連作「天涯の遊子」の番外、坂桂篇。其の二。
坂本と桂。と、坂本 in エリザベス。
ヅラ誕 2008、in エリー番外三部作予定の序。
微エロあり、注意。R15で。
逃げおおせたと踏んだ桂が、速度をゆるめてエリザベスを振り返る。梅雨の晴れ間の月明かりが憎い。黄色い水掻きのない足もとを、まじまじと桂は見つめた。ほんのわずか眸が見開かれ、ゆっくりと眇められる。背中に冷たいものが流れるのを坂本は感じた。
桂が腰のものに手を掛ける。
「貴様、エリザベスではないな」
鯉口を切った。
「あの愛らしい生きものになりすますなど、言語道断。姿を見せろ。いや、もう、そこに直れ。ただちに成敗してくれる」
すらりと抜かれた冴えた刀身が、月光に冷たく光った。
こうなってしまっては、桂の憤りを鎮めるすべはほかにない。坂本に取れる手段はひとつだ。不安定な屋根の上に膝をつき手を挙げ、周章てて平伏する。
「わ。待っとおせ。わしちや、わし。桂さん」
桂の眸が、こんどはまぁるく見開かれる。
「…坂本?」
その声に、坂本は急いでエリぐるみの口から顔を出す。桂が呆れたような顔になった。
「エリザベスはどうした。貴様、エリザベスをどこにやったのだ」
抜き身を鞘に収めながら、それでもまだ不審も露わな桂の口調に、坂本はひたすら低姿勢で詫びた。
「超過勤務につき、休暇やか。わしが代わろうと持ちかけた」
桂は、砂を嚼んだように、口許を歪めた。
「それならそうと、なぜ云わん。ひとを謀(たばか)るとは。気の利かぬ主人だと、エリザベスにももうしわけが立たぬではないか」
「ステファンは不満など漏らしちゃーせん。わしが勝手に」
「ステファンではない、エリザベスだ」
云いながら、桂はつかつかと坂本のそばに寄る。この傾斜のきつい屋根の上で些かも危なげのない足取りは、さすがとしか云いようがない。内心感心する坂本の、目のまえでしゃがみ込んだ。
「出せ」
「は?」
「足だ。診せてみろ。痛めたのだろう?」
坂本がおっかなびっくり足を投げ出すと、桂はその足首をつかんで荒っぽく持ちあげた。
「わっ」
バランスを崩して転げ落ちそうになるのをなんとか怺える。
「怒っちゅうか、桂さん」
「そうではないが。貴様がエリザベスを思ってしてくれたことに怒れるはずもないのだが」
そういいながらも、まだ納得がいきかねているのは、常より手荒なしぐさでわかる。あっさり坂本の言を容れてしまった桂に、些と気が咎めた。嘘は吐いていないが、ぜんぶを話したわけではない。というか本来の目的はむしろ、明かしていない部分にある。
桂は、風呂敷包みにしのばせた軟膏を坂本の足の裏の傷口に塗り、手拭いを細く裂いて、くるくると巻いて縛った。戦時を思い起こさせる桂の手慣れた手当てに、甘いようなこそばゆいようなものを憶えて、坂本は両の手を屋根につき、天を仰いで息を吐く。
「あーあ。あとちっくとじゃったがやきな」
「なにがだ」
ぽん、と治療を終えた足を叩いて、桂が坂本を促す。立ち上がってようすを見ると、痛みはわずかで、これなら屋根の上でも歩けそうだった。
* * *
屋根づたいに町を抜け、別の隠れ家へと桂は坂本を導いた。更待月が高く昇って、西の空へと傾く。
「そろそろかぇ」
隠れ家の潜り戸を抜けながら坂本が見あげて呟いたのを、桂が聞き咎めた。
「だから、なんなのだ。さっきから」
「まだわからんがか」
坂本は常の豪快な笑い顔ではなく、ふわりと笑んで、桂の手を取る。
「誕生日おめでとう、こたろ」
その甲に接吻を落とした。
備え付けの家財道具だけのこざっぱりした一軒家に身を落ち着けて、桂は手持ちの荷から浴衣を取りだして、坂本を着替えさせた。
「おれのものだから、裄も丈も足りぬだろうが」
それでも和装のいいところは、体格差があろうと多少の融通は利くところだ。ほんのり桂の移り香のする浴衣に袖を通しながら、坂本は少ない前身頃の合わせを帯紐で締めて体裁を保って、その袖に鼻を埋めた。
