幼さを残しながらも静謐な美貌はすでにその萌芽を見せ、卓越した剣の腕を持ちながらそれを想像だにさせぬ華奢で未成熟な肢体。ひとつに結わかれた長く漆黒の髪が、俊敏でしなやかなうごきに連れて雪肌に絡んでは解ける。苛烈な意志の光を宿す眸は、ただまっすぐにおのが行く途だけを見据えている。
* * *
攘夷の戦にそろって参戦し、ある一軍の末端に組み込まれてしばらくしたころ、事件は起こった。
田舎では桂の腕が立つのは知れ渡っていたから、そんな不埒な考えを起こすものとていなかったのだが。入り立ての軍の、しかも年少の部類とあってはそうもいかない。入隊時にいかに桂の剣の冴えを見せられていたところで、あの容姿にあの体躯である。邪なおもいを抱くものはすぐにも現れた。
それがただちに実行されなかったのは、影のようにぴったりと、銀時がそのそばに張りついていたからにほかならない。異形の豪腕はその異質さゆえに、入隊当初から目立っていた。ゆえに、愚昧な暴挙は銀時の不在時に謀られる。
銀時が上層部(うえ)の指令で渋々、隊の要人の警護に就かされたとき、そうした不穏な空気をどことなく感じとっていた高杉は、いやな予感を覚えた。
このころにはまだ、おのれの容姿が呼び起こし掻き立てる、ひとさまの感情というものにおよそ無関心だった桂は、自分がそうした不特定多数からの欲望の対象にされるなど考え及びもしなかったのだろう。もともとが、無愛想だが面倒見のいい性質(たち)である。くわうるにどこかしら抜けているのだ。
日中(ひなか)には汗ばむような陽気だった。折しも端午の節句に入り用とやらで、古参の兵たちに菖蒲を摘みに駆り出された。
ていのいい誘い出しだと、桂の不在に気づいた高杉がすぐにもあとを追ったが、遅かった。
駐屯地からほど近い雑木林の奥から、争う物音が聞こえてくる。どう云いくるめたのか、いかな桂でも大小を奪われ、屈強な年長者たち数名に同時に襲われたのでは、抵抗するにもかぎりがあった。野郎どもによってたかって組み敷かれ、猿轡を噛まされ、手足をばたつかせることすらままならぬ桂の有様が、高杉の目に飛び込んできた。
視界が色を失くした。否、紅く染まっていた。そのあとのいっときを、高杉は憶えていない。
「晋助!」
さっきから聞こえていたはずの、何度目かのその声にようやく我に返った。気がつけば、五・六名はいたかその全員が足もとに血まみれで転がっている。うしろから桂が羽交い締めのようにして、必死の様相で高杉のそれ以上の誅戮を阻んでいた。
「もういい。晋助」
ゆっくりと高杉は振り返った。
「小太郎…無事か」
桂がいまにも泣きそうな顔で、高杉の頬を撫でる。
「ばかもの。なぜここにいる…」
高杉の顔を両の掌で包み込みながら、こつん、と額を合わせた。
「すまぬ。おれが不用意だったばかりに、おまえにこのようなまねをさせた」
「莫迦か。当然の報いだ、こんなやつら。生かしておく価値なんか無ぇ」
桂が、こまったような泣き笑いの顔になる。
「そうかもしれんが、ここではおれたちはまだ下っ端だ。年長者を斬ったとあってはただではすむまい」
高杉は鼻で笑った。
「年少の新参者に多対一で無様にやられましたと、どの面下げて云うってぇんだ。しかもその理由が」
と、そこで云い淀む。口に出すのが憚られるというより、口にするのも汚らわしい。
「年少の新参者を陵辱しようとして、ではな」
あとを受けて、桂がどこか他人事のように云った。
「愚かだな…。このものらも。徒な気に迷うとは」
せっかく攘夷を志したものが、もったいない。
