「天涯の遊子」過去篇・村塾幼少期。
銀時と桂。高杉。と、松陽。
子銀と、松陽先生。子桂、子高。それぞれの出会い。
前後篇。前篇。
連作時系列では、銀桂篇の最初にあたるものがたり。
09/05 注意書き:
本誌で銀と先生との出会いが明かされるまえの捏造になります。
(オフ本に収録することがあればその際には加筆修正の予定)
ご了解のうえでお読みください。
気がついたとき、そこは暗闇だった。
銀時の記憶はそこからはじまっている。
暗闇は苦手だ。怖くはないが、おのれの存在までその闇に塗り潰されそうになるから。
遠くからものを追う声が近づいてくる。逃げなければ、わけもなくそう思った。それは銀時を忌み排除しようとする声だった。もうそれらから銀時を護ってくれる存在はいない。いない、と、どうして思ったのかはわからない。記憶にすら定かに残らない以前には、そうした存在があったからかもしれない。おのれを、銀時、とやわらかに呼んでくれた存在がたしかにあった気がする。けれど、そう呼ばれた名以外を憶えていなかった。このままここにいて見つかれば、殺される。追われる理由もわからぬままに、銀時は脱兎のごとく駆けだした。抱いて眠っていたらしい、身の丈に合わぬ刀だけをひっつかんで。
まばらにすれ違う人々が好奇の目で見る。夜目にもこの身は目立つのか。
息の続くかぎりを駆け抜いて、追う声が遠い彼方に消え去って、それでもしばらく駆けて駆けて、川を越えた野っ原でようやく仰向けになって転がった。
払暁の空には白い月が浮かんでいた。夜通し駆けていたらしい。どおりで、咽が渇いた。川縁に下りて、両手で水を掬い取った。ごくごくと飲み干して、ついでにじゃぶじゃぶと顔を洗った。波立った水面が凪いで、背後で昇りはじめた陽が、辺りの景色を映しだす。おのれの姿を認めて銀時は、さきほどの声の主たちが自分を排除しようとする理由を悟った。道行くものたちの好奇の目のわけを悟った。
水面に浮かぶのは、さきほどの月と色をおなじくした、あちこち撥ねて収まりのつかない髪だった。その姿を見つめる眸は、昇りはじめた陽よりも紅い色をしていた。それは銀時の見た周りの人々とはあまりにかけ離れた、異形の姿だった。
それからずっと銀時は生きるためにだけ生きていた。里山の木の実をもぎ、通りすがりの村の畑を荒らし、町中でお大尽の懐中物に手を出し、異質なものを排除しようとする輩はこの手にかけて身を守った。もともとつよかったのかそのせいでつよくなったのか、わからない。それはまたさらに、忌避と排除の理由になったろう。だがほかに為すすべを、銀時は持たなかった。片時も離さずにいる剣だけが銀時の身のよすがだった。
盗みも殺しも痛痒は感じない。生きたいから生きるのでも死にたくないから生きるのでもない。ただ生きてそこにあったから、それを生物の生存の本能で繋いでいただけだ。獣が本能的に身を守るようにして、銀時は生きた。
何処の町かも憶えていない。ただ暑さも薄らぎ、放浪の身の子どもには過ごしやすい季節になっていたことだけは憶えている。だがもうすぐにも、こんどは寒さが銀時の身を脅かすだろう。そんな日に、その妙なおとなに出会った。
子ども相手に背後から真剣を抜いてきた輩を、斃した姿を見られた。見られたことがまずいという意識は銀時にはない。このおとながおのれを咎めれば、さっさと逃げるし、向かってくれば斬るだけだ。だがそのどちらの行動も、そのおとなはしなかった。
このあたりの、冬の訪れは早いですよ。そのままでは凍えてしまいますね。
おとなは淡々と、だがやわらかな口調でそう語りかける。およそ初めて経験する種類の応対に、銀時はつぎの行動に出るきっかけを失った。
故郷(くに)は、ここに比べれば暖かです。これから帰るところですが、いっしょに来ますか。
銀時が応えないでいると、そのおとなは微笑した。いちどだけ手招きをし、そのままくるりと背を向けてゆっくりと歩みはじめる。
その背を無意識のままに追った理由を銀時はいまも説明できない。これから来る寒さと餓えへの怖れがそうさせたのか、ただその風変わりなおとながあまりにも、それまで銀時の知るおとなたちとはちがっていたからなのか。
そのおとなの郷里に向かう道すがら、銀時の異形を珍しがる旅籠の主や、この国を侵攻しはじめていた天人かと訝しむ道中の旅人に、その容姿がけして忌むようなものではなく、稀にだがあり得るひととしての姿のひとつに過ぎないのだと、そのたびごとに語り聞かせる。銀時に直接云われたわけではないそのことばは、しだいに銀時のこころの奥底へと滲み入った。
