二十万打御礼リクエスト。
【銀桂前提で、沖桂であればなんでも。沖田にも良い思いをさせて】
【沖田は桂の凄さを改めて見直し、桂も沖田をちょっぴり認めてやるというような、ちょっとさわやかな男の友情(+α)的なもの】
沖桂。沖田と桂。と、銀時。
さわやか、ではないような…。
前後篇、前篇。
流血注意(R15相当)
師走の忙しない空気のなか、江戸から西へ向かう長距離高速バスは帰省の足にはいささか早く、年末恒例のライブやらイベントやらに向かうのだろう若者や、出張費を浮かせようというサラリーマンが散見できるくらいのものだ。
始発地から乗り込んだ、沖田の目的は尾張名古屋で開かれるという落語会である。
「おじさんはぁ、遠くでおっさんの話聞くよりぃ近くのキャバでかわいこちゃんのお話をぉ聞いていたいのよぅ」
と、警察庁長官松平から局長の近藤が譲り受けたというチケットは、年内での勇退を表明した人間国宝の落語家がトリをつとめる高座のもので、その引退公演の最終地となるのが芸どころと呼ばれるその土地だった。沖田の密かな落語好きを知る近藤が、有休込みで沖田にチケットを押しつけてきたのだ。
若年ではあっても真選組の一番隊隊長を張る沖田である。故郷に仕送りをする家族も持たぬ身では交通費などに頓着せず新幹線でも飛行機でも自由につかえたのだから、高速バスという移動手段を選んだのは、単なる気まぐれとしかいいようがない。もしくは星の巡り合わせというやつだ。
最後尾手前の一人掛けの席で、沖田はぼんやりと左手の窓外に流れる夜の街を眺めていた。高速バスも最初のうちは専用の乗車場で客を拾ってゆく。そのふたつめの停車場でどこかでみたような白いあたまが目に入った。スタジャン仕様の綿入れ袢纏に襟巻き姿という出で立ちで、近くにはベスパが止めてある。そのおとこの影になって見えないが、どうやらだれかを見送りに来ているらしかった。
その影になっていたひとの姿に、沖田は思わず身を乗りだす。窓を細く開けると、かすかに声が届いた。
「ではな、銀時。たすかった。おかげでまにあったぞ」
「帰ったら、礼はちゃんとしてもらうかんな」
「けちくさいことを云うな」
「親しき仲にも礼儀ありですー」
「貴様がそれを云うか」
そう返しながらもその白髪頭の耳もとでなにごとかを囁く。長い黒髪から覗く秀麗な横顔は、まぎれもなく桂だ。などとあらためて確認していたのは、その姿が常日頃の袷羽織姿とはかけ離れていたからだった。
桂の囁きに気をよくしたらしい白銀髪がわずかばかり相好を崩して、その黒髪におのれのしていた白い襟巻きをぶっきらぼうに巻き付ける。艶やかな黒髪にそれは映えたが、そのさまはどこかちくりと沖田の胸を刺した。
なにも知らないはたから見れば、それは束の間の別れを惜しむ恋人同士そのものだったろう。気づけば車内にちらほら散在する乗客も、見ず知らずのその白銀髪と黒髪の一対に、興味津々の態で窓越しに見入っている。
沖田は内心で舌を打った。
なんでィ。万事屋の旦那もけっこう大胆だ。天下の指名手配犯をこんなところまで見送りかい。
とはいえ、大胆なのはむしろ桂そのひとのほうなのだろう。変装しているとはいえ、江戸市中から堂々と幹線道路の高速バスに乗り込もうというのだから。
まあ、たしかに似合っちゃいるが。
最初沖田が目を疑ったのも、乗り込んできたその黒髪に周囲の乗客が勘違いして見蕩れたのも無理はない。すっぽりと黒い丈長の外套に蔽われた細身の、覗く足もとはやはり細く長い黒の革靴。黒絹の長手袋、長い黒髪、漆黒の眸。白いのは捲かれた襟巻きと、そこから覗く端麗なおもてばかりである。一見しておんなのようでもあり、それでいて紅のひとつもさしていないから、おんなとも云いきれぬような、不思議なあやうさを湛えていた。
余人の感覚からすればそれは、ミステリアスな美女、というのがいちばんしっくり来る形容だったろうけれど、あいにくと沖田はこの黒髪美人の正体を知っている。くわうるに、沖田には桂の美貌をいちばんに尊ぶような性向がない。むろん並はずれてきれいだと思うくらいの感覚は沖田にもあったが、肝心なところはそこではなく、そこにあたりまえのように存在する、常人離れしたつよさのほうなのだ。だから桂のこうした装いには、好奇以上のものは覚えない。
