二十万打御礼リクエスト。
【桂が気まぐれで土方をめずらしく甘えさせてやる】
土桂。土方と桂。
甘えさせて…るんだろうか、これ。
その晩の土方は酔っていた。
かまっ娘倶楽部では目的は酒ではなくヅラ子に会うことだからあまり過ごさないようにしていたにもかかわらず、記憶はあやふやで曖昧だ。酔いにまかせて繰り言を呟いていた気がするが、その中身が皆目思い出せない。
あげく一日おいた今夜。店を訪ねると、ヅラ子は休みでもう当分バイトには来ないのだという。
「あらやだ。だからちゃんと帰りしな、そう云ったじゃないの」
「副長さんたら、やっぱり憶えてないのね。相当酔っぱらってたものねぇ」
「アタシたちのいた席からは聞こえなかったけど、なんだかヅラ子に絡んでたわよ」
「なのに昨夜(ゆうべ)は来ないもんだから、ヅラ子に愛想尽かされたんじゃないのぉ?」
「そうよう。当分お別れなのに」
「ねぇ」
上背のあるのとふくよかなのと顎の立派なホステスたちに、そう口々に囃し立てられる。
おぼえていない。まったくおぼえていない。早々に店を引きあげて、土方は内心で青くなった。
いったいなにを絡んでいたというのだろう。しかも昨夜を最後に当分店に出ないと聞かされながら来なかった土方を、ヅラ子は、桂は、どう思っただろうか。そう考えて、いや、と土方は苦笑した。
桂はそんな些末なことは気にすまい。そもそもそこまで来店を望まれているとも思えない。だが絡んだ内容は気になった。本気で愛想を尽かされかねないことを口走った可能性だってある。酒の席でのことをいちいち気にしていたら水商売などつとまらないだろうが、桂にまじ惚れしている以上、土方のほうがそこまで割り切れなかった。
とりあえず、詫びとくか。
土方は携帯を取りだして、歩き煙草でメールを打つ。かなうものならじかに詫びたかったが、あいにくと土方は桂との連絡手段をこれしか持たない。土方のほうは番号もアドレスも教えているが、桂が電話をしてきた試しはない。非通知や公衆電話からであっても、足跡を残すことを桂はしなかった。アドレスはフリーのものだし、接続拠点のIPアドレスも毎回変わるという念の入れようだ。
土方が職務権限で調べ上げる可能性を捨てきれない以上、桂の用心はもっともだった。個人の意志とは別次元でうごくのが職務というものである。
それに。
知らずにいたほうが、知っていて告げられないよりましだろう?
そう、桂は云った。
土方が知り得た桂の個人情報を隠匿することは、御上にというより真選組や局長に対しての背信行為だから、そのあたりの心理的な負担を慮ってのことだろう。その程度には桂は自分に好意を抱いてくれている。
だからそれをさみしいなどと思うのは、土方のわがままなのだ。
打ち終わって、携帯を懐に戻す。その手で銜え煙草を指に挟み取り、煙を吐いた。メールの欠点は相手がいつそれを目にするかわからないことだ。むろんそれは利点でもあるのだが。せめて今夜中にでも読んでくれるといい。吐き出した紫煙が、ネオン街の隙間を縫うように浮かぶ闇空に吸い込まれていくのをぼんやりと見つめて、土方は溜め息をついた。
屯所へ向かう足取りは重い。あすは非番だし、どこかで呑み直すか。でもそれもかったるいな。と、ついいましがた閉じたばかりの携帯が鳴った。非通知だ。無視しようかと考えて、まさか、という都合のよすぎる可能性があたまを過ぎった。通話ボタンを押してひとことふたこと。酔っぱらいのまちがい電話に、叩き切る。あやうく携帯を折りかねない勢いだ。
っくしゅん。
おまけに冷えてきやがった。街路樹も色づこうかというこの時期に、いつもの黒の着流しでマフラーもなしではそろそろ厳しい。街灯に照らされた公孫樹の扇の葉っぱ隊もいつのまにか黄の勢力が増している。あれ、たしか。一昨日もこれを見て、そんなことを思った気がする。情けねぇ。
ああ、もう。こんな日は、とっと帰ってひとっ風呂浴びて寝るのがいちばんだ。そう観念して踵を返した、そのとき。
