連作「天涯の遊子」の序。長くなったので分割。
銀桂、というか、ほぼ銀→桂。微エロ注意。
呼吸を忘れて目を瞠る。真下にある桂の顔を、まじまじと見る。まるで裏腹な、めったに見せることのない、やわらかな表情をしていた。きれいだ。いつもこんなふうにしていたらいいのに。せつなくなるほどに、うつくしい。軽い目眩を、銀時は覚えた。そうだ、これを守りたいだけなのだ。それだけだったのに。惑乱に陥っていく。 俺が? 貴様が。 いなくなる? 泣かない。 桂のもとから? ああ。 坂本のように? ……。
ちがう、俺は。喉元まで出かかったことばは、なぜか声にならなかった。いや、ちがわない。ちがう、ちがう。ちがわない。桂に身をかさねたまま、銀時は返すべきことばを見失っていた。目眩がする。桂のことば。反芻する。
桂は身じろぎもせず、おのれの頬にあてられた銀時の両の手のごとく、その腕の内側を縫うようにして銀時の頬を包み込み、引き寄せる。微かに触れ合わされた口唇が囁いた。
「だから、案ずるな。貴様も、晋助も、辰馬も、みな等しく、おのが信念に基づいて生きる権利がある」
つよくたくましく冷徹なことばを、吐息のような口調で紡ぐ。
「桂…」
渾名で呼ぶことさえ忘れて、銀時は漆黒のその双眸を見つめた。
臈長けた闇色のそれに映しだされる、おのれの白と赤とが、不様にも揺らいでいるのがわかる。なんで、こいつは。こうもきっぱり云いきるのだろう。銀時の苦みを消すのも増すのも、自分だけだとわかっているのだろうか。
そしていつかその均衡が失われる時の来ることを。
予兆にも似た、そんなおもいを振り払うかのように、銀時は頬を包む桂の手を払うと。それ以上は桂の眸を見ていたくなくて、そのたおやかな首筋に顔を埋(うず)めた。
腕のなかの甘露は、ひときわ甘く匂い立ち、銀時を狂わせた。
* * *
あれはたしかに、予感だったのだと、いまにして銀時はおもう。
桂が漠然と感じていただけなのか、それを確信して覚悟していたのかは、わからない。桂が告げたとおり、銀時は、桂と途を違えた。そして高杉も。
いいや、ちがう。たしかに途は違えたが、銀時のそれは信念も理由も後付けだったようにおもう。あのときはただ、逃げたかっただけだ。背中をあずけあずけられ、だが守りきれずに明日失うかも知れない、繰り返されるその恐怖から逃れたかっただけなのだ。
おのれの弱さで、あのときたしかにこの世でいちばんたいせつだったものを、銀時は裏切った。美しく生きろといいながら、そのひとを戦場に残して、ひとり去った。
おのれという寄る辺ない存在に生きる意味を与えてくれた、ひとりを無為に死なせ、ひとりを自ら手放した。捨てたのは、あまつさえ、人斬りのこの身に理由と目的とを指し示し、ともに走ってきたツレだ。
否、捨てたのではない。捨てたくなどなかった。手放したかったわけじゃない。手放すしかできなかったのだ、もう。
桂にだけは生きていて欲しかった。おのれの隣で生きて欲しかった。いっそ攫って逃げたかった。けれどできるはずもなかった。桂がそれを、望まないのに。坂本は正しい。あいつの判断は正しかった。凛として、おのが信念を攘夷と定めやり抜くことを決意しているものを、連れ出してどうなるというのだ。
それはもう桂ではない。桂ではなくなる。銀時が戦場で、もはや白夜叉でもまして銀時自身でも、いられなくなったように。だから置いて逃げるしかなかったのだ。銀時が銀時であるために。桂が桂であるために。
だがしかし、坂本と決定的にちがっていたのは。
それが銀時にとってはすべてを失うに等しかったということだ。離れてみるまで、そうと気づかずにいたことだった。
空っぽになっても、腹は減る。生きろと云い残し、生きるために去ったのだから、どうあっても生きるしかなかった。それでもひとりでは立てもせず。お登勢に拾われ、また万事屋の子らを抱え込む。最後まで守れなかったのに、懲りもせず。せめてこんどはしかと、おのれの刀の届く範囲を見極めて。
そうしてようやくその歩幅に慣れかけたころ、目にした指名手配書に、ヅラがいた。