桂は周囲の視線に頓着するでなく平然と通路を闊歩して、沖田の斜め後ろ、最後尾の右手寄りの席に腰をかけた。すれ違いざまちらりと見遣った沖田の視線に、桂は一瞬驚いたように目を瞠ったが、袷袴に外套という私服姿の沖田を非番と見てか、敵意がないのを察してか、すました顔でやり過ごされる。
都心を離れるとバスは速度を上げた。もう休憩地点まで停まることはない。交通量は多いが渋滞することもなく、すいすいと飛んでゆく車窓の夜景を、吐いた息に曇る硝子を拭いながら、桂はしばらくのあいだ眺めていたが。やがてちいさな欠伸をして眸を閉じた。
きょうはあの白いのは連れずに単独行か。桂のことだからこうしたときは、たとえ眠っていてもどこかしら神経は起きているんだろう。最初は黒の美女に気を取られていた乗客たちも、やがてはうつらうつらと船を漕ぎ出す。みな明日にはたのしみな予定だったりたいせつな仕事だったりを抱えているのだろうから、眠っておかなければまずいのだ。
沖田は斜め後ろの桂の気配を全身で追いながら、それでもみなに倣って目を閉じた。沖田の唯一の娯楽は土方弄りだが、落語はそれなりに好きなのだ。名人の最後の生の高座を自らの睡眠不足で台無しにしたくはない。眠れるときにしっかり眠れるようにするのも武人の鍛錬のうちだ。そう呪文のように云いきかせながらなんとか睡りの淵に落ちた。
なにやらざわざわしているな。
刺すような皮膚感覚で、沖田は目覚めた。けれどいつのまにか寝静まっていた車内は車内灯も落とされて、斜め後ろの桂もまだ静かな寝息を立てている。
次いで前方を見遣ると、ひとり勤務中の運転士だけが窓外からの灯りに青く浮かび上がって見えた。いや、ひとりではない。そのかたわらに大きな男が立っているらしい、影があった。
沖田は無意識のうちに気配を殺してそのようすを窺っていた。なんだろう。なにも騒ぎなど起きていないのに、この皮膚が粟立つような感覚は。そのままじっと運転席を観察する。右手前方の運転士の青白い顔が、道路灯と対向車の灯りとにときおり浮かんでは消えた。
異変はたしかにあったのだ。運転士は一心に前方を睨みつけるようにして運転に集中している。否、集中しようとつとめている。あ、と沖田が思い至ったとき、追い越し車線を走り抜けていった大型車の灯りが、影になったおとこの立ち姿の手許を映しだした。なにも持っているわけではない。不自然に膨らんだ右の袂が無造作に運転席に突き出され、凶器を象っていただけだ。
それでも沖田には充分だった。
バズジャックかィ。また、めんどくせぇことに遭遇したもんでィ。
のんびりと口の中でだけ呟いて、あたまは急速に回転しはじめる。懐中の得物は短銃と見た。銃口の照準は運転士。この速度で運転士が射殺されたら、それだけでも被害は甚大だろう。犯人が金品要求型なら自分も乗っている以上そんな無茶はすまいが、自爆型ならヘタに刺激をするのは得策ではない。
あいにくと私服の沖田は帯刀していなかった。真選組といえども大江戸の遥か外では幕府直属の武装警察という威光は届かないし、まして私用での外出である。むろん心得として懐剣くらいは忍ばせているが。さて、これでどう、あの犯人を仕留めてやろうか。
たしかめるように懐に掌を当てた沖田の腕を、背後から音もなく伸びた黒い手指が押さえた。
沖田は思わず息を呑んだ。とっさに声を立てなかったのは半ば意地だった。桂だ。いつのまに目覚めていたのか。いや、沖田が寝息と判じたものがすでに詐術だったのだろう。それにしても、沖田の真後ろの席に身を移しているのに、毛ほどの気配も感じさせないとは。
桂は背後からそっと沖田の耳もとに口を寄せ、空気だけで囁いてくる。
袂。
そうひとこと桂に云われるがままに沖田が目をやると、短銃を覆った右袂ではない、ここからでは背に隠されて見えづらい左袂にも不自然なふくらみがあるようだ。
爆薬ですかィ?
