「天涯の遊子」銀桂篇+土桂篇
銀時と桂と土方と。
新八、神楽、長谷川、沖田、近藤、ほか。
竜宮篇以降、モンハン篇よりまえ。
回数未定。其の八。銀時、桂、長谷川、土方。
客足も途切れがちになった深更。
かまっ娘倶楽部の控え室に戻ってひといきついていたパー子もとい銀時は、同じように休憩に入っていた、長身とあごの立派な同僚の会話を聞くともなしに聞いていた。
「そういえば、昼間、副長さんがヅラ子を訪ねてきてたわよ。熱心よねぇ」
「ヅラ子ったら、いつになったら退院できるのかしら。パー子、あんたなにか聞いてないの」
「さあ。まだとうぶんは隔離だってハナシ」
桂の病状、というか副作用による現状のことはママの西郷にしか知らせていないから銀時は適当に話を合わせた。行方不明のことはまだ、その西郷にも伏せてある。それにしても土方か。そういえば昼間、だれかが万事屋を訪ねてきていたような気もする。不貞寝を決め込んでいたから定かではないが、あれも土方だったのかもしれない。
「ま、無理もねーか」
桂に惚れている。と、土方にはこの店で銀時の目のまえで宣言されている。しばらく会うどころか姿さえも見ないでは、立場は置いても、案ずるのも探りを入れたくなるのも人情だろう。だがむろん銀時にとっては、そんな土方の言動はおもしろいことではない。
先般、桂が、正確にはエリザベスによってだが高杉の危難を救い、隠れ処に匿っていたあいだ、土方と高杉がなにやらことを構えたらしい。そのことをあとになって銀時は知ったが、そもそも桂が高杉を匿ったこともけして気持ちのいいものではなかった。ただ、やはりといおうか、紅桜のことはこととして、桂が高杉を護ろうとするのは想像のうちだったから、銀時の口から溜息は出ても心底腹に据えかねるということはない。たとえ将来おのが手で斬り捨てることを覚悟した相手でも、それが真に必要となるその瞬間までは救おうとするのが桂というひととなりだ。それはもう、おのれらの半端ない付き合いの濃さと長さが因果だ。どうしようもない。
けれど土方となれば話はべつである。坂本や高杉あいてなら諦めもゆるしもできるが、土方に情を掛ける桂には、銀時が許容できるのもおのずと限度がある。本音を云えば指一本触れさせたくないし、もっと云うならその影すら視界に入れさせたくはない。それをしないのは現実的に不可能と知っているからでしかないのだ。
その夜はそのまま客も少なかったから、はやめに上がっていいわよ、と西郷に云われるままに銀時は家路についた。怪我も癒えぬ身で節々も痛むが、桂のいない家に帰る気がしない。銀時の帰りを待つ桂の存在に、たかだかこの二十日で馴染んでしまった。かといって当てもなく捜すには江戸の町は広すぎる。
かつてこの町で銀時の所在を見つけた桂は、だからどれほどの労を費やしたのだろう。銀時の奇異な外見もそのころには、天人の闊歩する江戸ではさして目立つほどのものではなくなっていたから、手掛かりの決め手になったとも思えない。それでもあいつは俺を見つけた。
桂。かつら。
帰宅を渋り鈍る足は、いつのまにか河川敷へと逸れていた。
この時間でもまだ提灯に赤く灯の入った屋台が、ぽつりぽつりと川沿いに窺える。なかのひとつに見知った顔を見つけて銀時はその暖簾をくぐった。
「あれ、銀さん。こんな時間まで仕事だったのかい?」
コップ酒をちびりちびりとやっていた長谷川が、隣に着いた人影に気づいてそう声を掛けてきた。
「あんたこそ、朝早いんじゃねーの、長谷川さん。アルミ缶拾いもライバルが多いって云ってなかったっけか。寝坊するとまえの晩のぶん拾われちまうんだろ」
「まぁさー。それで郊外の観光地とかまで足を伸ばす羽目になるんだけどね。花見の時期とちがって、それもいまいちでさぁ」
「そろそろ行楽シーズンだから、期待できるんじゃない?」
どうでもいい会話を適当に繋ぎながら、銀時は屋台の親爺に燗をたのむ。
「おや、冷やじゃないの。まだ熱燗って季節でもないよ」
「なんか、やたらあったけーもんが欲しい気分なの」
「そいつはさみしい証拠だ、銀さん。独り身の身に沁みる風の冷たさ」
