二十万打御礼リクエスト。
【たまにはふと弱気になった桂が男気溢れる土方に惹かれて少し歩み寄る】
土桂。土方と桂(ヅラ子)。
うちの土方と桂にはこれが精一杯だった。深謝。
西郷ママから頼まれたのだろう両手いっぱいの買いものを抱えて、冷え込んだ夜の街角を曲がる。向かいのファーストフード店の店頭を飾る白髭眼鏡のおっさんが、つい先日までのハロウィン仕様からクリスマス仕様に衣更えしているのに気がついたのか足をとめ、桂、もといヅラ子は小さく溜息をついた。まだ霜月の初めではないか。気の早いにもほどがある。とでも云いたいところなのだろう。
それでも街往くひとびとは、週末とあって、ひとあし早く訪れた冬のような夜に吐息を白く染めながらも笑いさんざめき、煌めくネオンの海に呑み込まれていく。ヅラ子の目のまえでも、学生らしき面々が店頭のサンタおじさんに違和感を感じるでもなく店のドアをくぐった。
まあ、これはこれでよいのかもしれない。ひと月半もまえからクリスマスを望めるくらいに平和なのだ。いまこの世の中は。それが商戦のひとつに過ぎないのだとしても。
土方は銜え煙草を吐き出して革靴の爪先で揉み消すと、その景色に向かって足を進めた。と、思い出したように舞い戻りその吸い殻を拾い上げて、隊服のポケットに落とす。気づかれて、また小言をくらってはたまらない。けれどもヅラ子はまだぼんやりと街往く人々を眺めているようだった。
土方はちかづきざま掬うようにヅラ子の手から買い物袋を引き取った。と、初めて気づいたようにあわてて手許を見返してくる。
「なにをする…、って、なんだ貴様か芋侍」
あいかわらずの口調だが、ヅラ子のときであれば桂は、隊服の土方でも忌避はしない。その程度にはもう馴染まれている。かまっ娘倶楽部にヅラ子のいるときには可能なかぎり通いつめているのだから、そのくらいの信用はようやく勝ち得たのだと思っていいだろうか。
「夜回りか」
「らしくもねぇな。どうした、ぼんやりして」
「べつに。ぼんやりなどしておらん」
いや、してたじゃねぇか。いくら土方のほうに殺気もなにもなかったとはいえ、この至近の距離まで桂が気配を察知しないというのがおかしい。
「惜しかったな。いまさっきのてめぇならかんたんに逮捕(パク)れたろうに」
桂は片眉を上げて、小ばかにしたように見返してくる。濃く紅のひかれたきれいなかたちの口唇が、端をわずかに擡げるだけの笑みを浮かべた。
「ではなぜそうしなかった」
ちくしょう。わかっているくせに、たちがわるい。土方は問い掛けを無視して荷物を手にさっさと歩き出す。桂の声が追いかけてきた。
「おい」
「店の買い出しなんだろう?」
「なんだ、運んでくれるのか」
「かっぱらいだとでも思ったのかよ」
「ずいぶんと親切なことだな」
と、追いついて歩を合わせる。桂は土方のしたいようにさせる気のようだ。そのまま肩を並べて、賑わう夜の街を縫うように歩いた。
陽気に肩を組んで騒ぐ若者。電柱に話しかける酔っぱらい。腕を組み傍目を憚らずにいちゃつくカップル。着飾って闊歩するおんな。その気を惹こうとするおとこ。くたびれたおっさんの群れ。看板を手に呼び込みをかける黒服。
そんな週末のありきたりな情景のうつろう目抜き通りの遥かむこうには、ターミナルの巨大なシルエットが、絶えることのない宙港の光彩とそこにときおり明滅する明かりを纏って聳えている。天人支配の象徴とも呼べるそれは、かつて爆破計画を遂行しようとしたほどに、桂にとって、いや攘夷派にとって忌むべきものであるはずだ。ふと土方はとなりに並ぶ整った横顔を見つめた。これを桂は日ごと夜ごと、どのような思いで眺めているのだろうか。
桂はまだどこかぼんやりとして、行き交う人々を見遣っている。土方の視線に気づくでもなく、その視界のなかにおそらく土方の姿はないのだろうと思わせた。やはり、妙だ。
「平和な光景だな」
ふいに桂がぽつりと呟く。
「…だな」
ふだんとどこかようすのちがう桂になんと応えたものか迷って、土方はつい先刻見たままの実感ですなおに相づちを打った。
「だが砂上の楼閣だ」
