Armed angel #24 二期終幕後 ニルティエ+刹那 +リジェネ
去来するもの。
全四回、その2。
				
															
					
						 アイルランドへの帰郷はいつだって痛みをともなうものだった。それでも地上休暇で降りるたびに立ち寄ることをやめられずにいたのは、そこには等分の重さで愛する家族の思い出が詰まっていたからだ。
 CBが切り開く未来を希みそのまっただなかに立ちながら、過去に囚われたままだった自分。その自分が目を掛け手を掛けることで、逆にそこから自分を掬い上げてくれた存在。身勝手に放した手を懸命に手繰りよせてくれた。
 その唯一無二の存在はいま、となりから気遣わしげな視線を向けてくれている。深紅の双眸にニールは笑みで応えた。
「おまえさんがいてくれて、よかった」
「…そうか。なら、ぼくもうれしい」
 やわらかなおもてでちいさくうなずいた紫黒の髪を、肩に回されたニールの腕が引き寄せる。かるく口唇をかさねて、そのままティエリアの肩を抱き寄せた。
 五年前に泊まった宿は往時そのままにそこにあったが、訪ねることはしなかった。ティエリア曰く、当時の姿そのままの自分たちが行けば訝られるだろう、と。たかだか一泊しただけの通りすがりの客をそこまで仔細に記憶しているとも思えなかったが、昔ながらの印画紙に写し撮った写真のネガが残っている可能性に思い至って、ニールも同調した。
 ティエリアは宿の背後の丘陵地の羊の群れに眦を下げ、紫黒の髪を穏やかな風に靡かせている。その横顔は清んで、ニールは知らず感歎の溜め息を零した。姿形はたしかに五年前と寸分たがわない。が、醸しだす雰囲気はどこか透徹したような美を内包していて、ティエリアがニールには窺い知れない心意に到達しているのではないかと思わせるに充分だった。
「…ニール?」
 なにかに駆り立てられるように、その華奢な身を思わず抱きしめていた。たしかに実体を持ったぬくもりを腕のなかに感じて、ニールは安堵する。
「…さて。このあとはどうしますかね?」
 湧き上がったものを押し隠すようにおどけて問うてみる。
 どこに行くあてもなにをするあてもあるわけではない。ただふたりで過ごす時間だけが、この地上休暇の無二の宝玉だ。
「アレルヤは巡礼の旅に出たらしいが…」
 心優しきマイスターは、超兵としてつくりかえられようとした際に失くした記憶に埋もれていた、自らの出生の地をヴェーダと一体化したティエリアによって拾い上げられ、ヴェーダからのメールを通して告げられて、おなじく超兵である幼なじみの恋人とともにプトレマイオスを降り長期休暇に入っている。
「俺はとうていその境地には、なれねぇし」
「アレルヤは自らの立つ足もとを自らの目で確かめに行ったんだろう。…おのれという存在の根源を見つめるために。その足場を見失うことのなかったあなたとはありようがちがう」
「そのぶん俺は…そこに囚われていたからな」
「………」
 微妙な云い回しに、ティエリアが糺すかの紅玉を向けてくる。清んだ氷の紅はいまも変わらずニールの心底を洗い出す。
「過去にとどまるしかできなかった。だから俺は死んだ。そのはずだった。だが得られるはずのなかった未来をいま、こうして生きている。生かされている。なら、そこから踏み出せなきゃ俺は、このさき存在していく意味が無ぇだろ」
 この手の罪を贖いこの世界の行く末を見つめつづけるなら。
 あのとき得ようとしてしくじった。おまえとの未来を、希むことがゆるされるなら。
