2014/12/23 【V-Revolution V】新刊「コノテノナカニ」より。
本篇「In deine Hände」導入部
(*前作「ヒカリノアリカ」の世界観を引き継いでいますがお話としては単独でお読みいただけます。サンプル部分に前作のネタバレを含みます。)
アドエル、R18。(サンプル部分にR18描写はありません)
「遅くなってしまったな」
白い花束を手に緩い勾配のつづく小径をひとり往く。
ドルシアの夏は短く、冬は駆け足でやってくる。道端の草木も黄や茜に色を染めている。けれど小春日和のこの日、ときおり吹き抜ける風は汗ばんだ肌に心地よい。アードライはミッドナイトブルーのスーツから覗く淡い色のシャツの襟元を少しだけゆるめた。
その丘陵地は王都ドルシアナに隣接する郡部にあって、一帯はかつて王族に連なるアードライの実家が領有していた。ドルシア改新の折に王族の領地はすべてのちのドルシア軍事盟約連邦政府によって没収されたが、アードライ率いる解放軍が総統派軍に勝利して以降は解放軍による暫定政権の手に委ねられ、現在その一部は返還されている。
旧王党派と旧王家を慕う民兵が主たる解放軍では王政復古の意識が根強く、アードライの領地回復に異を唱えるものはいなかったが、アードライが領有を希んだのは旧領地のごく一部に過ぎなかった。いま広大な領地を得ても国政の一端を担う身では目が届かない、というのがその理由であり、それでもわずかばかりの領地を希んだのは、そこに戦友の墓碑をと考えたがゆえのことである。
ともに育ちともに闘いともに死地に臨んだ、カルルスタイン出身の特務大尉五名。その先立った三名の出生地はおろか本名すらアードライは知り得なかった。かろうじてハーノインやイクスアインの故郷はそれとなく耳にしたことがあったが、クーフィアに至っては話題にのぼらせたことすらなかったことに、彼らの死後気づいた。
軍邦政権の総統が討たれてのち世界がマギウス狩りに狂奔するさなか、混乱の渦中にあったドルシアではそのどさくさで散逸した資料も多く、隠蔽され秘密裡に処理されたものも少なくはないはずだ。カルルスタイン機関もまたその教練の舞台となった村ごと解体され、アードライが辿ろうとしても彼らの出自につながる痕跡は見いだせなかった。
となれば、もとよりカルルスタインのものに身寄りなどないのだし、死者の冥福を祈るのにおのれの目の届く場所をえらぶほうが賢明というものだろう。
戦乱に荒廃したドルシア本土の復興促進と、絶対的統治者の不在で揺らぐ国政の舵取りをしながら、なんとか墓地の体裁を整え終えたのがこの夏の終わり。カルルスタインに代わる本義としての戦災孤児育成機関の設立とは異なり、慰霊はあくまで私事であるためその完成に公務で立ち会えなかったアードライに代わり、補佐官であるクリムヒルトが諸事つつがなく取りしきってくれたのだが。ためにアードライ自身が花を手向けることはなく、それがようやくかなっての、きょうという日である。
小高い丘の中腹に差し掛かり、視界が開け始めてアードライはほっと息をついた。三つ編みに編み込まれていない左の前髪を掻き上げて、小径の向こうを見霽かす。雑木林を拓いたこのさきに、ささやかな霊園が設えられている。
端正な顔立ちに似つかわしくなく左の眸を縦に貫く銃痕は、アードライにとっては目を背けることをゆるされない自身の闇の刻の証しだ。
「公務以外でこうして出歩くのもずいぶんひさしぶりな気がする」
クリムヒルトに指摘されるまでそれにすらアードライは気づいていなかった。墓参の時間を捻出できないかを問うアードライに、有能な補佐官は溜め息混じりに云った。
「こちらが折を見て休暇をお勧めしても御自分で忙しくされてしまうからですよ。自ら云い出されるなど天啓としか思えません。ざっと半年ほど休まれてませんから、この機会に骨休めなさってください。殿下」
彼女はその場で端末を取り出してスケジュールを調整し、その翌週には七日の休暇を有無を云わさず捩じ込んだ。
もうそんなになるだろうか。
ということはエルエルフともそれだけ逢瀬を持てないでいることになる。
「彼の誕生日を祝いに出向いて以来の休暇ということか…」
そのあとのアードライ自身の誕生日には直に会えなかったわけだが、アードライにとってはエルエルフを祝うことのほうが重要だったからかまわなかったのだ。
アードライを突き落とし闇の深淵を覗かせた張本人は、そのじつ自身ももがき足掻き傷つきながら、最後にはアードライの伸ばした手を握り返してくれた。
地上と宙域とでたがいに国政をあずかる身では往き来もままならないのは覚悟していたし、メールや映像データで近況は知れたから耐えられた。なによりアードライが求めつづけたエルエルフとの誓約が成された晩に、五年後にはともに、と交わした約束がアードライの背中を押しその意志を支えている。
エルエルフはアードライのそばに在ることを約してくれた。その未来の時間を捻出するために、彼は国政の表舞台には立たず、モジュール77で建国の礎を固めることに専心している。
すでに折り返し時点は過ぎた。約束の刻までにエルエルフは抱える荷をすべて解き、後継に託せるだけの環境を整えてくる。彼自らがそう予測した以上、ことはそのとおりに成されるはずだ。そしてその間にアードライの為すべきこともまた山積している。
エルエルフをふたたびドルシアに迎え入れるのだ。アードライ個人はエルエルフがとなりにいてくれる以上のことを希まないが、周囲はそれでは収まるまい。
政権が変わったうえは彼が亡命者であることはすでに問題ではなく、アードライが彼を身近に置くということは傍目には側近として重用すると映るだろう。いくらその実質が極めてプライベートな理由からであっても、エルエルフの才覚が周知され実績が伴っているのだから、避けようがない。
その極めてプライベートな理由というのが婚姻であるということを、アードライとしてはむしろ明らかにして迎えたいという本音もある。生涯のパートナーであると公にして、彼という希有な才能をドルシアの地で生かしたかった。
真新しい墓標には陽光が映えて、墓所というにはいささか朗らかでのどかな空気を醸しだしていた。ハーノインもクーフィアも湿っぽい空気を嫌っていたから、これはこれでいいのかも知れない。イクスアインは顔を蹙めるかも知れないが。
そこまで考えて知らず笑みがこぼれた。懐かしい姿がまなうらに浮かぶ。
「…地獄で待っていてくれるか。すぐには無理だが、いずれ私たちも行く」
アードライは手にしていた花束を抱えなおし、墓前に捧げようと跪く。そこで初めて三つの名の刻まれた墓碑に隠れるように、ちいさな花束が供えられているのに気がついた。ここの管理を任せているものの手によるものだろうか。
白い花束を傍らに供えて覗き込んでみれば、金茶に群青に赤、種類はまちまちだがそれぞれひと色一輪ずつをひとつに束ね、淡い銀色の薄紙で包まれている。
「…これは」
直感した。ハーノインがそのピアスに込めたように、これは彼らの髪色を模している。
「エルエルフ…! ここへ来たのか?」
この墓所のことはごくわずかな側近を除けば知るものはいないし、そもそもアードライがそれを伝えたのは彼にだけだ。そのときもエルエルフはいつものように淡々として、おまえらしいな、とひとこと返しただけだった。
三色の花片はまだ瑞々しく、置かれてからさほどの時間が経っているとも思えない。丘の裾野の車道からこの墓所へは細い一本道だ。往く路、アードライはだれともすれ違わなかった。ならば、まだこの近くに。
小径は霊園の裏手の杜へと抜けて、少し登ったその先は行き止まりの崖になっているが、遠く海が望める。弔いもそこそこにアードライは駆け出していた。
ほんと、王子さまはエルエルフしか見てないよな。
どこかからかそう笑う声が聞こえた気がした。
しなやかな手が弧を描く。指先から花が一輪、中空へと放たれる。花弁にうっすらと紅をさしたような斑の入った、愛らしい白い花。崖に添って吹き上がる風に攫われて、高く遠く空に舞った。
杜を抜けたアードライの目に飛び込んできたのは、崖の突端に立ち遠く海に向かって投じるかのように、花を手向ける姿だった。
風になぶられる銀糸の髪が、小春日和の陽光を受けてやわらかな光の拡散を生む。その淡い光に包まれた玲瓏な横顔は花の行方をしばらく追っていたが、やがてひとの気配に気づいたのかゆっくりと振り返った。
「…アードライ」
驚くでもなく、清んだ青紫の双眸がこちらを捉える。眸とおなじ色合いのウィングカラーのシャツに銀鼠のスーツという出で立ちはアードライには馴染みがなく、エルエルフをどこか遠く見せた。
「エルエルフ…。いつ地上に降りて…」
そのたたずまいに魅入られていたものか、花を手向けたあいてに捧げられた真情を知るためか、いささかくぐもった声がこぼれた。ドルシアナ近郊の海はエルエルフの純情にせめて報いようと身を投げ出した姫の終焉の場所だ。
