「天涯の遊子」高桂篇。
高杉と桂。
攘夷戦争終結(敗戦)以降、桂の江戸潜伏まえ。
連作的には山科潜伏期の序。『火影』の中盤あたり。『源平梅』よりまえ。
ようやく落ち着いたばかりのその屋敷の、廊下を渡り奥の間を覗いて、高杉は足を止めた。
「…めずらしい」
明かり障子の脇に置かれた文机のまえに端座したまま、桂がうとうとと船を漕いでいる。
支援者のつてもあり、攘夷存続のための拠点がほしいと請われもして、山科の外れに居を定めて、まだ数日。あれこれ忙しく立ち働いていたのは桂も高杉もおなじだったから、疲れているのだろうな、というのはわかる。が、桂が無防備な姿をさらしているというのは、妙に居心地がわるい。かといってせっかくの睡りを妨げる気にもなれず、高杉はそっとその傍らに腰をおろした。
つねの強い意志の光を宿す眸が閉ざされているためか、寝顔はやわらかく穏やかで、面差しは二十歳をすでにいくつか超えたその年齢(とし)よりもいくぶん幼げだ。長い睫が晩春の陽差しに頬にわずかな影を落としている。高い位置でまとめられた長い絹糸の黒髪が、風にそよいで時折その頬を掠めた。
無意識のしぐさで高杉の指がそっとその髪を掬う。気配に、桂の双眸が薄く瞬(まじろ)いだ。
「しんすけ…?」
伸ばした手のやり場に窮しながら、高杉は桂を見つめた。桂はそれには気もとめず、まだ半分睡りに足をつかまれたままにことばを継いだ。
「帰ったのか」
「ああ」
隠れ家の周辺をこの目で確認する、といって高杉がひとり散策にでたのは、朝餉をすませてまもなくのことだった。
「中食(ちゅうじき)は?」
ようやく、目覚めた態で桂が聞いてくる。
「いや。まだだ」
「そうか。なら、したくさせよう」
屋敷では同志のうちの有志が、ふたりの旗頭のために、飯炊きを買ってでてくれている。文机の読みかけの書物を閉じて立ち上がろうとして、桂はふいに高杉の髪に手を伸べてきた。おのれもついいましがた仮睡の桂にしていたくせに、されるのにはぎょっとして、高杉はわずかに身を固まらせる。
「なん、だよ」
「花片」
「は?」
桂は二本の指先で、高杉の髪からそのひとひらをそっとつまみ上げた。掌にのせて眺める。
「さくら…?」
「…奥山のほうまで、足を伸ばしたからな。それで、ついたんだろ」
桂の振る舞いに合点がいって、高杉はなぜだかほっとして応えた。
「こんなに遅い時期に? まだ咲き残っているのか」
「さあな。どこかから吹かれてきたんだろ。山桜は里のものにくらべれば時季も遅いし」
「そうか。そうだな。そんなよゆうもなかったからな」
そうだった。戦に身を投じてからも、しばらくは花見や月見に興じるゆとりがあったものだが。
師の影響か、高杉はむろんのことだが、桂も四季折々の風情をたのしむのを好む。桂がその花片をだいじそうに文机の甲板(こういた)に置くのを見て、思い立ったように高杉は立ち上がり、廊下へと踵を返す。振り返りもせず、云った。
「桂。山歩きのしたく、しておけ」
「は? おい、高杉?」
そのまま、高杉は厨へと向かった。
* * *
さくさくと、積み重なり朽ちた落ち葉を踏みしめて、小道を登る。ところどころで、木肌や枝葉の形状から山桜としれる木々を見かけたが、散り果てから新緑へと向かうものがほとんどで、晩い春には、はや初夏の兆しさえ窺える。
木洩れ日は穏やかに往く道の辺にさまざまな光の彩色を施し、こうして山道を辿ればうっすら汗ばむほどの麗らかさだ。
桂の先に立って奥山の中腹へと歩む高杉は、散策中、裾野から見かけた一点の、薄い桜色を目差していた。
先刻。厨から、竹筒の水、瓢箪の酒、葉蘭に包まれた握り飯、等々を調達してきた高杉に、桂は最初小首をかしげたが。ほどなく意図を察してかそれらを分けて風呂敷に包んだ。それぞれたすき掛けに背に負って、出立したのが半時ほどまえ。唐突に開けた視界に、それは飛び込んできた。
みごとな大木。あたりの散り果ての葉桜をよそに、こぼれ落ちんばかりに咲き誇る大樹は、なるほど、これなら一木だけでも遠目にそれとわかるはずだ。枝先に桜の手鞠をいくつも下げ、山桜らしく薄緑の若葉が彩りを添えている。山間を渡る風にひらひらと花弁を舞わせ、散り初めの樹下もまた、花片の毛氈のごとく桜色に染まっていた。
