「天涯の遊子」坂桂篇。終話。
坂本と桂。と、銀時。攘夷時代の回想で高杉。
紅桜以降、雪まつりよりまえ。
「おせーよ、ヅラ。銀さん腹減って死にそう」
「ヅラじゃない、桂だ。馳走目当てに奢られにきたくせに文句を云うな」
「てめーだって、奢られんだろうがよ」
「だから坂本には、詫びたろう」
「差別だよ差別。それって、ヅラくん」
「だからヅラじゃない」
桂だ、と延々つづけるふたりの掛け合い漫才に、坂本は豪快に笑う。
時が遡ったような錯覚を覚えた。欠けたひとりぶんの座を、さみしく思う。それでも、二の膳、三の膳、と続くうち、そこはやはり共有した時間の濃さと長さがものをいい、座はすっかり往時のごとくできあがった。
酒に強いのは桂だけで、坂本も銀時も呑んだぶんだけ呑まれるほうだから、
すっかり酔いも回って、いい心持ちでごろ寝を決め込む。
桂の膝を占領しようとした坂本が銀時の足蹴りに転がされ、また抱きつこうとしては羽交い締めにされる。いいかげんそれが繰り返されると、桂の癇が顔を覗かせて、ふたりともが、殴られる。
いつもそれを、桂の斜め向かいあたりの席で、静かに呑み続けながら眺めていた高杉はいない。
「バカ本」
銀時が呼ばわった。促された視線の先を坂本が見ると、ふたりを殴ったあともさきほどまでは淡々と杯をかさねていた桂が、杯を手にしたままうつらうつらとしだしている。と、ふわぁ、とちいさく欠伸をした。
「こりゃあーまた、かわいうてたまらん。昼間の会合でだれてしもうたんろうな」
云って、そばによる。
「小太郎。次の間に床を伸べてもらうがやき、ちっくとやすみいーや」
「んー。しかし…」
ねむそうな返事は語尾もあやしくて、その場で眠りにおちそうな勢いだ。
「遠慮は要らん。どうせ朝まで貸し切りやき」
坂本が仲居を呼んで事情を告げると、なじみの上客の頼みにいやな顔ひとつせず、手早くふとんを敷いてくれる。銀時は、睡魔にうごきのおぼつかない桂の、羽織を脱がせ、帯を弛めて、脇を支えて抱きかかえるようにして、寝かしつけた。
ぽんぽんとふとんの縁を叩いて、瞬く間に熟睡した桂を視認すると、つづきの間との襖を半ばほど締めて明かりを遮り、席に戻った。存外しっかりとしたその足取りに、坂本は苦笑した。やはり、食えないやつだ。まあ、おのれもだが。
「むかしっから、あーゆーとこあったよなぁ。ぎりぎりまで踏ん張ってるから
ぱたんと、落っこちる」
遮られた次の間に視線だけ向けて、銀時が話すともなく呟く。
「よほどことうたちやんろう。いい酒じゃったがだな」
小太郎にとっては。と坂本がつづけたのに、銀時はわずかに目線を泳がせた。
やはり、過ごした量ほどには酔えなかったのだ、とわかる。
それでも桂にとって銀時や坂本と過ごす時間が、ひとり往く途の孤独と高杉の不在の、わずかばかりの慰めにでもなるのなら。坂本が開くこの宴の意味はあったのだ。
「てめーが、疲れさせたんじゃねぇの?」
戻された銀時の目は、いつもの気怠げなままだ。
「ゆうべ」
感情は読みとれない。
「どうろうね」
坂本は口の端で笑んで、銚子に残った酒を探す。それに付き合って銚子を耳許で振りながら、銀時は淡々とつづけた。
「とぼけんな。ヅラがおまえを頼りにしてるのは知ってるし。おめーがヅラに甘かったこたぁ、公然の事実だったろうがよ」
云って、銚子をつまんだ残りの指先でおのれの首筋から肩口にかけてのあたりをつうっとなぞってみせる。しぐさで、なにを云わんとしているかは知れた。桂を寝かしつけたとき、わずかに乱れた髪から覗く耳許や、弛んだ襟元から覗いた首筋に、たしかな痕跡を見たのだろう。
「小太郎の、背をあずかっちょったがのはおんしじゃ。きっと最初に触れたのもおんしやか」
ふうん、と銀時はつぶやいて、残った酒をみつけては、銚子に集めていく。
「それ、わかってて、手ぇ出したわけね」
坂本がみつけたぶんも足して、ちょうどお銚子一本ぶんほどになった。
