先週今週と桂さん前面フィーチャーで、つよくうつくしくかっこいいですが。
ここに至っておにぎり以上の掘り下げが来ようとは…。
とりあえず、ちょっと銀さん殴っていいかな。いいよな。
いや、いまさら殴ったところであれがどうにかなるとは思いませんけども。
銀と晋ともっさんの桂をめぐる攘夷時代の立ち位置が妄想まんまでよかった。
そらまあ、ああしてきたなら。
紅桜でなんの手立ても明かされていない状態でも、ヅラさんを信じて空に浮かぶ船から飛び降りますわな。銀さんは。
最後のコマで、桂じゃないヅラだ、という桂さんは、公でなく私。
ということは。
ヅラじゃない桂だ、と云い続けてきた桂さんは、やはり公のひとなのだな。
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あんなこと云っておいて桂さんを置いて逃げた銀さんの選択は、
ありとあらゆる事情を汲んだとしても、クズ。
どこまでもゆるす桂さん。
そしていまだにそれに甘えている。
ゆるしつづけるのもときに悪だよ。桂さん。
おのれを律し、銀のことばと晋(と仲間)の存在を支えに、おのれの生をまっとうしてきた。
菩薩は衆生の苦しみを救うためにともに苦しむものだけど、
あの世界の弥勒菩薩なんだから、いっそもう如来さまになってしまえ。
突き放してしまえ。
つよすぎるのもうつくしすぎるのも、人間といううつわには孤独がまさる。
銀さんは、放り出した自分の荷物をもういちど自分で持ち直さないかぎり、桂さんを救えない。
桂さんはもう(おのれの私が)救われることを、おのれの外側には見てないんだろう。