きっぱりと云い切ることばはいつものものだ。外圧に屈したうえで成り立っている繁栄など脆いものだと。けれど今夜は。
「それでもその平穏に生かされ暮らすものたちにとって、おれたちは悪なのだろうな」
そう付け足してことばを切った。
世を覆すのではなく世を改める。過激派から穏健派へとなった桂の指標を、ただ悪と決めつけるほど土方も青くはない。だからといって幕府の武装警察機構たる真選組として、受け容れられるものでもなかった。
桂にとっては、真選組は現体制の手足でしかないという認識であることを、あいにくと土方は承知していた。ぶっちゃけ、政治的思想のない集団だと思われていることも知っている。しょせんは武士に憧れて上京してきただけの田舎ものの集団が、自分たちを引き立ててくれた現幕府に忠節を誓っているだけなのだ。さらには土方自身の忠節が局長の近藤個人に向けられていることを桂のほうでも承知していたから、桂が思想的なあれこれを土方と論ずることはまずなかった。
その桂がめずらしく洩らしたことばに、土方は無意識のうちにつづきを待った。が、桂はそれきり往来のひとびとを眺め、そのむこう、彼方のターミナルに目をやるばかりだ。そこに土方が危惧したようなかつての激しい憎悪めいたものはなく、ただある種の寂寞じみたものを漂わせている。
そのさまに、背中に粟立つものを感じた。
どうしたんだ、いったい。
「なんだ。てめぇにしちゃあ弱気なせりふを吐くじゃねぇか」
弱気だと?あの桂が? 云いながら自問自答する。
「弱気? …そうだなぁ。そうなるのか」
桂にあっさりと頷かれ、却って土方はことばの継ぎ穂を探しあぐねることとなった。
そのままとぼとぼと連れ立ったまま歩む。両手に荷物を抱えた真選組の副長と水商売らしき美貌の女のふたり連れは傍目にさぞ奇異に映ったことだろう。往来から公園脇にさしかかったとき、思い出したように桂が口を開いた。
「昼間は」
木々に囲まれやわらかな橙の街灯に照らされた公園の、広場が少し奥まったあたりに見える。
「ここでたくさんのおやこ連れが遊んでいてな。夏のあいだは朝のらじお体操なるものもやっているのだ」
いまそこにその情景が見えるかのように、桂の眼差しはやわらかい。
「ああ。てめぇが参加してるってんで、うちの若いのが追っかけ回してたな」
「なんだ。知っておったのか」
ようやくその双眸が土方に向けられた。
「警察おちょくるのもたいがいにしとけよ。こっちは気が気じゃねぇ」
「おれをつかまえるのが貴様らの仕事だろう」
「だからだよ。おめぇをお縄にするときゃ俺がやる。ほかのやつに手柄を奪わせる気はねぇんだよ」
いつものくせで、桂が小首を傾げる。肩口に流されて結わかれた黒髪がさらりと音を立てるように揺れた。
「なら、いまここで手錠をかけろ」
莫迦にするでも冗談でもない口調で淡々と口にした桂に、思わずその顔を覗き込む。とたん、土方の鼓動が撥ねた。
「おい。…おめぇやっぱ変だぞ」
粟立った背中に冷たいものが走る。
「変じゃない。桂だ」
桂はまっすぐに土方を見つめてくる。その息苦しさを感じさせるほどの視線が、なおさらに土方の正体のない怖れを煽る。いつもの射抜かれるようなつよい眼差しでなく、どこかしら焦点が定まっていないようなあやうさがあった。
「あいにくといま、両手が塞がっている」
視線を逸らさぬままそれだけをことばにして返すのに、喉がひりつくほどの渇きを覚えた。ちがう。これは弱気などという生やさしいものではない。ここにいるのはほんとうに桂なのか。ヅラ子の姿をしたべつのだれかではないのか。
過激武闘派の雄・高杉晋助の例を鑑みるまでもなく、攘夷戦争の生き残りはみなどこかしらに闇を纏いあるいは仕舞い込んでいる。万事屋然りだ。あの始終死んだ魚のような目をしたおとこでさえ、逆鱗に触れられれば夜叉に豹変する。考えてみればわかることだ。桂だけが例外であるわけもない。
怒りと絶望を前向きな希望へと転換できるくらいに桂は粘り強く、底抜けにつよい。むしろそのつよさゆえ、桂の抱える闇はよりいっそう深い部分に沈殿しているのではないのか。