あらためて座して手酌で注ぐと、銀時は畳の上を滑らし、銚子を坂本のほうに押しやった。坂本も倣って注ぐ。
「出すもなんちゃーじゃ、おんしのががやないろう」
「…てめーのもんでもねぇよ」
「ほがなことはわかっちゅう」
「だろーね」
ぐいと飲み乾して銀時は、膝突き合わすあいだに置かれた銚子をまた傾ける。
「また殴られるんはごめんやき」
「そりゃ、謝ったろうがよ。ヅラに頼まれたおめーが、断れるわけがねえ」
云いながら、こんどは坂本の杯にも注いできた。
「口裏合わせくらいのことなら、いくら俺でもあそこまで切れねーよ」
その言に、少しひやりとする。
「ヅラが頼ったのがバカ本だったつうのが、ゆるせなかっただけだ」
気づいていたのかもしれない、あのとき、坂本と桂の共犯関係に。
「まっこと素直がやないな。ゆるせなかったがは、ほがな自分ろう」
惚れた相手はつねに背中合わせの対等に立つ存在で、守ろうにも護られることを必要としていなかった。いつのまにそれに慣れてか、桂の憂苦に気づけずにいた銀時には、それ以上を問うこともできず。あの一発で鎮めるしかなかったか。
「おめーもだ。素直じゃねえ。おめーがほんとに宇宙(そら)に連れ出したかったのは、俺じゃねーだろ」
注がれた酒を坂本は呷った。
「わしがおんしを勝っちょったがのはまっことのことちや。…ただ。おんしがいのおなったら、泣くと、桂さんが云うもがやきな」
銀時が意外そうに目を向ける。
「泣く?」
「ちっくといじめたくなったがだ。ほれと。おんしが望むならそうしてやってくれとも」
「…ヅラが?」
「はっきり口にゃださなかったが。おんしが、時折つらそうやき、と」
「…………」
「愛されちゅうなぁ。金時」
銀時の紅い双眸が揺れるのを、坂本は見つめた。
「…ふざけんな、あのやろう」
しばらくして絞り出された声は、不機嫌な色を纏っている。
「おんしは、まもられちゅう。桂さんに」
「るせーよ。俺とあいつは、そんなんじゃねえ」
庇護の対象ではないと悟れば、あとは対等であることが自然の、おたがいの間柄だった。背中をあずけ、あずけられた、唯一の相手だ。むしろ競い合うかの。銀時が云いたいのはそういうことだろう。だが現実には。
「ほりゃ、まもっちゅうという自覚はないろう。小太郎にも」
銀時はあたまを抱え込んだ。
思いあたるフシは多々あるんろう、と揶揄う口調で坂本が云えば、上目遣いに銀時が睨める。
「辰馬、てめーはなぁ」
むかしっから、ひとを落ち込ませやがる。そう返されて、坂本はからからと笑った。
「しょうまっこと、やっかいなおひとじゃ、あいとは」
そのやっかいな相手は襖の向こうで静かな寝息を立てている。奇矯ないびきも聞こえないから、穏やかに安らいで眠っているのだろう。無意識に流れていた視線を次の間から対面へと戻すと、おなじ事を感じていたらしい、たがいと目があった。
「わしは、ほがな小太郎を放っておけん」
坂本の、ぽつりと呟いた声からは、つねの脳天気さは窺えない。
「まもることなどおよびもしやーせんが、あいとの役に立ってやりたい。小太郎がわしをいるとするうちは、おんしに殴られようが離れん」
銀時は、わしわしと癖っ毛の白銀髪を掻いた。
「殴りゃしねーよ。んなことしたら、また、俺がヅラに殴られらぁ」
「きょうわしの誘いに乗ったがは、決着(はなし)をつけるためじゃーなかったがか」
掻きながらあさってのほうを見る。
「ナシつけるもなにも、土俵が違うんじゃ勝負にもならねぇ」
「わしは小太郎を好いちゅう。会えばまたうだくが、えいがか」
ちらりと、坂本を見遣った。
「そいつはできれば遠慮してもらいてぇ」
そのまま見据えてくる、眸の奥には焰(ほむら)が見える。消そうとしても消せない心底(しんてい)が覗く。
「が、まあ、おめーにだけ云ったところで、無駄だわな」
小さく、銀時は息を吐いた。