「今朝だ。その足で来た」
「…奇遇だな」
いや、こんな偶然があり得るのだろうか。
「…? 公務絡みで地上に降りることはクリムヒルトに伝えてあった。スケジュールを摺り合わせるよう申し入れてきたのはそちらのほうだぞ。墓参を日程に組み込み、公務に合わせて休暇を取れないかと打診されて…」
アードライは思わずあたまを抱えた。
「…気を回しすぎだ、クリムヒルト」
「まあ、そのおかげでこうして会えたわけだが」
それに関しては感謝しかない。感謝しかないが、しかし。
「私は…それほどに疲れて見えたのだろうか? あるいは、きみに会いたいとおもう気持ちが知らず溢れ出ていたということか?」
崖の突端からこちらへと歩みを返しながら、エルエルフはあきれたようにちいさく息を吐いた。
「あいかわらずだな…おまえは」
アードライの目のまえに立ち、まっすぐに視線を捉える。以前よりまたいちだんと穏やかさを増した笑みを口もとに浮かべた。
「きみも…」
囚われたつよい視線に息を呑んだ。つづくさきのことばの代わりに口接ける。淡く交わされた口唇は軽い音を立てて一旦離れ、つぎには求め合うままに深く咬まされた。
「エルエルフ…」
ひさかたぶりの口接けをたっぷりと堪能し、からだの奥深くでざわめく熱を宥めながらアードライは抱きしめていた腕をゆるめる。
「公務にはどのくらいかかる? むろんそのあとは我が家を訪ねてくれるのだろう?」
「あす一日で終わる。そのつもりで以降の宿は取ってない」
口調は平坦なままだが、返されたことばには明確な意志と不器用な甘えとが滲んでいて、アードライは口もとをほころばせた。
「ではきょうは公用の宿泊先だな。送ろう。下に車を待たせてある」
もういちど軽く唇を啄んで促す。着いたその足で来たというのに荷のひとつもないのは、ホテルに直送してあるからか。もっともふだんからあまりものを持たないエルエルフのことだから、ほんとうに身ひとつで来た可能性もある。公務に必要な資料などはモバイル端末ひとつで事足りる。
「最低限の着替えくらいは持ってきているか? 足りなければそれも用意しておこう」
「公務用の服は一式」
「このスーツは? とても似合っているが…きみにしてはめずらしい」
気になっていたことをついでに質すと、至近の距離で秀麗な眉が顰められた。
「墓参と休暇を兼ねるとスケジュールを出したら、周囲が口を揃えてちゃんとしたものを一着用意しろと煩かった」
不本意そうにそう云ってアードライの腕をするりと抜けだしたエルエルフは、気配を探るようにあたりを一瞥して声を潜めた。
「…護衛もなしか? 休暇中の私用とはいえ感心しないな、王子殿下」
解放軍のリーダーとしての立場もありそれ以上にアードライが次期国王と目されていることを踏まえての言だった。
先の王政下で王位継承権の低かったアードライは、いまも名目上は王太子ではなく王子のひとりに過ぎない。五年後には国王になっておくとエルエルフに宣言したのはアードライ自身だったが、それは祖国に描く未来図のためのステップに過ぎず、最終目標ではない。民兵の多くは前線で陣頭指揮に立ったアードライを指示しているが、王政復古を掲げる旧王党派内部には元来継承順位の高かった王族を推そうといううごきもある。総統派軍という共通の敵が失権したいま、解放軍が内包していた不穏はしだいに表面化しつつあり、やがては暫定政権の軋みとなって音を響かせる。
遠く離れた地に在りながら、エルエルフにはそれが見えているのだ。
「建国を担う頭脳でありながら単身で地上に降りてくるおまえに云われたくはない」
やはりかなわないな、と内心で舌を巻きながらつとめて軽口で返す。
「モジュール77には、おれの護衛に人員を割くほどのよゆうはないだけだ」
もとよりカルルスタイン機関の卒業までを生き延び特務大尉に上った身だ。おのがいのちを護るすべにはおのれ自身がいちばん長けている。ただの軍属やまして民兵では、アードライの心身の能力に付いてくることさえむずかしいだろう。エルエルフに至ってはほぼ一般人しか近辺にいないのだから、ヴァルヴレイヴでも持ち出さないかぎり護衛にはなるまい。いやむしろ。
「護衛もいたずらにあるだけでは足手纏いになりかねないからな」
「弾除けにはなる」
「エルエルフ!」
辛辣な切り返しに思わず詰る口調になった。
「甘いな、王子さま」
本気で論争する気ではないエルエルフの揶揄する目線が返ってくる。現にだれひとり随行も付けずに来ているくせに、ことばづらだけは冷淡だ。
甘いのは、どちらだか。いまとなって振り返ればアードライはそう返したくもなる。
かつて、アードライの放った弾丸をエルエルフは彼のいう彼の腕を盾にして逃れたが、それはその腕がその程度では死なないことを知っていたからだ。トラップで応戦しアードライを殺す隙はいくらでもあったろうに、だが彼は銃爪を引かなかった。そればかりではない。状況の真相が判明したあとになってみれば、彼自身はいちどとしてアードライに、いやハーノインにもイクスアインにもクーフィアにも、害意を向けていないのだ。その知略で逃れぎりぎりに追い詰め容赦なく攪乱することはしても、アードライたちと生命のやりとりをするテーブルに着こうとはしなかった。
そう。モジュール77での再会を果たしたあの救護室でも。アードライが銃口を向けるまで、彼は手にしていた銃をかまえなかった。目的と利害の一致を見て先に銃をおろしたのは彼のほうだった。
のちに、計画を前倒しにしただけだと彼は語ったけれど。裏切りを誤認され不本意なタイミングでおのれの目指す革命に舵を切らざるを得なかったエルエルフは、それがもたらす避けがたい死者の数をカウントしながら、可能なかぎりカルルスタインの仲間をそこから遠ざけようとしたのではなかったか。
「きみはやさしいのに、それを伝える努力を放棄しすぎだ。エルエルフ」
アードライを見つめる青紫の双眸が微かに瞠られて、さもいやそうに眇められた。
「寝言は寝て云え」
「そんなところも私は好きだが。きみが誤解されるのはおもしろくない」
「べつに誤解でもないだろう」
軽く肩を竦めて、エルエルフは小径を杜へと踵を返す。木洩れ日を受けて淡く浮かぶ銀髪と少年期の名残をとどめたままの細身の背中を少し遅れて眺めながら、アードライはちいさくつぶやいた。
「…誤解だよ」
その萌芽は幼き日よりあった。カルルスタイン機関で迎えた最初のその日に。
「おまえ、きょうがたんじょう日だそうだな」
いささか突っかかるようにそう云ったアードライをエルエルフは無表情に見返した。
「たんじょうび…」
「なぜそう云わない! しらなければ、いわうこともできないではないか」
「いわう? …なにをだ」
「きまっている。生まれてきたことと生きてその日をむかえられたことに、おめでとうとありがとうを云うのだ。ははうえがそうおっしゃっていた」
「……? せいねんがっぴのことか。そういうものなのか」
そこで初めて、エルエルフの反応のずれにアードライは気づいた。
「そういうものだ」
「それをおまえがおれに云うのか?」
「ここのだれにももう父も母もいないのだから、わたしがいわってやる」
「それはうれしいものか」
「あたりまえだろう」
「………ならば、ほかのやつらに云ってやれ」
「…??? きょうはおまえのたんじょう日だろう!」
「いままでもなかった。おれにはひつようない」
淡々とした横顔に、誕生日という概念そのものが欠如していたのだと愕然とした。どういう育ちかたをしたのだ、こいつは。
「ひつようなくはない! だいいちなぜ、おまえをおいてほかのやつらをわたしがいわわねばならない。わたしはきょう、おまえを、いわうんだ!!」
「…かってにしろ」
なかば意地になったのは、アードライの祝福をどうでもいいことのようにあしらわれたせいもあったろう。自分は要らないのにほかには云えとはどういうことだ。
それがエルエルフというひととなりだと、やがてアードライは知るけれど。
ただ彼は、その後の修練においてそれをおのれの意識下で完璧にコントロールできるほどの高いメンタル能力を併せ持っていた。
エルエルフはときに冷酷に切り捨てるべきを切り捨てるが、少なくともそれが私利私欲に走る保身ゆえだったことはいちどとしてない。その行動理念は私(わたくし)としての理由ひとつを貫いているにもかかわらず、根底に流れるのはおのれを生かした他者に報いるためという、極めて利他的なものだ。
死地にあろうとつねに先陣を切り勝つことに拘り我が身を顧みず独走さえしかねない危うさは、カルルスタイン機関に在籍しているときから、エルエルフがその用心深さとは対極に併せ持つ、彼の特異性だった。
「だからこそ、私は…」