目を奪われ、しばし無言で見惚れていた高杉は、傍らに立つ桂の呟きに我に返った。
「え。なに?」
「おなじようには、散り損ねたのかと」
その言の葉に擬えた意味を、高杉は気づかぬふりで。
「山桜ってなぁ、いっせいに咲いて、いっせいに散るもんでも、あるめぇよ」
近年、里に殖えている染井吉野の桜とは、そこがちがう。
「うむ。こうして、後れてきた花見の客を、もてなしてくれるのだな」
桜色のやわらかな毛氈のうえに包んできた風呂敷をひろげ、真ん中にささやかな花見弁当一式を並べて、その端に座り込む。竹を伐り蒸し焼きにして表皮を削って仕上げただけの素朴な器に、おたがい注ぎあって、しずかに杯を合わせた。
二度の山歩きにさすがに腹が減った。食前の一杯だけを嗜んで、遅い昼食に取り掛かる。握り飯を包んだ葉蘭の一枚に、桂が御菜を取り分けて高杉の膝元に置いた。葉の緑に目にも鮮やかな黄金色の玉子焼きと、金平牛蒡。急ごしらえの弁当だから、まあこんなものだ。とはいえ、これを食せるいまはそれなりに恵まれている。
となりで桂は、握り飯をほおばりながら、はらはらと舞い落ちる桜花を倦かず眺めている。手にした食べ差しの握り飯にその花片がひとひら乗って、思わず微笑した。さきほど高杉の髪からのけたように、指先でそっとつまんで、ひらりと桜色の毛氈へと落とす。優美なしぐさと、ひさびさに見せたやわらかな笑みに、高杉は飯を忘れて見蕩れていた。気づいた桂が怪訝そうに見る。
「どうした。すすまぬのか? なかなか腕のいい飯炊きだぞ。ありがたい」
「ああ、いや。うまいぜ。花を浴びながらなんて、ぜいたくだ」
「夢のようだな」
数ヶ月まえの、あの血と雪に凍てついた凄惨な戦場(いくさば)からは想像もつかない。
「もうしわけがたたねぇな。俺らばっかり」
「逝ったもののぶんまで代わりに愛でるのも、手向けとなろうよ。残されたものには、それしかできぬ」
春は花、秋に月、冬の雪。
「つぎは笹でも飾って、五色の短冊でも書くか」
玉子焼きをひと切れつまんで口に放り込みながら、高杉は同調した。
哀しみ悼むよりも、すべきことを成し遂げることが、最高の手向けになる。おのれと、桂とで。
「願い事は、身長か? 晋助」
めずらしく揶揄うような口調で、桂が混ぜっ返した。思わず咽につまらせそうになって高杉は、周章てて竹筒の水を流し込む。横目で睨んだ。
「て、めぇ。なんでそれを。いや、なんの話だ、そりゃあ」
それは、まだ幼き日々。村の塾の師のもとで祝った折々の節供のひとつ。根が生真面目な桂が生真面目に願い事を書くそばで、高杉がこっそりと書く毎年の短冊のなかみは、たしかにそれだった。もうひとりの白髪頭の書くことは、たいがいが糖分か天パが直りますように、だったが。
狼狽を隠そうと取り繕う高杉を、さもおかしそうに微笑ってながめる桂に、くすぐったさと歯がゆさを、同時に覚える。
おのれのとなりで桂が笑う。それだけのことにこれほどに気分が和む。幼いころからそうだった。内面での喜怒哀楽の激しい高杉とはちがって、いささか短気であることを除けば桂は表情の変化の乏しい子どもだったから、その笑顔を見ることはむずかしく。あとから加わった白髪頭のとなりでたまに笑う姿を見かけると腹が立ち、ごく稀に自分にそれが向けられたときにはなぜだか天にも昇る心地だった。その理由に気づいたのは、もう少しあとのことだ。
桂はなにくれと高杉の世話を焼いたが、たいていは無表情で口うるさかったなかで、その笑顔だけはおつりがくるくらいの幸福感を運んできた。いつのまにか密かに張り合うように、白髪頭とその笑顔の取り合いをしていたようなものなのだが、桂とほぼ同じように成長していく白髪頭とは異なり、自分だけが届かぬ身長差が悔しくて。
けどそんなこと、きっと桂はわかっていない。その髪のようにまっすぐに、みずからの定めた途だけを見つめるおとこは、周囲のそんな感情になど、まるで頓着しなかった。むかしも、いまも。
