「天涯の遊子」高桂篇。3話完結。
高杉と桂。攘夷戦争から紅桜まで、ほぼ時系列展開。
微エロ注意。場面少ないけど、R18気味。
長い煙管をポンとはたいて、灰を煙草盆に落とす。新しい刻みたばこを丸めて火皿に詰めなおし、雁首を炭火に寄せて火を点けた。羅宇を二本の指に挟んで親指を添え、吸い口を銜えて、ゆっくりと深く喫う。
高杉がいつの間にか覚えた嗜好品を桂は好まなかったが、とくに咎め立てもしなかった。むかしなら、青筋立てて、とりあげただろうに。桂に子ども扱いされるのを苦々しく思っていたくせに、一人前になったとばかりにほったらかしにされるのも、なんだかおもしろくない。そんなガキそのものの思考に我ながら手を焼いてはいたが、いかんともしがたいのだった。
「やってみ」
吸い口を、かたわらの桂の口唇に押しつけた。寝乱れた態で、ぼんやりと高杉の作業を見ていた桂が、顔をしかめる。だが拒否はぜず、素直に一口喫った。
「まずい」
煙を吐きながら、切り捨てる。
「そりゃ、てめぇがガキなんだよ。ヅラ」
「ヅラじゃない。桂だ。てか、貴様までそんな呼び方をするようになったか。世も末だ」
くくっ、と高杉が笑いを漏らす。
「大袈裟なこった」
もう一服喫ってから、桂の顎を捉えて口を合わせた。ごほっとむせて、なにをするか、と桂が文句を云うところへ、もう一度、口唇を落とす。片方の手の煙管を煙草盆に預けながら、もう片方の手で桂の乱れた夜着の裾をたくしあげる。おのれの刻印を色濃く残す鼠蹊に、手を這わせた。
銀糸を引く口唇を離して、桂が至近で睨める。ぞくぞくする顔だ。
「まだ足りぬのか」
「久方ぶりじゃねぇか。あんたとこうするのも。なあヅラ」
「ヅラじゃな…」
「小太郎。俺ぁ、わざわざ会いに来てやったんだぜ」
決まり文句を下の名で封じられて、桂は憮然とする。
つごう一年あまりを過ごした山科の隠れ家から、攘夷活動に効果的な場所、すなわち江戸にほど近い街道筋に隠遁場所を移した桂は、あいかわらず高杉を気にかけてはいた。が、支援者との密談や破壊工作の段取りに時間を取られてか、とんと京へは足を向けなくなった。焦れた高杉が、江戸でのテロの下準備にかこつけて押しかけてきた、というのが正しいところだ。
桂とは攘夷の話題が絡めば論争になることは目に見えていたので、高杉は会うなりさっさと、ことを閨へと持ち込んだ。
「……っ」
臍を曲げた桂の引き結ばれた口唇を舌でこじ開けながら、這わせた指は、鼠蹊から前庭を探り、ひとしきり遊んで。そのまま蟻の門渡りを辿って、湿った奥へと行き着く。そこをなんどか往復させているうち、絡まる舌が抗議してきた。湿った奥は、先の残滓に濡れている。高杉はふたたびうずく欲望を抑えつけながら、手指で奥を穿った。
「すいぶんと、よゆうだな。しんすけ」
微かに喘ぎながら、桂が見透かしたような笑みで、挑んでくる。挑まれれば、高杉はよけいに焦らしたくなる。あるいはいっそ手荒に桂の奥を暴こうと、のしかかるのが常なのだ。
たっぷりと時間をかけて桂をむさぼり、桂が意識を手放したあと、心地よい気怠さに包まれて、高杉もまた睡魔の手に落ちた。
桂がもたらす、高杉の安息の刻(とき)は終わりを告げようとしていた。
最初の兆しは、中途で攘夷を抜けた坂本が、桂のもとにぬけぬけと姿を現したことだった。
江戸の町を転々とする桂の潜伏先を高杉が訪なうたびごとに、珍妙なものが増えていく。その最たるものは、あの白いものだ。天人らしき奇妙な物体をペットと称して、猫かわいがりする桂に、高杉はなんどか切れた。切れても、桂は必ず白いもののみかたをするから、損をするのはおのれだけだとわかってはいても。
次には、桂が銀時をいつの間にか探し出していたことだ。銀時を見つけた高杉が桂にそれを仄めかしたとき、桂はすでに銀時の居場所も生活も把握していた。そしてほどなくして、再会を果たしさえしたのだ。
自分を捨てて逃げたおとこに平然と相対せる桂は、高杉の理解の外だった。
攘夷活動には二度と手を染めぬと決めているらしい銀時に、桂がなにを求めているのかなどわからないし、わかりたくもなかった。
江戸に大きな花火を打ち上げようとしたその日、高杉もまた、銀時と再会した。