さきを歩くエルエルフに大股で追いつくと、アードライはその手をつかんで指を絡め、肩を並べる。銀の髪が振り返ることはなかったが、つないだ手は払われることなく、微かに込められたちからがかさねた掌から伝わってきた。
裾野の車道で待機していた車はアードライの私用車で、但しその運転手は護衛を兼ねて付けられた軍人である。
まだ年若い部下が、アードライに気づいてすばやく運転席から降り、姿勢を正して後部座席のドアを開けた。そうして、アードライの連れ立った人物の姿を認めて、目をまるくする。
「紹介しよう、エルエルフ。これはカーツベルフ、その名の示すとおりカルルスタインの出身だ。この休暇中、私の運転手兼護衛をつとめてもらうことになっている。カーツベルフ、こちらはエルエルフ。話に聞かせたことはあったと思うが、私の戦友でパートナーだ」
「…あのときの、こどもか」
エルエルフは微妙な苦笑を浮かべている。
「エルエルフ?」
カーツベルフのほうは目をまるくしたままぱくぱくと口を開閉させているだけだったが、しばらくしてようやくことばを口に乗せた。
「…あ、あのときの、おまえ、…いや、あなたが、殿下の…」
カルルスタイン機関の集落でカミツキにジャックされた状態でアードライと行動をともにし、乗っ取りから解放されたところを保護され、そののち解放軍の一員として東方戦線に配属されていた少年は、いまはクリムヒルトの直属の部下として彼女の手を煩わせるまでもない雑務をこなしながら、アードライに付き従って軍務と政務とを学んでいる。メンタルコントロールの修得なかばでカルルスタインは解体されたが、機関出身者らしくふだんはあまり取り乱すことはない。
「顔見知りなのか?」
らしからぬ部下の態度に、アードライは怪訝そうにエルエルフを見遣る。
「こいつを捕らえてジャックさせたのはおれだ」
「ああ、そもそもあれはきみの作戦だったな。そういうことか」
得心がいってアードライが微笑を浮かべるのに、カーツベルフは複雑な眼差しを向けた。
「すでにエルエルフは敵ではない。カーツベルフ。そう身構えるな」
カーツベルフ自身の記憶にはないことだが、あの洞窟の地でふたりが敵の作戦の向こうにたがいの存在を看破し、たがいの軍勢を本気でつぶし合ったことは承知している。解放軍に加わってさらに側近くに上がってからは、そのエルエルフの名を信愛を込めて呼ぶアードライの姿を幾度となく目にしその声を耳にもしている。実際、劣勢だった解放軍を勝利に導いた作戦がエルエルフによる筋書きであったことも聞いている。
だからカーツベルフにも、エルエルフという存在がアードライにとっていかに特別なものであるかは伝わっていた。ただそれがカーツベルフとその仲間を容易く拉致した敵と同一人物だったとは思いもしなかったのだ。
「エ…エルエルフの名をカルルスタインで知らぬものはおりません。創設以来の逸材、〝希代の才子にして問題児〟だったと。ですが、その容姿までは、自分は…その」
顔を知らないのも無理はなかった。当時、裏切り者として手配されたエルエルフの画像が閉ざされたカルルスタインの村の一訓練兵に届くことはなかったし、そもそも諜報活動を主眼に置く特務兵士の養成機関という特性上もあり、機密保持の観点からも、カルルスタインの卒業者名簿にはコードネームは記されても個人を特定できる画像やデータが付記されることはない。閲覧不可の軍の秘匿項目にはデータが残されていた可能性はあるが、それが消失していることはアードライ自身が確認している。
「希代の才子にして問題児、ね」
思わず吹き出したアードライにエルエルフは睨めた視線を送り、カーツベルフをあらためて見た。ドルシアでは婚姻適齢も早いが、ぎりぎりかあるいは。
「特例で無免許か?」
「いや、法的にも運転のゆるされる年齢になったのでな。とは、云うもおろかなことだが」
カルルスタインで学ぶのは闘うことと殺すこと。艦戦や戦闘機すら乗りこなすだけの技倆を身につけさせられるのだから。
賓客向けの公用宿舎の車寄せまで乗り付けて、降りるエルエルフに並んで座っていた後部座席からアードライは声を掛けた。
「あす刻限を見計らってカーツベルフに車を回させる。公務が明けたらホテルにもどっていてくれ」
「必要ない。おまえの家の場所は承知している」
「きみの護衛も兼ねている。安心させると思って、私の好きにさせてくれないか」
エルエルフがちいさく溜め息を吐く。それを了承と受け取って、アードライは座席を滑り降りるエルエルフの手を取り傅くようにその甲に口接けた。
「では、待っているよ。私の光(マインリヒト)」
リアビューミラー越しに見ていた運転席のカーツベルフがぎょっとして息を呑む。車のドアを開けて待つベルボーイは職業柄かさすがに動じなかったものの、微かに頬を赤らめている。
アードライの言動に慣れているエルエルフだけが、ただ平然とそれを受けた。
翌夕刻、エルエルフが公務からホテルに戻って早々に、迎えの車がきた。ベルボーイが小振りな荷ひとつをトランクルームに運び入れ、オートで開かれた後部座席に乗り込んだエルエルフを敬礼で見送る。
アードライの私邸に向かう道中で、リアビューミラー越しにちらちらとエルエルフのようすをうかがうカーツベルフに、エルエルフは気づいていながら無視を決め込んだ。作戦の検討や指示なら淀みなく語っても、日常的には口のうまいほうではない。やがてどこか観念したように、信号待ちのタイミングでカーツベルフがおずおずと切り出してきた。
「きのうは…その、驚いたんです。殿下があのように気さくな笑顔を向けられるのを見たのは…初めてで。しかも傅いてキスを贈られるなど。…でもそれだけ殿下にとっては特別なかたなのだと実感しました。エルエルフ、…さまは」
取って付けたような敬称で呼ばれて、エルエルフは苦笑する。
「呼び捨てでいい」
「あ…、…はい」
ただ緊張しているのか、警戒されているのか。相手をまるで見ていないようでいて深く観察しているのがエルエルフというひととなりだ。
「その貴方から見て、僕に…自分に殿下の護衛がつとまると思われますか」
思いがけない方向から問い掛けがきて、エルエルフはシートに沈めていた背をわずかに正した。
「…現状のおまえの能力を評価できるだけの判断材料をおれは持たない」
アードライにせよクリムヒルトにせよ部下に無理難題を強いる上官ではない。任命する以上はその能力があると判断してのことだろう。だが当の本人に迷いがあるようでは持っているものも十全には発揮されない。
「自分は、殿下の足を引っ張らない程度の能力はあると自負しています。けれど殿下を護衛するとなれば話は別だ。一人旅団と呼ばれた貴方ならあらゆる状況を想定して対処されてきたはず。おしえてください。護衛とは…なにを最も求められる任務ですか」
少年のことばは真摯で、アードライへの敬愛が窺える。エルエルフはミラー越しに視線を返してカーツベルフを見据えた。
「僕は殺すために闘ってきた。闘って殺せと教わった。…護れといわれても…どう護れば」
少年は困惑の色を深めて、半分ひとりごとのようだ。
「要人警護とは、ようはおのれの生命(いのち)を対象者の盾とすることだ」
青紫の眸を細め、エルエルフは酷薄にもみえる表情でうっすらと笑む。
「休暇中のアードライに外出時の警護の必要性を考慮する程度の火種はある。しかし実際に付けられたのは護衛任務未経験の兼任運転手ひとり。つまり、この期間にそこまでの事態が起こる可能性はパーセント未満。おまえの役割が真に必要となるのはまだ先で、今回のそれは経験を積ませるためのもの」
はっとしたようにカーツベルフが後部座席を振り返る。すぐに前方に注意をもどしたが、明らかな動揺が見えた。
「それを踏まえればおまえにはまだ猶予がある。実戦では惑う時間などあたえられない」
「…貴方は」
「だが、わるくない人選だ」
ふたたびシートに背をあずけエルエルフは目を閉じた。
「クリムヒルトはすでに立太子礼から即位の儀までを視野に入れているな。アードライ…おまえの思惑よりことは早くうごくぞ」
「…貴方は…どこまで」
見透せるのか。
独りごちるエルエルフを見つめる少年の眸には、その異能をまのあたりにした驚愕と畏怖と憧憬とが綯い交ぜになって浮かんでいる。
「そのとき…おれはここにいるか?」
だから、そう口のなかでつぶやいたエルエルフの声を拾うだけのゆとりは、少年にはなかった。
「いつ来ても落ちつかない邸だ」
年代物の調度品に囲まれた邸宅はけして華美ではないが、カルルスタインの村落と軍の兵舎で育ったエルエルフの感覚では、それでも十二分に華やかに映る。
「では、もっと馴染むほどに訪ねてくれればいい」
アードライのいまの私邸は王宮の敷地からほど近い、旧貴族の空いた邸を解放軍が借り受けているものだ。公務は宮廷内の一角で執り行われているため、その利便性が考慮されての選択である。