「ひとの心配より、てめーこそいいかげん、よりもどしやがれ」
鶏皮の串をつまみに、くいっとまず一杯流し込んだ。
「まあね。近くにあんな美人がいたんじゃ、嫁取りなんざ無理な話か」
「だれだよ、美人って」
長谷川の目がサングラスの奥で悪戯っぽく笑んだ。
「三つ子の魂百までってぇのか、竜宮城でのあんたはひどかったからねぇ」
そのひとことで、銀時はなにを云われるかを察してしまった。
「なんだよ、長谷川さんまで新八みたいに」
「だれだってそう思ったさ、あそこでのあんたらを見てれば」
そんなにそんなだったのだろうか、あのときの自分は。
「桂さんはぼけちゃぁいたが、まだしも新八くんやらとかと会話してたけど、銀さん、あんた、桂さんだけしか相手にしてなかったよ。ほかは眼中になかったよ」
「…………」
銀時自身は老化していたときの記憶自体がぼんやりしているから、そう云われても困るのだ。なにより、そんな恥ずかしい事実をしっかり覚えていたらいたで、このさき仲間内のまえを歩けなくなりそうだから、知らぬ顔を通すしかない。
「まあさ、老いてなお背筋のぴんしゃんとした、ひとだったねぇ。ぼけてたけど」
と、そこで長谷川が思い出したように笑いはじめた。
「なんだよ。なんですか。三十半ばのマダオの思い出し笑いなんて、気色悪いにもほどがあるぜ」
「っくっ。いやさ、老いてなおああなら。ガキの時分もやっぱりああだったのかなと思って」
「ヅラは、むかしもいまも背中に定規入れてるようなやつだぜ」
その背がどれほどしなやかに反るか、銀時は知っているけれど。
「うん、それでさ、だから、ちょっと思い出したんだよ」
コップ酒で口を湿すと、長谷川はまだ込みあげてくるらしい笑いをなんとか嚙み殺しながら、話を継ぐ。
「二三日まえに、知りあったこどもがね。だれかに似てるなってずっと気になってたんだ。あれ、桂さんに似てたんだなって、いま思い当たったわけよ。あのぼうや」
銀時は鼓動が跳ね上がるのを感じた。酒のせいではない。
「ちょ、長谷川さん。それって、いつ? どこで会ったって?」
急変した銀時の表情と、つねにない剣幕におされて、長谷川は酔いに鈍ったあたまを懸命に働かせる。
「一昨日かそのまえ? あーそんなくらいかな。遠征しててさ。缶拾いに疲れて藪地で一服喫ってたら、いきなり叱られたんだよ。それがさ、そのぼうや、迷子で。記憶喪失っての? だもんで」
「で!? それから」
「中心街の公園まで連れてきて、そこでちょうど居合わせたお巡りさんにあずけたけど?」
最悪だ。
「お巡りに引き渡したって。真選組か、だれにだ」
「ほら、いいおとこがいるじゃん、いつも煙吐いてる。たしか…」
土方か。それならまだしも、ほかの隊士よりはマシかも知れない。ほっと息をつきかけて、銀時は思い直した。
いや、まて。ちがう。
なんのために土方は万事屋を訪ねてきたのだ。そのまま黙って帰ったのだ。開店前のかまっ娘倶楽部に顔を出したのが、ヅラ子に会いたいがための探りではなく、その不在を確かめるためのものだったとしたら。
「銀さん?」
屋台の狭い木の卓上に勘定を放るや、銀時は真選組の屯所へと駆け出していた。
気づいている。気づかれている。
どこをどう経て土方がその考えにいたったのかは不明だが、そのこどもが桂だと土方にはわかったのだ。
どうする。どうする気だ。土方ならどうするだろう。
上に注進して逮捕するか。いや、それはない。いまの桂を桂と云ってもだれも信じるわけがない。相手にもされまい。だが、いずれもとの姿に戻ればいやでも知れる。土方がそれを待つだろうか? 否。惚れているとあれほどきっぱりと云いきった相手を、記憶のない状態で御上に差し出す真似をするものか。
土方ならば少なくともいまはまだ、十中八九、周囲には真実を伏せる。その意味で即逮捕の危険は薄いと云っていい。だが。
銀時の裡(うち)の押しつぶされるような不安は、除かれてはくれなかった。
少年の姿で記憶がなくとも、桂は桂だ。土方は桂に惚れている。常日頃、手の届かぬ場所でおのれを顧みないおもいびとが、自らの手の内にあったなら。真っさらな状態で、あったなら。
桂!
