祝 V-RevolutionⅥ 開催。
V-RevolutionVで配布した無配の折り本から。
・アドエルです。ハノイクが絡んでます。
・最終回後、カルルスタインっ子たちがみな生存している世界線。
・世界情勢とかすっ飛ばして平穏に暮らしてるというふわっとした設定。
新刊&既刊の未来とはべつの世界線です。
「だから。どうしてきみは、そうなんだ!」
門扉のインターフォンに手を翳そうとした刹那、耳に飛び込んできた声にイクスアインは思わずうごきをとめた。
「この声は…アードライか?」
三つ編みの王子さまが声を荒げるのはめずらしい。カルルスタインの時分からアードライが感情を波立たせるのはエルエルフ絡みのときだけだったが、それ以上にエルエルフが声を荒げるような事態はめったになく、おもいを通わせたふたりがともに暮らすようになってからはそうした諍いを目にすることはほとんどなかった。
云い返す声は聞こえてこない。イクスアインがその場で訪問を躊躇っていると、数十歩先に見える玄関の扉が静かに開いた。
「…イクスアイン?」
こちらに気づいたエルエルフがいつもと変わらない足取りで寄ってくる。門の鍵を開けながら淡々と声を掛けてきた。
「どうした。ハーノインとまた一戦交えたのか」
図星なので苦笑するほかはない。ふたりよりも少しだけ早くイクスアインはハーノインと暮らしはじめていたが、幼なじみが高じての仲ということもあってか、ふたりとは真逆でちょっとしたことでも云い合いになり、それが積もり積もってくると爆発して大喧嘩になる。その気晴らしに郊外のふたりの家を訪ねることがままあった。
「ゆっくりしていけ」
そう軽く手を挙げてエルエルフはふらりとそのまま出ていく。必要以上に立ち入ってこないあたりは平常運転だ。その背を見送り、イクスアインはインターフォン越しに来訪を告げた。
「よく来たな、イクスアイン。らくにしてくれ」
こちらも慣れたしぐさで手ずから淹れた紅茶で迎えてくれたアードライは、だがしかしいつもよりは若干表情が険しい。
「…拙いタイミングだったかな」
「うん? たしかにお茶の時間はすませたばかりだが…」
「喧嘩したんだろう。めずらしいじゃないか」
平静さを装う右眼と虹彩のない左眼が、微かにイクスアインを睨めた。
「すまん。だが外まで声が聞こえていたぞ。そんなに腹に据えかねたのか?」
アードライはやや気まずそうに目を伏せ、それから観念したように息を吐いた。
「たいしたことではない…。いや、私には大事なことなのだが、エルエルフにとっては些末なことなのだ。それで云い合いになった」
喧嘩の鬱憤晴らしに遊びに来て、ひとの喧嘩話を聞くことになるというのも妙な流れだったが、わずかとはいえ年長者としてはここは放っても置けまい。
「エルエルフじゃないか。おまえも買いものか?」
イルミネーションに彩られたまちなかでめずらしい姿を見つけて、ハーノインは迷わず声を掛けた。
「…ハーノ。いや、ぶらついていただけだ」
驚くでもなく、いつもの無表情が振り返る。
「なんだなんだ。なにかあったか? でもまあちょうどいいや。つきあえよ」
任務と訓練に明け暮れた十代のころ、休日に街に繰り出すハーノインがたまに誘えば、エルエルフは仏頂面のままそれでも付いてきた。買いものにはまるで興味を示さなかったし、ナンパの釣り餌にされても文句を云うのでもなかったから、不思議に思って問うとしれっと応えられたものだ。
「街の構造の把握と人間観察だ」
ならば自分から出掛ければよさそうなものだが、そこまでする気は起きないらしい。自主トレと読書が当時のエルエルフの主たる休日メニューであった。
にぎわう通りをいくつかの店を冷やかして歩き、古本屋を覗いて物色する。付き合いよくそれを眺めていたエルエルフがぼそりとつぶやいた。
「原因はともかく、今回は自分がわるかったと思っているわけか」
「え?」
ぎょっとして、ハーノインは手にした本をあやうく取り落としかけた。
「ならばこちらのほうが、イクスアインの好みに合うだろう」
エルエルフは棚から綺麗な色の背表紙を一冊抜き出し、ハーノインの手に乗せる。呆気にとられ、それからがしがしと金茶のあたまを掻いた。
「…まいったな。お見通しかよ。あいかわらず鋭いねぇ」
「そうでもなければ本屋など見向きもしないだろう。おまえは」