消せはしないし消す気もないのだろうが、ここで修羅場を演じるつもりもないのだろう。桂がいちど受け入れた相手を無下にできないことは、だれよりも銀時自身が承知しているはずだった。それがおのが信念の途の妨げにならぬかぎりは、桂はおおようだ。
「俺ぁいっぺんあいつ捨ててるし。あいては、おめーだけじゃねぇし?」
坂本相手にやきもきさせられている銀時に、なおのことやっかいな高杉の存在がある。
「俺はさ、辰馬」
妬心を奥に塗り込めていた紅い双眸が、ふと遠いもの見る眼差しになった。
「俺は桂のとなりで、死ぬまで立って走って、いてぇんだ」
ああ、そうなのだろうと坂本は思った。桂もきっとそうありたかったろう。だが、おのれのとなりで銀時が壊れそうになったとき、桂はいちどそれを捨てた。おのが希みを。銀時におのれを捨てさせることで、捨てたのだ。
桂は云った。いま自分といることで銀時がしあわせになるとは思わないと。桂のとなりに立つことの過酷さを、桂自身が無意識のまま自覚してしまっているのなら。あの強固な意志の、それをほぐすのは容易ではあるまい。
その荊棘(けいきょく)を。
「わかっちゅうか、銀時」
坂本は銚子を振って、名残の酒を杯に、ふたつに分ける。
黙して見ていた銀時は、その杯を持って掲げて目線まであげると、いったん軽く目を閉じて、また開く。なにかの儀式にも似て、坂本はそれを見守った。
「捨てられねーんだ。つかむしかねーだろうよ。両腕もがれようがな」
そう云って、にかりと笑って、杯を乾す。
このおとこが桂にそれをどう示すのか。それをよしとしたとき初めて、桂は坂本を必要とせずにすむだろう。
桂のためにその日がくることを願い、手にした杯を次の間の襖の影で眠る桂に向かって、掲げて。けれど、その日を思えばちくりと痛む、胸の奥底の未練を押し流すように。
坂本は、その杯をひといきに空けた。
了 2008.03.01.
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「おせーよ、ヅラ。銀さん腹減って死にそう」
「ヅラじゃない、桂だ。馳走目当てに奢られにきたくせに文句を云うな」
「てめーだって、奢られんだろうがよ」
「だから坂本には、詫びたろう」
「差別だよ差別。それって、ヅラくん」
「だからヅラじゃない」
桂だ、と延々つづけるふたりの掛け合い漫才に、坂本は豪快に笑う。
時が遡ったような錯覚を覚えた。欠けたひとりぶんの座を、さみしく思う。それでも、二の膳、三の膳、と続くうち、そこはやはり共有した時間の濃さと長さがものをいい、座はすっかり往時のごとくできあがった。
酒に強いのは桂だけで、坂本も銀時も呑んだぶんだけ呑まれるほうだから、
すっかり酔いも回って、いい心持ちでごろ寝を決め込む。
桂の膝を占領しようとした坂本が銀時の足蹴りに転がされ、また抱きつこうとしては羽交い締めにされる。いいかげんそれが繰り返されると、桂の癇が顔を覗かせて、ふたりともが、殴られる。
いつもそれを、桂の斜め向かいあたりの席で、静かに呑み続けながら眺めていた高杉はいない。
「バカ本」
銀時が呼ばわった。促された視線の先を坂本が見ると、ふたりを殴ったあともさきほどまでは淡々と杯をかさねていた桂が、杯を手にしたままうつらうつらとしだしている。と、ふわぁ、とちいさく欠伸をした。
「こりゃあーまた、かわいうてたまらん。昼間の会合でだれてしもうたんろうな」
云って、そばによる。
「小太郎。次の間に床を伸べてもらうがやき、ちっくとやすみいーや」
「んー。しかし…」
ねむそうな返事は語尾もあやしくて、その場で眠りにおちそうな勢いだ。
「遠慮は要らん。どうせ朝まで貸し切りやき」
坂本が仲居を呼んで事情を告げると、なじみの上客の頼みにいやな顔ひとつせず、手早くふとんを敷いてくれる。銀時は、睡魔にうごきのおぼつかない桂の、羽織を脱がせ、帯を弛めて、脇を支えて抱きかかえるようにして、寝かしつけた。
