「天涯の遊子」土桂篇。
土方と桂。と、高杉。 山崎、沖田、銀時、ほかも。
動乱篇以降、攘夷志士試験の後日。
其の五。土方、沖田、高杉、エリザベス。
非番の自分を呼び出すなど、ただごとではない。結局あの場に桂を残すことになって、土方は歯嚙みした。
あからさまに安堵して、おつとめごくろーさん、などと抜かしてへらりと笑ってみせた万事屋に、土方はあやうく抜刀するところだった。桂は桂で、お役所づとめの悲哀だな、忠勤に励めよ。などと攘夷志士にあるまじき同情をする。あのまま万事屋のもとにとどまったのか、忙しい身とてあっさり帰ったのか、土方には知るよしもない。
だが、ことがことだけに、土方が外すわけにはいかなかったのだ。場違いな軽快音とともにもたらされたのは、不測の一報だった。土方は耳にしたその名を口にするのを避け、桂にはただ急な任務が入ったとだけ告げた。
高杉晋助、潜伏滞在の報。電話の向こうの山崎はいささか興奮気味だった。頻繁に江戸界隈に出没する桂と違い、宙船でこの国の上空に滞在しているらしい高杉の、江戸での潜伏情報が入るのは極めて稀なことだったから、無理もない。桂にとっては、そしておそらくは万事屋にとっても、攘夷をともに闘った高杉は特別な存在だろう。いま知られるのは拙い、という咄嗟の判断が土方の脳裡に下っていた。
先の叛乱で土方がおのが手に掛けたいのちは、未来永劫この手に刻み込まれる。伊東鴨太郎の裏切りは真選組にとって許されるべきことではなかったが、裏で糸を引いた高杉には、幕府の指名手配犯という枠を超えた真選組としての遺恨がある。高杉配下の河上に見逃されるかたちで、救われた山崎の身命を思えば酌量の余地もあろうが、それで恥辱を雪げるわけもない。
だがこのときはまだ、土方個人に高杉への私怨はなかった。桂のときと同様に、じかに見(まみ)えたことのない高杉もまた、土方にとっては書類上の存在に過ぎなかった。
「真選組だ。御用改めである!」
料亭旅館の二階奥。忍び足から一転、がらりとその座敷の障子を開け放つ。
「ちっ」
思わず舌打ちが出たのは、そこがもぬけの殻だったからだ。だが部屋には刻み煙草の残り香が漂い、開け放たれた出窓の脚もとには埋み火の残る煙草盆。ついいましがたまでたしかにここにいたのは疑いようもなく。出窓は川面に面していて、階下は川縁の草深い土手に続いている。河川敷の上手下手にも隊士は張り込ませてある。必ず網に引っかかるはずだ。
だが、ほぼときをおなじくして起こった騒動に、土方は耳を疑った。
「船上に桂がいます!」
莫迦な。
土方の無言のひと睨み、その剣幕にたじろいだ隊士のひとりが、あわてて云い添える。
「いや、あの。桂といつもともにいる、白いばけものの姿が、そこに」
指さしたのは、そこからやや上流域、本流と支流との合流点に浮かぶ屋形船。その船窓に、縁日の土産ものではない、白ペンギンもどきの姿があった。
部隊はにわかに騒然となった。
「まさか、高杉の脱出を手引きしたのでは」
「穏健派の桂一派と過激武闘派の鬼兵隊とは、とうに決裂しているんだぞ」
「桂の姿は確認できていません」
「別報です! 本日、船上で攘夷穏健派の会合が開かれていたと」
憶測と情報とが錯綜し、ふたりの大物テロリストを眼前にした昂奮で、隊士たちが混乱に陥る。土方が一括した。
「落ち着け! 桂は船にはいねぇ。いま捕らえるべきは高杉だ」
そうしておいて、張り込ませた隊にそれぞれ指示を出す。迫る夕闇に、浮き足立ちかけた隊の統制を取り直すと、自らも急遽回させた巡視艇へと向かう。ここまで同行していた沖田の一番隊はより広域となる河川敷下流側に回され、配置に向かいかけた沖田がひとりごちた。
「どうして、桂がいねぇと断言できるんでィ。土方さん」
沖田の呟きには知らぬそぶりを決め込んで、土方は桟橋とへ向かう。沖田の視線が暗に、非番に桂と会っていたのか、と問うていた。ほんのついさっきまでいっしょにいたのか、と。その色合いが詰責ではなく嫉視であったことに、巡視艇に乗り込んだあとになって土方は気づいた。
河川敷の上手からも下手からも高杉発見の報はなく、対岸に逃げたのなら、渡るには橋か船しか手段はない。料亭を挟むかたちで至近の橋は押さえてあったから、残りはやはり船か。わずかな混乱の隙をついて、白ペンギンを乗せた屋形船は宵の川面に姿を眩ませていた。水上交通の要所であるから船舶の往来は頻繁で、どの灯りがどの船かの見分けなど容易にはつかない。別の船宿にでも着けられたら仕舞いだ。そうした引き込みのための水路など、無数にある。そのすべてをしらみつぶしにするのは現実的にみて不可能だった。