「そこのおにいさん。寄ってかない。いいコいますよ。安いよー」
派手な電飾の煌々とした扉を背にした黒服が、呑気に声を掛けてくる。無視して通り過ぎようとして、気づいて土方はぎょっとなって振り返った。
「か、つら…!?」
長い黒髪を襟元でゆるく縛って背に流した黒い上下の美貌の青年が、一時間○千円ぽっきりの看板を手に、すました顔で土方を見た。
「なにしてんだ、てめぇは、こんなところで」
ようやっとことばが出たのは、その上から下までを、幾度も見なおしてからだった。
「見てわからんか、バイトだ」
不躾な視線にわずかばかり眉を顰めただけで、桂は平然としたものだ。
「だって、おめぇきょうから当分休みだと」
「かまっ娘倶楽部はな。こちらは臨時の日雇いだ。きょうの出立予定が日延べになったので、空いた時間にもうひと稼ぎをだな…」
そのことばが、土方の耳に引っ掛かる。
「出立? どこかへ出張るのか?」
桂は土方の目を見て、無言で薄く笑んだ。
「あ、…すまねぇ」
反射的に詫びていた。
ばかだ、俺ぁ。桂がそれを明かすわけがねぇ。
「貴様、あすは非番だったな」
「…そうだが」
なんで知ってるんだ、そんなこと。
「おれの情報網を侮るなよ」
「…………」
探らせていたのかと、土方は苦虫を噛み潰したような顔になる。桂がおもしろそうに、にやりと笑った。
「ふっ。貴様ひとりの動向を気遣ってなどいてはわれらの手はいくつあっても足りぬわ。一昨日さんざん喚いていったのをわすれたらしいな」
土方の頬にさっと朱が走った。二重の意味で、血が昇った。おのれの自意識過剰と、酒に呑まれた失態と。
いたたまれずにその場を立ち去ろうとした土方の袖を、桂がくいと引く。
「!?」
そのしぐさに驚いて、立ち止まる。桂は土方を見据えて繰り返した。
「喚いていったろう」
「…まだなにか、あんのかよ」
見据えてくる眸を直視できない。揶揄われたせいもあるが、きょうはヅラ子姿ではない。目に慣れないぴったりとした洋装は、桂の線の細さを際立たせ、女装よりも艶めかしく映って、ただでさえ失調気味の土方を乱し惑わす。
「芋とはいえど侍ならば、おのれのことばに責任を持て」
桂はどこか興に乗ったようで、めずらしくたのしげだ。
「酒の上でのこととわすれてやってもいいぞ。きさまがそれでよいならな」
「……」
「あれだけ酔ってくだを巻いたのだ。まあ、思い出せぬほうが幸いかもな」
云うだけ云って、桂は呼び込みにもどった。またべつの通りすがりに声を掛けている。
屯所に戻っても、土方はなかなか寝付けなかった。
あの晩、なにを云ったんだ。あす、いやもう、きょうか。きょうが非番だとヅラ子に告げてくだを巻いたというなら、おおかたこの日になにかに誘って振られたとかそのあたりだろうか。
「誘う、ってもなぁ」
桂がヅラ子以外のときに土方と会うことはまずない。おたがいの立場は理解していたから、土方のほうでもそれを越えて会うことは望んでいない。いや、望んでいないというのは嘘だ。素の桂と会いたいと、いつもどこかで願っている。それが本音だ。
先刻の桂は男装だった。むろんつねの和装ではないから素顔というには遠いが、それだけでも土方は十二分に掻き乱される。あの細腰は凶悪だ。反則だとさえ思った。折れるくらいに抱きしめたかった。
「…ちくしょう」
酔って桂を誘ったのだろうか。ヅラ子ではなく会いたいと、潜在する願望を酔いにまかせてぶちまけてしまったのだろうか。それを断られて荒れたのか。だとしたら、なんと滑稽な。無様な醜態をさらしたのか。
寝付かれず、寝返りを繰り返して、土方は諦めてごそごそと起き出す。厠にでも行って、ついでにあたまを冷やしてこよう。
用を足し、寝間着の小袖に両腕を突っ込んで身を竦めるようにして足早に厠をあとにする。冷えた廊下が屯所の庭沿いに宿舎へと続いている。
そういえば、出立が日延べになったと桂は云った。非番の日、つまりもう桂は本来、江戸にはいなかったはずなのだ。それでは会えるわけがない。たとえ会う気があったとしても。