 ティエリアは黙したままだったが、その口もとを花のようにほころばせて、深紅の双眸にやわらかな光を浮かべた。
 街までもどる道中でランチタイムに差し掛かる。のどかな田舎町のことだから洒落たレストランのひとつもあるわけでもない。近在の住人を常連客としているのだろう素朴なベーカリーを見つけて、タクシーを止めた。
「こんなのでいいのか。ティエ?」
 もう少し車を飛ばせば、市中の繁華街に出る。それに耐えられぬほど空腹を覚えているようすでもない。
「でも、ほら。いい匂いがする」
 そういえば、以前。と、はたとニールは思い出す。
 買い出しのためにトレミーから地上に降りたとき、焼きたてのパンを食べる機会があった。ティエリアにとっては初めての、その香ばしさをいたく気に入っていた。地上の重力と、温度や湿度や匂いといったような環境変化を厭うティエリアにしてはめずらしく。
 そのときの姿が微笑ましくあまりにかわいくて、それでニールは手軽に焼けるブラウンブレッドの素を買って帰ろうという気になったのだった。
「そうだった。…忘れてたよ」 
 トングを手に、ティエリアはニールの手にしたトレイに気に入ったパンを並べていく。ニールのリクエストも交えて、けっこうな量になった。
「どこかキッチンのついた宿にでも泊まるかな。食材買い揃えてさ」
 どのみち指輪の受け取りまでの一週間あまりは故国にとどまることになる。ティエリアとパンを焼くのも食事をつくるのも、たのしいだろう。
「あなたのようには…うまく焼けなかった」
 ふと思い出すように、ティエリアが呟く。
「ん?」
「あなたがいなくなったあと、おなじミックス粉をみつけて。あなたの真似をして。みなは、それでもおいしいと食べてくれたが」
 微苦笑を浮かべて、ティエリアはトレイに乗せたパンをトングでつついた。
「おまえさんが…焼いてみんなに振る舞ったのか?」
 碧緑の双眸がかすかな驚きとともに瞠られる。ニールの知らないティエリアが、そこにいた。
 かつてニールがこころ砕きそうあれと希んだ姿は、皮肉にもニールの死によってもたらされたのだ。
「…食いたかったな、それ。俺にもつくってよ」
 ついでに飲みものも調達しレジで精算を済ませて、車中でのランチとなる。
「あなたに? …だから、そんなに出来映えのよいものではなかったんだ」
「ティエリアがつくってくれた、てのが重要なんだよ」
 それに。トレミーのみんなが食べて、自分だけティエリアの手料理を食べ損ねたのかと思うと、それもなんだか口惜しい。
 愚痴ともつかぬニールの戯言に、パンを食みながらティエリアは柳眉を寄せる。
「あなたは死んでいたのだから、しかたないだろう」
「いや、そのときにはもう、復活してたし」
 ティエリアを見つけた経済特区東京の、あのグローバルエリアのショッピングモールで調達したというなら。
「それはそうかもしれないが、…」
 ティエリアは苦笑して、またひとくちパンを囓った。
 喪失を味わい、触れあうことの希み得なかった歳月をおもえば、こんなふうにたわいのない云い合いができることさえうれしい。
 さきに食べ終え、携帯端末で今夜の宿を検索する。ティエリアが拘らなかったので、ニールは思いつきのとおりキッチンのついた短期滞在型の宿に予約を入れ、食材を仕入れるために道中のフードマーケットの場所を確かめた。
* * *
  その部屋の扉のまえに立ち止まった。そうするといまもまだ、云いようのない痛みを覚える。
 いや、これは果たして痛みなのだろうか? なんの?