腑抜けたツラで、桂の周りをうろちょろするのが、目障りだった。桂がどうであろうと、高杉が銀時をゆるすことはない。実際に相対した銀時は、思ったよりは牙も抜けてはいなかったのだが、桂を惑わしている存在には変わりない。
ただひとつ、意外だったのは。とっくにすましていたのではないかと勘ぐっていた、桂とのよりを、まだ戻していないと見受けられたことだ。
銀時のほうに、その気がないわけがない。あれほどの執着を桂に抱いていたおとこが、ふたたび会えてのち、あきらめきれるわけがない。その点だけは高杉には確信があった。自分が、そうだからだ。寄せるおもいのかたちは違っても、桂に執着しているという一点に於いて、高杉と銀時とは紛れもなく同類だった。
そしてそれは、銀時のほうでも認識を同じくするところであったろうから、高杉が桂との関係を匂わせたときの反応は見ものだった。素知らぬふりで、あっそう、と受け流しながら、爪が食い込むほどに拳をきつく握り込むのを、高杉は見逃さなかった。
では、線を引いているのは桂のほうなのか。
ちかごろ穏健派に靡きつつある桂に、高杉は苛立っている。それはまちがいなく、銀時とその周囲のせいだ。
桂は高杉や新たな鬼兵隊の行動を咎めはしても、高杉とのあいだに線を引こうとはしなかったが、高杉のほうが、その状態に耐えられなかった。
なにを考えている。銀時とよりを戻したというのなら、まだわかる。その結果、穏健派に傾いたというなら、桂に幻滅はしても、幻想は抱かずにすむ。だが、そうではないのだ。
よりを戻してはいない。だが銀時との糸は切らない。過激派の行動は諫めて、密かにべつの手段を模索する。
穏健派になりつつあるのがいまの桂の江戸での生活に根ざした変化であるのなら、それは、断ち切らねばならなかった。たとえ江戸ごと吹き飛ばしてでも、断ち切らなくてはならないものだった。でなければ、高杉は。
あの川縁で桂が自分を見つけていなければ。あのまま、隊もろとも、桂も銀時も失っていたなら。いまこれほどの喪失感を抱かずにすんだのだろうか。
桂が見えない。まだ、手を伸ばせば握りかえしてくる位置にいるはずの桂の姿を、高杉は蜃気楼であるかのように思った。ここにいるのに、桂はもう、ここにはいないのか。自分はこんどこそ、あの最後の戦場での、仲間の不在に、桂の不在に、狂っていくのだろうか。
いますでにぽっかりと口を開けている、桂という高杉の安息所に穿たれた穴は、高杉を足もとから呑み込もうとしている。そんな幻覚に高杉は怯えていた。
だがしかし、このときはまだ、高杉自身信じてなどいなかったのだ。桂とおのれの未来を決定的に違えるかのような、一撃のあることを。
高杉がこの先ずっと、桂の不在と闘わねばならなくなるような日の、来ることを。
高杉が麗しの花の名を持つ妖刀に関心を抱いたとき、すでに狂い出していた歯車は、軋んだ音を立てて、大きく外れ、転がった。
直属の配下の者が妖刀に魅入られ、桂を斬ったと聞かされたとき、高杉は、足もとの穴にすでに呑み込まれたおのれを悟った。
ひと束の髪を討ち取った証とばかりに持ち歩く部下をまえにしても、桂が死んだとはつゆほども思わなかったが。自分がどうあがけばこの穴から抜け出せるかを、そのすべを、高杉は持たなかった。
果たして。高杉のまえに、白いもののなかから散切りの黒髪で現れた桂は、高杉に一太刀浴びせ。次いで、追いつめた高杉を見限るようで見限りきらない、わけのわからないせりふを吐いた。
高杉に、ほかになにが云えただろう。
かつて先生のためにと誓ったこの国への思い、裏切った幕府への憎しみ、そこに安穏として暮らしを謳歌しているこの国への絶望。桂を、高杉にとっての桂をも変えてしまった、江戸という町のそこで暮らすものたち。
ここには、大事なものができすぎた。
桂のことばが、高杉を抉る。
それはそっくりそのまま、高杉が江戸を屠る理由となり得るのだと、桂は気づかない。
気づいてくれ。なぜ気づかない。ここにいる。俺もあんたも。それでいい。それだけでいい。それだけで、よかったんだ。
この国は、高杉から松陽を奪い。この町は、高杉から桂を奪う。