おそらくな。
傍らの白いおもてに目だけで訪ねる沖田に、桂も軽く頷くことで応える。なんだか以心伝心っぽくて、こんなときだというのに、沖田の気分はちょっと弾んだ。
と、座席下をくぐらすように、沖田の両脚のあいだに黒鞘の業物が滑り込んできた。
なるほど。あの長い外套のうちに忍ばせていたというわけかィ。
しかしこれを沖田に託すということは。
す、と桂の気配が立ち上がり、つくりものめいた黒ずくめの姿が、あっというまに大男の背後を取った。おとこの右手首に手刀を落とし短銃を奪うや、もう一方の手がおとこの頸の付け根に伸ばされる。脊髄の急所をひと突きされておとこは膝から崩れ落ちた。
その一瞬の光景に驚いたようにあわてて動き出した人影を、沖田は見逃さなかった。
床の刀を拾い上げるや鞘を払い、座席をバネに沖田は跳躍した。
うごきを見せた乗客ふたりは、中央よりの左右の席。一閃、また一閃。たったの二振りで、握り込まれた爆薬や短銃ごと、四本の腕先が床に転がる。
あまりに静かなままに成された斬撃にようやく気づいた乗客たちがなにごとかと目を擦りはじめたときには、騒動は終わっていた。
「まだだ!」
ほっと息を吐いた沖田の耳を、低く抑えた、だが鋭い声が打った。
両腕を落とされ呻くおとこのうちのひとりに、前方から沖田の背を飛ぶように越えた桂が覆い被さるのが視界の隅に映る。呆気にとられる沖田の眼前で、桂はおとこの口中にその拳を押し込んでいた。
おとこがなおも奥歯で噛み切らんばかりにちからを込めるが、桂は顔を少し蹙めただけで、怯む気配もない。長い黒髪が白い頬と引き結ばれた朱唇にわずかに乱れて落ち掛かり、敵を射抜く漆黒の双眸だけが蒼い闇に光る。その艶姿に沖田は状況をわすれて見蕩れ魅入られた。これはまぎれもない羅刹だ。
そのまま空いているほうの手で、おとこの鳩尾を容赦なく突く。白目を剥いて失禁したのを確かめてから、桂は食い込んだ歯を取りのけながらおとこの口からやっと拳を引き出した。
噛み破られた黒い手袋を外して悶絶したおとこの口に拳代わりに突っ込みなおすと、両手首を失くし蹲って呻いている残るひとりにも念のため手ぬぐいで猿轡を咬まして、桂はようやく息を吐いた。
続 2009.12.20.
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師走の忙しない空気のなか、江戸から西へ向かう長距離高速バスは帰省の足にはいささか早く、年末恒例のライブやらイベントやらに向かうのだろう若者や、出張費を浮かせようというサラリーマンが散見できるくらいのものだ。
始発地から乗り込んだ、沖田の目的は尾張名古屋で開かれるという落語会である。
「おじさんはぁ、遠くでおっさんの話聞くよりぃ近くのキャバでかわいこちゃんのお話をぉ聞いていたいのよぅ」
と、警察庁長官松平から局長の近藤が譲り受けたというチケットは、年内での勇退を表明した人間国宝の落語家がトリをつとめる高座のもので、その引退公演の最終地となるのが芸どころと呼ばれるその土地だった。沖田の密かな落語好きを知る近藤が、有休込みで沖田にチケットを押しつけてきたのだ。
若年ではあっても真選組の一番隊隊長を張る沖田である。故郷に仕送りをする家族も持たぬ身では交通費などに頓着せず新幹線でも飛行機でも自由につかえたのだから、高速バスという移動手段を選んだのは、単なる気まぐれとしかいいようがない。もしくは星の巡り合わせというやつだ。
最後尾手前の一人掛けの席で、沖田はぼんやりと左手の窓外に流れる夜の街を眺めていた。高速バスも最初のうちは専用の乗車場で客を拾ってゆく。そのふたつめの停車場でどこかでみたような白いあたまが目に入った。スタジャン仕様の綿入れ袢纏に襟巻き姿という出で立ちで、近くにはベスパが止めてある。そのおとこの影になって見えないが、どうやらだれかを見送りに来ているらしかった。
その影になっていたひとの姿に、沖田は思わず身を乗りだす。窓を細く開けると、かすかに声が届いた。
「ではな、銀時。たすかった。おかげでまにあったぞ」
「帰ったら、礼はちゃんとしてもらうかんな」
「けちくさいことを云うな」