もたらされた情報で、高杉が単独での潜行であることは確認されている。河川上に逃げ場を確保するには、船はもちろん相応の人員も必要だ。むろんその可能性を捨ててはいなかったが、低いと考えていたことは否めない。まして、攘夷派の会合の船とかち合わせるなど、だれが想像しえようか。桂が白ペンギンにまかせたという会合が船上であることを、小耳にでも挟んでいたのならともかく。そこまで考えて、土方は思わず自らのうかつさを罵った。
失念していた。
非番の副長が緊急に呼び出される。それが重大事だと、桂や万事屋が察せないわけがなかったのだ。まさか高杉絡みとまでは思わなくとも、当然のこと桂には、派の会合と同志の安否を気遣う事由になる。土方が去ってすぐ、代理の白ペンギンに連絡を入れたはずだ。その白ペンギンが真選組の動静を警戒していたなら。潜伏先の料亭を囲むことそのものには慎重を期しても、その準備を端から見られていたなら、なにかが起こっていることくらい素人でもわかる。ましてそうしたことに慣れたものの目からすれば、捕り物であることなど一目瞭然だったろう。
そして標的が高杉と知れれば。袂を別ちいまは敵対したとはいっても、真選組と秤にかければ、みすみす見殺しにはするまい。土方には攘夷派の内実など知りようがないから、現状、そう判断を下すしかなかった。
巡視艇の機関音が夜の静寂(しじま)を裂く。そうして高杉捕縛を諦めざるをえず、土方の胸に苦い澱のようなものが残された。
高杉をあの場から救ったのが、白ペンギン、すなわち桂の一派であるなら。そのままあっさりと高杉が宥恕されるものだろうか。鬼兵隊に返すにしても、いったん袂を別ったあいてなら相応の取り引きが行われるのがふつうではないか。ではその間、高杉をどこに留め置くだろう。鬼兵隊の総督を下手な場所にはおけまい。と、なれば。過去の経緯を鑑みても、桂の手許と考えるのが自然で、妥当な線だった。
桂の隠れ家、か。江戸に散在するといわれるそれらを、見つけ出し、さらに匿っている場を特定するのは至難の業だ。というかそれができるくらいなら、とうに桂を捕らえている。
おのれの思考の虚しさに気づいて、土方は紫煙を吐き出した。
甲板から覗き込む水面(みなも)は昏く、舳先に掻き分けられ波立った水紋に映る煙草の緋い火が見え隠れする。そのゆらゆらと明滅する小さな光点を土方は眺めるともなしに眺めていた。
どうにも、気に入らない。
高杉といい、万事屋といい、攘夷戦争の生き残りはどこかしら、いまも深いところで桂と繋がっている。
桂との追走劇を繰り広げる際の、常日頃の白ペンギンの行動から察するに、あれが桂の意に沿わぬことをするとは思えない。つまるところ、高杉を助けても、桂は怒らない。いや、むしろ。表向きはどうあれ、桂ならばそうしたであろうことを、知っていたからではなかったか。
めったにないと思われた高杉江戸潜伏の報は、だがその後ももたらされた。それも、真選組を馬鹿にしているのではないかと思われるほどの頻度で、である。
江戸の民は攘夷派に好意的なものが多いから、頻繁に出歩いていると思われる桂でも、ほとんど目撃情報は出てこない。穏健派の党首と過激派の総督と、民衆感情の違いを差し引いても、ここまで上がってくるというのは。
そこに高杉のなにがしかの示威のようなものが感じられて、土方は考え込んだ。
伊東を通じて真選組を攪乱した高杉ではあるが、本気で潰そうとしたのかどうかが、いまひとつわからない。山崎を助けたことが河上の一存であったらしいことは、救われた山崎本人の口から聞かされた仔細で、察せられるのだが。
高杉が河上の手綱を取り切れていないのか、もともとその気がないのか。
鬼兵隊は攘夷過激派思想のもと高杉のカリスマひとつでまとまっている組織ともいえるから、人斬り万斉とはいえ、高杉自身が手討ちにでも、沙汰して処断をでもできるだろう。そうした話も上がっては来ないから、高杉がそもそもどの程度の手駒と思って、河上を使っていたのかもわからなくなってくる。
そうした敵の内情がさっぱり伝わってこないのに、その首魁の動向だけが漏れ聞こえてくるというのは気味が悪い。鬼兵隊の拠点は宙船にあるのだから、情報の頻度から見ても、やはり高杉はこの江戸の町のどこか。依然、桂のもとに在るのだと思えてならなかった。
続 2008.07.02.
