Armed angel #24 二期終幕後 ニルティエ+刹那
地上休暇のふたり。そのころ刹那は。リジェネもちょろっと。
故郷への旅路。気持ちR15で。
全四回、その1。
「ん」
淡くかさねられていた口唇がやわらかに食んで、吐息の隙を縫うようにして深く口腔を捉えた。
それまでおとなしくキスを受けていたティエリアの華奢な身が、ニールの腕のなかでぴくりと撥ねる。
「ん。あ、…ロックオン?」
わずかに離れたあいまに漏れ出た声が驚きと戸惑いに揺れるのを、無視して口接けを深めてくる。忍んできたざらりとした感触が混乱して慄く舌を絡め取り、つよく吸っては口蓋を擽る。
「んむ」
緑茶色のシャツの胸もとをつかむ五指が攣れてもがくのを、なだめすかすように軽く啄むようなキスに変えては、また深く舌を絡めた。
「ふ…んん。ロッ…オン、ロックオン…ストラトス」
初めて味わう驚愕から反射的に逃れようと強張っていた身から、ゆっくりとちからが抜けていく。代わってじわじわと痺れるような陶酔に全身が浸される。
「……っ」
かっくりとひざから落ちたティエリアの腰をちからづよい腕で攫い、ニールはようよう口接けをゆるめた。
「……な、に。いま……これ…」
思うように下肢にちからが入らない。まるで酩酊したかのようで、ニールの腕に抱き込まれたまま身を預けるしかできないでいる。
「ティエリア…」
口もとに笑みを浮かべやわらかに呼ぶ。そのくせその碧緑は隠しようもなくとろりとした熱を孕んでいる。
「な…んだ…?」
問う眼差しで碧緑を睨めるが、潤んだ紅玉では煽るだけだ。
「…真似、してみな」
まるで怒ってでもいるようにやや眉根を寄せ、低くそうひとこと告げただけで、ニールの舌はまたティエリアの舌を探り、つついては絡め、遊ぶようにティエリアを翻弄する。わけのわからないままむきになってキスを合わせてくるティエリアの、着衣越しにもなめらかな背をニールは愛おしげに撫でた。
「…ロックオ…、ん…、いいかげん…に…」
甘く蕩けた声でそれでも咎めるのへ、ニールはその鼻先をちゅっと啄む。
「恋人のキス、ってやつだ」
「……こいびと?」
ことばの意味はわかっているが、それが腑に落ちていないという顔に、苦笑が零れる。
「…俺とおまえさんのこと」
「そうなのか?」
「俺のほうはそのつもりなんだがね?」
ぎゅっと抱きしめた腕にちからがこもる。脱力したからだでは逃れるすべもなく、ティエリアはニールの肩に頬をあずけたまま、ぼんやりとうなずいた。
「これが…」
そのこめかみに口唇を寄せ、紫黒の髪に頬に瞼にちいさくキスを繰り返しながら、ティエリアの腰に回されたニールの腕は背から大腿にかけてをゆるやかに彷徨いつづけた。
あれはどこでだったろう。そう、まだラグランジュ3の秘密基地にいた。日々訓練に明け暮れるなかで、ティエリアの私室をニールが訪ねてくるのにもやっと慣れてきたころだ。
肩越しの視界は目映く白い。ならば宇宙(そら)ではない、地上に降りたときだ。掌で掬っては融けていくものの感触に囚われていた。すっかり冷えたその身をふいに包みこまれ、ふたつの碧緑が困ったような色を浮かべどこか苦しげに見つめてきた。
降り積もった新雪に、また雪が舞いはじめる。
おのれをまさぐる掌のうごきにティエリアは未知の感覚を味わっていたが、その意味するところを知らずにいた。ただ抱き寄せられた腕のなかのぬくもりに身を委ねるのが心地よかった。
もちろんいまはもう知っている。
骨張った長い指とおおきな掌が、この肌を滑るだけで腰に甘い痺れが走る。永遠にそれを失ったのだと諦観したのは、まだそんなに遠い過去ではない。