浮かんだ考えに、銀時は大きくかぶりを振った。
昼間、あのとき。土方の来訪に銀時が応対に出ていたなら。
苦しみや痛みや喪失の恐怖に引き籠もって逃げるから、後手後手に回るのだ。変わってない。俺はむかしとちっとも変わっちゃいないじゃないか。
ちがう。ちがうちがうちがう。
二度とは失うまいと、決めたのだ。となりに立つことを俺は希んだのだ。後手を踏んだなら、こんどは相手の先の先を考えろ。取り戻せる。必ずまだ、まにあう。
屯所の門を臨む通りの角を折れて、銀時は足を止め、息を深く吸って吐く。門灯を映す赤黒い眸は、つねの死んだような気怠さを忘れて、闇夜の熾火を思わせた。
* * *
慣れない夜行の寝台車に、睡りは浅かった。
ごっつん。
上方でした派手な物音に土方は思わず身を起こす。
「どうした?」
「いたたたたたた」
「おい、桂?」
「あたまを打った。てか、かつら、じゃない。地毛だ。あたまだ」
反射的に土方はおのれの口を押さえた。まずった。いや、しかし、身元につながる郷里の住み処が知れたことになっているのに、いつまでも名無しのままというのも妙な話だ。
「わっ」
思わず声が出たのは、寝台の上段からふいに、少年が顔を覗かせてきたからだった。逆さまになった白いおもてを縁取る、長い黒髪も重力に従ってばさりと落ち掛かり、土方の視界を覆う。そういえば、昨夜寝るときには髪を下ろしていたっけか。
「土方どの。この寝台は縮むのか?」
「は?」
「いや、ゆうべおなじように膝立ちしたときはぶつけなかったあたまを、天井にぶつけてしまったのだ」
二段式の寝台は上段のほうがつくりが狭い。だから必然的に少年が上段に、土方は下段に寝たのだが。
「寝台が縮むわけねぇだろ」
「ふむ。そうか。おかしいな。ではおれの背が一晩で伸びたのか?」
と、逆さまのまま小首を傾げる。
あ。と土方は思った。そうなのだった。これがあるだろうから急いだというのに。土方は一瞬返答に詰まり、そしておもむろに口を開いた。
「そうだった。郷里へ着くまえに、おめぇに話しておかなきゃいけねぇことがある」
逆さまのままの少年が、怪訝そうに土方を見つめてきた。
「なんと。ではおれは本来なら貴殿より年嵩ということか?」
土方の話を聞き終えて、少年はそう、目を瞬かせた。たしかに、昨夜のうちよりこころなしおとなびて見える。土方は眩しげに目を細めた。
少年の真の身元も正体も伏せ、攘夷のことにも銀時のことにも触れぬまま、ただ、からだに起きている異変のことだけは告げておく必要があった。いずれ成長速度の異常を自覚するだろう少年自身に不安を抱かせないために。
「ああ。俺が調べたかぎりじゃどうもそのようだ。先達ての老化ガス騒動に絡んでのことだろうが、いったんガキにまで退行して、いまもとに戻ってる最中らしい」
そしていまひとつには。
「郷里の連中、にわかには信じられねぇだろう。どう説明するかだなぁ」
少年は頬に手を当て考え込んでいる。さすがに驚いたようだったが、やはり思ったとおり動じなかった。それを証拠に、土方の話に耳を傾けながら箸を付けていた朝食の駅弁はきれいに片づけられている。さすがは桂だ。土方は妙なところで実感した。
「では、もとの姿で帰ったほうがよくはないか?」
「…まあ、そのほうが驚かさずにはすむだろうな」
おのれの身の変調を知った少年がどう出るか。
「刻をおけば戻るものなら、それまでどこかで逗留することはできぬものだろうか」
内心で土方は息を詰め、目を閉じる。
「記憶を失くしているだけでも充分驚かすことになるだろう。そのうえ要らぬ心配を掛けるのは心苦しい」
ああ、桂。おめぇならそう応えると、思ってたぜ。
続 2009.03.20.