自嘲気味に笑って、土方は寝間着の衿をかき合わせた。たとえ会う気があったとしても、か。われながら女々しい。そう思えばちょっとは救われるのか。
「ちっ。これからまた便所行くたびに凍えることになんのかよ」
寒々しい廊下から庭を眺め、ひとりごちて、気を紛らす。
屯所の庭は多く鍛錬のためにも使われるから、庭木はあっても手入れが行き届いているとは云えない。それでも広さだけはあったから、桜だの楓だの公孫樹だの椎だの楠だの、季節のうつろいを感じさせる程度には緑もある。もっとも、色づいた木々を眺めるより、そのあと落ち葉を掻き集めて芋だのなんだのを焼くことのほうに熱心な連中がほとんどだ。
まあ手前ぇにしたところで、どっちかといやぁそのクチだが。と、自室の引き戸に手をかけたところで、土方の足が止まった。
「あ」
ちいさく叫んで、庭を振り返る。紅や黄に色づきはじめた木々が、常夜灯にわずかに浮かんで見える。あの街路樹の姿と、かさなった。
あの日。もうそんな季節かと思い、柄にもなく思いついたのだ。それを口にして、でも色よいこたえは返らなくて。
あれ? でも、いや、さっき。
「あ。あ、あ、ああ!」
戸を開けるや、土方は携帯に飛びついた。
まだまにあうはずだ。
急いで打とうと弾くように開いた液晶画面には、着信を示すメールアイコンが浮かんでいた。職業がら電源を切ることはめったにないが、あすは非番という夜にはさすがに留守番モードである。あわてて封を開く。
桂からのものだ。
挨拶文もなにもない、無機質な数字だけが四つ、並んでいた。
それでも土方には充分だった。
紅葉狩りにと誘った場所は、ちゃんと思い出していた。
これは待ち合わせの時刻。
桂はそこに、いてくれる。
了 2009.11.18.
PR
その晩の土方は酔っていた。
かまっ娘倶楽部では目的は酒ではなくヅラ子に会うことだからあまり過ごさないようにしていたにもかかわらず、記憶はあやふやで曖昧だ。酔いにまかせて繰り言を呟いていた気がするが、その中身が皆目思い出せない。
あげく一日おいた今夜。店を訪ねると、ヅラ子は休みでもう当分バイトには来ないのだという。
「あらやだ。だからちゃんと帰りしな、そう云ったじゃないの」
「副長さんたら、やっぱり憶えてないのね。相当酔っぱらってたものねぇ」
「アタシたちのいた席からは聞こえなかったけど、なんだかヅラ子に絡んでたわよ」
「なのに昨夜(ゆうべ)は来ないもんだから、ヅラ子に愛想尽かされたんじゃないのぉ?」
「そうよう。当分お別れなのに」
「ねぇ」
上背のあるのとふくよかなのと顎の立派なホステスたちに、そう口々に囃し立てられる。
おぼえていない。まったくおぼえていない。早々に店を引きあげて、土方は内心で青くなった。
いったいなにを絡んでいたというのだろう。しかも昨夜を最後に当分店に出ないと聞かされながら来なかった土方を、ヅラ子は、桂は、どう思っただろうか。そう考えて、いや、と土方は苦笑した。
桂はそんな些末なことは気にすまい。そもそもそこまで来店を望まれているとも思えない。だが絡んだ内容は気になった。本気で愛想を尽かされかねないことを口走った可能性だってある。酒の席でのことをいちいち気にしていたら水商売などつとまらないだろうが、桂にまじ惚れしている以上、土方のほうがそこまで割り切れなかった。
とりあえず、詫びとくか。
土方は携帯を取りだして、歩き煙草でメールを打つ。かなうものならじかに詫びたかったが、あいにくと土方は桂との連絡手段をこれしか持たない。土方のほうは番号もアドレスも教えているが、桂が電話をしてきた試しはない。非通知や公衆電話からであっても、足跡を残すことを桂はしなかった。アドレスはフリーのものだし、接続拠点のIPアドレスも毎回変わるという念の入れようだ。
土方が職務権限で調べ上げる可能性を捨てきれない以上、桂の用心はもっともだった。個人の意志とは別次元でうごくのが職務というものである。
それに。
知らずにいたほうが、知っていて告げられないよりましだろう?
