ついったに吐き出したもののまとめと追加。まとまってないけど。
とりあえず今シリーズの現在軸にこれまでヅラさんが絡んでこないわけはわかった気がする。
銀さんも晋ちゃんもものすごい自己否定なんだな。で、そのふたりがかろうじて生きているのはおなじ痛みも憎しみも苦しみも味わってきたはずの桂さんが、絶対的に銀さんの存在も晋ちゃんの存在も否定しないからなのだな。
その桂さんが同軸で生きているうちは、あのふたりは生きていられるし死ねないんだろう。
あの場に桂さんがいたらふたりは殴り合えないし否定し合えない。だって桂さんだけが、すべてを知りながらなお、自分という存在(が生きていること)を受容してくれてるから。
晋ちゃんにとっていまの自分は師の死と引き替えに生きた残骸で、桂さんはそれを分かち合って死ねなかったかたわれで。
銀さんにとっていまの自分は師の言葉を遂行して生きた残骸で、桂さんはそれをただ受け容れてくれて(おまえがいちばん)つらかったねとあたまを撫でてくれる。
銀さんが万事屋という繭のなかに籠もろうとするのも、晋ちゃんが鬼兵隊という鎧を纏ってぶっ壊そうとうごくのも、本質的なところではおなじなんじゃないのかな。
あれを味わって、いま現在をああ生きられる桂さんの存在そのもののつよさがハンパない。
でもじゃあ、ヅラさんはやっぱりひとりで歩いて行くしかないね?
憎しみとか怒りとか呪いとか自己否定とか拳でぶつけられるあいてがいるぶんいいじゃん…。自分だけで手一杯なままなのはやむをえないし。ふたりはもうそれでいいじゃん…。
つくづく、桂さんは救済する側の存在なのだなぁ。される側ではないのだ…。彼のばけものじみたつよさが、ひととしての弱さをくるんでくれる存在を遠ざける。
桂さんがそれをわかってて達観して受け容れてるならいいけど、それが諦念から来るものならつらい、かな。
人間なのに、存在の意味が人間じゃないという、すごさ。
銀さんや晋ちゃんには桂さんのような幼なじみがいてよかったね、といえるけど。
桂さんはあの幼なじみずを死ぬまでというか死んでも見捨てないだろうけど。
銀さんと晋ちゃんのつらさを理解できるのは桂さんだけだ。
たしかに、甘っちょろいもんじゃねぇんだよ、俺たちは。なのだ。
でも桂さんのつらさは、銀さんにも晋ちゃんにも、たぶん一生わからない。
わかってもらおうと、桂さん自身が思ってない。
わかってくれなくていい!とか、わかるものか!とか、わかってたまるか!ではなくて、ただたんに、わからないことをあたりまえに捉えてる。
そこが桂さんの桂さんたるゆえんなんや…。
銀さんはさぁ、美しく生きようじゃねぇかって、攘夷戦争末期に自決を考える桂さんを生かしたわけだけど。あれは自分たちが生きたかったわけじゃなくて桂さんを死なせないための方便だ。
それよりまえのこのとき、先生の言葉を遂行するに当たって、晋ちゃんと桂さんを死なせたくなかったからこそ、自分たちが生き存えるほうを択んだわけだよね。
どんだけ桂さんに生きてて欲しかったかって話ですよ。
なのに(こんな無力な)自分が生きてしまっている理由もそこにあって。つらくて逃げ出した。自分はもうヅラさんを護れないけど、それでもヅラさんには死なないで欲しい、と。
だれよりヅラさんに夢見てだれより美しい存在だといまも思ってる。
晋ちゃんのほうはもっとこう、なんといったらいいか。
むかしからいっしょにいて、いっしょに先生のもとへ走って、いっしょに先生のいのちと引き替えに生き存えてしまった、という。ずっと近しくそばにいた、存在としての片破れ感がつよい。
先生のいのちと引き換えてまで自分は生きたくなかったけど、おなじ立場のヅラさんが生きているから、(こんな不甲斐ない)自分が生きてしまっていることをかろうじて許容できてるというか。
途を違えようとヅラに討たれようと、晋ちゃんのなかでは桂さんという存在はずっとおなじ場所に在って、不変なんじゃないかのな。
すべてを呑み込める桂さんのつよさは、持って生まれたものを幼少期の体験と攘夷時代の経験とで磨き上げられたものなのだろうなぁ。
天然通り越したばかさ加減も、滑稽なまでの一途さも、腹黒さも、なにがあっても揺らがない桂さんは桂さんでしかないし、桂さん以外のものにはなれない。それが幸でも不幸でも。
だから銀さんは、桂さんに夢を見つづけるしおのれの理想を背負わせる。
だから晋ちゃんは、銀さんや世界に向ける拳も刃も桂さんにはけして向けない。
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その桂さんが同軸で生きているうちは、あのふたりは生きていられるし死ねないんだろう。
あの場に桂さんがいたらふたりは殴り合えないし否定し合えない。だって桂さんだけが、すべてを知りながらなお、自分という存在(が生きていること)を受容してくれてるから。
晋ちゃんにとっていまの自分は師の死と引き替えに生きた残骸で、桂さんはそれを分かち合って死ねなかったかたわれで。
銀さんにとっていまの自分は師の言葉を遂行して生きた残骸で、桂さんはそれをただ受け容れてくれて(おまえがいちばん)つらかったねとあたまを撫でてくれる。
銀さんが万事屋という繭のなかに籠もろうとするのも、晋ちゃんが鬼兵隊という鎧を纏ってぶっ壊そうとうごくのも、本質的なところではおなじなんじゃないのかな。
あれを味わって、いま現在をああ生きられる桂さんの存在そのもののつよさがハンパない。
でもじゃあ、ヅラさんはやっぱりひとりで歩いて行くしかないね?