ふたりで弁当をきれいにさらえて、あとはゆっくり花見酒だ。たがいに注ぎあい、ときに手酌でやりながら、ぽつりぽつりとたわいのない話を語らった。
晩春の風は温かく、花を降らせては、傍らを通り抜ける。幾度となく花片を浮かべる酒に、仕舞いにはのけることもせずに、そのまま口に運んだ。
桂は終始機嫌が好く、つられるように高杉もすっかり好い心持ちで、横になる。調子に乗って、極々幼いころのように桂にじゃれつき、酔ったふりで膝に頭を乗せてみても、桂は叱りもせず、空いた手で高杉の髪をなでてくる。
ゆるりとして繰り返されるそのやわらかな手のうごきに陶然となり、高杉は眸を閉じた。ああ、まずい。ほんとうに酔いそうだ。
「少し眠るか?」
「…ああ」
桂の問いかけに、ぼんやりと応えながら、手を伸ばす。まとめられた髪が肩越しに滑り落ちているのへ触れてみた。両横の少し残して流された髪に指を絡めて、梳くように下ろす。桂が苦笑した。
「こら。眠るなら、おとなしく寝んか」
「いいじゃねぇか。さわり心地がいいんだよ」
「この、酔っぱらい」
「てめぇの、せいだ」
ひとの気も知らないで。なにも気づかずに。
一陣の風が舞い、ひときわ散る桜は花吹雪となって、ふたりの視界を覆う。
桜花の闇に遮られたのをこれさいわいに、高杉はその髪を軽く引っ張った。痛くはなかったはずだが、桂はそのうごきにつられるように、顔を伏せてきた。高杉は茫洋として、至近に桂のおもてを眺める。桂と、視線が絡んだ。
そのまま手を滑らせ、桂のうなじに差し入れて引き寄せる。高杉の髪をなでていた桂の掌がその片頬を包んだ。
どちらからともなくちかづいた口唇が、口唇に触れる。やわらかく食んで、薄く開いたそこへ舌を差し入れた。高杉の触れた舌先は、仄かに桜の酒の味。
ああ、きっと、桂も酔っているのだ。
そうと意識しての初めての桂との交わりは、そんなふうに始まった。
了 2008.02.22.
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ようやく落ち着いたばかりのその屋敷の、廊下を渡り奥の間を覗いて、高杉は足を止めた。
「…めずらしい」
明かり障子の脇に置かれた文机のまえに端座したまま、桂がうとうとと船を漕いでいる。
支援者のつてもあり、攘夷存続のための拠点がほしいと請われもして、山科の外れに居を定めて、まだ数日。あれこれ忙しく立ち働いていたのは桂も高杉もおなじだったから、疲れているのだろうな、というのはわかる。が、桂が無防備な姿をさらしているというのは、妙に居心地がわるい。かといってせっかくの睡りを妨げる気にもなれず、高杉はそっとその傍らに腰をおろした。
つねの強い意志の光を宿す眸が閉ざされているためか、寝顔はやわらかく穏やかで、面差しは二十歳をすでにいくつか超えたその年齢(とし)よりもいくぶん幼げだ。長い睫が晩春の陽差しに頬にわずかな影を落としている。高い位置でまとめられた長い絹糸の黒髪が、風にそよいで時折その頬を掠めた。
無意識のしぐさで高杉の指がそっとその髪を掬う。気配に、桂の双眸が薄く瞬(まじろ)いだ。
「しんすけ…?」
伸ばした手のやり場に窮しながら、高杉は桂を見つめた。桂はそれには気もとめず、まだ半分睡りに足をつかまれたままにことばを継いだ。
「帰ったのか」
「ああ」
隠れ家の周辺をこの目で確認する、といって高杉がひとり散策にでたのは、朝餉をすませてまもなくのことだった。
「中食(ちゅうじき)は?」
ようやく、目覚めた態で桂が聞いてくる。
「いや。まだだ」
「そうか。なら、したくさせよう」
屋敷では同志のうちの有志が、ふたりの旗頭のために、飯炊きを買ってでてくれている。文机の読みかけの書物を閉じて立ち上がろうとして、桂はふいに高杉の髪に手を伸べてきた。おのれもついいましがた仮睡の桂にしていたくせに、されるのにはぎょっとして、高杉はわずかに身を固まらせる。
「なん、だよ」
「花片」
「は?」