「モジュール77のきみの家は清潔だが簡素すぎるきらいがある」
同盟国の幹部同士の結婚式に招かれたその日の夜、王族の婚姻の儀式に則り誓約を交わしてからは、時間がゆるせばアードライから会いに行くようにしていた。国内の治安にかぎればモジュール77はドルシアよりも遙かに安全だったからだ。国情が落ち着いてからはエルエルフを招くことも増えたものの、おたがい多忙の身ゆえ、三年を跨いでも両手で数えられる程度の逢瀬でしかない。
訓練兵のとき同室だったころからエルエルフは私物をほとんどもたなかったが、それは成長しても変わらないままだ。
「それで、国の基幹づくりは順調なのだろうな。今回の公務もその一環なのだろう?」
「そうだな。ヴァルヴレイヴの現存三機のパイロットが固定されている以上、これ以上カミツキ…後天的なマギウスが増えることは、現段階では無い。遺伝子操作された学園の生徒は潜在的因子ではあるが人間のまま、考慮すべきはいまも世界各地に散っているマギウスが弾圧を逃れて流入してくるであろうその数だ。定期的なルーンの摂取がマギウスに欠かせないものなら、その恒常的な供給をシステム化する必要がある」
モジュール77の建国理念は人間とマギウスの共存なのだから、それは避けられない大命題だった。
「供給システム…必要なルーンの回収を献血のようなものでまかなうということか?」
ディナーは御用達のデリバリーですませたものの、食後のお茶の用意を手ずからおこない、アードライはエルエルフを居間に誘(いざな)う。
「献血的手法は一選択肢として置くが基本は納税として義務化する。新生児なら国籍の取得時、移民ならば市民権と引き替えに、というかたちだ。ひとりの人間から大量にルーンを奪えば記憶に障害が起こるが、大勢の人間から定期的に極微量のルーンを採取することでそのリスクを回避する。マギウスは生殖による個体増加がないから、人間の人口とのバランスが維持できれば可能と考える」
「共存する人間側のメリットは? それではマギウス側の利だけが勝る」
アードライの指摘にエルエルフは口もとに笑みを刻んだ。
「そのとおり。もとより捕食関係の上位にあたるのだから人間側の譲歩はやむをえない」
「でもそれでは、自ら共存を信じて国民となった人間の善意の乱用にならないか」
「代わりに、国民としてヴァルヴレイヴによる庇護が保証される」
「いや、それはマギウス側にも云えることだ。人間側だけのメリットではない」
ソーサーに紅茶のカップを乗せて手渡しながら、アードライが首を振る。
「さすがにだまされてはくれないか」
エルエルフはそう笑って、それから表情をあらためた。
「実際、マギウスによる無差別な生体簒奪の危難から逃れられるという以外のメリットは、人間側にはないんだ。ルーンの解明によって情報原子の代用となるものが人工的に開発可能にならないかぎりは」
「それは……、難題だな」
軽い甘味を盛った菓子皿をローテーブルに並べ、紅茶を手にアードライもエルエルフの横に腰を降ろす。
「ただマギウス側にも難題はある」
ひとくち紅茶を口に含んで味わってから、エルエルフは茶菓子に手を伸ばした。
「後天的な人工マギウスは老化しないが、本来のマギウスは精神体を人間の生体に移すことでいのちをつなぐ生命体だ。少なくともこの地球圏ではそれしか方法がない」
ちいさな菓子はチョコレート色をした薄いハトロン紙を纏っている。その菓子をつまみあげ、空いた波形の容器をエルエルフはそのまま掌でくしゃりとつぶした。
「マギウス化により多少の長命化はなっても、いずれ人体は老化し死滅する。ルーンの提供により共生が保証される代わり、生体を乗り移ることはこの国ではゆるされない。つまり」
「つまり、いま得ている生体が最後の器となる、ということか」
「マギウスが、彼らにとって器でしかない生体の死をおのれの死として受容できるよう、意識変革を成せるか…。成されなければ生体売買などの裏ビジネスがさぞ栄えることだろうな」
摘まんだ菓子を口に放り込み、歪んだ波形を指先でつついて、シニカルに自らの立てた未来図の暗面までを予見する。
「だがその変革は、生殖で個体を増やせないマギウスには、種の滅亡を意味しないか」
「繁殖可能な母星から切り離された時点で、彼らの生命体としての未来はすでに閉じている」
冷徹に云い切って、エルエルフはふたたび紅茶を口にした。
「生体を乗り移るのではなしに、ただおのれのルーンを相手側に送り込むにとどめて精神生命体としての遺伝的情報を託す、といういのちのつなぎかたもあるようだが」
黙り込んでしまったアードライに、しばらくしてエルエルフはそうことばを足した。アードライが黙したのをマギウスへの憐憫と捉えたのか、それもまちがいではないが気懸かりはほかにあった。
「きみはだいじょうぶなのか、エルエルフ。…相当な量のルーンを提供していたのだろう?」
ふいに矛先を転じられて、エルエルフは目を丸くする。
「おれに記憶の齟齬が起きているように見えるか?」
「真面目に応えてくれ」
あきれたように返すエルエルフに、らしくもなくカチャリと音を立てて紅茶をテーブルに置いたアードライの口調は痛いくらいに真剣で、その眼差しも嘘や誤魔化しはゆるさないという色だ。
「……。おれのいちばん古い記憶は、おれの名を呼びながらちいさなおれの手を握る女性の手なんだが」
エルエルフは思い起こすように自らの手を目のまえに翳す。
「その記憶があるうちは問題は起きていないと見ていいだろう。心配なら、アードライ。おまえがそれを憶えていて、ときおり確認すればいい」
「その女性とは…きみの母親か」
「…さあ、どうだろうな。その掌の感触とおれに向かって呼びかけられる声だけでは判断のしようがない」
ただ淡々と紡がれる記憶の情景に、エルエルフの感情が波立つことはなく。アードライはなかば無意識のうちにその名をつぶやいていた。
「ミハエル…?」
翳された掌のむこうで青紫の双眸が瞠られる。エルエルフは腕を降ろし、無言でアードライを見つめた。
「…あ、いや、その。すまない」
我に返ってアードライは周章てた。
「墓を建てるまえにあいつらの故郷と本名を調べようとした。だが記録は消失していて、そのときクリムヒルトがつぶやいていたのを思い出したんだ」
これでミハエルの名も確かめようがなくなった。
「状況から見てだれかの本名なのだと察した。思い当たるのはきみしかいなかった。気をわるくしたのなら謝罪する」
「…驚いただけだ」
気まずげに目を伏せたアードライに、エルエルフは首を振りソファの背に身を凭せかけて息を吐いた。
「きみは…そう呼ばれたいか?」
「…?」
ソファに沈み、エルエルフは視線だけを投げる。
「ほんとうの名で、呼んだほうがいいのか。私は、おまえを」
「……おまえはどうなんだ」
弾かれたようにアードライは顔をあげた。
「殿下と呼ばれるのなら、本来その敬称が付けられるべき名をおまえも持っているだろう。なぜコードネームで通している?」
「エルエルフ…」
習慣的にそう呟いたアードライにエルエルフは双眸を撓める。
「呼んでくれるものがいて初めてなまえはなまえになる。ただの記号も、耳に馴染んだ。おまえが呼ぶ、それがいまのおれの名だ。アードライ」
衒いなく応えられて、アードライは破顔した。
「おなじことを思っていた。カルルスタインでおまえとともに生きてきた時間があっていまの私がある。この左眼の義眼も疵痕もすべてがいまこの瞬間につながっている。だから私はアードライの名で生きる。このさきも、きみがそう呼んでくれるかぎり」
その疵痕をエルエルフの指がなぞる。穏やかに笑んだ眸は少しとろりとして、二度三度ぼんやりとした瞬きを繰り返した。地上への長距離移動と公務の疲れが出てきたのだろう。
「エルエルフ。客間を用意してあるから、もうやすむといい」
触れてくる指先を手にとって、滑らかな爪に口接ける。
青紫がまた微かに瞬いて少しだけアードライを見つめると、ちいさな欠伸を噛み殺してエルエルフはすなおに立ち上がった。
翌朝早くに、エルエルフは起き出してきた。ぐっすりとやすんでの目覚めらしく、シャワーを浴びにいく足取りもしゃっきりしている。
手早くすませるとアードライの用意した着替えのシャツに袖を通し、ダイニングに現れた。テーブルには着かず、キッチンで朝食用のたまごをフライパンに落とし冷蔵庫からヨーグルトを取り出すアードライの手もとを、興味深そうに眺めている。
「少しだけ待っていてくれ」
小振りの胴鍋には仕上げを待つばかりのポタージュが温まっている。
「…いまでも自分でつくるのか?」
きれいに薄皮を剥かれた淡い黄色の房が硝子の器で瑞々しい香りを放つ。乳白色のヨーグルトに琥珀色のハチミツを溶き加えて添え、アードライはそれをいったん冷蔵庫にもどした。
「たまの休日くらいは。あとは気分転換に。きみは気持ちよく食べてくれるからつくりがいがあるよ」
