「天涯の遊子」土桂篇。
土方と桂。と、高杉。 山崎、沖田、銀時、ほかも。
動乱篇以降、攘夷志士試験の後日。
其の六。土方、高杉、桂。
桂が高杉を匿う、という憶測でしかない現実に土方は囚われている。
名残惜しいままに中断された逢瀬が、またすぐにも桂に会いたいという情動を生む。だがいま会えば、土方はおのれの推量を確かめずにはいられなくなるだろう。それが職務意識のなせるわざなのか単なる妬心からくるものなのか、土方には判断がつかなかった。こんな状態で会えるわけもない。会うべきではない。だが会いたい。会いたくてたまらない。鬩ぎあいは堂々巡りとなって、土方の裡で激しく渦を巻く。
会ってたわいのない話をし、おなじ時間を過ごすだけでも、いまの土方は満たされる。桂と過ごした縁日のわずかばかりのひとときは、そのおもいをつよくさせた。なのに状況は、ときにそれすらを奪うのだ。
敵将に恋着を抱いたときから覚悟していたはずのことが、土方に重くのし掛かっていた。
* * *
江戸での真選組の任務は多岐にわたる。
市井の揉め事から将軍のお忍びの警護まで、そのつど駆り出されるのだからけっこう忙しい。その忙しさが、いまの土方にはありがたかった。
物理的な時間がなければ、会えないことへの理由も諦めもつく。出口のない懊悩に苦しむこともない。高杉の潜伏情報に触れるたび胸の奥でなにかが軋んだが、あれ以降情報は空振りであることが多く、しだいに真選組もそれを大事と捉えなくなった。少々思い過ごしが勝ったか。考えすぎていたようだ。土方にもついそんな心持ちがよぎる。
それが油断に繋がった。
またガセか。そう思いながらわずかばかりの手勢を率いて、土方が向かったその場所に、高杉はいた。
初めて至近でその姿を捉える。
友禅かなにかの派手な女物、あるいは役者の舞台衣裳のような、着流し姿。顔半分を白い布で覆われて、爪弾くのは三味線。片足立ちに腰掛けた階上の窓から、呑気にその姿をさらしていた。
いわゆる出逢い茶屋と呼ばれるたぐいの店で、向こうは向こうで油断していたのかもしれない。あるいは手勢の少なさが吉と出たものか。まだ気づかれていないようだ。
ひとりをその場の見張りに、ひとりを搦め手の見張りに回して、残るひとりを屯所へと走らせた。その場で携帯で知らせなかったのは、その気配を覚られたくなかったことと、なにより土方が、一対一で高杉と見(まみ)えてみたいと思ったからにほかならない。
それが好奇心や功名心からではないということに、土方自身気づいている。
桂のせいだ。桂と過去を共有するのは万事屋だけではなく、このおとこもなのだ。妖刀紅桜に斬られた桂が熱に浮かされて呟いた名を、土方は忘れていなかった。忘れることなどできなかった。
ぎん。しんすけ。たつま。
妙に幼さの残る声で紡がれた、三つの名。それは桂のこころの奥底に、深く根ざすもののはずだったから。
座敷の障子をからりと開け放つ。高杉は逃げる気配もなく、音のした方向をわずかに見返っただけだ。
「御用改めである」
常とは違い淡々と告げた土方に、高杉が片頬を歪ませて笑んだ。
「ずいぶんと、また、刻(とき)が掛かったじゃねぇか」
そのもの云いにも、土方は驚かなかった。どこかで、そんな予感があった。高杉の動静に示威的なものを感じたときから、それがだれ宛にせよ、真選組へ向けられたものであるような気がしてならなかった。
「俺に、だったのかい」
すでに鯉口は切られている。いつでも抜ける体勢だ。
高杉は爪弾いていた三味線を窓枠の横の壁に立てかけた。となりに立てかけてあった刀には目もくれず、足もとの煙草盆をつかんで、煙管に火を入れる。さも美味そうに一服喫って天に向かって吐き出した。
「紙巻きより、俺ぁこっちだがね」