桂は二本の指先で、高杉の髪からそのひとひらをそっとつまみ上げた。掌にのせて眺める。
「さくら…?」
「…奥山のほうまで、足を伸ばしたからな。それで、ついたんだろ」
桂の振る舞いに合点がいって、高杉はなぜだかほっとして応えた。
「こんなに遅い時期に? まだ咲き残っているのか」
「さあな。どこかから吹かれてきたんだろ。山桜は里のものにくらべれば時季も遅いし」
「そうか。そうだな。そんなよゆうもなかったからな」
そうだった。戦に身を投じてからも、しばらくは花見や月見に興じるゆとりがあったものだが。
師の影響か、高杉はむろんのことだが、桂も四季折々の風情をたのしむのを好む。桂がその花片をだいじそうに文机の甲板(こういた)に置くのを見て、思い立ったように高杉は立ち上がり、廊下へと踵を返す。振り返りもせず、云った。
「桂。山歩きのしたく、しておけ」
「は? おい、高杉?」
そのまま、高杉は厨へと向かった。
* * *
さくさくと、積み重なり朽ちた落ち葉を踏みしめて、小道を登る。ところどころで、木肌や枝葉の形状から山桜としれる木々を見かけたが、散り果てから新緑へと向かうものがほとんどで、晩い春には、はや初夏の兆しさえ窺える。
木洩れ日は穏やかに往く道の辺にさまざまな光の彩色を施し、こうして山道を辿ればうっすら汗ばむほどの麗らかさだ。
桂の先に立って奥山の中腹へと歩む高杉は、散策中、裾野から見かけた一点の、薄い桜色を目差していた。
先刻。厨から、竹筒の水、瓢箪の酒、葉蘭に包まれた握り飯、等々を調達してきた高杉に、桂は最初小首をかしげたが。ほどなく意図を察してかそれらを分けて風呂敷に包んだ。それぞれたすき掛けに背に負って、出立したのが半時ほどまえ。唐突に開けた視界に、それは飛び込んできた。
みごとな大木。あたりの散り果ての葉桜をよそに、こぼれ落ちんばかりに咲き誇る大樹は、なるほど、これなら一木だけでも遠目にそれとわかるはずだ。枝先に桜の手鞠をいくつも下げ、山桜らしく薄緑の若葉が彩りを添えている。山間を渡る風にひらひらと花弁を舞わせ、散り初めの樹下もまた、花片の毛氈のごとく桜色に染まっていた。
目を奪われ、しばし無言で見惚れていた高杉は、傍らに立つ桂の呟きに我に返った。
「え。なに?」
「おなじようには、散り損ねたのかと」
その言の葉に擬えた意味を、高杉は気づかぬふりで。
「山桜ってなぁ、いっせいに咲いて、いっせいに散るもんでも、あるめぇよ」
近年、里に殖えている染井吉野の桜とは、そこがちがう。
「うむ。こうして、後れてきた花見の客を、もてなしてくれるのだな」
桜色のやわらかな毛氈のうえに包んできた風呂敷をひろげ、真ん中にささやかな花見弁当一式を並べて、その端に座り込む。竹を伐り蒸し焼きにして表皮を削って仕上げただけの素朴な器に、おたがい注ぎあって、しずかに杯を合わせた。
二度の山歩きにさすがに腹が減った。食前の一杯だけを嗜んで、遅い昼食に取り掛かる。握り飯を包んだ葉蘭の一枚に、桂が御菜を取り分けて高杉の膝元に置いた。葉の緑に目にも鮮やかな黄金色の玉子焼きと、金平牛蒡。急ごしらえの弁当だから、まあこんなものだ。とはいえ、これを食せるいまはそれなりに恵まれている。
となりで桂は、握り飯をほおばりながら、はらはらと舞い落ちる桜花を倦かず眺めている。手にした食べ差しの握り飯にその花片がひとひら乗って、思わず微笑した。さきほど高杉の髪からのけたように、指先でそっとつまんで、ひらりと桜色の毛氈へと落とす。優美なしぐさと、ひさびさに見せたやわらかな笑みに、高杉は飯を忘れて見蕩れていた。気づいた桂が怪訝そうに見る。
「どうした。すすまぬのか? なかなか腕のいい飯炊きだぞ。ありがたい」
「ああ、いや。うまいぜ。花を浴びながらなんて、ぜいたくだ」
「夢のようだな」
数ヶ月まえの、あの血と雪に凍てついた凄惨な戦場(いくさば)からは想像もつかない。
「もうしわけがたたねぇな。俺らばっかり」
「逝ったもののぶんまで代わりに愛でるのも、手向けとなろうよ。残されたものには、それしかできぬ」
春は花、秋に月、冬の雪。