ふん、と高杉は、手にしていた刀を一振りして血を払うと、すでにうごかぬ兵士の着物で刀身を拭って鞘に納めた。
「さて、どうするか」
「いたしかたあるまい。ことの仔細をうえに報告したうえで、道理が通じぬようならここを離れるまでだ」
桂は手早く乱れた着衣を整えると、おのれを嬲り犯そうとした兵士たちの、瞼を閉じてやり両手を組ませていく。ったく。どこまで律儀なんだか。
「道理、とは?」
高杉がおもしろがるように、云わずもがなを問いかけた。
「貴様にだけ罰を下すとか、そうした理不尽な裁定が出ぬともかぎらん」
「てか、十中八九、そうなるんじゃねーの」
午後遅くに警護から帰還した銀時が、軍規に照らすという裁定を待つあいだとりあえずおとなしく一室に謹慎していた高杉と桂を、密かに訪なって云った。
「だろうな」
高杉は、附着した刀の血曇りを拭い、手入れしながらあっさり同意する。
「そのような隊なら、仕える甲斐もない」
桂は憮然として座したまま瞑目している。髪も着物もあらためられているが、ところどころに見え隠れする擦り傷や青痣が、痛々しい。
「んで、どうするよ?」
銀時が座り込んで、手にしていた荷を差し出し広げた。高杉と桂と銀時自身の、わずかばかりの私物すべてだ。にやりと高杉が笑った。
「気が利くじゃねぇか、銀時」
桂が目を開けて、その荷に視線を落とす。
「裁定を待たずに逐電するというのもな」
「んな、かてぇこと云ってる場合かよ。罰下ってからじゃ身動き取れなくなるでしょーが」
広げた荷物を銀時が各々に分けて、またそれぞれがひと包みにまとめる。
「そうそう。なにもここだけが攘夷の軍じゃねぇ。あんな下種(げす)を飼ってるようじゃ、底が知れてる」
桂は苦笑した。
「こういうときばかり、気が合うのだな。貴様らは」
荷を斜(はす)に背負い、さきに高杉が音もなく立ち上がった。
「見張りは?」
「陣の外回りにいつもの数。ここの入口のやつには俺が代わるからって、鼻薬嗅がせてあっから」
「ほぉ。そんな気の利いたものをなにか、てめぇ持ってたか?」
「なに。警護に付いたおっさんが気まえよくてな。駄賃くれたんで、ちょいとね」
「ちっ。ひとりでうまい仕事してやがる」
「行くぞ」
いつのまにか身支度を終えた桂が、そっと障子戸を開いて辺りを窺う。銀時の云うとおり、廊下に見張りの姿はない。これではだめだな、と桂が呟いた。
「こんな弛んだ隊では、先生の仇をとることも天人を追いやることも叶わぬ」
するりと滑り出て、外の闇に身を融け込ませた。高杉があとに続こうとするのへ、めずらしく銀時が目配せしてきた。足を止める。
「?」
「わるかったな。てか、あんがとな」
なにを、とは高杉は問わなかった。このいつも気怠げなおとこが目の色を変えるのは、唯一、桂が絡むときだけだ。ことの経緯に、内心、はらわたが煮えくり返っていただろう。
「てめぇのためにやったわけじゃねぇ」
ぶっきらぼうに返して外に出る高杉の背後で、銀時が低い声で呟いた。
「俺でもキレてる。つーか、そいつら、俺が殺りたかった」
ぞくりとするほどの声音で本気を纏わせた銀時に、高杉は奇妙な優越感とともに、かつてない実意を見た気がした。
こいつの桂への執着はほんものだ。高杉とかたちは違えど、桂を求めるこころのうちは、大差ない。
* * *
だから、ゆるせない。なおさらに。
どんな理由があるにせよ、どんな葛藤の末にでのことであっても、桂を放り出したことは、あのとき感じた銀時の実意そのものに対する裏切り行為だ。