こんなことを思い出したのも───正確には記憶層の深くに沈んでいたものが表層に浮かびあがってきたのに過ぎないのだが───、おもうさま触れあうことがふたたび叶ったからか。
* * *
再会後初めてともに過ごした夜は情熱的に過ぎて、結局翌日の午後遅くまでティエリアは満足にうごけなかった。
ニールはチェックアウト時刻のまえに滞在延長をフロントにもうしでて幸いにも了承を得ると、ベッドの上でまるく蹲る紫黒の髪を撫でた。
「腹減っただろ。ルームサービスでも取るか、なにか買ってくるか?」
半身にデニムだけを身につけて起きあがったニールに、ティエリアはもぞもぞと掛布から顔を覗かせると、おのれを撫でるあたたかな掌に目を細めた。懐いた小動物のごときかわいらしさにニールは頬をゆるめ、内心でおのれに自制をかける。これでは今夜またおなじことを繰り返しかねない。
「ポテトシチューとブラウンブレッド。あと新鮮なフルーツが食べたい」
過去の経験から、食に対する拘りのうすいティエリアの口から明確な応えが返ってくるとは思わず、ニールは目をまるくする。が、そのリクエスト内容の意味するところに気づいて、愛しさとせつなさに胸が潰れた。
「キッチンがあればつくってやりたいところだな、それは」
つとめて軽く返して、込み上げてきたものにあわてて立ち上がり、緑茶色のTシャツをあたまから引っ被った。
ティエリアはバスタオルを肩に掛けただけの身を起こし、ベッドサイドに脱ぎ置かれていたファー付きの茶色いベストを手繰りよせる。むろん当時のものではないが、リジェネの用意したというニールの私服はかぎりなく記憶のなかのものに近い。
ニールにそれを手渡そうとして、胸ポケットに服地の感触ではない違和感を感じ無意識にそれを探った。
「…あ」
ティエリアの記憶層は瞬時に刻を遡って鮮やかにその状景を甦らせる。劣化防止の樹脂で加工された印画紙の銀塩写真のなかで、ティエリアの傍らに寄り添うように立つニールが笑っていた。
「………やはり持って出ていたのか、あのとき」
Tシャツを着終えてティエリアが手にしているものに気づき、ニールは照れ笑いを浮かべる。
「あー…。メットの内側に貼り付けて、出たんだ」
五年前の国連軍との決戦の際、真新しいメットでの出撃になったから。まじないのようなものだった。
「バイザー割れて死んだけど、爆発の閃光に飲み込まれたあともメットの頭部はかろうじて残ってて。その脳はおまえさんのGN粒子に護られて、その写真は…俺を回収したリジェネがとっておいてくれたらしい」
「……そうか」
ティエリアはやさしい手つきで懐かしむようにその写真のおもてを撫でた。
「いまもあの宿はあるだろうか。ころころの羊はシャムロックの緑の丘を駆け回っているのだろうな…」
思い出にはけしてならない、降り積もる記憶という名の茫漠たる広野のなかで、ティエリアは過去をどう見つめているのだろう。
「…行ってみるか?」
ニール自身は二度と訪なうつもりのなかった故国だが、つい口を吐いて出ていた。
降り立ったダブリンのエアポートから、無人タクシーに運ばれる。あのとき飛ばしたランチア・ラリーはもうニールの手許にはない。
「セメタリーには寄らないのか?」
無人タクシーに音声で宿近在までの行き先を告げるニールに、ティエリアは怪訝そうな顔をした。
「…俺はもうあの墓場のなかにいる側になってるからなぁ」
「でもあなたの家族も眠っている」
ことばの端々に変革したティエリアを感じる。
「ティエは、行きたいか?」
「ぼくは。世界の変革を果たすまではもう二度と訪なわないとあなたの墓前に誓った。…まだ志は半ばだ」
「じゃあ、いいさ。そのときで。俺たちはまだこのさきもずっと、それを見届けなけりゃならねぇんだから」