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非番の自分を呼び出すなど、ただごとではない。結局あの場に桂を残すことになって、土方は歯嚙みした。
あからさまに安堵して、おつとめごくろーさん、などと抜かしてへらりと笑ってみせた万事屋に、土方はあやうく抜刀するところだった。桂は桂で、お役所づとめの悲哀だな、忠勤に励めよ。などと攘夷志士にあるまじき同情をする。あのまま万事屋のもとにとどまったのか、忙しい身とてあっさり帰ったのか、土方には知るよしもない。
だが、ことがことだけに、土方が外すわけにはいかなかったのだ。場違いな軽快音とともにもたらされたのは、不測の一報だった。土方は耳にしたその名を口にするのを避け、桂にはただ急な任務が入ったとだけ告げた。
高杉晋助、潜伏滞在の報。電話の向こうの山崎はいささか興奮気味だった。頻繁に江戸界隈に出没する桂と違い、宙船でこの国の上空に滞在しているらしい高杉の、江戸での潜伏情報が入るのは極めて稀なことだったから、無理もない。桂にとっては、そしておそらくは万事屋にとっても、攘夷をともに闘った高杉は特別な存在だろう。いま知られるのは拙い、という咄嗟の判断が土方の脳裡に下っていた。
先の叛乱で土方がおのが手に掛けたいのちは、未来永劫この手に刻み込まれる。伊東鴨太郎の裏切りは真選組にとって許されるべきことではなかったが、裏で糸を引いた高杉には、幕府の指名手配犯という枠を超えた真選組としての遺恨がある。高杉配下の河上に見逃されるかたちで、救われた山崎の身命を思えば酌量の余地もあろうが、それで恥辱を雪げるわけもない。
だがこのときはまだ、土方個人に高杉への私怨はなかった。桂のときと同様に、じかに見(まみ)えたことのない高杉もまた、土方にとっては書類上の存在に過ぎなかった。
「真選組だ。御用改めである!」
料亭旅館の二階奥。忍び足から一転、がらりとその座敷の障子を開け放つ。
「ちっ」
思わず舌打ちが出たのは、そこがもぬけの殻だったからだ。だが部屋には刻み煙草の残り香が漂い、開け放たれた出窓の脚もとには埋み火の残る煙草盆。ついいましがたまでたしかにここにいたのは疑いようもなく。出窓は川面に面していて、階下は川縁の草深い土手に続いている。河川敷の上手下手にも隊士は張り込ませてある。必ず網に引っかかるはずだ。
だが、ほぼときをおなじくして起こった騒動に、土方は耳を疑った。
「船上に桂がいます!」
莫迦な。
土方の無言のひと睨み、その剣幕にたじろいだ隊士のひとりが、あわてて云い添える。
「いや、あの。桂といつもともにいる、白いばけものの姿が、そこに」
指さしたのは、そこからやや上流域、本流と支流との合流点に浮かぶ屋形船。その船窓に、縁日の土産ものではない、白ペンギンもどきの姿があった。
部隊はにわかに騒然となった。
「まさか、高杉の脱出を手引きしたのでは」
「穏健派の桂一派と過激武闘派の鬼兵隊とは、とうに決裂しているんだぞ」
「桂の姿は確認できていません」
「別報です! 本日、船上で攘夷穏健派の会合が開かれていたと」
憶測と情報とが錯綜し、ふたりの大物テロリストを眼前にした昂奮で、隊士たちが混乱に陥る。土方が一括した。
「落ち着け! 桂は船にはいねぇ。いま捕らえるべきは高杉だ」
そうしておいて、張り込ませた隊にそれぞれ指示を出す。迫る夕闇に、浮き足立ちかけた隊の統制を取り直すと、自らも急遽回させた巡視艇へと向かう。ここまで同行していた沖田の一番隊はより広域となる河川敷下流側に回され、配置に向かいかけた沖田がひとりごちた。
「どうして、桂がいねぇと断言できるんでィ。土方さん」
沖田の呟きには知らぬそぶりを決め込んで、土方は桟橋とへ向かう。沖田の視線が暗に、非番に桂と会っていたのか、と問うていた。ほんのついさっきまでいっしょにいたのか、と。その色合いが詰責ではなく嫉視であったことに、巡視艇に乗り込んだあとになって土方は気づいた。
河川敷の上手からも下手からも高杉発見の報はなく、対岸に逃げたのなら、渡るには橋か船しか手段はない。料亭を挟むかたちで至近の橋は押さえてあったから、残りはやはり船か。わずかな混乱の隙をついて、白ペンギンを乗せた屋形船は宵の川面に姿を眩ませていた。水上交通の要所であるから船舶の往来は頻繁で、どの灯りがどの船かの見分けなど容易にはつかない。別の船宿にでも着けられたら仕舞いだ。そうした引き込みのための水路など、無数にある。そのすべてをしらみつぶしにするのは現実的にみて不可能だった。