そんな過慮すら抱かせるのに充分なあやうさだった。
桂はしばらく土方をそのままじっと見つめていたが。
「そうか。そいつは残念だ」
そう呟いて視線を落とした。呪縛から解かれたように土方は大きく息を吐く。
「桂」
「一生に一度のちゃんすだったかもしれんのに、愚かなやつだ」
そのままかまっ娘倶楽部へのみちすじを進もうとした桂を、土方は周章てて止めた。
「ちょっとまて」
云いながら入り端の花壇の石積に荷物を下ろす。
「なんだ。つかまえる気になったのか? あいにく、もう遅いぞ」
立ち止まった桂が振り返る。そんなふうに云うくせに、その眸にはまだ先刻のあやうく空ろな色を湛えている。これは桂ではない。少なくとも土方の知るかぎりの桂ではない。
「抜かせ。お膳立てされてとっつかまえるなんざ御免被るって云ってんだ」
「それでは生涯、無駄骨を折るのだな」
つねの能面、高飛車なものいい。どれをとっても桂に相違ないのに。いったん湧き上がった未知のものへの怖れにも似た情動は、容易に土方から去ってはくれなかった。
莫迦な。なにを怖れるというんだ、いまさら。桂に惚れたと自覚したときから、いずれ地獄を見る覚悟だったんじゃねぇのか。
「無駄かどうか試してみやがれ。てめぇは死ぬまで、俺に追っかけられてりゃいいんだよ」
おのれを奮い立たせるように、語気を強める。
桂が、きょとんと目をまるくした。
「なんだ、それは。ぷろぽーずか。にしては垢抜けんな」
まるくなった目が悪戯っぽく煌めいたかと思うと、桂は能面のままで土方を揶揄う。
「るせぇ。だからてめぇはてめぇらしくしてりゃいいんだ」
そうだ、戻ってこい。
「時代錯誤の攘夷を唱えて、この世を正そうとしてんのがてめぇだろうが」
わずかにむっとした表情を、その玲瓏なおもてに浮かべて見せる。
「時代錯誤ではない。外来に威圧され他者に支配されるままの時代をゆるすほうがまちがっている」
その調子で、もどってこい、桂。
「だったらてめぇはそれをきっちり証明して見せやがれ。てめぇにほかになにができる」
われながら詭弁だと、土方は思った。
おのれはいま、怯えている。桂の抱える闇に触れるのを拒んでいる。
「そうじゃなきゃ、俺がてめぇを捕まえる意味がねぇ」
高杉のようにおのれの狂気に突き進むことも、銀時のように狂うおのれを懼れて退くこともできなかった桂は。背負った荷を投げ出すかわりに、ひとり荷ごと崖から身を躍らせるのか。
土方は目を閉じ二度三度首を振った。そんなことはさせない。ありえない。それが桂の狂気なら、そんな銃爪(ひきがね)は引かせない。
云い募る土方のさまをどう見たのか、桂はしばらく無言でいたが。やがて、ちいさく放るように呟いた。
「いまの世の恩恵を享受する芋侍が、抜かしてくれるわ」
その声音に反射的に顔をあげた土方の視線の先で、黒曜石の眸が苦笑する。
「桂…」
「つくづく恥ずかしいやつだ」
そう返されて、土方にもどっと羞恥が襲ってきた。いま口走っていたことばが、いまさらに意味を成してきたからだ。
「あ、や、その、あれだ」
その場を誤魔化そうと、無意識に懐の煙草に手が伸びる。
「しかと心得た」
その手の甲を桂のしなやかな指がそっと押さえた。
「やはり貴様のような芋侍に捕まってやるわけにはゆかぬ」
そう囁く口許が土方の間近に迫る。紫煙代わりに口唇に紅の感触を残して、そっと離れた。
「では、ゆくぞ。あまり遅れては西郷ママにどやされる」
「……え? あ、…」
呆気にとられる土方を余所に、さっさと往来へ向かう桂が、振り向きもせず手招いている。
「どうした、店まで運ぶと云ったは嘘か」
「武士に二言はねぇ」
我に返って土方は、周章てて荷物を抱えなおして、その背に叫んだ。
大股で追いかけて端麗な横顔を盗み見る。もうそこにいるのは、土方の知るいつもの桂だ。
ああ、二言はねぇ。俺がてめぇを追ってやる。追って追って追い続けてやる。だから、桂。これはその許しだろう。俺という存在の証だろう。おめぇのなかで、些たぁ意味があるんだと。
口唇に移された紅の味を、土方は舌先でそっと拭って嚙み締めた。
そう自惚れていいんだろう?