後部座席のとなりに腰を掛けて、ニールは紫黒の髪をぽんぽんと叩く。
けれど宿までの道すがら市街地を通り抜ける際になって、ニールはふいにそのルートを変えた。回り道を取ったというのが正確なところで、市街地の繁華街と呼べる一角の宝飾店に立ち寄ったのだ。
「ニール」
一昨晩の睦言が本気だったとティエリアが悟ったのは、半ば強引にその店のショーケースのまえに連れてこられたときだった。
伝統的デザインから新味を加えたものまで、さまざまなクラダーリングが銀の輝きを放っている。
ティエリアは薄浅葱のカーディガンに猫柳色のシャツ、白茶のチノパン。そのうえからきょうはふわりとした素材の深い灰紫のロングコートを纏っているから、男性と呼ぶにはたおやかに美しすぎたし、女性と見るにはまろやかさより凛とした潔さが勝っていた。けれど、襟元にファーをあしらったの灰褐色のジャケットに苔色のトレンチコートのニールとショーケースをまえに並ぶ姿は似合いの一対で、傍目からみれば長身の美男美女のカップルだったろう。
「ティエリア。手、出して」
「指輪はいらない」
ふるふると振られて紫黒の髪がかろやかに肩口で靡く。その口から呟かれた声がやわらかいが想像より低めだったことで、思わず見蕩れていた店員はますます男女の判断に迷う。しかしそこはプロの接客でそんなことはおくびにも出さず、ショーケースからこの不可思議な美人の指を飾るにふさわしいと思えるデザインのペアリングをいくつか取り出して、硝子ケースの上の天鵞絨のトレイに並べて見せた。
五年前にはどうもわかっていないふしの見受けられたこの指輪を贈ることの意味を、さすがにいまは理解しているらしいティエリアは、頑なに首を振る。
「もらえない」
並べられたリングを見つめながら、ティエリアは口唇を引き結んだ。なにやらわけありかと事情を汲んだ店員は、ごゆっくりごらんください、とその場を少し離れてショーケースを見通せる位置に控え、さりげなく見守っている。
「…俺といっしょにいてくれるんだろ?」
ティエリアの華奢な手指をとってニールは絡めるようにして指で遊んだ。ティエリアは黙ってこくりと肯く。
「なら、受け取ってくれよ」
清んだ硝子の紅玉が、覗き込むように見つめる碧緑を映した。
「ニール。ぼくはいざとなったら肉体を失うことを躊躇わない。そのとき身につけていたら、いっしょに失えてしまう。せっかくあなたに贈られたものを…そんなふうに失くしたくない」
ものに執着のないティエリアの、これ以上はない真摯なこたえに、ニールは双眸を撓める。
「気にすんな。なんどだって買ってやる」
「無駄な浪費だ」
「無駄でいい。浪費でいい。おまえがそのからだをだいじにしてくれるように贈るよ。その気持ちさえ持っていてくれれば、いざというとき失くしたってかまわねぇ。おまえはそのために存在しているんだから、俺はおまえを待って、そのたびにまた贈るから」
深紅の双眸が瞠られて、やがてわずかばかりの諦念とそれを凌駕する喜色が浮かぶ。
「それでいいなら。…おなじものをあなたも嵌めるのか?」
天鵞絨の上に並べられたリングがすべて、ふたつでひと組の対になっているのに気づいて、ティエリアはおのれの手に指を絡めるニールの手指を見た。
「ああ、もちろん。おなじ指におなじ指輪だ。どれがいい?」
白金細工だが宝石のあしらわれているわけでもないから、それほど値の張るものではない。ティエリアがえらんだのはそのなかでも一番シンプルな、ケルティックのクラダー・エンブレムが浮き彫りにされたドーム型のリングだった。