桂が眉を顰める。
「ちゃんと洗ってあるぞ」
「莫迦、そうがやない。こたろのかざがするがだ。いっそ、洗ってのうてもかまん…あてっ」
ぽかり、と桂に殴られる。
「この、莫迦本」
「すまんかったの。ステファンになって、ステファンにしか見せない、やわらかぇ桂さんを見たかったがだ」
こんどは素直にいまひとつの理由を明かして、坂本はあたまを下げた。だが明かせるのはここまでだ。あとひとつの目的は快援隊の機密に関わる。たとえ桂にであっても、むしろ桂だからこそ、告げるわけにはいかなかった。
「ほき、誕生日を祝ってやりたかった。やけど、わしとおるよりステファンと過ごすほうが小太郎も幸せなんやかと思って」
と、つづけた坂本のことばに、桂は呆れたように息を吐いた。
「ほんとに、莫迦だ。貴様は」
だがその声音は、どこか愛おしさを含んでもいて、耳に心地いい。
「生まれた日など忘れていたが、エリザベスになりすますなどせずとも。おれは貴様をいつでも歓迎するぞ、辰馬」
軽く睨みつけるしぐさで、でもその眸は笑んでいて。
「それで腑に落ちた。どうも妙だと感じたのは貴様だったからだ。貴様の持つ気に、おれの気が緩んだのだ」
それはつまり、坂本と居ると寛げると云うことで。
じーーーーーーん。
と、書き文字ででっかく書きたくなるような表情を浮かべた坂本に、桂は照れ隠しか、また、ぽかりと坂本のあたまを叩いた。
その手を取って、胸もとに引き寄せる。桂は抗わず、坂本の腕の中に納まった。
「ならば存分に、羽を伸ばしたらええ」
朱唇に寄せた口唇で、坂本はそう囁いた。
やわらかな口唇を食みながら、それが濡れて紅く色付くのを目でたのしむ。間近に、伏せられた長い睫が震えた。その瞼にも接吻を落として、眼球のふくらみをたしかめるように舌でなぞり、口唇で吸いあげる。と、ふいに桂の口許がほころんで、くすくすと笑む声が漏れでた。
「なちや、こたろ?」
「目の玉を飴玉にでもされたようだ」
瞼を閉じたまま坂本を見あげて、なおもくすくす笑いは零れつづける。そのしぐさがかわいらしいのと憎らしいのとで、坂本は、かり、と力を入れずに桂の眼窩に歯を当てた。
「おんしを飴玉にしちゅうのは、わしがやないろう」
「飴玉は好かぬか。なら、おれはなんだ。辰馬には」
おとなしく坂本の腕に納まったまま顔中に接吻を受けていた桂は、坂本の胸に置いていた手をするりと伸ばして、胴に絡めた。さらさらとわずかに弛んだ夜着の袂が坂本に触れて欲を誘(いざな)う。その背を撫で上げて、坂本は桂の耳朶を咬んだ。
そのまま吐息を吹き込むようにして、坂本は桂を煽りながら、呟く。
「こたろは、わしの… 」
ぴくりと、桂の背が揺れた。空気の振動だけで耳に直に吹き込まれたことばに、知らず眸を見開いて、桂が坂本を見つめる。その眸がせつなげな色にゆがんだ。困惑しながらも悦び、満たされながらも心悲しい。
「貴様は、莫迦だ」
桂は眸を伏せ、うつむいた顔を坂本の肩口に押し付けた。
「そうやろうかぁ。ほきもかまんよ」
坂本はあくまで屈託がない。桂の手がぎゅっと、坂本の浴衣の背をつかんだ。
「貸すのではなかった」
「うん?」
「この浴衣を着るたびに、当分はきょうの貴様を思い出す」
「ほりゃあ、ええ。その間わしは小太郎の傍におるということと、ぶっちゅうやか」
そう笑う坂本の、浴衣の肩の生地越しに、桂が思い切り歯を立てた。
「あいたっ」
「この、極楽とんぼが」
貴様が居らぬのに、貴様の影だけ在っては、辛くなるではないか。
まっすぐ目を見て拗ねたように紡がれたことばに、坂本は一瞬ことばを失くした。こんなふうに桂が甘えてくるなど、ついぞない。こりゃあーやっぱり、ステファンもといエリザベス効果ろうか、と、ついつい脂下がる。その坂本の内心を見透かしたか、桂はまた歯を立て咬んだ。
続 2008.06.05.