この世界は、高杉から奪うだけだ。たいせつなものを。いつも。いつもいつもいつも。
奪った世界に、報復することは罪か。奪われまいとすることは、それほどに悪か。奪われるまえに壊したなら奪われずにすむ、と考えることは愚かしいことなのだろうか。
愚かでいい。壊さねば奪われると決まったものなら、壊すしかない。壊すだけだ。奪われることには、もう倦いた。
倦いたんだよ、俺ぁ。
いま高杉の眼前に在る桂は、船艦の上部屋根に、闘う銀時の姿を見ても、驚きもしない。それがさも自然であるかのように。そして銀時が敗れるとは、考えてもいないのだ。
そのとおり妖刀を斃した銀時が桂のもとへ来るや、白いものや子どもらや同志らの退路を得るべく、背中合わせに剣を振るう。それを高みの見物よろしく隣の船上から見下ろすおのれは、なんだ。いったい。なぜ自分はこんなところに立っている。
あまつさえ、ふたり並んだ切っ先を高杉に向け、捨てぜりふを吐いて中空に身を踊らせた。追い打ちを掛けたのは、なんの打ち合わせもなく空に浮かぶ船艦(ふね)から飛び降りる桂の、あとに続いた銀時の、桂への無比の信頼。その絆。
中空に広がったパラシュートに、あの珍奇な白いものの絵姿。それを背負った桂の腿に無様につかまって、はるか下方へと降りていく、銀時の白銀髪と背中。
そうしててめぇは、やっぱり、かっ攫っていくんだな。
遠く江戸の町の雑多な色に、ぽつねんとした白い点が、やがて呑み込まれていく。桂を奪う、江戸の町に。
その点が消えるまでを、高杉は見つめた。ただ、じっと、見つめていた。
そうして。
このあとの、おのれの悪あがきを予感して、高杉は低く笑い出す。もう笑うことしか、残されていないかのように。
左目がうずいた。
あの夜、火影に浮かんだ桂の姿。それでもこれを抱いて生きていく。
高杉は、眸に焼き付いたその姿がこぼれ落ちぬよう包帯を掌で覆い、ただ静かに笑い続けた。
射干玉の闇に光るものがあった。
火影のなかの桂は、微笑んでいる。
了 2008.01.09.
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長い煙管をポンとはたいて、灰を煙草盆に落とす。新しい刻みたばこを丸めて火皿に詰めなおし、雁首を炭火に寄せて火を点けた。羅宇を二本の指に挟んで親指を添え、吸い口を銜えて、ゆっくりと深く喫う。
高杉がいつの間にか覚えた嗜好品を桂は好まなかったが、とくに咎め立てもしなかった。むかしなら、青筋立てて、とりあげただろうに。桂に子ども扱いされるのを苦々しく思っていたくせに、一人前になったとばかりにほったらかしにされるのも、なんだかおもしろくない。そんなガキそのものの思考に我ながら手を焼いてはいたが、いかんともしがたいのだった。
「やってみ」
吸い口を、かたわらの桂の口唇に押しつけた。寝乱れた態で、ぼんやりと高杉の作業を見ていた桂が、顔をしかめる。だが拒否はぜず、素直に一口喫った。
「まずい」
煙を吐きながら、切り捨てる。
「そりゃ、てめぇがガキなんだよ。ヅラ」
「ヅラじゃない。桂だ。てか、貴様までそんな呼び方をするようになったか。世も末だ」
くくっ、と高杉が笑いを漏らす。
「大袈裟なこった」
もう一服喫ってから、桂の顎を捉えて口を合わせた。ごほっとむせて、なにをするか、と桂が文句を云うところへ、もう一度、口唇を落とす。片方の手の煙管を煙草盆に預けながら、もう片方の手で桂の乱れた夜着の裾をたくしあげる。おのれの刻印を色濃く残す鼠蹊に、手を這わせた。
銀糸を引く口唇を離して、桂が至近で睨める。ぞくぞくする顔だ。
「まだ足りぬのか」
「久方ぶりじゃねぇか。あんたとこうするのも。なあヅラ」
「ヅラじゃな…」
「小太郎。俺ぁ、わざわざ会いに来てやったんだぜ」
決まり文句を下の名で封じられて、桂は憮然とする。
つごう一年あまりを過ごした山科の隠れ家から、攘夷活動に効果的な場所、すなわち江戸にほど近い街道筋に隠遁場所を移した桂は、あいかわらず高杉を気にかけてはいた。が、支援者との密談や破壊工作の段取りに時間を取られてか、とんと京へは足を向けなくなった。焦れた高杉が、江戸でのテロの下準備にかこつけて押しかけてきた、というのが正しいところだ。