そう、桂は云った。
土方が知り得た桂の個人情報を隠匿することは、御上にというより真選組や局長に対しての背信行為だから、そのあたりの心理的な負担を慮ってのことだろう。その程度には桂は自分に好意を抱いてくれている。
だからそれをさみしいなどと思うのは、土方のわがままなのだ。
打ち終わって、携帯を懐に戻す。その手で銜え煙草を指に挟み取り、煙を吐いた。メールの欠点は相手がいつそれを目にするかわからないことだ。むろんそれは利点でもあるのだが。せめて今夜中にでも読んでくれるといい。吐き出した紫煙が、ネオン街の隙間を縫うように浮かぶ闇空に吸い込まれていくのをぼんやりと見つめて、土方は溜め息をついた。
屯所へ向かう足取りは重い。あすは非番だし、どこかで呑み直すか。でもそれもかったるいな。と、ついいましがた閉じたばかりの携帯が鳴った。非通知だ。無視しようかと考えて、まさか、という都合のよすぎる可能性があたまを過ぎった。通話ボタンを押してひとことふたこと。酔っぱらいのまちがい電話に、叩き切る。あやうく携帯を折りかねない勢いだ。
っくしゅん。
おまけに冷えてきやがった。街路樹も色づこうかというこの時期に、いつもの黒の着流しでマフラーもなしではそろそろ厳しい。街灯に照らされた公孫樹の扇の葉っぱ隊もいつのまにか黄の勢力が増している。あれ、たしか。一昨日もこれを見て、そんなことを思った気がする。情けねぇ。
ああ、もう。こんな日は、とっと帰ってひとっ風呂浴びて寝るのがいちばんだ。そう観念して踵を返した、そのとき。
「そこのおにいさん。寄ってかない。いいコいますよ。安いよー」
派手な電飾の煌々とした扉を背にした黒服が、呑気に声を掛けてくる。無視して通り過ぎようとして、気づいて土方はぎょっとなって振り返った。
「か、つら…!?」
長い黒髪を襟元でゆるく縛って背に流した黒い上下の美貌の青年が、一時間○千円ぽっきりの看板を手に、すました顔で土方を見た。
「なにしてんだ、てめぇは、こんなところで」
ようやっとことばが出たのは、その上から下までを、幾度も見なおしてからだった。
「見てわからんか、バイトだ」
不躾な視線にわずかばかり眉を顰めただけで、桂は平然としたものだ。
「だって、おめぇきょうから当分休みだと」
「かまっ娘倶楽部はな。こちらは臨時の日雇いだ。きょうの出立予定が日延べになったので、空いた時間にもうひと稼ぎをだな…」
そのことばが、土方の耳に引っ掛かる。
「出立? どこかへ出張るのか?」
桂は土方の目を見て、無言で薄く笑んだ。
「あ、…すまねぇ」
反射的に詫びていた。
ばかだ、俺ぁ。桂がそれを明かすわけがねぇ。
「貴様、あすは非番だったな」
「…そうだが」
なんで知ってるんだ、そんなこと。
「おれの情報網を侮るなよ」
「…………」
探らせていたのかと、土方は苦虫を噛み潰したような顔になる。桂がおもしろそうに、にやりと笑った。
「ふっ。貴様ひとりの動向を気遣ってなどいてはわれらの手はいくつあっても足りぬわ。一昨日さんざん喚いていったのをわすれたらしいな」
土方の頬にさっと朱が走った。二重の意味で、血が昇った。おのれの自意識過剰と、酒に呑まれた失態と。
いたたまれずにその場を立ち去ろうとした土方の袖を、桂がくいと引く。
「!?」
そのしぐさに驚いて、立ち止まる。桂は土方を見据えて繰り返した。
「喚いていったろう」
「…まだなにか、あんのかよ」
見据えてくる眸を直視できない。揶揄われたせいもあるが、きょうはヅラ子姿ではない。目に慣れないぴったりとした洋装は、桂の線の細さを際立たせ、女装よりも艶めかしく映って、ただでさえ失調気味の土方を乱し惑わす。