「あいにくと田舎育ちなもんでな。煙管で優雅に刻み煙草なんざ、柄じゃねえんだ」
云って土方は、片手で器用に煙草を取りだし口に銜えて火を点けた。
「田舎もんねぇ。ついでに、武家でもないのに刀振り回してんのかい」
「もとは上士の御曹司が、女物を着流してるってぇ世の中だからな」
ククッと高杉は嗤って、土方に視線を向ける。
「おかまバーでヅラ相手に脂下がってたやつが、云えた義理かよ」
刹那。
なかば反射的に、土方は抜刀していた。高杉が土方目掛けて鋭く放った煙管を、抜きざまに弾き飛ばして、一直線に踏み込む。
片手で鞘をつかみ、鍔のない刀を抜きかけたところで、高杉がうごきを止めた。土方の抜き身が、ひたと、高杉の首筋に当てられていた。
取りかけた刀を鞘に納めて、懐手で高杉がまた、クククと嗤う。白刃を突きつけられてなお、この余裕。腕と場数が違うとでも云いたいのか。癇に障る。
「攘夷の英雄さんも、鈍ったもんだな。ぁあ?」
土方は髪をひっつかみ銜え煙草で毒突いた。その高杉が思ったよりも小柄であることに、背後を取って初めて気づく。総悟くらいだろうか。
「ここがどこだか忘れちゃいねぇか」
「なに?」
一瞬削がれていた気に、そのことばの意味を取り損ねた。
「恋しいあいてと忍ぶ場所だぜ」
高杉がにやりと嗤う。その瞬間、土方は後ろ頸に鈍い痛みを感じた。あっ、と思ったときにはもう膝からくずおれていた。
意識が遠のいていく。土方は自らを叱咤してちからの抜けたからだをひねるが思うにまかせず、なんとか視線だけを巡らせて、いつのまにか背後に在った気配の正体を探った。視界が暗く翳んで定まらない。這い蹲った目のさきで、真白い足袋だけが残像のように浮かんでいる。
これはいったい、どうした仕儀だ。高杉。
薄らぐ意識の中でさえ紛うことなき声の色。その声が、土方から最後の意気地を奪った。
どうしてだ。
どうしてこんなことに。
どうして。
届かない。恋い焦がれるおもいびとは、いまもまだ対岸にあって、この手も声も届いてはいなかったのか。
桂。
かつら。
桂の白皙のおもてをいまいちど、一目見ようとして、果たせず。土方は意識を手放した。
ゆっくりと覚醒が促される。
さっきから交わされている低い声が、遠く近くに揺れていた。
首筋に感じた痛みは消えていたが、まだ身体中の感覚が痺れたように戻らない。人体の急所というものを熟知しているのだ。最小の攻撃で最大の成果を得るすべを心得ている。殺す気はなかったのだろうと知れたが、なんの慰めにもならない。いっそ殺されたほうが楽だったろう、と土方は思った。
どうして、惚れたりしたんだ。なんでさっさと思い切らなかったのか。こんな羽目にまで陥って。どうしてこんなことにならなきゃならない。おもいびとはこんなにもあっさりと、この身を切り捨てるのだ。なのに。それなのに。
意識だけが清かになっていくなかで、それでも消え失せてはくれなかった、恋情を呪った。
「なんでだ。小太郎」
小太郎?
「いたずらに真選組を刺激する必要はなかろう。貴様とて、本気で潰そうとしたわけではあるまいに」
…ああ、桂のことか。
「俺ぁ潰す気でいけと云ったんだがな。万斉が勝手に矛を納めやがった」
「銀時とでは、いかな人斬り万斉といえども分が悪かろうよ。その河上を貴様が野放しのままにしているのも妙な話ではないか」
「白夜叉が真選組に肩入れするとはねぇ」
「真選組を潰したところで、貴様の希むようにこの国を壊せはせぬゆえな」
ああ、どうせその程度の狗だ、俺たちは。
まだ目も開けず、耳に入ってくるだけの桂と高杉の会話をぼんやりと聞いていた土方は、そう、音にならないことばを返す。
おそろしいほどの虚無感が土方を蝕んでいた。
続 2008.07.06.