桂とは攘夷の話題が絡めば論争になることは目に見えていたので、高杉は会うなりさっさと、ことを閨へと持ち込んだ。
「……っ」
臍を曲げた桂の引き結ばれた口唇を舌でこじ開けながら、這わせた指は、鼠蹊から前庭を探り、ひとしきり遊んで。そのまま蟻の門渡りを辿って、湿った奥へと行き着く。そこをなんどか往復させているうち、絡まる舌が抗議してきた。湿った奥は、先の残滓に濡れている。高杉はふたたびうずく欲望を抑えつけながら、手指で奥を穿った。
「すいぶんと、よゆうだな。しんすけ」
微かに喘ぎながら、桂が見透かしたような笑みで、挑んでくる。挑まれれば、高杉はよけいに焦らしたくなる。あるいはいっそ手荒に桂の奥を暴こうと、のしかかるのが常なのだ。
たっぷりと時間をかけて桂をむさぼり、桂が意識を手放したあと、心地よい気怠さに包まれて、高杉もまた睡魔の手に落ちた。
桂がもたらす、高杉の安息の刻(とき)は終わりを告げようとしていた。
最初の兆しは、中途で攘夷を抜けた坂本が、桂のもとにぬけぬけと姿を現したことだった。
江戸の町を転々とする桂の潜伏先を高杉が訪なうたびごとに、珍妙なものが増えていく。その最たるものは、あの白いものだ。天人らしき奇妙な物体をペットと称して、猫かわいがりする桂に、高杉はなんどか切れた。切れても、桂は必ず白いもののみかたをするから、損をするのはおのれだけだとわかってはいても。
次には、桂が銀時をいつの間にか探し出していたことだ。銀時を見つけた高杉が桂にそれを仄めかしたとき、桂はすでに銀時の居場所も生活も把握していた。そしてほどなくして、再会を果たしさえしたのだ。
自分を捨てて逃げたおとこに平然と相対せる桂は、高杉の理解の外だった。
攘夷活動には二度と手を染めぬと決めているらしい銀時に、桂がなにを求めているのかなどわからないし、わかりたくもなかった。
江戸に大きな花火を打ち上げようとしたその日、高杉もまた、銀時と再会した。
腑抜けたツラで、桂の周りをうろちょろするのが、目障りだった。桂がどうであろうと、高杉が銀時をゆるすことはない。実際に相対した銀時は、思ったよりは牙も抜けてはいなかったのだが、桂を惑わしている存在には変わりない。
ただひとつ、意外だったのは。とっくにすましていたのではないかと勘ぐっていた、桂とのよりを、まだ戻していないと見受けられたことだ。
銀時のほうに、その気がないわけがない。あれほどの執着を桂に抱いていたおとこが、ふたたび会えてのち、あきらめきれるわけがない。その点だけは高杉には確信があった。自分が、そうだからだ。寄せるおもいのかたちは違っても、桂に執着しているという一点に於いて、高杉と銀時とは紛れもなく同類だった。
そしてそれは、銀時のほうでも認識を同じくするところであったろうから、高杉が桂との関係を匂わせたときの反応は見ものだった。素知らぬふりで、あっそう、と受け流しながら、爪が食い込むほどに拳をきつく握り込むのを、高杉は見逃さなかった。
では、線を引いているのは桂のほうなのか。
ちかごろ穏健派に靡きつつある桂に、高杉は苛立っている。それはまちがいなく、銀時とその周囲のせいだ。
桂は高杉や新たな鬼兵隊の行動を咎めはしても、高杉とのあいだに線を引こうとはしなかったが、高杉のほうが、その状態に耐えられなかった。
なにを考えている。銀時とよりを戻したというのなら、まだわかる。その結果、穏健派に傾いたというなら、桂に幻滅はしても、幻想は抱かずにすむ。だが、そうではないのだ。
よりを戻してはいない。だが銀時との糸は切らない。過激派の行動は諫めて、密かにべつの手段を模索する。
穏健派になりつつあるのがいまの桂の江戸での生活に根ざした変化であるのなら、それは、断ち切らねばならなかった。たとえ江戸ごと吹き飛ばしてでも、断ち切らなくてはならないものだった。でなければ、高杉は。
あの川縁で桂が自分を見つけていなければ。あのまま、隊もろとも、桂も銀時も失っていたなら。いまこれほどの喪失感を抱かずにすんだのだろうか。