 さようなら、みんな。
 データの海を揺蕩いながらそう告げたことばを刹那のほかに聞き取れたものはいない。ティエリアの意識はいまもヴェーダのなかで生きている。
 だが人間というものにとってそのありようは"生"と呼ぶにはほど遠く、それゆえ胸塞がれる。純粋種のイノベイターとして変革をはじめた刹那であっても、そこから逃れ得ないのだ。
 プトレマイオス2から送り出した宇宙葬の際にティエリアの身に纏わせるための私服を調達した以外、この部屋に立ち入ったものはいない。
「セイエイさん。アーデさんのお部屋はそのままにしておくですよね?」
 通りがかったミレイナに問われるまでもなく、刹那個人はそのつもりでいた。
 来たるべき対話の、そのときまで。…また会おう、刹那。
 あのとき、そう云った。だから。
 ティエリアはそれが必要となったとき必ずまたひととしてもどってくる。だがそれをトレミーの仲間は知らされていない。ティエリアの意識体がまた新たに生成した肉体を得ることが可能なことを、ここでは刹那以外に知るものはない。
「スメラギ・李・ノリエガはどう云っている?」
「長期休暇中のハプティズムさんたちのお部屋もそのままですし、手狭になるほどクルーが増えたわけでもないですから、それでかまわないと」
「そうか。ならばそのままに」
 内心でほっとしながら、表情の変わらないまま刹那は頷いてみせた。
「よかったですぅ。セイエイさんの同意があればもうなにも問題はありませんです」
 ミレイナはうれしそうに手を振って、持ち場へと戻っていく。艦の作戦指揮はスメラギに属するとしても、いまCBの精神的支柱になっているのは刹那だと、その態度が物語っている。
 変革をはじめた刹那に、どこか戸惑ったようすを垣間見せることもある他のクルーたちと異なり、ミレイナだけはいまも屈託がない。
 意を決して、刹那はその部屋に足を踏み入れた。
 生前───やはりこのことばを使うしかないのだが───生前のティエリアはものに執着を持たなかったから、ここで生活していたという気配も稀薄だ。あれほど愛したロックオンを忍ばせるものさえ、ティエリアはなにひとつ手許に置いていなかった。
 ゆるりと視線を巡らし、デスクのサイドボードにきちんとたたんで挟み込まれていたものに目がとまる。艦内は微重力だから小物はストレージに仕舞うか棚に引っかけるか挟むかして固定しておかなければ、ふとした拍子に部屋中を飛び回る羽目になるためだ。各部屋は個別に重力設定もできるが、重力を好まないティエリアは艦内設定のままだったと記憶している。最後の出撃以降そのままなのだから、ティエリア自身がここに置いていたのだろう。
 落ち着いた淡い緑のふんわりとしたそれは、経済特区東京にふたりで買い出しに降りた際、気温の変化に不慣れなティエリアの体調を慮った刹那が彼に贈ったものだった。
「………」
 わずかばかり思案げにそれを眺め、ややあって、刹那は携帯端末を開くとプライベート回線でヴェーダに呼びかけた。
「ティエリア。ティエリア・アーデ。…いるか」
 返事はない。イノベイターとイノベイドなのだから脳量子波で呼びかけることもできるが、刹那はまだその交信に慣れていない。
「…ティエリア」
 なんどか呼びかけると、ようやく音声のみで応答があった。
「…なんの用だい?」
 いかにもめんどくさそうに応えた声には聞き覚えがある。たしか、そう、再生したロックオンと再会したあの日。エアポートで、端末越しにティエリアと諍いになっていた声だ。おなじ塩基配列を持つティエリアの同異体。
「リジェネ・レジェッタ…?」
 その名も刹那の記憶にわずかばかり引っ掛かっている。
「なぜきさまが、そこにいる?」
 ヴェーダ奪還に際してリジェネの助力があったことなど、刹那は知り得ないからその疑問も無理はない。
「僕の意識体もヴェーダのなかにあるからね。ティエリアとちがって二度と外に出ることはないけれど」
 ということはつまり、先の闘いの折にリジェネもまたその肉体のみを亡くしたのだ。
「ティエリアはどうした。…まさか、なにか、あったのか」
「まあ、あったといえばあったことになるのかな」
「なにがあった」
 知らず険しくなったその声音に、リジェネは含み笑いを洩らした。
「そう怖い顔をしないでくれるかな。刹那・F・セイエイ。僕はただの留守番なんだから」
 こちらの映像は届いているのだ。ティエリアの同異体なら姿形は瓜二つなのだろうが、ひとを喰ったようなものいいからは似て非なるものしか感じられない。
「留守番?」
「そ。ティエリアはいま地上でバカンスの真っ最中さ」
 おまけにその返答は、刹那が想像だにせぬものだった。
「それで、俺に連絡をよこしたのか」
 携帯端末のむこう、ホロモニターに浮かぶ碧緑の双眸が薄く笑う。
続   2012.08.30.