「つぎは笹でも飾って、五色の短冊でも書くか」
玉子焼きをひと切れつまんで口に放り込みながら、高杉は同調した。
哀しみ悼むよりも、すべきことを成し遂げることが、最高の手向けになる。おのれと、桂とで。
「願い事は、身長か? 晋助」
めずらしく揶揄うような口調で、桂が混ぜっ返した。思わず咽につまらせそうになって高杉は、周章てて竹筒の水を流し込む。横目で睨んだ。
「て、めぇ。なんでそれを。いや、なんの話だ、そりゃあ」
それは、まだ幼き日々。村の塾の師のもとで祝った折々の節供のひとつ。根が生真面目な桂が生真面目に願い事を書くそばで、高杉がこっそりと書く毎年の短冊のなかみは、たしかにそれだった。もうひとりの白髪頭の書くことは、たいがいが糖分か天パが直りますように、だったが。
狼狽を隠そうと取り繕う高杉を、さもおかしそうに微笑ってながめる桂に、くすぐったさと歯がゆさを、同時に覚える。
おのれのとなりで桂が笑う。それだけのことにこれほどに気分が和む。幼いころからそうだった。内面での喜怒哀楽の激しい高杉とはちがって、いささか短気であることを除けば桂は表情の変化の乏しい子どもだったから、その笑顔を見ることはむずかしく。あとから加わった白髪頭のとなりでたまに笑う姿を見かけると腹が立ち、ごく稀に自分にそれが向けられたときにはなぜだか天にも昇る心地だった。その理由に気づいたのは、もう少しあとのことだ。
桂はなにくれと高杉の世話を焼いたが、たいていは無表情で口うるさかったなかで、その笑顔だけはおつりがくるくらいの幸福感を運んできた。いつのまにか密かに張り合うように、白髪頭とその笑顔の取り合いをしていたようなものなのだが、桂とほぼ同じように成長していく白髪頭とは異なり、自分だけが届かぬ身長差が悔しくて。
けどそんなこと、きっと桂はわかっていない。その髪のようにまっすぐに、みずからの定めた途だけを見つめるおとこは、周囲のそんな感情になど、まるで頓着しなかった。むかしも、いまも。
ふたりで弁当をきれいにさらえて、あとはゆっくり花見酒だ。たがいに注ぎあい、ときに手酌でやりながら、ぽつりぽつりとたわいのない話を語らった。
晩春の風は温かく、花を降らせては、傍らを通り抜ける。幾度となく花片を浮かべる酒に、仕舞いにはのけることもせずに、そのまま口に運んだ。
桂は終始機嫌が好く、つられるように高杉もすっかり好い心持ちで、横になる。調子に乗って、極々幼いころのように桂にじゃれつき、酔ったふりで膝に頭を乗せてみても、桂は叱りもせず、空いた手で高杉の髪をなでてくる。
ゆるりとして繰り返されるそのやわらかな手のうごきに陶然となり、高杉は眸を閉じた。ああ、まずい。ほんとうに酔いそうだ。
「少し眠るか?」
「…ああ」
桂の問いかけに、ぼんやりと応えながら、手を伸ばす。まとめられた髪が肩越しに滑り落ちているのへ触れてみた。両横の少し残して流された髪に指を絡めて、梳くように下ろす。桂が苦笑した。
「こら。眠るなら、おとなしく寝んか」
「いいじゃねぇか。さわり心地がいいんだよ」
「この、酔っぱらい」
「てめぇの、せいだ」
ひとの気も知らないで。なにも気づかずに。
一陣の風が舞い、ひときわ散る桜は花吹雪となって、ふたりの視界を覆う。
桜花の闇に遮られたのをこれさいわいに、高杉はその髪を軽く引っ張った。痛くはなかったはずだが、桂はそのうごきにつられるように、顔を伏せてきた。高杉は茫洋として、至近に桂のおもてを眺める。桂と、視線が絡んだ。
そのまま手を滑らせ、桂のうなじに差し入れて引き寄せる。高杉の髪をなでていた桂の掌がその片頬を包んだ。
どちらからともなくちかづいた口唇が、口唇に触れる。やわらかく食んで、薄く開いたそこへ舌を差し入れた。高杉の触れた舌先は、仄かに桜の酒の味。
ああ、きっと、桂も酔っているのだ。
そうと意識しての初めての桂との交わりは、そんなふうに始まった。
了 2008.02.22.
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