ティエリアの華奢な手指には伝統型や宝石の飾られた細工物よりこのくらいのほうがたしかに収まりがいい。エンゲージリングというよりは日常的に着けていても邪魔にならないマリッジリングと呼べるデザインだ。むろんティエリアはそんなことは知らないわけだが、その選択にニールはこころのうちで快哉を叫んだ。
「あとはサイズだな」
控えていた店員に合図を送り、ペアでオーダーする。内文字彫刻もその場で決めて、受け取りは後日だ。
支払いはCB時代に使っていたロックオン・ストラトスの偽IDに紐付けされた口座から、ふたりが地上での休暇を過ごすために新たに取った偽IDへと電子マネーをそっくり移行してつくられた個人口座を使用した。現在の地球連邦においてこうしたすべてはヴェーダによって統括されているのだから、ティエリアにはさほど複雑な手順を必要とするでもなく、ティエリア・アーデとしての口座も同様に処置されている。
ロックオン個人がニール・ディランディとして有していた財産は、死後すべてライルに譲渡されている。といってもランチア・ラリーがその主たるものだ。
リジェネのもとにいたときには日常生活と活動の元手すべてをそこに頼っていたわけで、それに比せば、どうあれ自ら稼いだ金が偽ID名義で保有されたまま存在しヴェーダのはからいで使えるようになったことに、ニールは安堵していた。むろんティエリアの協力があってこそなのだが。
地上での暮らしが長くなるなら新たな職を見つける必要もあるが、当面その可能性をニールは捨てている。老いのないこの生体でひとところに長くとどまるのには早晩無理がくることは明白だったし、幸いにもすぐに困らない程度の蓄えは残っている。すべてはティエリアの抱える使命しだいだろう。
無人タクシーは市街地から丘陵地へと抜けて、ころころ羊が草を食む放牧地が迫る。懐かしい光景にニールは目を細めた。
続 2012.08.29.
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「ん」
淡くかさねられていた口唇がやわらかに食んで、吐息の隙を縫うようにして深く口腔を捉えた。
それまでおとなしくキスを受けていたティエリアの華奢な身が、ニールの腕のなかでぴくりと撥ねる。
「ん。あ、…ロックオン?」
わずかに離れたあいまに漏れ出た声が驚きと戸惑いに揺れるのを、無視して口接けを深めてくる。忍んできたざらりとした感触が混乱して慄く舌を絡め取り、つよく吸っては口蓋を擽る。
「んむ」
緑茶色のシャツの胸もとをつかむ五指が攣れてもがくのを、なだめすかすように軽く啄むようなキスに変えては、また深く舌を絡めた。
「ふ…んん。ロッ…オン、ロックオン…ストラトス」
初めて味わう驚愕から反射的に逃れようと強張っていた身から、ゆっくりとちからが抜けていく。代わってじわじわと痺れるような陶酔に全身が浸される。
「……っ」
かっくりとひざから落ちたティエリアの腰をちからづよい腕で攫い、ニールはようよう口接けをゆるめた。
「……な、に。いま……これ…」
思うように下肢にちからが入らない。まるで酩酊したかのようで、ニールの腕に抱き込まれたまま身を預けるしかできないでいる。
「ティエリア…」
口もとに笑みを浮かべやわらかに呼ぶ。そのくせその碧緑は隠しようもなくとろりとした熱を孕んでいる。
「な…んだ…?」
問う眼差しで碧緑を睨めるが、潤んだ紅玉では煽るだけだ。
「…真似、してみな」
まるで怒ってでもいるようにやや眉根を寄せ、低くそうひとこと告げただけで、ニールの舌はまたティエリアの舌を探り、つついては絡め、遊ぶようにティエリアを翻弄する。わけのわからないままむきになってキスを合わせてくるティエリアの、着衣越しにもなめらかな背をニールは愛おしげに撫でた。