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														 アイルランドへの帰郷はいつだって痛みをともなうものだった。それでも地上休暇で降りるたびに立ち寄ることをやめられずにいたのは、そこには等分の重さで愛する家族の思い出が詰まっていたからだ。
 CBが切り開く未来を希みそのまっただなかに立ちながら、過去に囚われたままだった自分。その自分が目を掛け手を掛けることで、逆にそこから自分を掬い上げてくれた存在。身勝手に放した手を懸命に手繰りよせてくれた。
 その唯一無二の存在はいま、となりから気遣わしげな視線を向けてくれている。深紅の双眸にニールは笑みで応えた。
「おまえさんがいてくれて、よかった」
「…そうか。なら、ぼくもうれしい」
 やわらかなおもてでちいさくうなずいた紫黒の髪を、肩に回されたニールの腕が引き寄せる。かるく口唇をかさねて、そのままティエリアの肩を抱き寄せた。
 五年前に泊まった宿は往時そのままにそこにあったが、訪ねることはしなかった。ティエリア曰く、当時の姿そのままの自分たちが行けば訝られるだろう、と。たかだか一泊しただけの通りすがりの客をそこまで仔細に記憶しているとも思えなかったが、昔ながらの印画紙に写し撮った写真のネガが残っている可能性に思い至って、ニールも同調した。
 ティエリアは宿の背後の丘陵地の羊の群れに眦を下げ、紫黒の髪を穏やかな風に靡かせている。その横顔は清んで、ニールは知らず感歎の溜め息を零した。姿形はたしかに五年前と寸分たがわない。が、醸しだす雰囲気はどこか透徹したような美を内包していて、ティエリアがニールには窺い知れない心意に到達しているのではないかと思わせるに充分だった。
「…ニール?」
 なにかに駆り立てられるように、その華奢な身を思わず抱きしめていた。たしかに実体を持ったぬくもりを腕のなかに感じて、ニールは安堵する。
「…さて。このあとはどうしますかね?」
 湧き上がったものを押し隠すようにおどけて問うてみる。
 どこに行くあてもなにをするあてもあるわけではない。ただふたりで過ごす時間だけが、この地上休暇の無二の宝玉だ。
「アレルヤは巡礼の旅に出たらしいが…」
 心優しきマイスターは、超兵としてつくりかえられようとした際に失くした記憶に埋もれていた、自らの出生の地をヴェーダと一体化したティエリアによって拾い上げられ、ヴェーダからのメールを通して告げられて、おなじく超兵である幼なじみの恋人とともにプトレマイオスを降り長期休暇に入っている。
「俺はとうていその境地には、なれねぇし」
「アレルヤは自らの立つ足もとを自らの目で確かめに行ったんだろう。…おのれという存在の根源を見つめるために。その足場を見失うことのなかったあなたとはありようがちがう」
「そのぶん俺は…そこに囚われていたからな」
「………」
 微妙な云い回しに、ティエリアが糺すかの紅玉を向けてくる。清んだ氷の紅はいまも変わらずニールの心底を洗い出す。
「過去にとどまるしかできなかった。だから俺は死んだ。そのはずだった。だが得られるはずのなかった未来をいま、こうして生きている。生かされている。なら、そこから踏み出せなきゃ俺は、このさき存在していく意味が無ぇだろ」
 この手の罪を贖いこの世界の行く末を見つめつづけるなら。
 あのとき得ようとしてしくじった。おまえとの未来を、希むことがゆるされるなら。