ぽんぽんとふとんの縁を叩いて、瞬く間に熟睡した桂を視認すると、つづきの間との襖を半ばほど締めて明かりを遮り、席に戻った。存外しっかりとしたその足取りに、坂本は苦笑した。やはり、食えないやつだ。まあ、おのれもだが。
「むかしっから、あーゆーとこあったよなぁ。ぎりぎりまで踏ん張ってるから
ぱたんと、落っこちる」
遮られた次の間に視線だけ向けて、銀時が話すともなく呟く。
「よほどことうたちやんろう。いい酒じゃったがだな」
小太郎にとっては。と坂本がつづけたのに、銀時はわずかに目線を泳がせた。
やはり、過ごした量ほどには酔えなかったのだ、とわかる。
それでも桂にとって銀時や坂本と過ごす時間が、ひとり往く途の孤独と高杉の不在の、わずかばかりの慰めにでもなるのなら。坂本が開くこの宴の意味はあったのだ。
「てめーが、疲れさせたんじゃねぇの?」
戻された銀時の目は、いつもの気怠げなままだ。
「ゆうべ」
感情は読みとれない。
「どうろうね」
坂本は口の端で笑んで、銚子に残った酒を探す。それに付き合って銚子を耳許で振りながら、銀時は淡々とつづけた。
「とぼけんな。ヅラがおまえを頼りにしてるのは知ってるし。おめーがヅラに甘かったこたぁ、公然の事実だったろうがよ」
云って、銚子をつまんだ残りの指先でおのれの首筋から肩口にかけてのあたりをつうっとなぞってみせる。しぐさで、なにを云わんとしているかは知れた。桂を寝かしつけたとき、わずかに乱れた髪から覗く耳許や、弛んだ襟元から覗いた首筋に、たしかな痕跡を見たのだろう。
「小太郎の、背をあずかっちょったがのはおんしじゃ。きっと最初に触れたのもおんしやか」
ふうん、と銀時はつぶやいて、残った酒をみつけては、銚子に集めていく。
「それ、わかってて、手ぇ出したわけね」
坂本がみつけたぶんも足して、ちょうどお銚子一本ぶんほどになった。
あらためて座して手酌で注ぐと、銀時は畳の上を滑らし、銚子を坂本のほうに押しやった。坂本も倣って注ぐ。
「出すもなんちゃーじゃ、おんしのががやないろう」
「…てめーのもんでもねぇよ」
「ほがなことはわかっちゅう」
「だろーね」
ぐいと飲み乾して銀時は、膝突き合わすあいだに置かれた銚子をまた傾ける。
「また殴られるんはごめんやき」
「そりゃ、謝ったろうがよ。ヅラに頼まれたおめーが、断れるわけがねえ」
云いながら、こんどは坂本の杯にも注いできた。
「口裏合わせくらいのことなら、いくら俺でもあそこまで切れねーよ」
その言に、少しひやりとする。
「ヅラが頼ったのがバカ本だったつうのが、ゆるせなかっただけだ」
気づいていたのかもしれない、あのとき、坂本と桂の共犯関係に。
「まっこと素直がやないな。ゆるせなかったがは、ほがな自分ろう」
惚れた相手はつねに背中合わせの対等に立つ存在で、守ろうにも護られることを必要としていなかった。いつのまにそれに慣れてか、桂の憂苦に気づけずにいた銀時には、それ以上を問うこともできず。あの一発で鎮めるしかなかったか。
「おめーもだ。素直じゃねえ。おめーがほんとに宇宙(そら)に連れ出したかったのは、俺じゃねーだろ」
注がれた酒を坂本は呷った。
「わしがおんしを勝っちょったがのはまっことのことちや。…ただ。おんしがいのおなったら、泣くと、桂さんが云うもがやきな」
銀時が意外そうに目を向ける。
「泣く?」
「ちっくといじめたくなったがだ。ほれと。おんしが望むならそうしてやってくれとも」
「…ヅラが?」
「はっきり口にゃださなかったが。おんしが、時折つらそうやき、と」
「…………」
「愛されちゅうなぁ。金時」
銀時の紅い双眸が揺れるのを、坂本は見つめた。
「…ふざけんな、あのやろう」
しばらくして絞り出された声は、不機嫌な色を纏っている。
「おんしは、まもられちゅう。桂さんに」
「るせーよ。俺とあいつは、そんなんじゃねえ」