「…ロックオ…、ん…、いいかげん…に…」
甘く蕩けた声でそれでも咎めるのへ、ニールはその鼻先をちゅっと啄む。
「恋人のキス、ってやつだ」
「……こいびと?」
ことばの意味はわかっているが、それが腑に落ちていないという顔に、苦笑が零れる。
「…俺とおまえさんのこと」
「そうなのか?」
「俺のほうはそのつもりなんだがね?」
ぎゅっと抱きしめた腕にちからがこもる。脱力したからだでは逃れるすべもなく、ティエリアはニールの肩に頬をあずけたまま、ぼんやりとうなずいた。
「これが…」
そのこめかみに口唇を寄せ、紫黒の髪に頬に瞼にちいさくキスを繰り返しながら、ティエリアの腰に回されたニールの腕は背から大腿にかけてをゆるやかに彷徨いつづけた。
あれはどこでだったろう。そう、まだラグランジュ3の秘密基地にいた。日々訓練に明け暮れるなかで、ティエリアの私室をニールが訪ねてくるのにもやっと慣れてきたころだ。
肩越しの視界は目映く白い。ならば宇宙(そら)ではない、地上に降りたときだ。掌で掬っては融けていくものの感触に囚われていた。すっかり冷えたその身をふいに包みこまれ、ふたつの碧緑が困ったような色を浮かべどこか苦しげに見つめてきた。
降り積もった新雪に、また雪が舞いはじめる。
おのれをまさぐる掌のうごきにティエリアは未知の感覚を味わっていたが、その意味するところを知らずにいた。ただ抱き寄せられた腕のなかのぬくもりに身を委ねるのが心地よかった。
もちろんいまはもう知っている。
骨張った長い指とおおきな掌が、この肌を滑るだけで腰に甘い痺れが走る。永遠にそれを失ったのだと諦観したのは、まだそんなに遠い過去ではない。
こんなことを思い出したのも───正確には記憶層の深くに沈んでいたものが表層に浮かびあがってきたのに過ぎないのだが───、おもうさま触れあうことがふたたび叶ったからか。
* * *
再会後初めてともに過ごした夜は情熱的に過ぎて、結局翌日の午後遅くまでティエリアは満足にうごけなかった。
ニールはチェックアウト時刻のまえに滞在延長をフロントにもうしでて幸いにも了承を得ると、ベッドの上でまるく蹲る紫黒の髪を撫でた。
「腹減っただろ。ルームサービスでも取るか、なにか買ってくるか?」
半身にデニムだけを身につけて起きあがったニールに、ティエリアはもぞもぞと掛布から顔を覗かせると、おのれを撫でるあたたかな掌に目を細めた。懐いた小動物のごときかわいらしさにニールは頬をゆるめ、内心でおのれに自制をかける。これでは今夜またおなじことを繰り返しかねない。
「ポテトシチューとブラウンブレッド。あと新鮮なフルーツが食べたい」
過去の経験から、食に対する拘りのうすいティエリアの口から明確な応えが返ってくるとは思わず、ニールは目をまるくする。が、そのリクエスト内容の意味するところに気づいて、愛しさとせつなさに胸が潰れた。
「キッチンがあればつくってやりたいところだな、それは」
つとめて軽く返して、込み上げてきたものにあわてて立ち上がり、緑茶色のTシャツをあたまから引っ被った。
ティエリアはバスタオルを肩に掛けただけの身を起こし、ベッドサイドに脱ぎ置かれていたファー付きの茶色いベストを手繰りよせる。むろん当時のものではないが、リジェネの用意したというニールの私服はかぎりなく記憶のなかのものに近い。
ニールにそれを手渡そうとして、胸ポケットに服地の感触ではない違和感を感じ無意識にそれを探った。
「…あ」
ティエリアの記憶層は瞬時に刻を遡って鮮やかにその状景を甦らせる。劣化防止の樹脂で加工された印画紙の銀塩写真のなかで、ティエリアの傍らに寄り添うように立つニールが笑っていた。