「親しき仲にも礼儀ありですー」
「貴様がそれを云うか」
そう返しながらもその白髪頭の耳もとでなにごとかを囁く。長い黒髪から覗く秀麗な横顔は、まぎれもなく桂だ。などとあらためて確認していたのは、その姿が常日頃の袷羽織姿とはかけ離れていたからだった。
桂の囁きに気をよくしたらしい白銀髪がわずかばかり相好を崩して、その黒髪におのれのしていた白い襟巻きをぶっきらぼうに巻き付ける。艶やかな黒髪にそれは映えたが、そのさまはどこかちくりと沖田の胸を刺した。
なにも知らないはたから見れば、それは束の間の別れを惜しむ恋人同士そのものだったろう。気づけば車内にちらほら散在する乗客も、見ず知らずのその白銀髪と黒髪の一対に、興味津々の態で窓越しに見入っている。
沖田は内心で舌を打った。
なんでィ。万事屋の旦那もけっこう大胆だ。天下の指名手配犯をこんなところまで見送りかい。
とはいえ、大胆なのはむしろ桂そのひとのほうなのだろう。変装しているとはいえ、江戸市中から堂々と幹線道路の高速バスに乗り込もうというのだから。
まあ、たしかに似合っちゃいるが。
最初沖田が目を疑ったのも、乗り込んできたその黒髪に周囲の乗客が勘違いして見蕩れたのも無理はない。すっぽりと黒い丈長の外套に蔽われた細身の、覗く足もとはやはり細く長い黒の革靴。黒絹の長手袋、長い黒髪、漆黒の眸。白いのは捲かれた襟巻きと、そこから覗く端麗なおもてばかりである。一見しておんなのようでもあり、それでいて紅のひとつもさしていないから、おんなとも云いきれぬような、不思議なあやうさを湛えていた。
余人の感覚からすればそれは、ミステリアスな美女、というのがいちばんしっくり来る形容だったろうけれど、あいにくと沖田はこの黒髪美人の正体を知っている。くわうるに、沖田には桂の美貌をいちばんに尊ぶような性向がない。むろん並はずれてきれいだと思うくらいの感覚は沖田にもあったが、肝心なところはそこではなく、そこにあたりまえのように存在する、常人離れしたつよさのほうなのだ。だから桂のこうした装いには、好奇以上のものは覚えない。
桂は周囲の視線に頓着するでなく平然と通路を闊歩して、沖田の斜め後ろ、最後尾の右手寄りの席に腰をかけた。すれ違いざまちらりと見遣った沖田の視線に、桂は一瞬驚いたように目を瞠ったが、袷袴に外套という私服姿の沖田を非番と見てか、敵意がないのを察してか、すました顔でやり過ごされる。
都心を離れるとバスは速度を上げた。もう休憩地点まで停まることはない。交通量は多いが渋滞することもなく、すいすいと飛んでゆく車窓の夜景を、吐いた息に曇る硝子を拭いながら、桂はしばらくのあいだ眺めていたが。やがてちいさな欠伸をして眸を閉じた。
きょうはあの白いのは連れずに単独行か。桂のことだからこうしたときは、たとえ眠っていてもどこかしら神経は起きているんだろう。最初は黒の美女に気を取られていた乗客たちも、やがてはうつらうつらと船を漕ぎ出す。みな明日にはたのしみな予定だったりたいせつな仕事だったりを抱えているのだろうから、眠っておかなければまずいのだ。
沖田は斜め後ろの桂の気配を全身で追いながら、それでもみなに倣って目を閉じた。沖田の唯一の娯楽は土方弄りだが、落語はそれなりに好きなのだ。名人の最後の生の高座を自らの睡眠不足で台無しにしたくはない。眠れるときにしっかり眠れるようにするのも武人の鍛錬のうちだ。そう呪文のように云いきかせながらなんとか睡りの淵に落ちた。
なにやらざわざわしているな。
刺すような皮膚感覚で、沖田は目覚めた。けれどいつのまにか寝静まっていた車内は車内灯も落とされて、斜め後ろの桂もまだ静かな寝息を立てている。
次いで前方を見遣ると、ひとり勤務中の運転士だけが窓外からの灯りに青く浮かび上がって見えた。いや、ひとりではない。そのかたわらに大きな男が立っているらしい、影があった。
沖田は無意識のうちに気配を殺してそのようすを窺っていた。なんだろう。なにも騒ぎなど起きていないのに、この皮膚が粟立つような感覚は。そのままじっと運転席を観察する。右手前方の運転士の青白い顔が、道路灯と対向車の灯りとにときおり浮かんでは消えた。