手配書の桂は、黒い髪を高く結い別れたときより幾分幼い姿をしていた。銀時はどこかで安堵した。ああ、生きている。まだどこかで闘っている。やっぱり、桂は桂だった。これでいい。生きていてさえくれたら、それで。もう二度と同じ天(そら)をともに戴くことはなくとも。もう二度と、あの甘露を、この身に味わうことはできずとも。
いちご牛乳を片手に、そう思っていた矢先。銀時のまえに、あっけらかんと姿を見せたのだ。桂は。
桂が銀時を探していた。探して見つけ出し、姿さえ晒した。その事実は銀時をとまどわせた。攘夷への意志の変わらぬ桂に対し、いまの銀時の立ち位置をはっきり告げた。そのときの桂はさみしげで、けれどどこかしらうれしそうにも見えた。わからない。こいつがわからない。いや、わかっている。ほんとうは。桂が銀時のしあわせを望んでくれていることだけは、疑いようもなかったから。
桂は、その後も口癖のように攘夷に誘う。そのくせ踏み込んではこない。時折、とんでもないペットととんでもないやっかいごとに巻き込んだりはするが、銀時のいまの生活の根本的な部分には、こころなしか距離を置いているようにさえおもう。
過激派だった桂一派が穏健派に変わっていったらしいことは、その身を秘かに案じる銀時からすれば喜ばしいことだったろう。が、変わった理由がどこにあるにせよ。幼いころからだれより近くにいた存在に、置かれた距離は、身に染みた。だがそれを詰り愚痴る立場にないことを、銀時は自覚していた。先に距離を置いたのは、銀時のほうだ。
その自覚という名の遠慮は、けれど、あらたな後悔を運ぶ。桂の身に及んだ危機を目の当たりにしたとき、銀時のなかで、圧し殺していたなにかが、弾けた。弾け飛んだ。
持ち主の意のないところで切り離されたひと束の黒髪。銀時が見紛うはずもないその艶やかな髪をなぶる行為は、桂を、実感のない死よりも、凌辱されたに等しく。
その刹那、銀時はいまを忘れた。
いまの自分を。取り巻く環境を。守るべきほかのものたちを。届く刀の距離を。捨てたはずの真剣を、ためらいもなく手にしてしまうほどに。
銀時にとっての桂はそういう存在だった。そこに、否応はない。
了 2007.12.23.
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呼吸を忘れて目を瞠る。真下にある桂の顔を、まじまじと見る。まるで裏腹な、めったに見せることのない、やわらかな表情をしていた。きれいだ。いつもこんなふうにしていたらいいのに。せつなくなるほどに、うつくしい。軽い目眩を、銀時は覚えた。そうだ、これを守りたいだけなのだ。それだけだったのに。惑乱に陥っていく。 俺が? 貴様が。 いなくなる? 泣かない。 桂のもとから? ああ。 坂本のように? ……。
ちがう、俺は。喉元まで出かかったことばは、なぜか声にならなかった。いや、ちがわない。ちがう、ちがう。ちがわない。桂に身をかさねたまま、銀時は返すべきことばを見失っていた。目眩がする。桂のことば。反芻する。
桂は身じろぎもせず、おのれの頬にあてられた銀時の両の手のごとく、その腕の内側を縫うようにして銀時の頬を包み込み、引き寄せる。微かに触れ合わされた口唇が囁いた。
「だから、案ずるな。貴様も、晋助も、辰馬も、みな等しく、おのが信念に基づいて生きる権利がある」
つよくたくましく冷徹なことばを、吐息のような口調で紡ぐ。
「桂…」
渾名で呼ぶことさえ忘れて、銀時は漆黒のその双眸を見つめた。
臈長けた闇色のそれに映しだされる、おのれの白と赤とが、不様にも揺らいでいるのがわかる。なんで、こいつは。こうもきっぱり云いきるのだろう。銀時の苦みを消すのも増すのも、自分だけだとわかっているのだろうか。
そしていつかその均衡が失われる時の来ることを。
予兆にも似た、そんなおもいを振り払うかのように、銀時は頬を包む桂の手を払うと。それ以上は桂の眸を見ていたくなくて、そのたおやかな首筋に顔を埋(うず)めた。
腕のなかの甘露は、ひときわ甘く匂い立ち、銀時を狂わせた。
* * *
あれはたしかに、予感だったのだと、いまにして銀時はおもう。
桂が漠然と感じていただけなのか、それを確信して覚悟していたのかは、わからない。桂が告げたとおり、銀時は、桂と途を違えた。そして高杉も。