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逃げおおせたと踏んだ桂が、速度をゆるめてエリザベスを振り返る。梅雨の晴れ間の月明かりが憎い。黄色い水掻きのない足もとを、まじまじと桂は見つめた。ほんのわずか眸が見開かれ、ゆっくりと眇められる。背中に冷たいものが流れるのを坂本は感じた。
桂が腰のものに手を掛ける。
「貴様、エリザベスではないな」
鯉口を切った。
「あの愛らしい生きものになりすますなど、言語道断。姿を見せろ。いや、もう、そこに直れ。ただちに成敗してくれる」
すらりと抜かれた冴えた刀身が、月光に冷たく光った。
こうなってしまっては、桂の憤りを鎮めるすべはほかにない。坂本に取れる手段はひとつだ。不安定な屋根の上に膝をつき手を挙げ、周章てて平伏する。
「わ。待っとおせ。わしちや、わし。桂さん」
桂の眸が、こんどはまぁるく見開かれる。
「…坂本?」
その声に、坂本は急いでエリぐるみの口から顔を出す。桂が呆れたような顔になった。
「エリザベスはどうした。貴様、エリザベスをどこにやったのだ」
抜き身を鞘に収めながら、それでもまだ不審も露わな桂の口調に、坂本はひたすら低姿勢で詫びた。
「超過勤務につき、休暇やか。わしが代わろうと持ちかけた」
桂は、砂を嚼んだように、口許を歪めた。
「それならそうと、なぜ云わん。ひとを謀(たばか)るとは。気の利かぬ主人だと、エリザベスにももうしわけが立たぬではないか」
「ステファンは不満など漏らしちゃーせん。わしが勝手に」
「ステファンではない、エリザベスだ」
云いながら、桂はつかつかと坂本のそばに寄る。この傾斜のきつい屋根の上で些かも危なげのない足取りは、さすがとしか云いようがない。内心感心する坂本の、目のまえでしゃがみ込んだ。
「出せ」
「は?」
「足だ。診せてみろ。痛めたのだろう?」
坂本がおっかなびっくり足を投げ出すと、桂はその足首をつかんで荒っぽく持ちあげた。
「わっ」
バランスを崩して転げ落ちそうになるのをなんとか怺える。
「怒っちゅうか、桂さん」
「そうではないが。貴様がエリザベスを思ってしてくれたことに怒れるはずもないのだが」
そういいながらも、まだ納得がいきかねているのは、常より手荒なしぐさでわかる。あっさり坂本の言を容れてしまった桂に、些と気が咎めた。嘘は吐いていないが、ぜんぶを話したわけではない。というか本来の目的はむしろ、明かしていない部分にある。
桂は、風呂敷包みにしのばせた軟膏を坂本の足の裏の傷口に塗り、手拭いを細く裂いて、くるくると巻いて縛った。戦時を思い起こさせる桂の手慣れた手当てに、甘いようなこそばゆいようなものを憶えて、坂本は両の手を屋根につき、天を仰いで息を吐く。
「あーあ。あとちっくとじゃったがやきな」
「なにがだ」
ぽん、と治療を終えた足を叩いて、桂が坂本を促す。立ち上がってようすを見ると、痛みはわずかで、これなら屋根の上でも歩けそうだった。
* * *
屋根づたいに町を抜け、別の隠れ家へと桂は坂本を導いた。更待月が高く昇って、西の空へと傾く。
「そろそろかぇ」
隠れ家の潜り戸を抜けながら坂本が見あげて呟いたのを、桂が聞き咎めた。
「だから、なんなのだ。さっきから」
「まだわからんがか」
坂本は常の豪快な笑い顔ではなく、ふわりと笑んで、桂の手を取る。
「誕生日おめでとう、こたろ」
その甲に接吻を落とした。
備え付けの家財道具だけのこざっぱりした一軒家に身を落ち着けて、桂は手持ちの荷から浴衣を取りだして、坂本を着替えさせた。
「おれのものだから、裄も丈も足りぬだろうが」
それでも和装のいいところは、体格差があろうと多少の融通は利くところだ。ほんのり桂の移り香のする浴衣に袖を通しながら、坂本は少ない前身頃の合わせを帯紐で締めて体裁を保って、その袖に鼻を埋めた。
桂が眉を顰める。
「ちゃんと洗ってあるぞ」