了 2009.11.11.
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西郷ママから頼まれたのだろう両手いっぱいの買いものを抱えて、冷え込んだ夜の街角を曲がる。向かいのファーストフード店の店頭を飾る白髭眼鏡のおっさんが、つい先日までのハロウィン仕様からクリスマス仕様に衣更えしているのに気がついたのか足をとめ、桂、もといヅラ子は小さく溜息をついた。まだ霜月の初めではないか。気の早いにもほどがある。とでも云いたいところなのだろう。
それでも街往くひとびとは、週末とあって、ひとあし早く訪れた冬のような夜に吐息を白く染めながらも笑いさんざめき、煌めくネオンの海に呑み込まれていく。ヅラ子の目のまえでも、学生らしき面々が店頭のサンタおじさんに違和感を感じるでもなく店のドアをくぐった。
まあ、これはこれでよいのかもしれない。ひと月半もまえからクリスマスを望めるくらいに平和なのだ。いまこの世の中は。それが商戦のひとつに過ぎないのだとしても。
土方は銜え煙草を吐き出して革靴の爪先で揉み消すと、その景色に向かって足を進めた。と、思い出したように舞い戻りその吸い殻を拾い上げて、隊服のポケットに落とす。気づかれて、また小言をくらってはたまらない。けれどもヅラ子はまだぼんやりと街往く人々を眺めているようだった。
土方はちかづきざま掬うようにヅラ子の手から買い物袋を引き取った。と、初めて気づいたようにあわてて手許を見返してくる。
「なにをする…、って、なんだ貴様か芋侍」
あいかわらずの口調だが、ヅラ子のときであれば桂は、隊服の土方でも忌避はしない。その程度にはもう馴染まれている。かまっ娘倶楽部にヅラ子のいるときには可能なかぎり通いつめているのだから、そのくらいの信用はようやく勝ち得たのだと思っていいだろうか。
「夜回りか」
「らしくもねぇな。どうした、ぼんやりして」
「べつに。ぼんやりなどしておらん」
いや、してたじゃねぇか。いくら土方のほうに殺気もなにもなかったとはいえ、この至近の距離まで桂が気配を察知しないというのがおかしい。
「惜しかったな。いまさっきのてめぇならかんたんに逮捕(パク)れたろうに」
桂は片眉を上げて、小ばかにしたように見返してくる。濃く紅のひかれたきれいなかたちの口唇が、端をわずかに擡げるだけの笑みを浮かべた。
「ではなぜそうしなかった」
ちくしょう。わかっているくせに、たちがわるい。土方は問い掛けを無視して荷物を手にさっさと歩き出す。桂の声が追いかけてきた。
「おい」
「店の買い出しなんだろう?」
「なんだ、運んでくれるのか」
「かっぱらいだとでも思ったのかよ」
「ずいぶんと親切なことだな」
と、追いついて歩を合わせる。桂は土方のしたいようにさせる気のようだ。そのまま肩を並べて、賑わう夜の街を縫うように歩いた。
陽気に肩を組んで騒ぐ若者。電柱に話しかける酔っぱらい。腕を組み傍目を憚らずにいちゃつくカップル。着飾って闊歩するおんな。その気を惹こうとするおとこ。くたびれたおっさんの群れ。看板を手に呼び込みをかける黒服。
そんな週末のありきたりな情景のうつろう目抜き通りの遥かむこうには、ターミナルの巨大なシルエットが、絶えることのない宙港の光彩とそこにときおり明滅する明かりを纏って聳えている。天人支配の象徴とも呼べるそれは、かつて爆破計画を遂行しようとしたほどに、桂にとって、いや攘夷派にとって忌むべきものであるはずだ。ふと土方はとなりに並ぶ整った横顔を見つめた。これを桂は日ごと夜ごと、どのような思いで眺めているのだろうか。
桂はまだどこかぼんやりとして、行き交う人々を見遣っている。土方の視線に気づくでもなく、その視界のなかにおそらく土方の姿はないのだろうと思わせた。やはり、妙だ。
「平和な光景だな」
ふいに桂がぽつりと呟く。
「…だな」
ふだんとどこかようすのちがう桂になんと応えたものか迷って、土方はつい先刻見たままの実感ですなおに相づちを打った。
「だが砂上の楼閣だ」
きっぱりと云い切ることばはいつものものだ。外圧に屈したうえで成り立っている繁栄など脆いものだと。けれど今夜は。