そのおとなは道中でも、先生、と呼ばれていた。学識ある予見者としてそう呼ばれていたのだとは、当時の銀時が知るよしもなく。最初それがなまえかと思った銀時に、自分の名は松陽であるとうれしそうに笑顔で告げた。
吉田松陽。それが、そののち銀時にあたりまえの人間としての穏やかな生活をあたえてくれた人物のなまえだった。
* * *
ひと月近くをかけて辿り着いた松陽の郷は、いわゆる城下町のようだった。お城があって、山があって、海がある。松陽の住み処は城下町の外れのほうにあった。
「ここで少し待っていてください。村長(むらおさ)にごあいさつしてきます。おまえがうちに住むことも伝えておきますから、心配要りませんよ」
そう云い置いて川沿いの径の木陰に銀時を休ませておいて、松陽が町の中ほどへと入っていったのが四半時ほどまえ。所在なげに佇む銀時は、河原で遊ぶ子どもたちの声を遠くに聞きながら、ぼんやりと、堤防から見渡す町の風景を眺めていた。
ときおり、落ち始めた木々の葉が銀時の足もとを擽っては、ころころと堤を転がってゆく。まだ日中は穏やかで暖かいが、陽が暮れるころには寒さが下りてくるのだろう。
だんだんに声が近づいてくる。不意に、わっという悲鳴とも喚声ともつかぬ声があがって、銀時が反射的にそちらへと目をやると、遊んでいた子どもがひとり川の深みにはまったらしく、もがいているのが見えた。周りの子らはどうしていいかわからず、おろおろするばかりだ。
無意識に堤防から河原へと一歩を踏み出した銀時の、かたわらを矢のような速さで摺り抜けていったちいさな人影が、怒鳴った。
「なにをぼんやりしている!」
あどけない声が、だが思わず身を正してしまうような鋭い響きで云い放つや、脇差を外し袴と小袖を脱ぎながら、後ろを走ってきていたもうひとりに叫ぶ。
「しんすけ!なわだ!」
意を得たとばかりに、声をかけられた子どもが河原の掘っ立て小屋へと走った。下帯ひとつになった子どもは、あたまの高い位置でひとつに結った長く黒い髪をぴょんぴょんと揺らしながら、溺れる子どもの背後へ回り込もうと浅瀬から川へと入る。
縄を手にした子どもが河原に着いたころには、尾っぽ髪の子は溺れる子どもの顎下に背から腕を回して口と鼻を水面に浮かせていた。けれど、自分とたいして変わらない大きさのひとひとりを支えているのだから、それが精一杯で、投げられた縄を手につかんでも、それをくくりつけ、岸まで泳ぎ着くことができない。
このままではもろともに川の流れに呑まれる。岸から縄を投げたほうの子どもが、焦ってつよく引っ張った。ふたりの子どものからだがよけいに沈む。その勢いにつられてこんどはその子まで、川に引き摺り込まれそうになる。
「あー、だめだ。なわをぴんと張ったら沈んじまうし。手前ぇも落っこっちまうから」
いつのまにかそばに来ていた見ず知らずの異形の子に、ぎょっとなった子どもが思わず手の荒縄をゆるめた。
「そーそー。そうやってたわめながらゆっくりと」
云いながらその縄に手を添えて、銀時がゆるく、川の流れに沿わせながら縄を手繰りよせる。たすけに飛び込んだ子どもがようやく縄を頼りに、溺れた子を浅瀬に引き摺り揚げた。銀時と縄を投げた子どもがふたりがかりで岸へと引っ張る。銀時が手早く、ぐったりとしていた子の顔を横に向け背を軽く叩くと、水を吐いて激しく咳き込んだが、じき正気づいた。
ぽたぽたと、長い髪から水を滴らせて岸に上がった子どもが、ほっとしたような気配を見せる。銀時があらためて見れば、下帯姿でなければおんなのこと見まごうような、だがほっとしているにしてはなんとも無表情の、おそろしく造作の整ったきれいな子どもなのだった。同い年くらいだろうか。
知らずじっと見つめてしまっていた銀時に、気づいたそのきれいな子どもはじっと見つめ返して、ぺこりとあたまを下げた。黒く艶やかな長い濡れ髪が、つられて靡く。
「見かけぬかおだが、ごじょりょくいただいた。礼をいう」
縄を投げたいくぶん小柄な子どものほうは、うさんくさげな眸を銀時に向けながら無言のまま、懐の手拭いでその濡れた髪とからだを拭うのを手伝っている。こちらは一つ二つ年下に見えた。
と、濡れ髪の子どもがくしゅん、とちいさくくしゃみする。それを合図にしたように我に返った銀時は、へらりと曖昧に笑って見せた。
「あー。いや、べつに。でも、むちゃするなぁ」
続 2008.08.05.