「莫迦、そうがやない。こたろのかざがするがだ。いっそ、洗ってのうてもかまん…あてっ」
ぽかり、と桂に殴られる。
「この、莫迦本」
「すまんかったの。ステファンになって、ステファンにしか見せない、やわらかぇ桂さんを見たかったがだ」
こんどは素直にいまひとつの理由を明かして、坂本はあたまを下げた。だが明かせるのはここまでだ。あとひとつの目的は快援隊の機密に関わる。たとえ桂にであっても、むしろ桂だからこそ、告げるわけにはいかなかった。
「ほき、誕生日を祝ってやりたかった。やけど、わしとおるよりステファンと過ごすほうが小太郎も幸せなんやかと思って」
と、つづけた坂本のことばに、桂は呆れたように息を吐いた。
「ほんとに、莫迦だ。貴様は」
だがその声音は、どこか愛おしさを含んでもいて、耳に心地いい。
「生まれた日など忘れていたが、エリザベスになりすますなどせずとも。おれは貴様をいつでも歓迎するぞ、辰馬」
軽く睨みつけるしぐさで、でもその眸は笑んでいて。
「それで腑に落ちた。どうも妙だと感じたのは貴様だったからだ。貴様の持つ気に、おれの気が緩んだのだ」
それはつまり、坂本と居ると寛げると云うことで。
じーーーーーーん。
と、書き文字ででっかく書きたくなるような表情を浮かべた坂本に、桂は照れ隠しか、また、ぽかりと坂本のあたまを叩いた。
その手を取って、胸もとに引き寄せる。桂は抗わず、坂本の腕の中に納まった。
「ならば存分に、羽を伸ばしたらええ」
朱唇に寄せた口唇で、坂本はそう囁いた。
やわらかな口唇を食みながら、それが濡れて紅く色付くのを目でたのしむ。間近に、伏せられた長い睫が震えた。その瞼にも接吻を落として、眼球のふくらみをたしかめるように舌でなぞり、口唇で吸いあげる。と、ふいに桂の口許がほころんで、くすくすと笑む声が漏れでた。
「なちや、こたろ?」
「目の玉を飴玉にでもされたようだ」
瞼を閉じたまま坂本を見あげて、なおもくすくす笑いは零れつづける。そのしぐさがかわいらしいのと憎らしいのとで、坂本は、かり、と力を入れずに桂の眼窩に歯を当てた。
「おんしを飴玉にしちゅうのは、わしがやないろう」
「飴玉は好かぬか。なら、おれはなんだ。辰馬には」
おとなしく坂本の腕に納まったまま顔中に接吻を受けていた桂は、坂本の胸に置いていた手をするりと伸ばして、胴に絡めた。さらさらとわずかに弛んだ夜着の袂が坂本に触れて欲を誘(いざな)う。その背を撫で上げて、坂本は桂の耳朶を咬んだ。
そのまま吐息を吹き込むようにして、坂本は桂を煽りながら、呟く。
「こたろは、わしの… 」
ぴくりと、桂の背が揺れた。空気の振動だけで耳に直に吹き込まれたことばに、知らず眸を見開いて、桂が坂本を見つめる。その眸がせつなげな色にゆがんだ。困惑しながらも悦び、満たされながらも心悲しい。
「貴様は、莫迦だ」
桂は眸を伏せ、うつむいた顔を坂本の肩口に押し付けた。
「そうやろうかぁ。ほきもかまんよ」
坂本はあくまで屈託がない。桂の手がぎゅっと、坂本の浴衣の背をつかんだ。
「貸すのではなかった」
「うん?」
「この浴衣を着るたびに、当分はきょうの貴様を思い出す」
「ほりゃあ、ええ。その間わしは小太郎の傍におるということと、ぶっちゅうやか」
そう笑う坂本の、浴衣の肩の生地越しに、桂が思い切り歯を立てた。
「あいたっ」
「この、極楽とんぼが」
貴様が居らぬのに、貴様の影だけ在っては、辛くなるではないか。
まっすぐ目を見て拗ねたように紡がれたことばに、坂本は一瞬ことばを失くした。こんなふうに桂が甘えてくるなど、ついぞない。こりゃあーやっぱり、ステファンもといエリザベス効果ろうか、と、ついつい脂下がる。その坂本の内心を見透かしたか、桂はまた歯を立て咬んだ。
続 2008.06.05.
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