「芋とはいえど侍ならば、おのれのことばに責任を持て」
桂はどこか興に乗ったようで、めずらしくたのしげだ。
「酒の上でのこととわすれてやってもいいぞ。きさまがそれでよいならな」
「……」
「あれだけ酔ってくだを巻いたのだ。まあ、思い出せぬほうが幸いかもな」
云うだけ云って、桂は呼び込みにもどった。またべつの通りすがりに声を掛けている。
屯所に戻っても、土方はなかなか寝付けなかった。
あの晩、なにを云ったんだ。あす、いやもう、きょうか。きょうが非番だとヅラ子に告げてくだを巻いたというなら、おおかたこの日になにかに誘って振られたとかそのあたりだろうか。
「誘う、ってもなぁ」
桂がヅラ子以外のときに土方と会うことはまずない。おたがいの立場は理解していたから、土方のほうでもそれを越えて会うことは望んでいない。いや、望んでいないというのは嘘だ。素の桂と会いたいと、いつもどこかで願っている。それが本音だ。
先刻の桂は男装だった。むろんつねの和装ではないから素顔というには遠いが、それだけでも土方は十二分に掻き乱される。あの細腰は凶悪だ。反則だとさえ思った。折れるくらいに抱きしめたかった。
「…ちくしょう」
酔って桂を誘ったのだろうか。ヅラ子ではなく会いたいと、潜在する願望を酔いにまかせてぶちまけてしまったのだろうか。それを断られて荒れたのか。だとしたら、なんと滑稽な。無様な醜態をさらしたのか。
寝付かれず、寝返りを繰り返して、土方は諦めてごそごそと起き出す。厠にでも行って、ついでにあたまを冷やしてこよう。
用を足し、寝間着の小袖に両腕を突っ込んで身を竦めるようにして足早に厠をあとにする。冷えた廊下が屯所の庭沿いに宿舎へと続いている。
そういえば、出立が日延べになったと桂は云った。非番の日、つまりもう桂は本来、江戸にはいなかったはずなのだ。それでは会えるわけがない。たとえ会う気があったとしても。
自嘲気味に笑って、土方は寝間着の衿をかき合わせた。たとえ会う気があったとしても、か。われながら女々しい。そう思えばちょっとは救われるのか。
「ちっ。これからまた便所行くたびに凍えることになんのかよ」
寒々しい廊下から庭を眺め、ひとりごちて、気を紛らす。
屯所の庭は多く鍛錬のためにも使われるから、庭木はあっても手入れが行き届いているとは云えない。それでも広さだけはあったから、桜だの楓だの公孫樹だの椎だの楠だの、季節のうつろいを感じさせる程度には緑もある。もっとも、色づいた木々を眺めるより、そのあと落ち葉を掻き集めて芋だのなんだのを焼くことのほうに熱心な連中がほとんどだ。
まあ手前ぇにしたところで、どっちかといやぁそのクチだが。と、自室の引き戸に手をかけたところで、土方の足が止まった。
「あ」
ちいさく叫んで、庭を振り返る。紅や黄に色づきはじめた木々が、常夜灯にわずかに浮かんで見える。あの街路樹の姿と、かさなった。
あの日。もうそんな季節かと思い、柄にもなく思いついたのだ。それを口にして、でも色よいこたえは返らなくて。
あれ? でも、いや、さっき。
「あ。あ、あ、ああ!」
戸を開けるや、土方は携帯に飛びついた。
まだまにあうはずだ。
急いで打とうと弾くように開いた液晶画面には、着信を示すメールアイコンが浮かんでいた。職業がら電源を切ることはめったにないが、あすは非番という夜にはさすがに留守番モードである。あわてて封を開く。
桂からのものだ。
挨拶文もなにもない、無機質な数字だけが四つ、並んでいた。
それでも土方には充分だった。
紅葉狩りにと誘った場所は、ちゃんと思い出していた。
これは待ち合わせの時刻。
桂はそこに、いてくれる。
了 2009.11.18.
PR