ったく。だからといって、夜の蝶に身を窶すこともあるまいに。
小太郎ーーー源氏名をズラ子というーーーとの再会後、折に触れ、晋助は愚痴る。むかしから頓狂なところはあるやつだったが、まさかおかまに扮するとは。なまじなおんなより美女に見えるのが、よけいに始末がわるい。
あまつさえお江戸のど真ん中、かぶき町に店をかまえてでんとしているのだから、行方をくらましておいて、どこをどう経てこうなったものやら知れないが、たいした才覚と肝の太さだった。おんなだと信じ込んでいる客のほうが多いであろう店のママとはちがい、その共同経営者は髭剃りあとも生々しい巨躯の正真正銘のおかまだったが、店のオンナノコふたりはこれまた正真正銘女の子で若干問題児ではあるものの見目もよく、ズラ子の店『スナックお頭裸』は混沌とした魅力でそれなりに繁盛していた。
晋助は、あのあと療養の名目でしばらく、その店のある二階家の上階に居候を決め込んでいたのだけれど。ただ飯を食い、これまでの反動のように安寧の日々をむさぼったあげく、ズラ子に尻を叩かれて、そこに『万事屋晋ちゃん』なる看板を掲げさせられてしまったのだ。せめて『スナックお頭裸』の用心棒稼業にしておいて欲しかったものだが、云っても後の祭りである。
かぶき町界隈で並ぶもののない美人ママ、ついでに腕も立つズラ子と、業界屈指の実力者とも噂される共同経営者マドマーゼル西郷の、顔が利いたのか、食いつなぐ程度の仕事は来る。とはいっても晋助が好んで請け負うのは、斬った張ったが日常茶飯なあぶないお仕事か、きな臭いブツが絡むような物騒なものばかりだったから、おのずとその方面の依頼が増えてくる。
晋助がその手の仕事しか承けようとしないのは、やり残した果たせずにいる目的があるからで、その情報収集に繋がりそうなものだけを窃かに選っていたのだが。ズラ子もとい小太郎は、早々にその狙いに気づいたらしかった。まったく。頓狂なことばかりしでかすくせに、妙なほうにだけ聡いやつだ。
「てめぇこそ、どうなんだよ」
湯をつかい、あたま左半分の包帯を取り替えてもらいながら、晋助は小太郎の胸もとに流された髪を引っ張る。
二階家の一階店奥が小太郎の居住空間だ。
夏の夜明けは早いから、『ズラ子』が就寝するころには東の空は白みはじめている。上階にも風呂は設えられているにもかかわらず、自由業をいいことにそれに合わせて湯をもらいに来る晋助を、小太郎はしたいようにさせていた。
「こら。おとなしくせんか」
弱っていた左目は、件の毒とその直下の鏃に抉られた傷口の化膿がもとで、光を失った。晋助自身も小太郎も、その濁った瞳孔や疵痕を気にすることはなかったが、見知らぬ他人に不快感をあたえるのも質されるのも好まなかったから、これは、日にいちどの儀式のようなものだった。
小太郎からも、湯上がりの仄かな香りと肌のぬくもりが、伝わってくる。頭に包帯を巻くのだから自然、密着して半分被さるような体勢になるわけで、それは晋助の密やかな至福の時間でもあった。むろん、そんなおもいを小太郎は知るよしもない。女装してはいても、いたって男気のあるほうだから、そんなふうにおもわれていることなど想像だにしないのか。これでよくママ稼業がつとまるものだ。
てんで鈍いくせに、晋助の行状だけはお見通しとばかりに、小言を垂れる。いいかげん、こっちのほうにも気づけよ、莫迦。
「そんななりで身を潜めて。なにかたくらんでるんだろうがよ」
女姿は世間の目を眩ます意味もあろうが、浮き世の垢を落とす水商売というのは、とことん俗世でありながら俗世とは線を引くことで成り立っているような一面があるから、秘密裡な情報収集には向いている。
「おれがなにをたくらむのだ」
「そいつを俺に云わせてぇのか」
残った右目で晋助は睨める。小太郎は逸らすでもなくその眸を見た。
「貴様には関係あるまい」
「あるんだよ、生憎とな。もう、気づいてんだろう?」
「…………」
「いまさら、遅ぇよ。退けるかよ」
小太郎がひとつ溜息をつく。ではやはりそうだったのか、と呟いた。
「この左目がその代価か。もっと自分をたいせつにしたがいい」
「自惚れんな。俺は俺のためにやってる。俺がゆるせねぇだけだ」
この身の、穏やかで幸福だった時間を奪われた、腹いせなのだ。
「莫迦なやつだ」
「莫迦は、てめぇだ」
「莫迦じゃない。ズラ子だ」
立ち上がり、薬籠を茶箪笥の上置きに片づける。その拍子にふわりと、小太郎の肌の香りが立った。藍の地に白く染め抜かれた撫子紋の単衣。湯上がりの浴衣まで女着とは、化けるのも徹底している。さすがに化粧っ気はないが、素地のせいかそれでも充分艶やかで色っぽかった。というか、素のままのほうが晋助は好きなのだ。
「ズラ子じゃねえ。小太郎だろうが。勝手に手前ぇの名ぁ、ほっぽり出してんじゃねぇよ」
もきゅもきゅもきゅ。
日課の儀式を終えたのを見て取ってか、小太郎のペットが小走りに駆け寄ってきた。
エリーと名付けられた珍妙な小動物は、白い体躯にまるいつぶらな眸、黄色の嘴と水掻き状の足を持つペンギンもどき、ではなく、宇宙生物ステファンという超希少種だという。しろくてふわふわなのが小太郎のお気に入りで、ぴょこんと飛びついたかと思うと、飼い主の浴衣の懐に潜り込んだ。そうしているとまるで胸のふくらみのようにも見えて、いらっとする。小太郎は胸もとから覗かせた白いもふもふを愛おしげに撫でた。ああ、畜生。