「それでもその平穏に生かされ暮らすものたちにとって、おれたちは悪なのだろうな」
そう付け足してことばを切った。
世を覆すのではなく世を改める。過激派から穏健派へとなった桂の指標を、ただ悪と決めつけるほど土方も青くはない。だからといって幕府の武装警察機構たる真選組として、受け容れられるものでもなかった。
桂にとっては、真選組は現体制の手足でしかないという認識であることを、あいにくと土方は承知していた。ぶっちゃけ、政治的思想のない集団だと思われていることも知っている。しょせんは武士に憧れて上京してきただけの田舎ものの集団が、自分たちを引き立ててくれた現幕府に忠節を誓っているだけなのだ。さらには土方自身の忠節が局長の近藤個人に向けられていることを桂のほうでも承知していたから、桂が思想的なあれこれを土方と論ずることはまずなかった。
その桂がめずらしく洩らしたことばに、土方は無意識のうちにつづきを待った。が、桂はそれきり往来のひとびとを眺め、そのむこう、彼方のターミナルに目をやるばかりだ。そこに土方が危惧したようなかつての激しい憎悪めいたものはなく、ただある種の寂寞じみたものを漂わせている。
そのさまに、背中に粟立つものを感じた。
どうしたんだ、いったい。
「なんだ。てめぇにしちゃあ弱気なせりふを吐くじゃねぇか」
弱気だと?あの桂が? 云いながら自問自答する。
「弱気? …そうだなぁ。そうなるのか」
桂にあっさりと頷かれ、却って土方はことばの継ぎ穂を探しあぐねることとなった。
そのままとぼとぼと連れ立ったまま歩む。両手に荷物を抱えた真選組の副長と水商売らしき美貌の女のふたり連れは傍目にさぞ奇異に映ったことだろう。往来から公園脇にさしかかったとき、思い出したように桂が口を開いた。
「昼間は」
木々に囲まれやわらかな橙の街灯に照らされた公園の、広場が少し奥まったあたりに見える。
「ここでたくさんのおやこ連れが遊んでいてな。夏のあいだは朝のらじお体操なるものもやっているのだ」
いまそこにその情景が見えるかのように、桂の眼差しはやわらかい。
「ああ。てめぇが参加してるってんで、うちの若いのが追っかけ回してたな」
「なんだ。知っておったのか」
ようやくその双眸が土方に向けられた。
「警察おちょくるのもたいがいにしとけよ。こっちは気が気じゃねぇ」
「おれをつかまえるのが貴様らの仕事だろう」
「だからだよ。おめぇをお縄にするときゃ俺がやる。ほかのやつに手柄を奪わせる気はねぇんだよ」
いつものくせで、桂が小首を傾げる。肩口に流されて結わかれた黒髪がさらりと音を立てるように揺れた。
「なら、いまここで手錠をかけろ」
莫迦にするでも冗談でもない口調で淡々と口にした桂に、思わずその顔を覗き込む。とたん、土方の鼓動が撥ねた。
「おい。…おめぇやっぱ変だぞ」
粟立った背中に冷たいものが走る。
「変じゃない。桂だ」
桂はまっすぐに土方を見つめてくる。その息苦しさを感じさせるほどの視線が、なおさらに土方の正体のない怖れを煽る。いつもの射抜かれるようなつよい眼差しでなく、どこかしら焦点が定まっていないようなあやうさがあった。
「あいにくといま、両手が塞がっている」
視線を逸らさぬままそれだけをことばにして返すのに、喉がひりつくほどの渇きを覚えた。ちがう。これは弱気などという生やさしいものではない。ここにいるのはほんとうに桂なのか。ヅラ子の姿をしたべつのだれかではないのか。
過激武闘派の雄・高杉晋助の例を鑑みるまでもなく、攘夷戦争の生き残りはみなどこかしらに闇を纏いあるいは仕舞い込んでいる。万事屋然りだ。あの始終死んだ魚のような目をしたおとこでさえ、逆鱗に触れられれば夜叉に豹変する。考えてみればわかることだ。桂だけが例外であるわけもない。
怒りと絶望を前向きな希望へと転換できるくらいに桂は粘り強く、底抜けにつよい。むしろそのつよさゆえ、桂の抱える闇はよりいっそう深い部分に沈殿しているのではないのか。
そんな過慮すら抱かせるのに充分なあやうさだった。
桂はしばらく土方をそのままじっと見つめていたが。
「そうか。そいつは残念だ」