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客足も途切れがちになった深更。
かまっ娘倶楽部の控え室に戻ってひといきついていたパー子もとい銀時は、同じように休憩に入っていた、長身とあごの立派な同僚の会話を聞くともなしに聞いていた。
「そういえば、昼間、副長さんがヅラ子を訪ねてきてたわよ。熱心よねぇ」
「ヅラ子ったら、いつになったら退院できるのかしら。パー子、あんたなにか聞いてないの」
「さあ。まだとうぶんは隔離だってハナシ」
桂の病状、というか副作用による現状のことはママの西郷にしか知らせていないから銀時は適当に話を合わせた。行方不明のことはまだ、その西郷にも伏せてある。それにしても土方か。そういえば昼間、だれかが万事屋を訪ねてきていたような気もする。不貞寝を決め込んでいたから定かではないが、あれも土方だったのかもしれない。
「ま、無理もねーか」
桂に惚れている。と、土方にはこの店で銀時の目のまえで宣言されている。しばらく会うどころか姿さえも見ないでは、立場は置いても、案ずるのも探りを入れたくなるのも人情だろう。だがむろん銀時にとっては、そんな土方の言動はおもしろいことではない。
先般、桂が、正確にはエリザベスによってだが高杉の危難を救い、隠れ処に匿っていたあいだ、土方と高杉がなにやらことを構えたらしい。そのことをあとになって銀時は知ったが、そもそも桂が高杉を匿ったこともけして気持ちのいいものではなかった。ただ、やはりといおうか、紅桜のことはこととして、桂が高杉を護ろうとするのは想像のうちだったから、銀時の口から溜息は出ても心底腹に据えかねるということはない。たとえ将来おのが手で斬り捨てることを覚悟した相手でも、それが真に必要となるその瞬間までは救おうとするのが桂というひととなりだ。それはもう、おのれらの半端ない付き合いの濃さと長さが因果だ。どうしようもない。
けれど土方となれば話はべつである。坂本や高杉あいてなら諦めもゆるしもできるが、土方に情を掛ける桂には、銀時が許容できるのもおのずと限度がある。本音を云えば指一本触れさせたくないし、もっと云うならその影すら視界に入れさせたくはない。それをしないのは現実的に不可能と知っているからでしかないのだ。
その夜はそのまま客も少なかったから、はやめに上がっていいわよ、と西郷に云われるままに銀時は家路についた。怪我も癒えぬ身で節々も痛むが、桂のいない家に帰る気がしない。銀時の帰りを待つ桂の存在に、たかだかこの二十日で馴染んでしまった。かといって当てもなく捜すには江戸の町は広すぎる。
かつてこの町で銀時の所在を見つけた桂は、だからどれほどの労を費やしたのだろう。銀時の奇異な外見もそのころには、天人の闊歩する江戸ではさして目立つほどのものではなくなっていたから、手掛かりの決め手になったとも思えない。それでもあいつは俺を見つけた。
桂。かつら。
帰宅を渋り鈍る足は、いつのまにか河川敷へと逸れていた。
この時間でもまだ提灯に赤く灯の入った屋台が、ぽつりぽつりと川沿いに窺える。なかのひとつに見知った顔を見つけて銀時はその暖簾をくぐった。
「あれ、銀さん。こんな時間まで仕事だったのかい?」
コップ酒をちびりちびりとやっていた長谷川が、隣に着いた人影に気づいてそう声を掛けてきた。
「あんたこそ、朝早いんじゃねーの、長谷川さん。アルミ缶拾いもライバルが多いって云ってなかったっけか。寝坊するとまえの晩のぶん拾われちまうんだろ」
「まぁさー。それで郊外の観光地とかまで足を伸ばす羽目になるんだけどね。花見の時期とちがって、それもいまいちでさぁ」
「そろそろ行楽シーズンだから、期待できるんじゃない?」
どうでもいい会話を適当に繋ぎながら、銀時は屋台の親爺に燗をたのむ。
「おや、冷やじゃないの。まだ熱燗って季節でもないよ」
「なんか、やたらあったけーもんが欲しい気分なの」
「そいつはさみしい証拠だ、銀さん。独り身の身に沁みる風の冷たさ」
「ひとの心配より、てめーこそいいかげん、よりもどしやがれ」