「………やはり持って出ていたのか、あのとき」
Tシャツを着終えてティエリアが手にしているものに気づき、ニールは照れ笑いを浮かべる。
「あー…。メットの内側に貼り付けて、出たんだ」
五年前の国連軍との決戦の際、真新しいメットでの出撃になったから。まじないのようなものだった。
「バイザー割れて死んだけど、爆発の閃光に飲み込まれたあともメットの頭部はかろうじて残ってて。その脳はおまえさんのGN粒子に護られて、その写真は…俺を回収したリジェネがとっておいてくれたらしい」
「……そうか」
ティエリアはやさしい手つきで懐かしむようにその写真のおもてを撫でた。
「いまもあの宿はあるだろうか。ころころの羊はシャムロックの緑の丘を駆け回っているのだろうな…」
思い出にはけしてならない、降り積もる記憶という名の茫漠たる広野のなかで、ティエリアは過去をどう見つめているのだろう。
「…行ってみるか?」
ニール自身は二度と訪なうつもりのなかった故国だが、つい口を吐いて出ていた。
降り立ったダブリンのエアポートから、無人タクシーに運ばれる。あのとき飛ばしたランチア・ラリーはもうニールの手許にはない。
「セメタリーには寄らないのか?」
無人タクシーに音声で宿近在までの行き先を告げるニールに、ティエリアは怪訝そうな顔をした。
「…俺はもうあの墓場のなかにいる側になってるからなぁ」
「でもあなたの家族も眠っている」
ことばの端々に変革したティエリアを感じる。
「ティエは、行きたいか?」
「ぼくは。世界の変革を果たすまではもう二度と訪なわないとあなたの墓前に誓った。…まだ志は半ばだ」
「じゃあ、いいさ。そのときで。俺たちはまだこのさきもずっと、それを見届けなけりゃならねぇんだから」
後部座席のとなりに腰を掛けて、ニールは紫黒の髪をぽんぽんと叩く。
けれど宿までの道すがら市街地を通り抜ける際になって、ニールはふいにそのルートを変えた。回り道を取ったというのが正確なところで、市街地の繁華街と呼べる一角の宝飾店に立ち寄ったのだ。
「ニール」
一昨晩の睦言が本気だったとティエリアが悟ったのは、半ば強引にその店のショーケースのまえに連れてこられたときだった。
伝統的デザインから新味を加えたものまで、さまざまなクラダーリングが銀の輝きを放っている。
ティエリアは薄浅葱のカーディガンに猫柳色のシャツ、白茶のチノパン。そのうえからきょうはふわりとした素材の深い灰紫のロングコートを纏っているから、男性と呼ぶにはたおやかに美しすぎたし、女性と見るにはまろやかさより凛とした潔さが勝っていた。けれど、襟元にファーをあしらったの灰褐色のジャケットに苔色のトレンチコートのニールとショーケースをまえに並ぶ姿は似合いの一対で、傍目からみれば長身の美男美女のカップルだったろう。
「ティエリア。手、出して」
「指輪はいらない」
ふるふると振られて紫黒の髪がかろやかに肩口で靡く。その口から呟かれた声がやわらかいが想像より低めだったことで、思わず見蕩れていた店員はますます男女の判断に迷う。しかしそこはプロの接客でそんなことはおくびにも出さず、ショーケースからこの不可思議な美人の指を飾るにふさわしいと思えるデザインのペアリングをいくつか取り出して、硝子ケースの上の天鵞絨のトレイに並べて見せた。
五年前にはどうもわかっていないふしの見受けられたこの指輪を贈ることの意味を、さすがにいまは理解しているらしいティエリアは、頑なに首を振る。
「もらえない」
並べられたリングを見つめながら、ティエリアは口唇を引き結んだ。なにやらわけありかと事情を汲んだ店員は、ごゆっくりごらんください、とその場を少し離れてショーケースを見通せる位置に控え、さりげなく見守っている。