そう呟いて視線を落とした。呪縛から解かれたように土方は大きく息を吐く。
「桂」
「一生に一度のちゃんすだったかもしれんのに、愚かなやつだ」
そのままかまっ娘倶楽部へのみちすじを進もうとした桂を、土方は周章てて止めた。
「ちょっとまて」
云いながら入り端の花壇の石積に荷物を下ろす。
「なんだ。つかまえる気になったのか? あいにく、もう遅いぞ」
立ち止まった桂が振り返る。そんなふうに云うくせに、その眸にはまだ先刻のあやうく空ろな色を湛えている。これは桂ではない。少なくとも土方の知るかぎりの桂ではない。
「抜かせ。お膳立てされてとっつかまえるなんざ御免被るって云ってんだ」
「それでは生涯、無駄骨を折るのだな」
つねの能面、高飛車なものいい。どれをとっても桂に相違ないのに。いったん湧き上がった未知のものへの怖れにも似た情動は、容易に土方から去ってはくれなかった。
莫迦な。なにを怖れるというんだ、いまさら。桂に惚れたと自覚したときから、いずれ地獄を見る覚悟だったんじゃねぇのか。
「無駄かどうか試してみやがれ。てめぇは死ぬまで、俺に追っかけられてりゃいいんだよ」
おのれを奮い立たせるように、語気を強める。
桂が、きょとんと目をまるくした。
「なんだ、それは。ぷろぽーずか。にしては垢抜けんな」
まるくなった目が悪戯っぽく煌めいたかと思うと、桂は能面のままで土方を揶揄う。
「るせぇ。だからてめぇはてめぇらしくしてりゃいいんだ」
そうだ、戻ってこい。
「時代錯誤の攘夷を唱えて、この世を正そうとしてんのがてめぇだろうが」
わずかにむっとした表情を、その玲瓏なおもてに浮かべて見せる。
「時代錯誤ではない。外来に威圧され他者に支配されるままの時代をゆるすほうがまちがっている」
その調子で、もどってこい、桂。
「だったらてめぇはそれをきっちり証明して見せやがれ。てめぇにほかになにができる」
われながら詭弁だと、土方は思った。
おのれはいま、怯えている。桂の抱える闇に触れるのを拒んでいる。
「そうじゃなきゃ、俺がてめぇを捕まえる意味がねぇ」
高杉のようにおのれの狂気に突き進むことも、銀時のように狂うおのれを懼れて退くこともできなかった桂は。背負った荷を投げ出すかわりに、ひとり荷ごと崖から身を躍らせるのか。
土方は目を閉じ二度三度首を振った。そんなことはさせない。ありえない。それが桂の狂気なら、そんな銃爪(ひきがね)は引かせない。
云い募る土方のさまをどう見たのか、桂はしばらく無言でいたが。やがて、ちいさく放るように呟いた。
「いまの世の恩恵を享受する芋侍が、抜かしてくれるわ」
その声音に反射的に顔をあげた土方の視線の先で、黒曜石の眸が苦笑する。
「桂…」
「つくづく恥ずかしいやつだ」
そう返されて、土方にもどっと羞恥が襲ってきた。いま口走っていたことばが、いまさらに意味を成してきたからだ。
「あ、や、その、あれだ」
その場を誤魔化そうと、無意識に懐の煙草に手が伸びる。
「しかと心得た」
その手の甲を桂のしなやかな指がそっと押さえた。
「やはり貴様のような芋侍に捕まってやるわけにはゆかぬ」
そう囁く口許が土方の間近に迫る。紫煙代わりに口唇に紅の感触を残して、そっと離れた。
「では、ゆくぞ。あまり遅れては西郷ママにどやされる」
「……え? あ、…」
呆気にとられる土方を余所に、さっさと往来へ向かう桂が、振り向きもせず手招いている。
「どうした、店まで運ぶと云ったは嘘か」
「武士に二言はねぇ」
我に返って土方は、周章てて荷物を抱えなおして、その背に叫んだ。
大股で追いかけて端麗な横顔を盗み見る。もうそこにいるのは、土方の知るいつもの桂だ。
ああ、二言はねぇ。俺がてめぇを追ってやる。追って追って追い続けてやる。だから、桂。これはその許しだろう。俺という存在の証だろう。おめぇのなかで、些たぁ意味があるんだと。
口唇に移された紅の味を、土方は舌先でそっと拭って嚙み締めた。
そう自惚れていいんだろう?
了 2009.11.11.
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