鶏皮の串をつまみに、くいっとまず一杯流し込んだ。
「まあね。近くにあんな美人がいたんじゃ、嫁取りなんざ無理な話か」
「だれだよ、美人って」
長谷川の目がサングラスの奥で悪戯っぽく笑んだ。
「三つ子の魂百までってぇのか、竜宮城でのあんたはひどかったからねぇ」
そのひとことで、銀時はなにを云われるかを察してしまった。
「なんだよ、長谷川さんまで新八みたいに」
「だれだってそう思ったさ、あそこでのあんたらを見てれば」
そんなにそんなだったのだろうか、あのときの自分は。
「桂さんはぼけちゃぁいたが、まだしも新八くんやらとかと会話してたけど、銀さん、あんた、桂さんだけしか相手にしてなかったよ。ほかは眼中になかったよ」
「…………」
銀時自身は老化していたときの記憶自体がぼんやりしているから、そう云われても困るのだ。なにより、そんな恥ずかしい事実をしっかり覚えていたらいたで、このさき仲間内のまえを歩けなくなりそうだから、知らぬ顔を通すしかない。
「まあさ、老いてなお背筋のぴんしゃんとした、ひとだったねぇ。ぼけてたけど」
と、そこで長谷川が思い出したように笑いはじめた。
「なんだよ。なんですか。三十半ばのマダオの思い出し笑いなんて、気色悪いにもほどがあるぜ」
「っくっ。いやさ、老いてなおああなら。ガキの時分もやっぱりああだったのかなと思って」
「ヅラは、むかしもいまも背中に定規入れてるようなやつだぜ」
その背がどれほどしなやかに反るか、銀時は知っているけれど。
「うん、それでさ、だから、ちょっと思い出したんだよ」
コップ酒で口を湿すと、長谷川はまだ込みあげてくるらしい笑いをなんとか嚙み殺しながら、話を継ぐ。
「二三日まえに、知りあったこどもがね。だれかに似てるなってずっと気になってたんだ。あれ、桂さんに似てたんだなって、いま思い当たったわけよ。あのぼうや」
銀時は鼓動が跳ね上がるのを感じた。酒のせいではない。
「ちょ、長谷川さん。それって、いつ? どこで会ったって?」
急変した銀時の表情と、つねにない剣幕におされて、長谷川は酔いに鈍ったあたまを懸命に働かせる。
「一昨日かそのまえ? あーそんなくらいかな。遠征しててさ。缶拾いに疲れて藪地で一服喫ってたら、いきなり叱られたんだよ。それがさ、そのぼうや、迷子で。記憶喪失っての? だもんで」
「で!? それから」
「中心街の公園まで連れてきて、そこでちょうど居合わせたお巡りさんにあずけたけど?」
最悪だ。
「お巡りに引き渡したって。真選組か、だれにだ」
「ほら、いいおとこがいるじゃん、いつも煙吐いてる。たしか…」
土方か。それならまだしも、ほかの隊士よりはマシかも知れない。ほっと息をつきかけて、銀時は思い直した。
いや、まて。ちがう。
なんのために土方は万事屋を訪ねてきたのだ。そのまま黙って帰ったのだ。開店前のかまっ娘倶楽部に顔を出したのが、ヅラ子に会いたいがための探りではなく、その不在を確かめるためのものだったとしたら。
「銀さん?」
屋台の狭い木の卓上に勘定を放るや、銀時は真選組の屯所へと駆け出していた。
気づいている。気づかれている。
どこをどう経て土方がその考えにいたったのかは不明だが、そのこどもが桂だと土方にはわかったのだ。
どうする。どうする気だ。土方ならどうするだろう。
上に注進して逮捕するか。いや、それはない。いまの桂を桂と云ってもだれも信じるわけがない。相手にもされまい。だが、いずれもとの姿に戻ればいやでも知れる。土方がそれを待つだろうか? 否。惚れているとあれほどきっぱりと云いきった相手を、記憶のない状態で御上に差し出す真似をするものか。
土方ならば少なくともいまはまだ、十中八九、周囲には真実を伏せる。その意味で即逮捕の危険は薄いと云っていい。だが。
銀時の裡(うち)の押しつぶされるような不安は、除かれてはくれなかった。
少年の姿で記憶がなくとも、桂は桂だ。土方は桂に惚れている。常日頃、手の届かぬ場所でおのれを顧みないおもいびとが、自らの手の内にあったなら。真っさらな状態で、あったなら。
桂!