オフ本につづく
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「遅くなってしまったな」
白い花束を手に緩い勾配のつづく小径をひとり往く。
ドルシアの夏は短く、冬は駆け足でやってくる。道端の草木も黄や茜に色を染めている。けれど小春日和のこの日、ときおり吹き抜ける風は汗ばんだ肌に心地よい。アードライはミッドナイトブルーのスーツから覗く淡い色のシャツの襟元を少しだけゆるめた。
その丘陵地は王都ドルシアナに隣接する郡部にあって、一帯はかつて王族に連なるアードライの実家が領有していた。ドルシア改新の折に王族の領地はすべてのちのドルシア軍事盟約連邦政府によって没収されたが、アードライ率いる解放軍が総統派軍に勝利して以降は解放軍による暫定政権の手に委ねられ、現在その一部は返還されている。
旧王党派と旧王家を慕う民兵が主たる解放軍では王政復古の意識が根強く、アードライの領地回復に異を唱えるものはいなかったが、アードライが領有を希んだのは旧領地のごく一部に過ぎなかった。いま広大な領地を得ても国政の一端を担う身では目が届かない、というのがその理由であり、それでもわずかばかりの領地を希んだのは、そこに戦友の墓碑をと考えたがゆえのことである。
ともに育ちともに闘いともに死地に臨んだ、カルルスタイン出身の特務大尉五名。その先立った三名の出生地はおろか本名すらアードライは知り得なかった。かろうじてハーノインやイクスアインの故郷はそれとなく耳にしたことがあったが、クーフィアに至っては話題にのぼらせたことすらなかったことに、彼らの死後気づいた。
軍邦政権の総統が討たれてのち世界がマギウス狩りに狂奔するさなか、混乱の渦中にあったドルシアではそのどさくさで散逸した資料も多く、隠蔽され秘密裡に処理されたものも少なくはないはずだ。カルルスタイン機関もまたその教練の舞台となった村ごと解体され、アードライが辿ろうとしても彼らの出自につながる痕跡は見いだせなかった。
となれば、もとよりカルルスタインのものに身寄りなどないのだし、死者の冥福を祈るのにおのれの目の届く場所をえらぶほうが賢明というものだろう。
戦乱に荒廃したドルシア本土の復興促進と、絶対的統治者の不在で揺らぐ国政の舵取りをしながら、なんとか墓地の体裁を整え終えたのがこの夏の終わり。カルルスタインに代わる本義としての戦災孤児育成機関の設立とは異なり、慰霊はあくまで私事であるためその完成に公務で立ち会えなかったアードライに代わり、補佐官であるクリムヒルトが諸事つつがなく取りしきってくれたのだが。ためにアードライ自身が花を手向けることはなく、それがようやくかなっての、きょうという日である。
小高い丘の中腹に差し掛かり、視界が開け始めてアードライはほっと息をついた。三つ編みに編み込まれていない左の前髪を掻き上げて、小径の向こうを見霽かす。雑木林を拓いたこのさきに、ささやかな霊園が設えられている。
端正な顔立ちに似つかわしくなく左の眸を縦に貫く銃痕は、アードライにとっては目を背けることをゆるされない自身の闇の刻の証しだ。
「公務以外でこうして出歩くのもずいぶんひさしぶりな気がする」
クリムヒルトに指摘されるまでそれにすらアードライは気づいていなかった。墓参の時間を捻出できないかを問うアードライに、有能な補佐官は溜め息混じりに云った。
「こちらが折を見て休暇をお勧めしても御自分で忙しくされてしまうからですよ。自ら云い出されるなど天啓としか思えません。ざっと半年ほど休まれてませんから、この機会に骨休めなさってください。殿下」
彼女はその場で端末を取り出してスケジュールを調整し、その翌週には七日の休暇を有無を云わさず捩じ込んだ。
もうそんなになるだろうか。
ということはエルエルフともそれだけ逢瀬を持てないでいることになる。
「彼の誕生日を祝いに出向いて以来の休暇ということか…」
そのあとのアードライ自身の誕生日には直に会えなかったわけだが、アードライにとってはエルエルフを祝うことのほうが重要だったからかまわなかったのだ。
アードライを突き落とし闇の深淵を覗かせた張本人は、そのじつ自身ももがき足掻き傷つきながら、最後にはアードライの伸ばした手を握り返してくれた。
地上と宙域とでたがいに国政をあずかる身では往き来もままならないのは覚悟していたし、メールや映像データで近況は知れたから耐えられた。なによりアードライが求めつづけたエルエルフとの誓約が成された晩に、五年後にはともに、と交わした約束がアードライの背中を押しその意志を支えている。
エルエルフはアードライのそばに在ることを約してくれた。その未来の時間を捻出するために、彼は国政の表舞台には立たず、モジュール77で建国の礎を固めることに専心している。
すでに折り返し時点は過ぎた。約束の刻までにエルエルフは抱える荷をすべて解き、後継に託せるだけの環境を整えてくる。彼自らがそう予測した以上、ことはそのとおりに成されるはずだ。そしてその間にアードライの為すべきこともまた山積している。
エルエルフをふたたびドルシアに迎え入れるのだ。アードライ個人はエルエルフがとなりにいてくれる以上のことを希まないが、周囲はそれでは収まるまい。
政権が変わったうえは彼が亡命者であることはすでに問題ではなく、アードライが彼を身近に置くということは傍目には側近として重用すると映るだろう。いくらその実質が極めてプライベートな理由からであっても、エルエルフの才覚が周知され実績が伴っているのだから、避けようがない。
その極めてプライベートな理由というのが婚姻であるということを、アードライとしてはむしろ明らかにして迎えたいという本音もある。生涯のパートナーであると公にして、彼という希有な才能をドルシアの地で生かしたかった。
真新しい墓標には陽光が映えて、墓所というにはいささか朗らかでのどかな空気を醸しだしていた。ハーノインもクーフィアも湿っぽい空気を嫌っていたから、これはこれでいいのかも知れない。イクスアインは顔を蹙めるかも知れないが。
そこまで考えて知らず笑みがこぼれた。懐かしい姿がまなうらに浮かぶ。
「…地獄で待っていてくれるか。すぐには無理だが、いずれ私たちも行く」
アードライは手にしていた花束を抱えなおし、墓前に捧げようと跪く。そこで初めて三つの名の刻まれた墓碑に隠れるように、ちいさな花束が供えられているのに気がついた。ここの管理を任せているものの手によるものだろうか。
白い花束を傍らに供えて覗き込んでみれば、金茶に群青に赤、種類はまちまちだがそれぞれひと色一輪ずつをひとつに束ね、淡い銀色の薄紙で包まれている。
「…これは」
直感した。ハーノインがそのピアスに込めたように、これは彼らの髪色を模している。
「エルエルフ…! ここへ来たのか?」
この墓所のことはごくわずかな側近を除けば知るものはいないし、そもそもアードライがそれを伝えたのは彼にだけだ。そのときもエルエルフはいつものように淡々として、おまえらしいな、とひとこと返しただけだった。
三色の花片はまだ瑞々しく、置かれてからさほどの時間が経っているとも思えない。丘の裾野の車道からこの墓所へは細い一本道だ。往く路、アードライはだれともすれ違わなかった。ならば、まだこの近くに。
小径は霊園の裏手の杜へと抜けて、少し登ったその先は行き止まりの崖になっているが、遠く海が望める。弔いもそこそこにアードライは駆け出していた。
ほんと、王子さまはエルエルフしか見てないよな。
どこかからかそう笑う声が聞こえた気がした。
しなやかな手が弧を描く。指先から花が一輪、中空へと放たれる。花弁にうっすらと紅をさしたような斑の入った、愛らしい白い花。崖に添って吹き上がる風に攫われて、高く遠く空に舞った。
杜を抜けたアードライの目に飛び込んできたのは、崖の突端に立ち遠く海に向かって投じるかのように、花を手向ける姿だった。
風になぶられる銀糸の髪が、小春日和の陽光を受けてやわらかな光の拡散を生む。その淡い光に包まれた玲瓏な横顔は花の行方をしばらく追っていたが、やがてひとの気配に気づいたのかゆっくりと振り返った。
「…アードライ」
驚くでもなく、清んだ青紫の双眸がこちらを捉える。眸とおなじ色合いのウィングカラーのシャツに銀鼠のスーツという出で立ちはアードライには馴染みがなく、エルエルフをどこか遠く見せた。
「エルエルフ…。いつ地上に降りて…」
そのたたずまいに魅入られていたものか、花を手向けたあいてに捧げられた真情を知るためか、いささかくぐもった声がこぼれた。ドルシアナ近郊の海はエルエルフの純情にせめて報いようと身を投げ出した姫の終焉の場所だ。
「今朝だ。その足で来た」
「…奇遇だな」
いや、こんな偶然があり得るのだろうか。