いいや、ちがう。たしかに途は違えたが、銀時のそれは信念も理由も後付けだったようにおもう。あのときはただ、逃げたかっただけだ。背中をあずけあずけられ、だが守りきれずに明日失うかも知れない、繰り返されるその恐怖から逃れたかっただけなのだ。
おのれの弱さで、あのときたしかにこの世でいちばんたいせつだったものを、銀時は裏切った。美しく生きろといいながら、そのひとを戦場に残して、ひとり去った。
おのれという寄る辺ない存在に生きる意味を与えてくれた、ひとりを無為に死なせ、ひとりを自ら手放した。捨てたのは、あまつさえ、人斬りのこの身に理由と目的とを指し示し、ともに走ってきたツレだ。
否、捨てたのではない。捨てたくなどなかった。手放したかったわけじゃない。手放すしかできなかったのだ、もう。
桂にだけは生きていて欲しかった。おのれの隣で生きて欲しかった。いっそ攫って逃げたかった。けれどできるはずもなかった。桂がそれを、望まないのに。坂本は正しい。あいつの判断は正しかった。凛として、おのが信念を攘夷と定めやり抜くことを決意しているものを、連れ出してどうなるというのだ。
それはもう桂ではない。桂ではなくなる。銀時が戦場で、もはや白夜叉でもまして銀時自身でも、いられなくなったように。だから置いて逃げるしかなかったのだ。銀時が銀時であるために。桂が桂であるために。
だがしかし、坂本と決定的にちがっていたのは。
それが銀時にとってはすべてを失うに等しかったということだ。離れてみるまで、そうと気づかずにいたことだった。
空っぽになっても、腹は減る。生きろと云い残し、生きるために去ったのだから、どうあっても生きるしかなかった。それでもひとりでは立てもせず。お登勢に拾われ、また万事屋の子らを抱え込む。最後まで守れなかったのに、懲りもせず。せめてこんどはしかと、おのれの刀の届く範囲を見極めて。
そうしてようやくその歩幅に慣れかけたころ、目にした指名手配書に、ヅラがいた。
手配書の桂は、黒い髪を高く結い別れたときより幾分幼い姿をしていた。銀時はどこかで安堵した。ああ、生きている。まだどこかで闘っている。やっぱり、桂は桂だった。これでいい。生きていてさえくれたら、それで。もう二度と同じ天(そら)をともに戴くことはなくとも。もう二度と、あの甘露を、この身に味わうことはできずとも。
いちご牛乳を片手に、そう思っていた矢先。銀時のまえに、あっけらかんと姿を見せたのだ。桂は。
桂が銀時を探していた。探して見つけ出し、姿さえ晒した。その事実は銀時をとまどわせた。攘夷への意志の変わらぬ桂に対し、いまの銀時の立ち位置をはっきり告げた。そのときの桂はさみしげで、けれどどこかしらうれしそうにも見えた。わからない。こいつがわからない。いや、わかっている。ほんとうは。桂が銀時のしあわせを望んでくれていることだけは、疑いようもなかったから。
桂は、その後も口癖のように攘夷に誘う。そのくせ踏み込んではこない。時折、とんでもないペットととんでもないやっかいごとに巻き込んだりはするが、銀時のいまの生活の根本的な部分には、こころなしか距離を置いているようにさえおもう。
過激派だった桂一派が穏健派に変わっていったらしいことは、その身を秘かに案じる銀時からすれば喜ばしいことだったろう。が、変わった理由がどこにあるにせよ。幼いころからだれより近くにいた存在に、置かれた距離は、身に染みた。だがそれを詰り愚痴る立場にないことを、銀時は自覚していた。先に距離を置いたのは、銀時のほうだ。
その自覚という名の遠慮は、けれど、あらたな後悔を運ぶ。桂の身に及んだ危機を目の当たりにしたとき、銀時のなかで、圧し殺していたなにかが、弾けた。弾け飛んだ。
持ち主の意のないところで切り離されたひと束の黒髪。銀時が見紛うはずもないその艶やかな髪をなぶる行為は、桂を、実感のない死よりも、凌辱されたに等しく。
その刹那、銀時はいまを忘れた。
いまの自分を。取り巻く環境を。守るべきほかのものたちを。届く刀の距離を。捨てたはずの真剣を、ためらいもなく手にしてしまうほどに。
銀時にとっての桂はそういう存在だった。そこに、否応はない。
了 2007.12.23.
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