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桂が高杉を匿う、という憶測でしかない現実に土方は囚われている。
名残惜しいままに中断された逢瀬が、またすぐにも桂に会いたいという情動を生む。だがいま会えば、土方はおのれの推量を確かめずにはいられなくなるだろう。それが職務意識のなせるわざなのか単なる妬心からくるものなのか、土方には判断がつかなかった。こんな状態で会えるわけもない。会うべきではない。だが会いたい。会いたくてたまらない。鬩ぎあいは堂々巡りとなって、土方の裡で激しく渦を巻く。
会ってたわいのない話をし、おなじ時間を過ごすだけでも、いまの土方は満たされる。桂と過ごした縁日のわずかばかりのひとときは、そのおもいをつよくさせた。なのに状況は、ときにそれすらを奪うのだ。
敵将に恋着を抱いたときから覚悟していたはずのことが、土方に重くのし掛かっていた。
* * *
江戸での真選組の任務は多岐にわたる。
市井の揉め事から将軍のお忍びの警護まで、そのつど駆り出されるのだからけっこう忙しい。その忙しさが、いまの土方にはありがたかった。
物理的な時間がなければ、会えないことへの理由も諦めもつく。出口のない懊悩に苦しむこともない。高杉の潜伏情報に触れるたび胸の奥でなにかが軋んだが、あれ以降情報は空振りであることが多く、しだいに真選組もそれを大事と捉えなくなった。少々思い過ごしが勝ったか。考えすぎていたようだ。土方にもついそんな心持ちがよぎる。
それが油断に繋がった。
またガセか。そう思いながらわずかばかりの手勢を率いて、土方が向かったその場所に、高杉はいた。
初めて至近でその姿を捉える。
友禅かなにかの派手な女物、あるいは役者の舞台衣裳のような、着流し姿。顔半分を白い布で覆われて、爪弾くのは三味線。片足立ちに腰掛けた階上の窓から、呑気にその姿をさらしていた。
いわゆる出逢い茶屋と呼ばれるたぐいの店で、向こうは向こうで油断していたのかもしれない。あるいは手勢の少なさが吉と出たものか。まだ気づかれていないようだ。
ひとりをその場の見張りに、ひとりを搦め手の見張りに回して、残るひとりを屯所へと走らせた。その場で携帯で知らせなかったのは、その気配を覚られたくなかったことと、なにより土方が、一対一で高杉と見(まみ)えてみたいと思ったからにほかならない。
それが好奇心や功名心からではないということに、土方自身気づいている。
桂のせいだ。桂と過去を共有するのは万事屋だけではなく、このおとこもなのだ。妖刀紅桜に斬られた桂が熱に浮かされて呟いた名を、土方は忘れていなかった。忘れることなどできなかった。
ぎん。しんすけ。たつま。
妙に幼さの残る声で紡がれた、三つの名。それは桂のこころの奥底に、深く根ざすもののはずだったから。
座敷の障子をからりと開け放つ。高杉は逃げる気配もなく、音のした方向をわずかに見返っただけだ。
「御用改めである」
常とは違い淡々と告げた土方に、高杉が片頬を歪ませて笑んだ。
「ずいぶんと、また、刻(とき)が掛かったじゃねぇか」
そのもの云いにも、土方は驚かなかった。どこかで、そんな予感があった。高杉の動静に示威的なものを感じたときから、それがだれ宛にせよ、真選組へ向けられたものであるような気がしてならなかった。
「俺に、だったのかい」
すでに鯉口は切られている。いつでも抜ける体勢だ。
高杉は爪弾いていた三味線を窓枠の横の壁に立てかけた。となりに立てかけてあった刀には目もくれず、足もとの煙草盆をつかんで、煙管に火を入れる。さも美味そうに一服喫って天に向かって吐き出した。
「紙巻きより、俺ぁこっちだがね」
「あいにくと田舎育ちなもんでな。煙管で優雅に刻み煙草なんざ、柄じゃねえんだ」