「…? 公務絡みで地上に降りることはクリムヒルトに伝えてあった。スケジュールを摺り合わせるよう申し入れてきたのはそちらのほうだぞ。墓参を日程に組み込み、公務に合わせて休暇を取れないかと打診されて…」
アードライは思わずあたまを抱えた。
「…気を回しすぎだ、クリムヒルト」
「まあ、そのおかげでこうして会えたわけだが」
それに関しては感謝しかない。感謝しかないが、しかし。
「私は…それほどに疲れて見えたのだろうか? あるいは、きみに会いたいとおもう気持ちが知らず溢れ出ていたということか?」
崖の突端からこちらへと歩みを返しながら、エルエルフはあきれたようにちいさく息を吐いた。
「あいかわらずだな…おまえは」
アードライの目のまえに立ち、まっすぐに視線を捉える。以前よりまたいちだんと穏やかさを増した笑みを口もとに浮かべた。
「きみも…」
囚われたつよい視線に息を呑んだ。つづくさきのことばの代わりに口接ける。淡く交わされた口唇は軽い音を立てて一旦離れ、つぎには求め合うままに深く咬まされた。
「エルエルフ…」
ひさかたぶりの口接けをたっぷりと堪能し、からだの奥深くでざわめく熱を宥めながらアードライは抱きしめていた腕をゆるめる。
「公務にはどのくらいかかる? むろんそのあとは我が家を訪ねてくれるのだろう?」
「あす一日で終わる。そのつもりで以降の宿は取ってない」
口調は平坦なままだが、返されたことばには明確な意志と不器用な甘えとが滲んでいて、アードライは口もとをほころばせた。
「ではきょうは公用の宿泊先だな。送ろう。下に車を待たせてある」
もういちど軽く唇を啄んで促す。着いたその足で来たというのに荷のひとつもないのは、ホテルに直送してあるからか。もっともふだんからあまりものを持たないエルエルフのことだから、ほんとうに身ひとつで来た可能性もある。公務に必要な資料などはモバイル端末ひとつで事足りる。
「最低限の着替えくらいは持ってきているか? 足りなければそれも用意しておこう」
「公務用の服は一式」
「このスーツは? とても似合っているが…きみにしてはめずらしい」
気になっていたことをついでに質すと、至近の距離で秀麗な眉が顰められた。
「墓参と休暇を兼ねるとスケジュールを出したら、周囲が口を揃えてちゃんとしたものを一着用意しろと煩かった」
不本意そうにそう云ってアードライの腕をするりと抜けだしたエルエルフは、気配を探るようにあたりを一瞥して声を潜めた。
「…護衛もなしか? 休暇中の私用とはいえ感心しないな、王子殿下」
解放軍のリーダーとしての立場もありそれ以上にアードライが次期国王と目されていることを踏まえての言だった。
先の王政下で王位継承権の低かったアードライは、いまも名目上は王太子ではなく王子のひとりに過ぎない。五年後には国王になっておくとエルエルフに宣言したのはアードライ自身だったが、それは祖国に描く未来図のためのステップに過ぎず、最終目標ではない。民兵の多くは前線で陣頭指揮に立ったアードライを指示しているが、王政復古を掲げる旧王党派内部には元来継承順位の高かった王族を推そうといううごきもある。総統派軍という共通の敵が失権したいま、解放軍が内包していた不穏はしだいに表面化しつつあり、やがては暫定政権の軋みとなって音を響かせる。
遠く離れた地に在りながら、エルエルフにはそれが見えているのだ。
「建国を担う頭脳でありながら単身で地上に降りてくるおまえに云われたくはない」
やはりかなわないな、と内心で舌を巻きながらつとめて軽口で返す。
「モジュール77には、おれの護衛に人員を割くほどのよゆうはないだけだ」
もとよりカルルスタイン機関の卒業までを生き延び特務大尉に上った身だ。おのがいのちを護るすべにはおのれ自身がいちばん長けている。ただの軍属やまして民兵では、アードライの心身の能力に付いてくることさえむずかしいだろう。エルエルフに至ってはほぼ一般人しか近辺にいないのだから、ヴァルヴレイヴでも持ち出さないかぎり護衛にはなるまい。いやむしろ。
「護衛もいたずらにあるだけでは足手纏いになりかねないからな」
「弾除けにはなる」
「エルエルフ!」
辛辣な切り返しに思わず詰る口調になった。
「甘いな、王子さま」
本気で論争する気ではないエルエルフの揶揄する目線が返ってくる。現にだれひとり随行も付けずに来ているくせに、ことばづらだけは冷淡だ。
甘いのは、どちらだか。いまとなって振り返ればアードライはそう返したくもなる。
かつて、アードライの放った弾丸をエルエルフは彼のいう彼の腕を盾にして逃れたが、それはその腕がその程度では死なないことを知っていたからだ。トラップで応戦しアードライを殺す隙はいくらでもあったろうに、だが彼は銃爪を引かなかった。そればかりではない。状況の真相が判明したあとになってみれば、彼自身はいちどとしてアードライに、いやハーノインにもイクスアインにもクーフィアにも、害意を向けていないのだ。その知略で逃れぎりぎりに追い詰め容赦なく攪乱することはしても、アードライたちと生命のやりとりをするテーブルに着こうとはしなかった。
そう。モジュール77での再会を果たしたあの救護室でも。アードライが銃口を向けるまで、彼は手にしていた銃をかまえなかった。目的と利害の一致を見て先に銃をおろしたのは彼のほうだった。
のちに、計画を前倒しにしただけだと彼は語ったけれど。裏切りを誤認され不本意なタイミングでおのれの目指す革命に舵を切らざるを得なかったエルエルフは、それがもたらす避けがたい死者の数をカウントしながら、可能なかぎりカルルスタインの仲間をそこから遠ざけようとしたのではなかったか。
「きみはやさしいのに、それを伝える努力を放棄しすぎだ。エルエルフ」
アードライを見つめる青紫の双眸が微かに瞠られて、さもいやそうに眇められた。
「寝言は寝て云え」
「そんなところも私は好きだが。きみが誤解されるのはおもしろくない」
「べつに誤解でもないだろう」
軽く肩を竦めて、エルエルフは小径を杜へと踵を返す。木洩れ日を受けて淡く浮かぶ銀髪と少年期の名残をとどめたままの細身の背中を少し遅れて眺めながら、アードライはちいさくつぶやいた。
「…誤解だよ」
その萌芽は幼き日よりあった。カルルスタイン機関で迎えた最初のその日に。
「おまえ、きょうがたんじょう日だそうだな」
いささか突っかかるようにそう云ったアードライをエルエルフは無表情に見返した。
「たんじょうび…」
「なぜそう云わない! しらなければ、いわうこともできないではないか」
「いわう? …なにをだ」
「きまっている。生まれてきたことと生きてその日をむかえられたことに、おめでとうとありがとうを云うのだ。ははうえがそうおっしゃっていた」
「……? せいねんがっぴのことか。そういうものなのか」
そこで初めて、エルエルフの反応のずれにアードライは気づいた。
「そういうものだ」
「それをおまえがおれに云うのか?」
「ここのだれにももう父も母もいないのだから、わたしがいわってやる」
「それはうれしいものか」
「あたりまえだろう」
「………ならば、ほかのやつらに云ってやれ」
「…??? きょうはおまえのたんじょう日だろう!」
「いままでもなかった。おれにはひつようない」
淡々とした横顔に、誕生日という概念そのものが欠如していたのだと愕然とした。どういう育ちかたをしたのだ、こいつは。
「ひつようなくはない! だいいちなぜ、おまえをおいてほかのやつらをわたしがいわわねばならない。わたしはきょう、おまえを、いわうんだ!!」
「…かってにしろ」
なかば意地になったのは、アードライの祝福をどうでもいいことのようにあしらわれたせいもあったろう。自分は要らないのにほかには云えとはどういうことだ。
それがエルエルフというひととなりだと、やがてアードライは知るけれど。
ただ彼は、その後の修練においてそれをおのれの意識下で完璧にコントロールできるほどの高いメンタル能力を併せ持っていた。
エルエルフはときに冷酷に切り捨てるべきを切り捨てるが、少なくともそれが私利私欲に走る保身ゆえだったことはいちどとしてない。その行動理念は私(わたくし)としての理由ひとつを貫いているにもかかわらず、根底に流れるのはおのれを生かした他者に報いるためという、極めて利他的なものだ。
死地にあろうとつねに先陣を切り勝つことに拘り我が身を顧みず独走さえしかねない危うさは、カルルスタイン機関に在籍しているときから、エルエルフがその用心深さとは対極に併せ持つ、彼の特異性だった。
「だからこそ、私は…」
さきを歩くエルエルフに大股で追いつくと、アードライはその手をつかんで指を絡め、肩を並べる。銀の髪が振り返ることはなかったが、つないだ手は払われることなく、微かに込められたちからがかさねた掌から伝わってきた。