ごくあたりまえの口調で応じられて、ハーノインは肩を竦める。
「…おまえたちはさぁ、どうなの。いっしょに暮らしてりゃ喧嘩くらいするだろ? 以前みたいに戦術で揉めて銃を突きつけ合う、とかじゃなくてさ」
エルエルフは幽かに眉を蹙めた。
「私は、ただエルエルフにもっと自分をたいせつにしてもらいたいだけなのだ」
「しかしエルエルフのあれは無意識だろう。あいつはあいつなりにおまえに応えようとしていると思うがな」
家具に壁紙、食器から調度品のたぐいに至るまで、アードライのこだわりで選び抜かれたことを窺わせる家は、いつ訪ねてもすっきりと片づけられ、ほどほどに日常の気配をのこしている。居心地のよい空間だ。
同居をはじめた際にアードライがほぼすべてを取り決めたといい、その意味ではわがままを通しているのはアードライのほうだった。タオルの仕舞い方まで拘ってもエルエルフはすなおにそれを受け容れる。日常生活のこまごまとしたことなどエルエルフにはさほど関心のない項目だから、結果としてそのほうが合理的だと判断できればそれで納まってしまうのだ。
イクスアインとハーノインとでは、歯ブラシの置き方ひとつにしても双方の癖があるから、虫の居所がわるければそれすら喧嘩のタネになる。
なにかとつい雑然となりがちな日常に厭気が差し、イクスアインがここを訪ねるのには、この空気感に惹かれているというのもあった。
「だが、ことはおのれのいのちに関わる。なぜああもおざなりにするのか」
ヴァルヴレイヴのエネルギー供給源としてルーンを提供していたエルエルフには、数年を経たいまでも定期的な検診が課せられている。それだけならとくに問題はないのだが、エルエルフが研究材料としてルーンの採取に協力を乞われてあっさりとそれを受諾したことがアードライの怒りを買った。
「だが今回限りのことと、むこうもエルエルフに約したんだろう?」
「でなければとうに研究機関に怒鳴り込んでいる。それは免罪符にはならない。ルーンの減少を懸念される要観察対象から、微量であれ新たに採取するなど神経を疑う所業だ」
その経緯を思い出してか、また憤りを抑えきれぬ口調になる。
「エルエルフもエルエルフだ。私たちはパートナーなのだ。その私にひとことの相談もなくというのは、ゆるしがたい」
「まあそこは、怒っていいところではあるな」
深く息を吐き、アードライは気を取りなおすように立ち上がった。
「イクスアイン。夕食は食べていくのだろう?」
「すまないが、そうさせてもらえるとたすかる」
「なに、かまわない。どのみちハーノインが迎えにくるまでのことだ。おまえたちの喧嘩はレクリエーションのようなものだと、エルエルフも云っていた」
内心で赤面してあたまを抱え込みたくなった。この年下コンビはこういう点でも容赦ない。
ハーノインとイクスアインの家事分担は折半だが、毎度ここで饗される食事がアードライの手料理であることから、おそらくはこれもアードライの仕切りだ。アードライのエルエルフへの過干渉、世話焼きはいまに始まったことではない。
居間でくつろがせてもらいつつ、手際よくテーブルセッティングしていくのを手持ち無沙汰に眺める。いちど手伝いをもうしでて、やんわりと断られてからは客に徹することにしている。アードライのことだから、客をもてなすのは一家の主人(あるじ)のつとめだという美学でもあるのかも知れない。
そこでふと目にとまった。
エルエルフはふらりと出ていったままだ。なのに準備された席は三つ。
夕食の時間には帰ってくるという確信があるのか、それともそれまでにハーノインが迎えにくるという計算なのか。
どちらとも取りかねてイクスアインが首をひねっていると、玄関先に人声があって、扉の開閉の音がつづき、さらりとした銀色の髪が居間を突っ切ってそのまま奥へと向かう。エルエルフはちらりと食卓に目をやり、手洗いをすませると勝手にもうひと組セッティングしはじめた。
おもむろに調理中のアードライの傍らに立ち、ぐつぐつと煮立つ銅鍋を覗き込む。
「足りるか?」
「いつも多めにつくっているし、客があるときは融通の利くメニューにしている。問題はない」
「そうか」
「今回はやけに迎えが早いのだな」
「街で偶然会った」
反射的に腰を浮かしたイクスアインに、エルエルフが目線を投げる。
「早過ぎたか?」
「いや、…そういうわけでは」