「…俺といっしょにいてくれるんだろ?」
ティエリアの華奢な手指をとってニールは絡めるようにして指で遊んだ。ティエリアは黙ってこくりと肯く。
「なら、受け取ってくれよ」
清んだ硝子の紅玉が、覗き込むように見つめる碧緑を映した。
「ニール。ぼくはいざとなったら肉体を失うことを躊躇わない。そのとき身につけていたら、いっしょに失えてしまう。せっかくあなたに贈られたものを…そんなふうに失くしたくない」
ものに執着のないティエリアの、これ以上はない真摯なこたえに、ニールは双眸を撓める。
「気にすんな。なんどだって買ってやる」
「無駄な浪費だ」
「無駄でいい。浪費でいい。おまえがそのからだをだいじにしてくれるように贈るよ。その気持ちさえ持っていてくれれば、いざというとき失くしたってかまわねぇ。おまえはそのために存在しているんだから、俺はおまえを待って、そのたびにまた贈るから」
深紅の双眸が瞠られて、やがてわずかばかりの諦念とそれを凌駕する喜色が浮かぶ。
「それでいいなら。…おなじものをあなたも嵌めるのか?」
天鵞絨の上に並べられたリングがすべて、ふたつでひと組の対になっているのに気づいて、ティエリアはおのれの手に指を絡めるニールの手指を見た。
「ああ、もちろん。おなじ指におなじ指輪だ。どれがいい?」
白金細工だが宝石のあしらわれているわけでもないから、それほど値の張るものではない。ティエリアがえらんだのはそのなかでも一番シンプルな、ケルティックのクラダー・エンブレムが浮き彫りにされたドーム型のリングだった。
ティエリアの華奢な手指には伝統型や宝石の飾られた細工物よりこのくらいのほうがたしかに収まりがいい。エンゲージリングというよりは日常的に着けていても邪魔にならないマリッジリングと呼べるデザインだ。むろんティエリアはそんなことは知らないわけだが、その選択にニールはこころのうちで快哉を叫んだ。
「あとはサイズだな」
控えていた店員に合図を送り、ペアでオーダーする。内文字彫刻もその場で決めて、受け取りは後日だ。
支払いはCB時代に使っていたロックオン・ストラトスの偽IDに紐付けされた口座から、ふたりが地上での休暇を過ごすために新たに取った偽IDへと電子マネーをそっくり移行してつくられた個人口座を使用した。現在の地球連邦においてこうしたすべてはヴェーダによって統括されているのだから、ティエリアにはさほど複雑な手順を必要とするでもなく、ティエリア・アーデとしての口座も同様に処置されている。
ロックオン個人がニール・ディランディとして有していた財産は、死後すべてライルに譲渡されている。といってもランチア・ラリーがその主たるものだ。
リジェネのもとにいたときには日常生活と活動の元手すべてをそこに頼っていたわけで、それに比せば、どうあれ自ら稼いだ金が偽ID名義で保有されたまま存在しヴェーダのはからいで使えるようになったことに、ニールは安堵していた。むろんティエリアの協力があってこそなのだが。
地上での暮らしが長くなるなら新たな職を見つける必要もあるが、当面その可能性をニールは捨てている。老いのないこの生体でひとところに長くとどまるのには早晩無理がくることは明白だったし、幸いにもすぐに困らない程度の蓄えは残っている。すべてはティエリアの抱える使命しだいだろう。
無人タクシーは市街地から丘陵地へと抜けて、ころころ羊が草を食む放牧地が迫る。懐かしい光景にニールは目を細めた。
続 2012.08.29.
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