裾野の車道で待機していた車はアードライの私用車で、但しその運転手は護衛を兼ねて付けられた軍人である。
まだ年若い部下が、アードライに気づいてすばやく運転席から降り、姿勢を正して後部座席のドアを開けた。そうして、アードライの連れ立った人物の姿を認めて、目をまるくする。
「紹介しよう、エルエルフ。これはカーツベルフ、その名の示すとおりカルルスタインの出身だ。この休暇中、私の運転手兼護衛をつとめてもらうことになっている。カーツベルフ、こちらはエルエルフ。話に聞かせたことはあったと思うが、私の戦友でパートナーだ」
「…あのときの、こどもか」
エルエルフは微妙な苦笑を浮かべている。
「エルエルフ?」
カーツベルフのほうは目をまるくしたままぱくぱくと口を開閉させているだけだったが、しばらくしてようやくことばを口に乗せた。
「…あ、あのときの、おまえ、…いや、あなたが、殿下の…」
カルルスタイン機関の集落でカミツキにジャックされた状態でアードライと行動をともにし、乗っ取りから解放されたところを保護され、そののち解放軍の一員として東方戦線に配属されていた少年は、いまはクリムヒルトの直属の部下として彼女の手を煩わせるまでもない雑務をこなしながら、アードライに付き従って軍務と政務とを学んでいる。メンタルコントロールの修得なかばでカルルスタインは解体されたが、機関出身者らしくふだんはあまり取り乱すことはない。
「顔見知りなのか?」
らしからぬ部下の態度に、アードライは怪訝そうにエルエルフを見遣る。
「こいつを捕らえてジャックさせたのはおれだ」
「ああ、そもそもあれはきみの作戦だったな。そういうことか」
得心がいってアードライが微笑を浮かべるのに、カーツベルフは複雑な眼差しを向けた。
「すでにエルエルフは敵ではない。カーツベルフ。そう身構えるな」
カーツベルフ自身の記憶にはないことだが、あの洞窟の地でふたりが敵の作戦の向こうにたがいの存在を看破し、たがいの軍勢を本気でつぶし合ったことは承知している。解放軍に加わってさらに側近くに上がってからは、そのエルエルフの名を信愛を込めて呼ぶアードライの姿を幾度となく目にしその声を耳にもしている。実際、劣勢だった解放軍を勝利に導いた作戦がエルエルフによる筋書きであったことも聞いている。
だからカーツベルフにも、エルエルフという存在がアードライにとっていかに特別なものであるかは伝わっていた。ただそれがカーツベルフとその仲間を容易く拉致した敵と同一人物だったとは思いもしなかったのだ。
「エ…エルエルフの名をカルルスタインで知らぬものはおりません。創設以来の逸材、〝希代の才子にして問題児〟だったと。ですが、その容姿までは、自分は…その」
顔を知らないのも無理はなかった。当時、裏切り者として手配されたエルエルフの画像が閉ざされたカルルスタインの村の一訓練兵に届くことはなかったし、そもそも諜報活動を主眼に置く特務兵士の養成機関という特性上もあり、機密保持の観点からも、カルルスタインの卒業者名簿にはコードネームは記されても個人を特定できる画像やデータが付記されることはない。閲覧不可の軍の秘匿項目にはデータが残されていた可能性はあるが、それが消失していることはアードライ自身が確認している。
「希代の才子にして問題児、ね」
思わず吹き出したアードライにエルエルフは睨めた視線を送り、カーツベルフをあらためて見た。ドルシアでは婚姻適齢も早いが、ぎりぎりかあるいは。
「特例で無免許か?」
「いや、法的にも運転のゆるされる年齢になったのでな。とは、云うもおろかなことだが」
カルルスタインで学ぶのは闘うことと殺すこと。艦戦や戦闘機すら乗りこなすだけの技倆を身につけさせられるのだから。
賓客向けの公用宿舎の車寄せまで乗り付けて、降りるエルエルフに並んで座っていた後部座席からアードライは声を掛けた。
「あす刻限を見計らってカーツベルフに車を回させる。公務が明けたらホテルにもどっていてくれ」
「必要ない。おまえの家の場所は承知している」
「きみの護衛も兼ねている。安心させると思って、私の好きにさせてくれないか」
エルエルフがちいさく溜め息を吐く。それを了承と受け取って、アードライは座席を滑り降りるエルエルフの手を取り傅くようにその甲に口接けた。
「では、待っているよ。私の光(マインリヒト)」
リアビューミラー越しに見ていた運転席のカーツベルフがぎょっとして息を呑む。車のドアを開けて待つベルボーイは職業柄かさすがに動じなかったものの、微かに頬を赤らめている。
アードライの言動に慣れているエルエルフだけが、ただ平然とそれを受けた。
翌夕刻、エルエルフが公務からホテルに戻って早々に、迎えの車がきた。ベルボーイが小振りな荷ひとつをトランクルームに運び入れ、オートで開かれた後部座席に乗り込んだエルエルフを敬礼で見送る。
アードライの私邸に向かう道中で、リアビューミラー越しにちらちらとエルエルフのようすをうかがうカーツベルフに、エルエルフは気づいていながら無視を決め込んだ。作戦の検討や指示なら淀みなく語っても、日常的には口のうまいほうではない。やがてどこか観念したように、信号待ちのタイミングでカーツベルフがおずおずと切り出してきた。
「きのうは…その、驚いたんです。殿下があのように気さくな笑顔を向けられるのを見たのは…初めてで。しかも傅いてキスを贈られるなど。…でもそれだけ殿下にとっては特別なかたなのだと実感しました。エルエルフ、…さまは」
取って付けたような敬称で呼ばれて、エルエルフは苦笑する。
「呼び捨てでいい」
「あ…、…はい」
ただ緊張しているのか、警戒されているのか。相手をまるで見ていないようでいて深く観察しているのがエルエルフというひととなりだ。
「その貴方から見て、僕に…自分に殿下の護衛がつとまると思われますか」
思いがけない方向から問い掛けがきて、エルエルフはシートに沈めていた背をわずかに正した。
「…現状のおまえの能力を評価できるだけの判断材料をおれは持たない」
アードライにせよクリムヒルトにせよ部下に無理難題を強いる上官ではない。任命する以上はその能力があると判断してのことだろう。だが当の本人に迷いがあるようでは持っているものも十全には発揮されない。
「自分は、殿下の足を引っ張らない程度の能力はあると自負しています。けれど殿下を護衛するとなれば話は別だ。一人旅団と呼ばれた貴方ならあらゆる状況を想定して対処されてきたはず。おしえてください。護衛とは…なにを最も求められる任務ですか」
少年のことばは真摯で、アードライへの敬愛が窺える。エルエルフはミラー越しに視線を返してカーツベルフを見据えた。
「僕は殺すために闘ってきた。闘って殺せと教わった。…護れといわれても…どう護れば」
少年は困惑の色を深めて、半分ひとりごとのようだ。
「要人警護とは、ようはおのれの生命(いのち)を対象者の盾とすることだ」
青紫の眸を細め、エルエルフは酷薄にもみえる表情でうっすらと笑む。
「休暇中のアードライに外出時の警護の必要性を考慮する程度の火種はある。しかし実際に付けられたのは護衛任務未経験の兼任運転手ひとり。つまり、この期間にそこまでの事態が起こる可能性はパーセント未満。おまえの役割が真に必要となるのはまだ先で、今回のそれは経験を積ませるためのもの」
はっとしたようにカーツベルフが後部座席を振り返る。すぐに前方に注意をもどしたが、明らかな動揺が見えた。
「それを踏まえればおまえにはまだ猶予がある。実戦では惑う時間などあたえられない」
「…貴方は」
「だが、わるくない人選だ」
ふたたびシートに背をあずけエルエルフは目を閉じた。
「クリムヒルトはすでに立太子礼から即位の儀までを視野に入れているな。アードライ…おまえの思惑よりことは早くうごくぞ」
「…貴方は…どこまで」
見透せるのか。
独りごちるエルエルフを見つめる少年の眸には、その異能をまのあたりにした驚愕と畏怖と憧憬とが綯い交ぜになって浮かんでいる。
「そのとき…おれはここにいるか?」
だから、そう口のなかでつぶやいたエルエルフの声を拾うだけのゆとりは、少年にはなかった。
「いつ来ても落ちつかない邸だ」
年代物の調度品に囲まれた邸宅はけして華美ではないが、カルルスタインの村落と軍の兵舎で育ったエルエルフの感覚では、それでも十二分に華やかに映る。
「では、もっと馴染むほどに訪ねてくれればいい」
アードライのいまの私邸は王宮の敷地からほど近い、旧貴族の空いた邸を解放軍が借り受けているものだ。公務は宮廷内の一角で執り行われているため、その利便性が考慮されての選択である。
「モジュール77のきみの家は清潔だが簡素すぎるきらいがある」