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気がついたとき、そこは暗闇だった。
銀時の記憶はそこからはじまっている。
暗闇は苦手だ。怖くはないが、おのれの存在までその闇に塗り潰されそうになるから。
遠くからものを追う声が近づいてくる。逃げなければ、わけもなくそう思った。それは銀時を忌み排除しようとする声だった。もうそれらから銀時を護ってくれる存在はいない。いない、と、どうして思ったのかはわからない。記憶にすら定かに残らない以前には、そうした存在があったからかもしれない。おのれを、銀時、とやわらかに呼んでくれた存在がたしかにあった気がする。けれど、そう呼ばれた名以外を憶えていなかった。このままここにいて見つかれば、殺される。追われる理由もわからぬままに、銀時は脱兎のごとく駆けだした。抱いて眠っていたらしい、身の丈に合わぬ刀だけをひっつかんで。
まばらにすれ違う人々が好奇の目で見る。夜目にもこの身は目立つのか。
息の続くかぎりを駆け抜いて、追う声が遠い彼方に消え去って、それでもしばらく駆けて駆けて、川を越えた野っ原でようやく仰向けになって転がった。
払暁の空には白い月が浮かんでいた。夜通し駆けていたらしい。どおりで、咽が渇いた。川縁に下りて、両手で水を掬い取った。ごくごくと飲み干して、ついでにじゃぶじゃぶと顔を洗った。波立った水面が凪いで、背後で昇りはじめた陽が、辺りの景色を映しだす。おのれの姿を認めて銀時は、さきほどの声の主たちが自分を排除しようとする理由を悟った。道行くものたちの好奇の目のわけを悟った。
水面に浮かぶのは、さきほどの月と色をおなじくした、あちこち撥ねて収まりのつかない髪だった。その姿を見つめる眸は、昇りはじめた陽よりも紅い色をしていた。それは銀時の見た周りの人々とはあまりにかけ離れた、異形の姿だった。
それからずっと銀時は生きるためにだけ生きていた。里山の木の実をもぎ、通りすがりの村の畑を荒らし、町中でお大尽の懐中物に手を出し、異質なものを排除しようとする輩はこの手にかけて身を守った。もともとつよかったのかそのせいでつよくなったのか、わからない。それはまたさらに、忌避と排除の理由になったろう。だがほかに為すすべを、銀時は持たなかった。片時も離さずにいる剣だけが銀時の身のよすがだった。
盗みも殺しも痛痒は感じない。生きたいから生きるのでも死にたくないから生きるのでもない。ただ生きてそこにあったから、それを生物の生存の本能で繋いでいただけだ。獣が本能的に身を守るようにして、銀時は生きた。
何処の町かも憶えていない。ただ暑さも薄らぎ、放浪の身の子どもには過ごしやすい季節になっていたことだけは憶えている。だがもうすぐにも、こんどは寒さが銀時の身を脅かすだろう。そんな日に、その妙なおとなに出会った。
子ども相手に背後から真剣を抜いてきた輩を、斃した姿を見られた。見られたことがまずいという意識は銀時にはない。このおとながおのれを咎めれば、さっさと逃げるし、向かってくれば斬るだけだ。だがそのどちらの行動も、そのおとなはしなかった。
このあたりの、冬の訪れは早いですよ。そのままでは凍えてしまいますね。
おとなは淡々と、だがやわらかな口調でそう語りかける。およそ初めて経験する種類の応対に、銀時はつぎの行動に出るきっかけを失った。
故郷(くに)は、ここに比べれば暖かです。これから帰るところですが、いっしょに来ますか。
銀時が応えないでいると、そのおとなは微笑した。いちどだけ手招きをし、そのままくるりと背を向けてゆっくりと歩みはじめる。
その背を無意識のままに追った理由を銀時はいまも説明できない。これから来る寒さと餓えへの怖れがそうさせたのか、ただその風変わりなおとながあまりにも、それまで銀時の知るおとなたちとはちがっていたからなのか。
そのおとなの郷里に向かう道すがら、銀時の異形を珍しがる旅籠の主や、この国を侵攻しはじめていた天人かと訝しむ道中の旅人に、その容姿がけして忌むようなものではなく、稀にだがあり得るひととしての姿のひとつに過ぎないのだと、そのたびごとに語り聞かせる。銀時に直接云われたわけではないそのことばは、しだいに銀時のこころの奥底へと滲み入った。