というのは嘘で、じつのところはかなり気まずい。ふたりの家に来るときにはそれなりに時間と距離を置きたいときだから、本音を云えばもう少し心の準備をしたいところだ。だがしかし。目のまえの、あまりにあっさりと喧嘩のことなどなかったようなふたりのやりとりに、毒気を抜かれてしまっている。
気づけばいつの間にやらハーノインがソファに座り込んでいた。綺麗な背表紙の本を両手で拝むように挟み込み、捧げ持って軽くこうべを垂れている。溜め息を吐いて、イクスアインはその手から本を抜き取った。
表題を見、ぱらりとページを繰って、表情がゆるむ。
「いいセレクトだな」
「でっしょ?」
「…エルエルフか?」
「あちゃ、ばれたか」
照れを含んだ苦笑が返って、気まずい空気も徐々にほどける。
「あいつらを見てると、自分らが莫迦みたいに思えるよ」
イクスアインがそう零すと、ハーノインも笑うしかないといったようすでうなずいた。
「だまってひと晩、自分が家を空けようものなら、どれだけ心配させるかはちゃんとわかってんだよ。あいつ」
「…ああ。そうか。…だからか」
「特務機関のころなんて、一旦作戦に入ればそんなもんじゃすまなかったのにな。おかしなもんだ」
「そうだな。だがそういうのも、あいつらにはきっと…わるくない」
あのころ、平穏な日常から遠くに在ったのはみな同じだったけれど。
その〝平穏があたりまえの日常〟というものを、エルエルフは知らずに生きていたのだから。
食卓に料理を運ぶエルエルフに、アードライが指示を出す。その声は、ついさっき銅鍋をまえにしていたときよりもさらに和らいでいる。
居間の客人の存在などあってないようなものなのだろう。キッチンとダイニングを往復するあいまに、ふたりは軽く口唇を交わした。
「…平常運転だねぇ」
思わず目を泳がせたイクスアインのとなりでハーノインがのんびりと笑う。
他人の目など気にしないエルエルフに、エルエルフ以外は視界の外のアードライの、織りなす日常があたりまえかはべつの話としても。
了 2014.12.20.
PR
「だから。どうしてきみは、そうなんだ!」
門扉のインターフォンに手を翳そうとした刹那、耳に飛び込んできた声にイクスアインは思わずうごきをとめた。
「この声は…アードライか?」
三つ編みの王子さまが声を荒げるのはめずらしい。カルルスタインの時分からアードライが感情を波立たせるのはエルエルフ絡みのときだけだったが、それ以上にエルエルフが声を荒げるような事態はめったになく、おもいを通わせたふたりがともに暮らすようになってからはそうした諍いを目にすることはほとんどなかった。
云い返す声は聞こえてこない。イクスアインがその場で訪問を躊躇っていると、数十歩先に見える玄関の扉が静かに開いた。
「…イクスアイン?」
こちらに気づいたエルエルフがいつもと変わらない足取りで寄ってくる。門の鍵を開けながら淡々と声を掛けてきた。
「どうした。ハーノインとまた一戦交えたのか」
図星なので苦笑するほかはない。ふたりよりも少しだけ早くイクスアインはハーノインと暮らしはじめていたが、幼なじみが高じての仲ということもあってか、ふたりとは真逆でちょっとしたことでも云い合いになり、それが積もり積もってくると爆発して大喧嘩になる。その気晴らしに郊外のふたりの家を訪ねることがままあった。
「ゆっくりしていけ」
そう軽く手を挙げてエルエルフはふらりとそのまま出ていく。必要以上に立ち入ってこないあたりは平常運転だ。その背を見送り、イクスアインはインターフォン越しに来訪を告げた。
「よく来たな、イクスアイン。らくにしてくれ」
こちらも慣れたしぐさで手ずから淹れた紅茶で迎えてくれたアードライは、だがしかしいつもよりは若干表情が険しい。
「…拙いタイミングだったかな」
「うん? たしかにお茶の時間はすませたばかりだが…」
「喧嘩したんだろう。めずらしいじゃないか」
平静さを装う右眼と虹彩のない左眼が、微かにイクスアインを睨めた。
「すまん。だが外まで声が聞こえていたぞ。そんなに腹に据えかねたのか?」
アードライはやや気まずそうに目を伏せ、それから観念したように息を吐いた。
「たいしたことではない…。いや、私には大事なことなのだが、エルエルフにとっては些末なことなのだ。それで云い合いになった」