同盟国の幹部同士の結婚式に招かれたその日の夜、王族の婚姻の儀式に則り誓約を交わしてからは、時間がゆるせばアードライから会いに行くようにしていた。国内の治安にかぎればモジュール77はドルシアよりも遙かに安全だったからだ。国情が落ち着いてからはエルエルフを招くことも増えたものの、おたがい多忙の身ゆえ、三年を跨いでも両手で数えられる程度の逢瀬でしかない。
訓練兵のとき同室だったころからエルエルフは私物をほとんどもたなかったが、それは成長しても変わらないままだ。
「それで、国の基幹づくりは順調なのだろうな。今回の公務もその一環なのだろう?」
「そうだな。ヴァルヴレイヴの現存三機のパイロットが固定されている以上、これ以上カミツキ…後天的なマギウスが増えることは、現段階では無い。遺伝子操作された学園の生徒は潜在的因子ではあるが人間のまま、考慮すべきはいまも世界各地に散っているマギウスが弾圧を逃れて流入してくるであろうその数だ。定期的なルーンの摂取がマギウスに欠かせないものなら、その恒常的な供給をシステム化する必要がある」
モジュール77の建国理念は人間とマギウスの共存なのだから、それは避けられない大命題だった。
「供給システム…必要なルーンの回収を献血のようなものでまかなうということか?」
ディナーは御用達のデリバリーですませたものの、食後のお茶の用意を手ずからおこない、アードライはエルエルフを居間に誘(いざな)う。
「献血的手法は一選択肢として置くが基本は納税として義務化する。新生児なら国籍の取得時、移民ならば市民権と引き替えに、というかたちだ。ひとりの人間から大量にルーンを奪えば記憶に障害が起こるが、大勢の人間から定期的に極微量のルーンを採取することでそのリスクを回避する。マギウスは生殖による個体増加がないから、人間の人口とのバランスが維持できれば可能と考える」
「共存する人間側のメリットは? それではマギウス側の利だけが勝る」
アードライの指摘にエルエルフは口もとに笑みを刻んだ。
「そのとおり。もとより捕食関係の上位にあたるのだから人間側の譲歩はやむをえない」
「でもそれでは、自ら共存を信じて国民となった人間の善意の乱用にならないか」
「代わりに、国民としてヴァルヴレイヴによる庇護が保証される」
「いや、それはマギウス側にも云えることだ。人間側だけのメリットではない」
ソーサーに紅茶のカップを乗せて手渡しながら、アードライが首を振る。
「さすがにだまされてはくれないか」
エルエルフはそう笑って、それから表情をあらためた。
「実際、マギウスによる無差別な生体簒奪の危難から逃れられるという以外のメリットは、人間側にはないんだ。ルーンの解明によって情報原子の代用となるものが人工的に開発可能にならないかぎりは」
「それは……、難題だな」
軽い甘味を盛った菓子皿をローテーブルに並べ、紅茶を手にアードライもエルエルフの横に腰を降ろす。
「ただマギウス側にも難題はある」
ひとくち紅茶を口に含んで味わってから、エルエルフは茶菓子に手を伸ばした。
「後天的な人工マギウスは老化しないが、本来のマギウスは精神体を人間の生体に移すことでいのちをつなぐ生命体だ。少なくともこの地球圏ではそれしか方法がない」
ちいさな菓子はチョコレート色をした薄いハトロン紙を纏っている。その菓子をつまみあげ、空いた波形の容器をエルエルフはそのまま掌でくしゃりとつぶした。
「マギウス化により多少の長命化はなっても、いずれ人体は老化し死滅する。ルーンの提供により共生が保証される代わり、生体を乗り移ることはこの国ではゆるされない。つまり」
「つまり、いま得ている生体が最後の器となる、ということか」
「マギウスが、彼らにとって器でしかない生体の死をおのれの死として受容できるよう、意識変革を成せるか…。成されなければ生体売買などの裏ビジネスがさぞ栄えることだろうな」
摘まんだ菓子を口に放り込み、歪んだ波形を指先でつついて、シニカルに自らの立てた未来図の暗面までを予見する。
「だがその変革は、生殖で個体を増やせないマギウスには、種の滅亡を意味しないか」
「繁殖可能な母星から切り離された時点で、彼らの生命体としての未来はすでに閉じている」
冷徹に云い切って、エルエルフはふたたび紅茶を口にした。
「生体を乗り移るのではなしに、ただおのれのルーンを相手側に送り込むにとどめて精神生命体としての遺伝的情報を託す、といういのちのつなぎかたもあるようだが」
黙り込んでしまったアードライに、しばらくしてエルエルフはそうことばを足した。アードライが黙したのをマギウスへの憐憫と捉えたのか、それもまちがいではないが気懸かりはほかにあった。
「きみはだいじょうぶなのか、エルエルフ。…相当な量のルーンを提供していたのだろう?」
ふいに矛先を転じられて、エルエルフは目を丸くする。
「おれに記憶の齟齬が起きているように見えるか?」
「真面目に応えてくれ」
あきれたように返すエルエルフに、らしくもなくカチャリと音を立てて紅茶をテーブルに置いたアードライの口調は痛いくらいに真剣で、その眼差しも嘘や誤魔化しはゆるさないという色だ。
「……。おれのいちばん古い記憶は、おれの名を呼びながらちいさなおれの手を握る女性の手なんだが」
エルエルフは思い起こすように自らの手を目のまえに翳す。
「その記憶があるうちは問題は起きていないと見ていいだろう。心配なら、アードライ。おまえがそれを憶えていて、ときおり確認すればいい」
「その女性とは…きみの母親か」
「…さあ、どうだろうな。その掌の感触とおれに向かって呼びかけられる声だけでは判断のしようがない」
ただ淡々と紡がれる記憶の情景に、エルエルフの感情が波立つことはなく。アードライはなかば無意識のうちにその名をつぶやいていた。
「ミハエル…?」
翳された掌のむこうで青紫の双眸が瞠られる。エルエルフは腕を降ろし、無言でアードライを見つめた。
「…あ、いや、その。すまない」
我に返ってアードライは周章てた。
「墓を建てるまえにあいつらの故郷と本名を調べようとした。だが記録は消失していて、そのときクリムヒルトがつぶやいていたのを思い出したんだ」
これでミハエルの名も確かめようがなくなった。
「状況から見てだれかの本名なのだと察した。思い当たるのはきみしかいなかった。気をわるくしたのなら謝罪する」
「…驚いただけだ」
気まずげに目を伏せたアードライに、エルエルフは首を振りソファの背に身を凭せかけて息を吐いた。
「きみは…そう呼ばれたいか?」
「…?」
ソファに沈み、エルエルフは視線だけを投げる。
「ほんとうの名で、呼んだほうがいいのか。私は、おまえを」
「……おまえはどうなんだ」
弾かれたようにアードライは顔をあげた。
「殿下と呼ばれるのなら、本来その敬称が付けられるべき名をおまえも持っているだろう。なぜコードネームで通している?」
「エルエルフ…」
習慣的にそう呟いたアードライにエルエルフは双眸を撓める。
「呼んでくれるものがいて初めてなまえはなまえになる。ただの記号も、耳に馴染んだ。おまえが呼ぶ、それがいまのおれの名だ。アードライ」
衒いなく応えられて、アードライは破顔した。
「おなじことを思っていた。カルルスタインでおまえとともに生きてきた時間があっていまの私がある。この左眼の義眼も疵痕もすべてがいまこの瞬間につながっている。だから私はアードライの名で生きる。このさきも、きみがそう呼んでくれるかぎり」
その疵痕をエルエルフの指がなぞる。穏やかに笑んだ眸は少しとろりとして、二度三度ぼんやりとした瞬きを繰り返した。地上への長距離移動と公務の疲れが出てきたのだろう。
「エルエルフ。客間を用意してあるから、もうやすむといい」
触れてくる指先を手にとって、滑らかな爪に口接ける。
青紫がまた微かに瞬いて少しだけアードライを見つめると、ちいさな欠伸を噛み殺してエルエルフはすなおに立ち上がった。
翌朝早くに、エルエルフは起き出してきた。ぐっすりとやすんでの目覚めらしく、シャワーを浴びにいく足取りもしゃっきりしている。
手早くすませるとアードライの用意した着替えのシャツに袖を通し、ダイニングに現れた。テーブルには着かず、キッチンで朝食用のたまごをフライパンに落とし冷蔵庫からヨーグルトを取り出すアードライの手もとを、興味深そうに眺めている。
「少しだけ待っていてくれ」
小振りの胴鍋には仕上げを待つばかりのポタージュが温まっている。
「…いまでも自分でつくるのか?」
きれいに薄皮を剥かれた淡い黄色の房が硝子の器で瑞々しい香りを放つ。乳白色のヨーグルトに琥珀色のハチミツを溶き加えて添え、アードライはそれをいったん冷蔵庫にもどした。
「たまの休日くらいは。あとは気分転換に。きみは気持ちよく食べてくれるからつくりがいがあるよ」
オフ本につづく
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