浮かんだ考えに、銀時は大きくかぶりを振った。
昼間、あのとき。土方の来訪に銀時が応対に出ていたなら。
苦しみや痛みや喪失の恐怖に引き籠もって逃げるから、後手後手に回るのだ。変わってない。俺はむかしとちっとも変わっちゃいないじゃないか。
ちがう。ちがうちがうちがう。
二度とは失うまいと、決めたのだ。となりに立つことを俺は希んだのだ。後手を踏んだなら、こんどは相手の先の先を考えろ。取り戻せる。必ずまだ、まにあう。
屯所の門を臨む通りの角を折れて、銀時は足を止め、息を深く吸って吐く。門灯を映す赤黒い眸は、つねの死んだような気怠さを忘れて、闇夜の熾火を思わせた。
* * *
慣れない夜行の寝台車に、睡りは浅かった。
ごっつん。
上方でした派手な物音に土方は思わず身を起こす。
「どうした?」
「いたたたたたた」
「おい、桂?」
「あたまを打った。てか、かつら、じゃない。地毛だ。あたまだ」
反射的に土方はおのれの口を押さえた。まずった。いや、しかし、身元につながる郷里の住み処が知れたことになっているのに、いつまでも名無しのままというのも妙な話だ。
「わっ」
思わず声が出たのは、寝台の上段からふいに、少年が顔を覗かせてきたからだった。逆さまになった白いおもてを縁取る、長い黒髪も重力に従ってばさりと落ち掛かり、土方の視界を覆う。そういえば、昨夜寝るときには髪を下ろしていたっけか。
「土方どの。この寝台は縮むのか?」
「は?」
「いや、ゆうべおなじように膝立ちしたときはぶつけなかったあたまを、天井にぶつけてしまったのだ」
二段式の寝台は上段のほうがつくりが狭い。だから必然的に少年が上段に、土方は下段に寝たのだが。
「寝台が縮むわけねぇだろ」
「ふむ。そうか。おかしいな。ではおれの背が一晩で伸びたのか?」
と、逆さまのまま小首を傾げる。
あ。と土方は思った。そうなのだった。これがあるだろうから急いだというのに。土方は一瞬返答に詰まり、そしておもむろに口を開いた。
「そうだった。郷里へ着くまえに、おめぇに話しておかなきゃいけねぇことがある」
逆さまのままの少年が、怪訝そうに土方を見つめてきた。
「なんと。ではおれは本来なら貴殿より年嵩ということか?」
土方の話を聞き終えて、少年はそう、目を瞬かせた。たしかに、昨夜のうちよりこころなしおとなびて見える。土方は眩しげに目を細めた。
少年の真の身元も正体も伏せ、攘夷のことにも銀時のことにも触れぬまま、ただ、からだに起きている異変のことだけは告げておく必要があった。いずれ成長速度の異常を自覚するだろう少年自身に不安を抱かせないために。
「ああ。俺が調べたかぎりじゃどうもそのようだ。先達ての老化ガス騒動に絡んでのことだろうが、いったんガキにまで退行して、いまもとに戻ってる最中らしい」
そしていまひとつには。
「郷里の連中、にわかには信じられねぇだろう。どう説明するかだなぁ」
少年は頬に手を当て考え込んでいる。さすがに驚いたようだったが、やはり思ったとおり動じなかった。それを証拠に、土方の話に耳を傾けながら箸を付けていた朝食の駅弁はきれいに片づけられている。さすがは桂だ。土方は妙なところで実感した。
「では、もとの姿で帰ったほうがよくはないか?」
「…まあ、そのほうが驚かさずにはすむだろうな」
おのれの身の変調を知った少年がどう出るか。
「刻をおけば戻るものなら、それまでどこかで逗留することはできぬものだろうか」
内心で土方は息を詰め、目を閉じる。
「記憶を失くしているだけでも充分驚かすことになるだろう。そのうえ要らぬ心配を掛けるのは心苦しい」
ああ、桂。おめぇならそう応えると、思ってたぜ。
続 2009.03.20.
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