庇護の対象ではないと悟れば、あとは対等であることが自然の、おたがいの間柄だった。背中をあずけ、あずけられた、唯一の相手だ。むしろ競い合うかの。銀時が云いたいのはそういうことだろう。だが現実には。
「ほりゃ、まもっちゅうという自覚はないろう。小太郎にも」
銀時はあたまを抱え込んだ。
思いあたるフシは多々あるんろう、と揶揄う口調で坂本が云えば、上目遣いに銀時が睨める。
「辰馬、てめーはなぁ」
むかしっから、ひとを落ち込ませやがる。そう返されて、坂本はからからと笑った。
「しょうまっこと、やっかいなおひとじゃ、あいとは」
そのやっかいな相手は襖の向こうで静かな寝息を立てている。奇矯ないびきも聞こえないから、穏やかに安らいで眠っているのだろう。無意識に流れていた視線を次の間から対面へと戻すと、おなじ事を感じていたらしい、たがいと目があった。
「わしは、ほがな小太郎を放っておけん」
坂本の、ぽつりと呟いた声からは、つねの脳天気さは窺えない。
「まもることなどおよびもしやーせんが、あいとの役に立ってやりたい。小太郎がわしをいるとするうちは、おんしに殴られようが離れん」
銀時は、わしわしと癖っ毛の白銀髪を掻いた。
「殴りゃしねーよ。んなことしたら、また、俺がヅラに殴られらぁ」
「きょうわしの誘いに乗ったがは、決着(はなし)をつけるためじゃーなかったがか」
掻きながらあさってのほうを見る。
「ナシつけるもなにも、土俵が違うんじゃ勝負にもならねぇ」
「わしは小太郎を好いちゅう。会えばまたうだくが、えいがか」
ちらりと、坂本を見遣った。
「そいつはできれば遠慮してもらいてぇ」
そのまま見据えてくる、眸の奥には焰(ほむら)が見える。消そうとしても消せない心底(しんてい)が覗く。
「が、まあ、おめーにだけ云ったところで、無駄だわな」
小さく、銀時は息を吐いた。
消せはしないし消す気もないのだろうが、ここで修羅場を演じるつもりもないのだろう。桂がいちど受け入れた相手を無下にできないことは、だれよりも銀時自身が承知しているはずだった。それがおのが信念の途の妨げにならぬかぎりは、桂はおおようだ。
「俺ぁいっぺんあいつ捨ててるし。あいては、おめーだけじゃねぇし?」
坂本相手にやきもきさせられている銀時に、なおのことやっかいな高杉の存在がある。
「俺はさ、辰馬」
妬心を奥に塗り込めていた紅い双眸が、ふと遠いもの見る眼差しになった。
「俺は桂のとなりで、死ぬまで立って走って、いてぇんだ」
ああ、そうなのだろうと坂本は思った。桂もきっとそうありたかったろう。だが、おのれのとなりで銀時が壊れそうになったとき、桂はいちどそれを捨てた。おのが希みを。銀時におのれを捨てさせることで、捨てたのだ。
桂は云った。いま自分といることで銀時がしあわせになるとは思わないと。桂のとなりに立つことの過酷さを、桂自身が無意識のまま自覚してしまっているのなら。あの強固な意志の、それをほぐすのは容易ではあるまい。
その荊棘(けいきょく)を。
「わかっちゅうか、銀時」
坂本は銚子を振って、名残の酒を杯に、ふたつに分ける。
黙して見ていた銀時は、その杯を持って掲げて目線まであげると、いったん軽く目を閉じて、また開く。なにかの儀式にも似て、坂本はそれを見守った。
「捨てられねーんだ。つかむしかねーだろうよ。両腕もがれようがな」
そう云って、にかりと笑って、杯を乾す。
このおとこが桂にそれをどう示すのか。それをよしとしたとき初めて、桂は坂本を必要とせずにすむだろう。
桂のためにその日がくることを願い、手にした杯を次の間の襖の影で眠る桂に向かって、掲げて。けれど、その日を思えばちくりと痛む、胸の奥底の未練を押し流すように。
坂本は、その杯をひといきに空けた。
了 2008.03.01.
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