桂が見えない。まだ、手を伸ばせば握りかえしてくる位置にいるはずの桂の姿を、高杉は蜃気楼であるかのように思った。ここにいるのに、桂はもう、ここにはいないのか。自分はこんどこそ、あの最後の戦場での、仲間の不在に、桂の不在に、狂っていくのだろうか。
いますでにぽっかりと口を開けている、桂という高杉の安息所に穿たれた穴は、高杉を足もとから呑み込もうとしている。そんな幻覚に高杉は怯えていた。
だがしかし、このときはまだ、高杉自身信じてなどいなかったのだ。桂とおのれの未来を決定的に違えるかのような、一撃のあることを。
高杉がこの先ずっと、桂の不在と闘わねばならなくなるような日の、来ることを。
高杉が麗しの花の名を持つ妖刀に関心を抱いたとき、すでに狂い出していた歯車は、軋んだ音を立てて、大きく外れ、転がった。
直属の配下の者が妖刀に魅入られ、桂を斬ったと聞かされたとき、高杉は、足もとの穴にすでに呑み込まれたおのれを悟った。
ひと束の髪を討ち取った証とばかりに持ち歩く部下をまえにしても、桂が死んだとはつゆほども思わなかったが。自分がどうあがけばこの穴から抜け出せるかを、そのすべを、高杉は持たなかった。
果たして。高杉のまえに、白いもののなかから散切りの黒髪で現れた桂は、高杉に一太刀浴びせ。次いで、追いつめた高杉を見限るようで見限りきらない、わけのわからないせりふを吐いた。
高杉に、ほかになにが云えただろう。
かつて先生のためにと誓ったこの国への思い、裏切った幕府への憎しみ、そこに安穏として暮らしを謳歌しているこの国への絶望。桂を、高杉にとっての桂をも変えてしまった、江戸という町のそこで暮らすものたち。
ここには、大事なものができすぎた。
桂のことばが、高杉を抉る。
それはそっくりそのまま、高杉が江戸を屠る理由となり得るのだと、桂は気づかない。
気づいてくれ。なぜ気づかない。ここにいる。俺もあんたも。それでいい。それだけでいい。それだけで、よかったんだ。
この国は、高杉から松陽を奪い。この町は、高杉から桂を奪う。
この世界は、高杉から奪うだけだ。たいせつなものを。いつも。いつもいつもいつも。
奪った世界に、報復することは罪か。奪われまいとすることは、それほどに悪か。奪われるまえに壊したなら奪われずにすむ、と考えることは愚かしいことなのだろうか。
愚かでいい。壊さねば奪われると決まったものなら、壊すしかない。壊すだけだ。奪われることには、もう倦いた。
倦いたんだよ、俺ぁ。
いま高杉の眼前に在る桂は、船艦の上部屋根に、闘う銀時の姿を見ても、驚きもしない。それがさも自然であるかのように。そして銀時が敗れるとは、考えてもいないのだ。
そのとおり妖刀を斃した銀時が桂のもとへ来るや、白いものや子どもらや同志らの退路を得るべく、背中合わせに剣を振るう。それを高みの見物よろしく隣の船上から見下ろすおのれは、なんだ。いったい。なぜ自分はこんなところに立っている。
あまつさえ、ふたり並んだ切っ先を高杉に向け、捨てぜりふを吐いて中空に身を踊らせた。追い打ちを掛けたのは、なんの打ち合わせもなく空に浮かぶ船艦(ふね)から飛び降りる桂の、あとに続いた銀時の、桂への無比の信頼。その絆。
中空に広がったパラシュートに、あの珍奇な白いものの絵姿。それを背負った桂の腿に無様につかまって、はるか下方へと降りていく、銀時の白銀髪と背中。
そうしててめぇは、やっぱり、かっ攫っていくんだな。
遠く江戸の町の雑多な色に、ぽつねんとした白い点が、やがて呑み込まれていく。桂を奪う、江戸の町に。
その点が消えるまでを、高杉は見つめた。ただ、じっと、見つめていた。
そうして。
このあとの、おのれの悪あがきを予感して、高杉は低く笑い出す。もう笑うことしか、残されていないかのように。
左目がうずいた。
あの夜、火影に浮かんだ桂の姿。それでもこれを抱いて生きていく。
高杉は、眸に焼き付いたその姿がこぼれ落ちぬよう包帯を掌で覆い、ただ静かに笑い続けた。
射干玉の闇に光るものがあった。
火影のなかの桂は、微笑んでいる。
了 2008.01.09.
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