 ティエリアは黙したままだったが、その口もとを花のようにほころばせて、深紅の双眸にやわらかな光を浮かべた。
 街までもどる道中でランチタイムに差し掛かる。のどかな田舎町のことだから洒落たレストランのひとつもあるわけでもない。近在の住人を常連客としているのだろう素朴なベーカリーを見つけて、タクシーを止めた。
「こんなのでいいのか。ティエ?」
 もう少し車を飛ばせば、市中の繁華街に出る。それに耐えられぬほど空腹を覚えているようすでもない。
「でも、ほら。いい匂いがする」
 そういえば、以前。と、はたとニールは思い出す。
 買い出しのためにトレミーから地上に降りたとき、焼きたてのパンを食べる機会があった。ティエリアにとっては初めての、その香ばしさをいたく気に入っていた。地上の重力と、温度や湿度や匂いといったような環境変化を厭うティエリアにしてはめずらしく。
 そのときの姿が微笑ましくあまりにかわいくて、それでニールは手軽に焼けるブラウンブレッドの素を買って帰ろうという気になったのだった。
「そうだった。…忘れてたよ」 
 トングを手に、ティエリアはニールの手にしたトレイに気に入ったパンを並べていく。ニールのリクエストも交えて、けっこうな量になった。
「どこかキッチンのついた宿にでも泊まるかな。食材買い揃えてさ」
 どのみち指輪の受け取りまでの一週間あまりは故国にとどまることになる。ティエリアとパンを焼くのも食事をつくるのも、たのしいだろう。
「あなたのようには…うまく焼けなかった」
 ふと思い出すように、ティエリアが呟く。
「ん?」
「あなたがいなくなったあと、おなじミックス粉をみつけて。あなたの真似をして。みなは、それでもおいしいと食べてくれたが」
 微苦笑を浮かべて、ティエリアはトレイに乗せたパンをトングでつついた。
「おまえさんが…焼いてみんなに振る舞ったのか?」
 碧緑の双眸がかすかな驚きとともに瞠られる。ニールの知らないティエリアが、そこにいた。
 かつてニールがこころ砕きそうあれと希んだ姿は、皮肉にもニールの死によってもたらされたのだ。
「…食いたかったな、それ。俺にもつくってよ」
 ついでに飲みものも調達しレジで精算を済ませて、車中でのランチとなる。
「あなたに? …だから、そんなに出来映えのよいものではなかったんだ」
「ティエリアがつくってくれた、てのが重要なんだよ」
 それに。トレミーのみんなが食べて、自分だけティエリアの手料理を食べ損ねたのかと思うと、それもなんだか口惜しい。
 愚痴ともつかぬニールの戯言に、パンを食みながらティエリアは柳眉を寄せる。
「あなたは死んでいたのだから、しかたないだろう」
「いや、そのときにはもう、復活してたし」
 ティエリアを見つけた経済特区東京の、あのグローバルエリアのショッピングモールで調達したというなら。
「それはそうかもしれないが、…」
 ティエリアは苦笑して、またひとくちパンを囓った。
 喪失を味わい、触れあうことの希み得なかった歳月をおもえば、こんなふうにたわいのない云い合いができることさえうれしい。
 さきに食べ終え、携帯端末で今夜の宿を検索する。ティエリアが拘らなかったので、ニールは思いつきのとおりキッチンのついた短期滞在型の宿に予約を入れ、食材を仕入れるために道中のフードマーケットの場所を確かめた。
* * *
  その部屋の扉のまえに立ち止まった。そうするといまもまだ、云いようのない痛みを覚える。
 いや、これは果たして痛みなのだろうか? なんの?