「そいつ、オスか? 気にくわねぇ」
つい、くだらないことばが口を吐(つ)く。
「オスではない、エリーだ。おまえのとこの触手もどきよりはかわいいぞ」
「うるせぇな。似蔵のことか。あれはあれで、役に立つときがあるんだよ」
晋助のペットの似蔵は、紅桜という寄生腫に取り憑かれた、これまた宇宙生物であるらしい。らしい、というのは異境との貿易絡みのやばい仕事に首を突っ込んだとき、そのついでに拾ってしまったからで、晋助自身その正体をいまいち把握しきっていないせいだ。
万事屋をはじめる少しまえ、小太郎の口から判明した松陽の学術研究テーマが『遺伝子レベルにおける宇宙飛来の寄生腫について』であったことが、その出来心の要因といえば云えた。いったいどこのだれが、こんな金になりそうにもないけったいな研究を執拗に狙ったんだ、と、いささかあきれたものだが。営利目的ではなかったということだろうか。
ともあれ。飼い主には懐いていて、晋助の危機には身を顧みず敵に奇怪な触手を巻き付けて攻撃する習性がある。二階家の上階にはいまはそのペットと、これまた仕事絡みの事件がもとで居着いてしまった助手志願のまた子という少女が、ともに住んでいた。あとは通いの助手がひとり。武市という雇い主より年長の男だが、万事屋稼業の修行だとか云っていたから、脱サラして将来的には独立でも考えているのかもしれない。
置いた以上はきちんと飯を食わせてやれよ。
増えていく員数にこれといった咎め立てもせず、小太郎はそう云っただけだった。つまりそのぶんはちゃんと仕事をして稼げ、ということだ。
「それよりいまは、てめぇのことだ。てめぇこそ、勝手に妙な真似しやがったら、こんどは承知しねぇからな」
膝をついて立ち上がり、茶箪笥のまえの小太郎にゆっくり詰め寄る。
「知らぬまに、蓮っ葉な口調を憶えおって」
苦笑して、空いた片手の指で、晋助の額を小突いた。
「てめぇから消えたんだろうが。勝手に俺を、ほっぽり出しやがるからだろうが」
そのことばに、小突いた指先が止まる。
「…晋助」
「二度と俺を、放り出すんじゃねぇぞ」
その指先を捉えて、晋助はつよく握り込んだ。
「ゆるさねぇからな。ンなことしやがったら、殺すぞ。てめぇ」
握り込んだ掌越しに、小太郎の両の眸をきつく見据えた。晋助のいつにない真摯さに、小太郎の漆黒の双眸がかすかに揺らぐのがわかる。
「しん…」
「わかってんだろ」
「…なにを」
ほんとに気づいていないんだな、この莫迦は。それとも気づかないふりか。莫迦には、はっきりとした事実を突きつけなければ、だめなんだ。握っていた手をそのまま力任せにおのれのほうへと引き寄せる。不意をつかれて、小太郎のからだはなんなく傾いだ。
「し…」
はずみに目のまえに来た口唇を、口唇で捉える。閉じるまえに晋助が目にした小太郎の眸は、まあるく見開かれていた。
やわらかく朱唇を食んで、舌を這わせる。握っていた小太郎の指に緊張が走るのを掌のなかで感じた。そっと口唇を離して、もういちどぺろりと舐めた。見開かれたままだった闇色の眸に、おのれの白い包帯と、暗緑色がかった眸の色が映っているのが見える。
くす、と小太郎の笑んだような吐息が漏れた。
「こた?」
「…これは、なんの悪戯だ。放り出した意趣返しか?」
触れあわんばかりの距離のままで、小太郎が囁く。わずかな戸惑いは伝わるが、声には笑みが乗っていて、拒む意志は見えなかった。それをいいことに、晋助はもういちど、舌先で小太郎の口唇をつつく。
「そうかもな…」
そのままかるく啄み、啄んでは舌先で甘えるように強請(ねだ)った。擽ったさにゆるんだ口唇が薄く開かれる。機を逃さずするりと忍び込んだ晋助の舌先に、やがて、小太郎のそれがしなやかに絡んだ。
小太郎の懐で、ふたつのからだに挟み込まれたかたちになった、エリーがもがく。周章てて離れようとした小太郎の後ろ頸を押さえ込み、深く結ばせた舌で逃れられぬようにしておいて、晋助は小太郎の胸もとから、白いもふもふをつかみだすと、畳に放り投げた。放り出される間際に、黄色い嘴が晋助の指先を噛む。愛する主人の口腔を蹂躙するおとこへの、せめてもの抗議か。
一瞬痛みに眉を顰めたが、いま味わっている初めての、愛しいあいての甘やかさが、それをたやすく忘れさせた。
むかしと変わらぬ細身のからだをきつく抱き寄せて、浴衣越しの、その肌の香りとぬくもりと弾力とを、全身で抱きしめる。そうしておたがいの息が上がるまで、口を吸い合った。
茶箪笥をくずおれそうになる背の支えに、晋助の腕のなかで熱く潤んだ息を吐いた小太郎の、耳もとで告げる。乱れた息も調わぬ間に。
「だから、てめぇが。俺のそばにいりゃあいいんだよ」
そうすれば、意趣返しなんかしねぇから。
ただ、愛おしむだけだから。
積年のおもいを告げた晋助が、かぶき町No.1ホストなる金時の、ズラ子こと小太郎に寄せる恋心を知るのは、この少しあとのこと。
壱・了/続→弐 2008.07.26.