直接目にしたわけではない、だがたしかにこの身に感じた桂のたったいちどの涙は、去った銀時に向けられたものだった。あの敗戦直後の夜陰に紛れ。
それにいつまでも義理立てするかのような桂が歯がゆくて、酒の勢いにまかせて押し倒したゆうべ。しらふで来いと桂に云われて、高杉はひとしきり笑った。その場は手を退いたのは、そのことばに従ったというより、高杉自身の気が失せたからだ。いや桂の反駁に乗せられたのだから、結果的には従ったことになるのか。
たぶん高杉が知る以上に、桂は銀時に惚れていた。そのくせ、すでに去った銀時には一線を引いていた。引いたうえで、出直せと高杉を拒んだのは、桂の無意識の誘惑だ。挑発と云ってもいい。
抱けるなら抱いてみろと云っている。高杉にその覚悟があるなら、愛おしんでやると云ってくる。
その高みから見下ろすかのさまがあまりに桂らしくて、高杉は笑った。
こいつ、好きだ。と、あらためて感じたのだから、いかんともしがたい。
ゆうべのことなどすでに遠い彼方の風情で、桂はその朝、庭に出ていた。浅い萌黄の羽織袴。高い位置でひとつにきちんとまとめられた長い髪が、仄かに風になびいている。
山科の隠れ家の中庭は、季節を告げる花木に彩られている。近くの山間も、ついさきごろまでは、桜花に染まっていた。季節の風流を愛でるのは高杉と桂の共通項のひとつで、その意味でもこの隠れ屋敷は得難い場所だった。
「なにしてんだ。朝っぱらから」
夜着のまま濡れ縁に出た高杉は、庭先に跪く桂の背に声を掛けた。
「また、そんなかっこうで」
振り返った桂が、眉を顰める。その手には菖蒲の葉。
「…ああ、もうそんな季節か」
応えを待たずに合点がいった高杉は、その足で庭に降り立つ。
桂が目を細めて、その長く尖った剣先のような葉を愛でた。
「よい香(か)だろう」
その桂の脳裡に浮かんでいるであろう情景を、高杉もまた思い浮かべていた。
上士の子である高杉の家には檜造りの立派な内風呂があったが、印象に残っているのは、桂の家の風呂であり、松陽宅のそれである。いまごろの時節、端午の節句には菖蒲湯で邪気を払う。花菖蒲とは似て非なるその地味な長剣状の植物は香り高く、菖蒲は尚武に通ずるとして古くより親しまれてきた風習だ。
文武両道の村塾では、端午の菖蒲湯は毎年欠かさず、子どもたちに供せられた。
桂の手から一葉奪い取って、高杉は鼻先にかざしてみる。
「今宵の湯の、たのしみだな」
「うむ」
「ゆうべの酒も抜ける」
ことばの裏の意味が通じたようだ。桂が、軽く睨む。
「不浄を祓うものだぞ、これは」
だがその眸は笑んでいる。だから高杉も、笑って云い返した。
「不浄じゃねぇよ。俺は」
桂が艶やかに微笑した。
「そうだったな。貴様が払ってくれたのだったな」
あのとき、邪な暴漢を。
「憶えてやがったのか」
菖蒲にまつわる、桂には、よい記憶のわけがない出来事。
「いまふと、思い出しただけだ」
うそかまことか。だが、桂ならさもありなん、とも思う。先生とのおもいでのほうが、ずっとずっとおおきいのだ。むろん高杉にとっても。
おもむろに高杉の手が桂の後ろ髪に回された。つ、と元結いを解けば、しなやかな重みを持って、絹糸の黒髪は結いあとも残さず、その背に肩に流れ落ちる。
「なかなか似合うぜ」
目を細める高杉に、咎めるでもなく、桂は着ていた羽織を落として夜着一枚の肩にかけた。
その夜の桂は、つねの匂いに菖蒲の香りが融け込んで、いっそう馨しく。そのえもいわれぬ香気が、高杉を深くゆるやかに包み込んだ。
了 2008.05.03.