 さようなら、みんな。
 データの海を揺蕩いながらそう告げたことばを刹那のほかに聞き取れたものはいない。ティエリアの意識はいまもヴェーダのなかで生きている。
 だが人間というものにとってそのありようは"生"と呼ぶにはほど遠く、それゆえ胸塞がれる。純粋種のイノベイターとして変革をはじめた刹那であっても、そこから逃れ得ないのだ。
 プトレマイオス2から送り出した宇宙葬の際にティエリアの身に纏わせるための私服を調達した以外、この部屋に立ち入ったものはいない。
「セイエイさん。アーデさんのお部屋はそのままにしておくですよね?」
 通りがかったミレイナに問われるまでもなく、刹那個人はそのつもりでいた。
 来たるべき対話の、そのときまで。…また会おう、刹那。
 あのとき、そう云った。だから。
 ティエリアはそれが必要となったとき必ずまたひととしてもどってくる。だがそれをトレミーの仲間は知らされていない。ティエリアの意識体がまた新たに生成した肉体を得ることが可能なことを、ここでは刹那以外に知るものはない。
「スメラギ・李・ノリエガはどう云っている?」
「長期休暇中のハプティズムさんたちのお部屋もそのままですし、手狭になるほどクルーが増えたわけでもないですから、それでかまわないと」
「そうか。ならばそのままに」
 内心でほっとしながら、表情の変わらないまま刹那は頷いてみせた。
「よかったですぅ。セイエイさんの同意があればもうなにも問題はありませんです」
 ミレイナはうれしそうに手を振って、持ち場へと戻っていく。艦の作戦指揮はスメラギに属するとしても、いまCBの精神的支柱になっているのは刹那だと、その態度が物語っている。
 変革をはじめた刹那に、どこか戸惑ったようすを垣間見せることもある他のクルーたちと異なり、ミレイナだけはいまも屈託がない。
 意を決して、刹那はその部屋に足を踏み入れた。
 生前───やはりこのことばを使うしかないのだが───生前のティエリアはものに執着を持たなかったから、ここで生活していたという気配も稀薄だ。あれほど愛したロックオンを忍ばせるものさえ、ティエリアはなにひとつ手許に置いていなかった。
 ゆるりと視線を巡らし、デスクのサイドボードにきちんとたたんで挟み込まれていたものに目がとまる。艦内は微重力だから小物はストレージに仕舞うか棚に引っかけるか挟むかして固定しておかなければ、ふとした拍子に部屋中を飛び回る羽目になるためだ。各部屋は個別に重力設定もできるが、重力を好まないティエリアは艦内設定のままだったと記憶している。最後の出撃以降そのままなのだから、ティエリア自身がここに置いていたのだろう。
 落ち着いた淡い緑のふんわりとしたそれは、経済特区東京にふたりで買い出しに降りた際、気温の変化に不慣れなティエリアの体調を慮った刹那が彼に贈ったものだった。
「………」
 わずかばかり思案げにそれを眺め、ややあって、刹那は携帯端末を開くとプライベート回線でヴェーダに呼びかけた。
「ティエリア。ティエリア・アーデ。…いるか」
 返事はない。イノベイターとイノベイドなのだから脳量子波で呼びかけることもできるが、刹那はまだその交信に慣れていない。
「…ティエリア」
 なんどか呼びかけると、ようやく音声のみで応答があった。
「…なんの用だい?」
 いかにもめんどくさそうに応えた声には聞き覚えがある。たしか、そう、再生したロックオンと再会したあの日。エアポートで、端末越しにティエリアと諍いになっていた声だ。おなじ塩基配列を持つティエリアの同異体。
「リジェネ・レジェッタ…?」
 その名も刹那の記憶にわずかばかり引っ掛かっている。
「なぜきさまが、そこにいる?」
 ヴェーダ奪還に際してリジェネの助力があったことなど、刹那は知り得ないからその疑問も無理はない。
「僕の意識体もヴェーダのなかにあるからね。ティエリアとちがって二度と外に出ることはないけれど」
 ということはつまり、先の闘いの折にリジェネもまたその肉体のみを亡くしたのだ。
「ティエリアはどうした。…まさか、なにか、あったのか」
「まあ、あったといえばあったことになるのかな」
「なにがあった」
 知らず険しくなったその声音に、リジェネは含み笑いを洩らした。
「そう怖い顔をしないでくれるかな。刹那・F・セイエイ。僕はただの留守番なんだから」
 こちらの映像は届いているのだ。ティエリアの同異体なら姿形は瓜二つなのだろうが、ひとを喰ったようなものいいからは似て非なるものしか感じられない。
「留守番?」
「そ。ティエリアはいま地上でバカンスの真っ最中さ」
 おまけにその返答は、刹那が想像だにせぬものだった。
「それで、俺に連絡をよこしたのか」
 携帯端末のむこう、ホロモニターに浮かぶ碧緑の双眸が薄く笑う。
続   2012.08.30.
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