憎しみとか怒りとか呪いとか自己否定とか拳でぶつけられるあいてがいるぶんいいじゃん…。自分だけで手一杯なままなのはやむをえないし。ふたりはもうそれでいいじゃん…。
つくづく、桂さんは救済する側の存在なのだなぁ。される側ではないのだ…。彼のばけものじみたつよさが、ひととしての弱さをくるんでくれる存在を遠ざける。
桂さんがそれをわかってて達観して受け容れてるならいいけど、それが諦念から来るものならつらい、かな。
人間なのに、存在の意味が人間じゃないという、すごさ。
銀さんや晋ちゃんには桂さんのような幼なじみがいてよかったね、といえるけど。
桂さんはあの幼なじみずを死ぬまでというか死んでも見捨てないだろうけど。
銀さんと晋ちゃんのつらさを理解できるのは桂さんだけだ。
たしかに、甘っちょろいもんじゃねぇんだよ、俺たちは。なのだ。
でも桂さんのつらさは、銀さんにも晋ちゃんにも、たぶん一生わからない。
わかってもらおうと、桂さん自身が思ってない。
わかってくれなくていい!とか、わかるものか!とか、わかってたまるか!ではなくて、ただたんに、わからないことをあたりまえに捉えてる。
そこが桂さんの桂さんたるゆえんなんや…。
銀さんはさぁ、美しく生きようじゃねぇかって、攘夷戦争末期に自決を考える桂さんを生かしたわけだけど。あれは自分たちが生きたかったわけじゃなくて桂さんを死なせないための方便だ。
それよりまえのこのとき、先生の言葉を遂行するに当たって、晋ちゃんと桂さんを死なせたくなかったからこそ、自分たちが生き存えるほうを択んだわけだよね。
どんだけ桂さんに生きてて欲しかったかって話ですよ。
なのに(こんな無力な)自分が生きてしまっている理由もそこにあって。つらくて逃げ出した。自分はもうヅラさんを護れないけど、それでもヅラさんには死なないで欲しい、と。
だれよりヅラさんに夢見てだれより美しい存在だといまも思ってる。
晋ちゃんのほうはもっとこう、なんといったらいいか。
むかしからいっしょにいて、いっしょに先生のもとへ走って、いっしょに先生のいのちと引き替えに生き存えてしまった、という。ずっと近しくそばにいた、存在としての片破れ感がつよい。
先生のいのちと引き換えてまで自分は生きたくなかったけど、おなじ立場のヅラさんが生きているから、(こんな不甲斐ない)自分が生きてしまっていることをかろうじて許容できてるというか。
途を違えようとヅラに討たれようと、晋ちゃんのなかでは桂さんという存在はずっとおなじ場所に在って、不変なんじゃないかのな。
すべてを呑み込める桂さんのつよさは、持って生まれたものを幼少期の体験と攘夷時代の経験とで磨き上げられたものなのだろうなぁ。
天然通り越したばかさ加減も、滑稽なまでの一途さも、腹黒さも、なにがあっても揺らがない桂さんは桂さんでしかないし、桂さん以外のものにはなれない。それが幸でも不幸でも。
だから銀さんは、桂さんに夢を見つづけるしおのれの理想を背負わせる。
だから晋ちゃんは、銀さんや世界に向ける拳も刃も桂さんにはけして向けない。
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