もたらされた情報で、高杉が単独での潜行であることは確認されている。河川上に逃げ場を確保するには、船はもちろん相応の人員も必要だ。むろんその可能性を捨ててはいなかったが、低いと考えていたことは否めない。まして、攘夷派の会合の船とかち合わせるなど、だれが想像しえようか。桂が白ペンギンにまかせたという会合が船上であることを、小耳にでも挟んでいたのならともかく。そこまで考えて、土方は思わず自らのうかつさを罵った。
失念していた。
非番の副長が緊急に呼び出される。それが重大事だと、桂や万事屋が察せないわけがなかったのだ。まさか高杉絡みとまでは思わなくとも、当然のこと桂には、派の会合と同志の安否を気遣う事由になる。土方が去ってすぐ、代理の白ペンギンに連絡を入れたはずだ。その白ペンギンが真選組の動静を警戒していたなら。潜伏先の料亭を囲むことそのものには慎重を期しても、その準備を端から見られていたなら、なにかが起こっていることくらい素人でもわかる。ましてそうしたことに慣れたものの目からすれば、捕り物であることなど一目瞭然だったろう。
そして標的が高杉と知れれば。袂を別ちいまは敵対したとはいっても、真選組と秤にかければ、みすみす見殺しにはするまい。土方には攘夷派の内実など知りようがないから、現状、そう判断を下すしかなかった。
巡視艇の機関音が夜の静寂(しじま)を裂く。そうして高杉捕縛を諦めざるをえず、土方の胸に苦い澱のようなものが残された。
高杉をあの場から救ったのが、白ペンギン、すなわち桂の一派であるなら。そのままあっさりと高杉が宥恕されるものだろうか。鬼兵隊に返すにしても、いったん袂を別ったあいてなら相応の取り引きが行われるのがふつうではないか。ではその間、高杉をどこに留め置くだろう。鬼兵隊の総督を下手な場所にはおけまい。と、なれば。過去の経緯を鑑みても、桂の手許と考えるのが自然で、妥当な線だった。
桂の隠れ家、か。江戸に散在するといわれるそれらを、見つけ出し、さらに匿っている場を特定するのは至難の業だ。というかそれができるくらいなら、とうに桂を捕らえている。
おのれの思考の虚しさに気づいて、土方は紫煙を吐き出した。
甲板から覗き込む水面(みなも)は昏く、舳先に掻き分けられ波立った水紋に映る煙草の緋い火が見え隠れする。そのゆらゆらと明滅する小さな光点を土方は眺めるともなしに眺めていた。
どうにも、気に入らない。
高杉といい、万事屋といい、攘夷戦争の生き残りはどこかしら、いまも深いところで桂と繋がっている。
桂との追走劇を繰り広げる際の、常日頃の白ペンギンの行動から察するに、あれが桂の意に沿わぬことをするとは思えない。つまるところ、高杉を助けても、桂は怒らない。いや、むしろ。表向きはどうあれ、桂ならばそうしたであろうことを、知っていたからではなかったか。
めったにないと思われた高杉江戸潜伏の報は、だがその後ももたらされた。それも、真選組を馬鹿にしているのではないかと思われるほどの頻度で、である。
江戸の民は攘夷派に好意的なものが多いから、頻繁に出歩いていると思われる桂でも、ほとんど目撃情報は出てこない。穏健派の党首と過激派の総督と、民衆感情の違いを差し引いても、ここまで上がってくるというのは。
そこに高杉のなにがしかの示威のようなものが感じられて、土方は考え込んだ。
伊東を通じて真選組を攪乱した高杉ではあるが、本気で潰そうとしたのかどうかが、いまひとつわからない。山崎を助けたことが河上の一存であったらしいことは、救われた山崎本人の口から聞かされた仔細で、察せられるのだが。
高杉が河上の手綱を取り切れていないのか、もともとその気がないのか。
鬼兵隊は攘夷過激派思想のもと高杉のカリスマひとつでまとまっている組織ともいえるから、人斬り万斉とはいえ、高杉自身が手討ちにでも、沙汰して処断をでもできるだろう。そうした話も上がっては来ないから、高杉がそもそもどの程度の手駒と思って、河上を使っていたのかもわからなくなってくる。
そうした敵の内情がさっぱり伝わってこないのに、その首魁の動向だけが漏れ聞こえてくるというのは気味が悪い。鬼兵隊の拠点は宙船にあるのだから、情報の頻度から見ても、やはり高杉はこの江戸の町のどこか。依然、桂のもとに在るのだと思えてならなかった。
続 2008.07.02.
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