなりに座らせて、さきほどから機嫌よく杯をかさねている。説明したところで信じられまいし、だいいち高杉自身からして理解の及ぶ現象ではないから、適当に受け流す。
「しんすけ、というのか? おんみも」
物怖じしない少年は招かれるままに座にも馴染んで、勧められるままに花見の弁当をすなおに食んでいる。
肯く高杉に、少年はどことなくうれしそうな親しみを感じさせる笑みを浮かべた。
「おんなじなまえの知り合いがいるんだろう?」
高杉が揶揄うようにけれどやわらかに語りかける。
「そうなのだ。ふしぎなこともあるものだなぁ…」
「なぁに。俺もな、おめぇにそっくりなやつをよく知ってるってぇだけだ」
「そのおひとが、こたろう、というのか?」
「そんなところだな」
大樹の根もとに敷かれた花茣蓙に座してまったりと語らう高杉と幼い少年には、穏やかな、そのくせ妙に近寄りがたい、余人が立ち入ってはならぬような空気が醸しだされている。
それをいささか遠巻きに、もう一帖の花茣蓙で弁当に箸を付けながら来島は首をひねった。
「意外っス…晋助さまがあんなにこども好きとは知らなかったっスよ」
となりでお茶を啜りながら、武市はさもありなんとばかりに肯いている。
「あれほどの原石では無理からぬというもの。いやはや末恐ろしいというか末がたのしみな…。いやまあ、おなごであればもっと、こう…」
「武市変輩。あんたがいうといやらしく聞こえるから止めるっス」
「圧倒的な美をまえに、ひとはすべからく跪くものですよ、また子さん」
「晋助さまはそんなんじゃないっスよ! そうっスよね、万斉先輩」
「………」
「ちょ、なんでそこで無言なんスか!」
もういっぽうのとなり、手酌でやっていた河上は、平杯に徳利の酒をまた注ぎながら、やや思案げに首を巡らせた。
「美云々は知りもうさぬが、いま晋助があの少年に囚われているのはたしかでござろう」
「まあ、たしかにびっくりするくらいきれいな子っスけどぉ…」
心持ちうっとりと見蕩れるように呟いて、来島はふいと思いなおしたようにぶんぶんと首を振る。
「あの桂とおんなじなまえってのが気にくわないっス」
「桂小太郎…あのおとこも、あの年頃にはああだったのでござろうか」
どこか遠いものを見る眼差しで、河上は高杉とその少年とを見遣っている。
「だったら、なんなんスか」
「いや。だとすれば晋助の執着にも合点がいくというもの、ではござらぬか」
いい具合に過ごして平杯を置き、さていっぷくでもと腰差しの煙管を取り出す。煙草盆を引き寄せて刻み煙草をまるめ雁首に詰めかけたところで、高杉はじいいいいっと見つめてくる視線にその手を止めた。
「…………」
「そういや、おめぇ、ここでなにしてたんだ。かくれんぼでもしてたのか」
視線の意味に気づいていながらわざと高杉は、その矛先を変える。
「ひとを待っていたのだが、なかなか来なくてな」
応えながらもじいいっと、少年は高杉の手許を見つめている。
「そいつぁ、さっき云ってた知り合いかい?」
そんな約束など幾度となくあった、幼き日々。
「うむ。しんすけどの…さくらが煙たがるのではないか?」
面影そのままを宿すその口から、案の定のことばが紡がれて、高杉は笑みを怺えた。
「そうさなぁ…しかし俺ぁこいつがたのしみでね」
「むう…」
少年は納得がいかぬげにちいさく頬を膨らませる。
「おめぇも煙はいやかい」
「いやというのではないが。せっかくの花がもったいない」
「梅とちがってさくらは匂いをたのしむってものでもなかろうよ」
「それはひとのりくつだ。さくらとておなじ愛でられるなら、煙などないほうがうれしかろうとおもうのだ」
ああ、小太郎だなぁと高杉は思う。むかしもいまも変わりねぇ。
苦笑を浮かべて煙管を懐中に仕舞い込んだ高杉に、少年は黒眼勝ちな眸をやや見開き、やがて花がほころぶかのように笑んだ。
こんなことで笑うなら、幾度だって叶えてやりたい。
けれど幼い時分もいまも、それをすなおにできるおのれでないことを、高杉はいやというほど知っていた。いまこうしてなんの悪巫山戯か、幼い桂に相対するのがおとなの自分であるという、現実にありえるはずのない状況であればこそ、それは叶えられるのだ。
喫わないことに安心したのか腹がくちくなったからか、少年は口に手を当てあくびを嚙み殺そうとして、失敗する。
ふわぁ。
と、かわいらしい吐息が漏れて、まだかな、おそいな、と呟いた。
「そいつが来たら起こしてやるよ。かまわねぇから、ちょっと寝てな」
喫うのをやめたはいいが手持ちぶさたになり、代わりに手を伸ばした長袋から三味線を取り出す。少年はちょっと迷うかのような素振りで小首を傾げて、なにを思ったか高杉のその背に、こてん、とちいさな背を凭せ掛けた。
ぎょっとなった。
高杉の背は反射的に強張り、すぐさま意識的にそれが解かれる。表情の薄い桂の、そのくせ無防備なまでにひとなつっこい一面を承知してはいたが、衒いなくそれを見せられて高杉は内心の動揺を押し隠した。
どうせこれは現(うつつ)とも呼べぬ。刻のはざまが見せる夢幻(ゆめまぼろし)のたぐい。夢魔でないのが幸いじゃないか。いずれ泡沫に消える夢語りなら、いまをたのしめばいい。
あずかった華奢な背のぬくもりが、これは夢であって夢ではないと告げている。それともその温度さえもが、錯覚であったろうか。
「あったかいなぁ、しんすけどの」
どこかのんびりと、間延びしたような口調で、背の少年が囁く。
「しんすけ、でいい」
それに引き摺られるように、長閑に返した。
「…しんすけ」
少年はそう呟いてなにがおかしいのかくすくすと笑い、ほどなくそれは秘やかな寝息に取って代わる。
「晋助さま」
来島が背の荷物を気遣って声を掛けてくる。高杉はちいさくかぶりを振って、そのままに三弦を爪弾いた。
花霞に絃(いと)の調べが溶ける。知らぬまにもうひとつの絃の音色がかさなって、まるでその背の子をあやすように、その睡りを妨げぬようにと、二棹の三弦が低くおだやかに音を奏でる。
それを邪魔しないようにと声には出さぬものの、来島はさも意外そうに河上を見遣る。
「拙者もたまには子守歌くらい弾くでござるよ」
音になるかならぬかのいらえを返す河上の、色硝子の眼鏡の向こうの表情は見えない。
高杉はべつだん気にするでもなく、爪弾く指先で、背のちいさなぬくもりに語り続けた。
おまえの知るしんすけの、未来の姿がこの俺だと知れば、おまえは哀しむだろうか。
穏やかな微睡み。
かろやかなぬくもりが重みを増して、高杉の背に掛かる。
ああ、これをずっと抱いていけたら、俺は。
* * *
その人影が、こちらを見た。どうやらさくらの大樹を背にうたた寝していたものらしい。覚束なげに目を擦り、こちらの姿を認めておおきく手を振るや、笑んだ。
それほど待たせたろうか。そんなつもりはなかったけれど、おのれに向けられたその天上の笑みに、めずらしくすなおに詫びのことばが口を吐いた。
枝垂れた淡墨のさくらがまた風に舞って、花片がふたりを包みこむ。
雪化粧のような桜の絨毯に幼い足跡を残して。
了 2011.04.16.
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