云って土方は、片手で器用に煙草を取りだし口に銜えて火を点けた。
「田舎もんねぇ。ついでに、武家でもないのに刀振り回してんのかい」
「もとは上士の御曹司が、女物を着流してるってぇ世の中だからな」
ククッと高杉は嗤って、土方に視線を向ける。
「おかまバーでヅラ相手に脂下がってたやつが、云えた義理かよ」
刹那。
なかば反射的に、土方は抜刀していた。高杉が土方目掛けて鋭く放った煙管を、抜きざまに弾き飛ばして、一直線に踏み込む。
片手で鞘をつかみ、鍔のない刀を抜きかけたところで、高杉がうごきを止めた。土方の抜き身が、ひたと、高杉の首筋に当てられていた。
取りかけた刀を鞘に納めて、懐手で高杉がまた、クククと嗤う。白刃を突きつけられてなお、この余裕。腕と場数が違うとでも云いたいのか。癇に障る。
「攘夷の英雄さんも、鈍ったもんだな。ぁあ?」
土方は髪をひっつかみ銜え煙草で毒突いた。その高杉が思ったよりも小柄であることに、背後を取って初めて気づく。総悟くらいだろうか。
「ここがどこだか忘れちゃいねぇか」
「なに?」
一瞬削がれていた気に、そのことばの意味を取り損ねた。
「恋しいあいてと忍ぶ場所だぜ」
高杉がにやりと嗤う。その瞬間、土方は後ろ頸に鈍い痛みを感じた。あっ、と思ったときにはもう膝からくずおれていた。
意識が遠のいていく。土方は自らを叱咤してちからの抜けたからだをひねるが思うにまかせず、なんとか視線だけを巡らせて、いつのまにか背後に在った気配の正体を探った。視界が暗く翳んで定まらない。這い蹲った目のさきで、真白い足袋だけが残像のように浮かんでいる。
これはいったい、どうした仕儀だ。高杉。
薄らぐ意識の中でさえ紛うことなき声の色。その声が、土方から最後の意気地を奪った。
どうしてだ。
どうしてこんなことに。
どうして。
届かない。恋い焦がれるおもいびとは、いまもまだ対岸にあって、この手も声も届いてはいなかったのか。
桂。
かつら。
桂の白皙のおもてをいまいちど、一目見ようとして、果たせず。土方は意識を手放した。
ゆっくりと覚醒が促される。
さっきから交わされている低い声が、遠く近くに揺れていた。
首筋に感じた痛みは消えていたが、まだ身体中の感覚が痺れたように戻らない。人体の急所というものを熟知しているのだ。最小の攻撃で最大の成果を得るすべを心得ている。殺す気はなかったのだろうと知れたが、なんの慰めにもならない。いっそ殺されたほうが楽だったろう、と土方は思った。
どうして、惚れたりしたんだ。なんでさっさと思い切らなかったのか。こんな羽目にまで陥って。どうしてこんなことにならなきゃならない。おもいびとはこんなにもあっさりと、この身を切り捨てるのだ。なのに。それなのに。
意識だけが清かになっていくなかで、それでも消え失せてはくれなかった、恋情を呪った。
「なんでだ。小太郎」
小太郎?
「いたずらに真選組を刺激する必要はなかろう。貴様とて、本気で潰そうとしたわけではあるまいに」
…ああ、桂のことか。
「俺ぁ潰す気でいけと云ったんだがな。万斉が勝手に矛を納めやがった」
「銀時とでは、いかな人斬り万斉といえども分が悪かろうよ。その河上を貴様が野放しのままにしているのも妙な話ではないか」
「白夜叉が真選組に肩入れするとはねぇ」
「真選組を潰したところで、貴様の希むようにこの国を壊せはせぬゆえな」
ああ、どうせその程度の狗だ、俺たちは。
まだ目も開けず、耳に入ってくるだけの桂と高杉の会話をぼんやりと聞いていた土方は、そう、音にならないことばを返す。
おそろしいほどの虚無感が土方を蝕んでいた。
続 2008.07.06.
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