そのおとなは道中でも、先生、と呼ばれていた。学識ある予見者としてそう呼ばれていたのだとは、当時の銀時が知るよしもなく。最初それがなまえかと思った銀時に、自分の名は松陽であるとうれしそうに笑顔で告げた。
吉田松陽。それが、そののち銀時にあたりまえの人間としての穏やかな生活をあたえてくれた人物のなまえだった。
* * *
ひと月近くをかけて辿り着いた松陽の郷は、いわゆる城下町のようだった。お城があって、山があって、海がある。松陽の住み処は城下町の外れのほうにあった。
「ここで少し待っていてください。村長(むらおさ)にごあいさつしてきます。おまえがうちに住むことも伝えておきますから、心配要りませんよ」
そう云い置いて川沿いの径の木陰に銀時を休ませておいて、松陽が町の中ほどへと入っていったのが四半時ほどまえ。所在なげに佇む銀時は、河原で遊ぶ子どもたちの声を遠くに聞きながら、ぼんやりと、堤防から見渡す町の風景を眺めていた。
ときおり、落ち始めた木々の葉が銀時の足もとを擽っては、ころころと堤を転がってゆく。まだ日中は穏やかで暖かいが、陽が暮れるころには寒さが下りてくるのだろう。
だんだんに声が近づいてくる。不意に、わっという悲鳴とも喚声ともつかぬ声があがって、銀時が反射的にそちらへと目をやると、遊んでいた子どもがひとり川の深みにはまったらしく、もがいているのが見えた。周りの子らはどうしていいかわからず、おろおろするばかりだ。
無意識に堤防から河原へと一歩を踏み出した銀時の、かたわらを矢のような速さで摺り抜けていったちいさな人影が、怒鳴った。
「なにをぼんやりしている!」
あどけない声が、だが思わず身を正してしまうような鋭い響きで云い放つや、脇差を外し袴と小袖を脱ぎながら、後ろを走ってきていたもうひとりに叫ぶ。
「しんすけ!なわだ!」
意を得たとばかりに、声をかけられた子どもが河原の掘っ立て小屋へと走った。下帯ひとつになった子どもは、あたまの高い位置でひとつに結った長く黒い髪をぴょんぴょんと揺らしながら、溺れる子どもの背後へ回り込もうと浅瀬から川へと入る。
縄を手にした子どもが河原に着いたころには、尾っぽ髪の子は溺れる子どもの顎下に背から腕を回して口と鼻を水面に浮かせていた。けれど、自分とたいして変わらない大きさのひとひとりを支えているのだから、それが精一杯で、投げられた縄を手につかんでも、それをくくりつけ、岸まで泳ぎ着くことができない。
このままではもろともに川の流れに呑まれる。岸から縄を投げたほうの子どもが、焦ってつよく引っ張った。ふたりの子どものからだがよけいに沈む。その勢いにつられてこんどはその子まで、川に引き摺り込まれそうになる。
「あー、だめだ。なわをぴんと張ったら沈んじまうし。手前ぇも落っこっちまうから」
いつのまにかそばに来ていた見ず知らずの異形の子に、ぎょっとなった子どもが思わず手の荒縄をゆるめた。
「そーそー。そうやってたわめながらゆっくりと」
云いながらその縄に手を添えて、銀時がゆるく、川の流れに沿わせながら縄を手繰りよせる。たすけに飛び込んだ子どもがようやく縄を頼りに、溺れた子を浅瀬に引き摺り揚げた。銀時と縄を投げた子どもがふたりがかりで岸へと引っ張る。銀時が手早く、ぐったりとしていた子の顔を横に向け背を軽く叩くと、水を吐いて激しく咳き込んだが、じき正気づいた。
ぽたぽたと、長い髪から水を滴らせて岸に上がった子どもが、ほっとしたような気配を見せる。銀時があらためて見れば、下帯姿でなければおんなのこと見まごうような、だがほっとしているにしてはなんとも無表情の、おそろしく造作の整ったきれいな子どもなのだった。同い年くらいだろうか。
知らずじっと見つめてしまっていた銀時に、気づいたそのきれいな子どもはじっと見つめ返して、ぺこりとあたまを下げた。黒く艶やかな長い濡れ髪が、つられて靡く。
「見かけぬかおだが、ごじょりょくいただいた。礼をいう」
縄を投げたいくぶん小柄な子どものほうは、うさんくさげな眸を銀時に向けながら無言のまま、懐の手拭いでその濡れた髪とからだを拭うのを手伝っている。こちらは一つ二つ年下に見えた。
と、濡れ髪の子どもがくしゅん、とちいさくくしゃみする。それを合図にしたように我に返った銀時は、へらりと曖昧に笑って見せた。
「あー。いや、べつに。でも、むちゃするなぁ」
続 2008.08.05.
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