異変はたしかにあったのだ。運転士は一心に前方を睨みつけるようにして運転に集中している。否、集中しようとつとめている。あ、と沖田が思い至ったとき、追い越し車線を走り抜けていった大型車の灯りが、影になったおとこの立ち姿の手許を映しだした。なにも持っているわけではない。不自然に膨らんだ右の袂が無造作に運転席に突き出され、凶器を象っていただけだ。
それでも沖田には充分だった。
バズジャックかィ。また、めんどくせぇことに遭遇したもんでィ。
のんびりと口の中でだけ呟いて、あたまは急速に回転しはじめる。懐中の得物は短銃と見た。銃口の照準は運転士。この速度で運転士が射殺されたら、それだけでも被害は甚大だろう。犯人が金品要求型なら自分も乗っている以上そんな無茶はすまいが、自爆型ならヘタに刺激をするのは得策ではない。
あいにくと私服の沖田は帯刀していなかった。真選組といえども大江戸の遥か外では幕府直属の武装警察という威光は届かないし、まして私用での外出である。むろん心得として懐剣くらいは忍ばせているが。さて、これでどう、あの犯人を仕留めてやろうか。
たしかめるように懐に掌を当てた沖田の腕を、背後から音もなく伸びた黒い手指が押さえた。
沖田は思わず息を呑んだ。とっさに声を立てなかったのは半ば意地だった。桂だ。いつのまに目覚めていたのか。いや、沖田が寝息と判じたものがすでに詐術だったのだろう。それにしても、沖田の真後ろの席に身を移しているのに、毛ほどの気配も感じさせないとは。
桂は背後からそっと沖田の耳もとに口を寄せ、空気だけで囁いてくる。
袂。
そうひとこと桂に云われるがままに沖田が目をやると、短銃を覆った右袂ではない、ここからでは背に隠されて見えづらい左袂にも不自然なふくらみがあるようだ。
爆薬ですかィ?
おそらくな。
傍らの白いおもてに目だけで訪ねる沖田に、桂も軽く頷くことで応える。なんだか以心伝心っぽくて、こんなときだというのに、沖田の気分はちょっと弾んだ。
と、座席下をくぐらすように、沖田の両脚のあいだに黒鞘の業物が滑り込んできた。
なるほど。あの長い外套のうちに忍ばせていたというわけかィ。
しかしこれを沖田に託すということは。
す、と桂の気配が立ち上がり、つくりものめいた黒ずくめの姿が、あっというまに大男の背後を取った。おとこの右手首に手刀を落とし短銃を奪うや、もう一方の手がおとこの頸の付け根に伸ばされる。脊髄の急所をひと突きされておとこは膝から崩れ落ちた。
その一瞬の光景に驚いたようにあわてて動き出した人影を、沖田は見逃さなかった。
床の刀を拾い上げるや鞘を払い、座席をバネに沖田は跳躍した。
うごきを見せた乗客ふたりは、中央よりの左右の席。一閃、また一閃。たったの二振りで、握り込まれた爆薬や短銃ごと、四本の腕先が床に転がる。
あまりに静かなままに成された斬撃にようやく気づいた乗客たちがなにごとかと目を擦りはじめたときには、騒動は終わっていた。
「まだだ!」
ほっと息を吐いた沖田の耳を、低く抑えた、だが鋭い声が打った。
両腕を落とされ呻くおとこのうちのひとりに、前方から沖田の背を飛ぶように越えた桂が覆い被さるのが視界の隅に映る。呆気にとられる沖田の眼前で、桂はおとこの口中にその拳を押し込んでいた。
おとこがなおも奥歯で噛み切らんばかりにちからを込めるが、桂は顔を少し蹙めただけで、怯む気配もない。長い黒髪が白い頬と引き結ばれた朱唇にわずかに乱れて落ち掛かり、敵を射抜く漆黒の双眸だけが蒼い闇に光る。その艶姿に沖田は状況をわすれて見蕩れ魅入られた。これはまぎれもない羅刹だ。
そのまま空いているほうの手で、おとこの鳩尾を容赦なく突く。白目を剥いて失禁したのを確かめてから、桂は食い込んだ歯を取りのけながらおとこの口からやっと拳を引き出した。
噛み破られた黒い手袋を外して悶絶したおとこの口に拳代わりに突っ込みなおすと、両手首を失くし蹲って呻いている残るひとりにも念のため手ぬぐいで猿轡を咬まして、桂はようやく息を吐いた。
続 2009.12.20.
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