喧嘩の鬱憤晴らしに遊びに来て、ひとの喧嘩話を聞くことになるというのも妙な流れだったが、わずかとはいえ年長者としてはここは放っても置けまい。
「エルエルフじゃないか。おまえも買いものか?」
イルミネーションに彩られたまちなかでめずらしい姿を見つけて、ハーノインは迷わず声を掛けた。
「…ハーノ。いや、ぶらついていただけだ」
驚くでもなく、いつもの無表情が振り返る。
「なんだなんだ。なにかあったか? でもまあちょうどいいや。つきあえよ」
任務と訓練に明け暮れた十代のころ、休日に街に繰り出すハーノインがたまに誘えば、エルエルフは仏頂面のままそれでも付いてきた。買いものにはまるで興味を示さなかったし、ナンパの釣り餌にされても文句を云うのでもなかったから、不思議に思って問うとしれっと応えられたものだ。
「街の構造の把握と人間観察だ」
ならば自分から出掛ければよさそうなものだが、そこまでする気は起きないらしい。自主トレと読書が当時のエルエルフの主たる休日メニューであった。
にぎわう通りをいくつかの店を冷やかして歩き、古本屋を覗いて物色する。付き合いよくそれを眺めていたエルエルフがぼそりとつぶやいた。
「原因はともかく、今回は自分がわるかったと思っているわけか」
「え?」
ぎょっとして、ハーノインは手にした本をあやうく取り落としかけた。
「ならばこちらのほうが、イクスアインの好みに合うだろう」
エルエルフは棚から綺麗な色の背表紙を一冊抜き出し、ハーノインの手に乗せる。呆気にとられ、それからがしがしと金茶のあたまを掻いた。
「…まいったな。お見通しかよ。あいかわらず鋭いねぇ」
「そうでもなければ本屋など見向きもしないだろう。おまえは」
ごくあたりまえの口調で応じられて、ハーノインは肩を竦める。
「…おまえたちはさぁ、どうなの。いっしょに暮らしてりゃ喧嘩くらいするだろ? 以前みたいに戦術で揉めて銃を突きつけ合う、とかじゃなくてさ」
エルエルフは幽かに眉を蹙めた。
「私は、ただエルエルフにもっと自分をたいせつにしてもらいたいだけなのだ」
「しかしエルエルフのあれは無意識だろう。あいつはあいつなりにおまえに応えようとしていると思うがな」
家具に壁紙、食器から調度品のたぐいに至るまで、アードライのこだわりで選び抜かれたことを窺わせる家は、いつ訪ねてもすっきりと片づけられ、ほどほどに日常の気配をのこしている。居心地のよい空間だ。
同居をはじめた際にアードライがほぼすべてを取り決めたといい、その意味ではわがままを通しているのはアードライのほうだった。タオルの仕舞い方まで拘ってもエルエルフはすなおにそれを受け容れる。日常生活のこまごまとしたことなどエルエルフにはさほど関心のない項目だから、結果としてそのほうが合理的だと判断できればそれで納まってしまうのだ。
イクスアインとハーノインとでは、歯ブラシの置き方ひとつにしても双方の癖があるから、虫の居所がわるければそれすら喧嘩のタネになる。
なにかとつい雑然となりがちな日常に厭気が差し、イクスアインがここを訪ねるのには、この空気感に惹かれているというのもあった。
「だが、ことはおのれのいのちに関わる。なぜああもおざなりにするのか」
ヴァルヴレイヴのエネルギー供給源としてルーンを提供していたエルエルフには、数年を経たいまでも定期的な検診が課せられている。それだけならとくに問題はないのだが、エルエルフが研究材料としてルーンの採取に協力を乞われてあっさりとそれを受諾したことがアードライの怒りを買った。
「だが今回限りのことと、むこうもエルエルフに約したんだろう?」
「でなければとうに研究機関に怒鳴り込んでいる。それは免罪符にはならない。ルーンの減少を懸念される要観察対象から、微量であれ新たに採取するなど神経を疑う所業だ」
その経緯を思い出してか、また憤りを抑えきれぬ口調になる。
「エルエルフもエルエルフだ。私たちはパートナーなのだ。その私にひとことの相談もなくというのは、ゆるしがたい」
「まあそこは、怒っていいところではあるな」
深く息を吐き、アードライは気を取りなおすように立ち上がった。
「イクスアイン。夕食は食べていくのだろう?」
「すまないが、そうさせてもらえるとたすかる」
「なに、かまわない。どのみちハーノインが迎えにくるまでのことだ。おまえたちの喧嘩はレクリエーションのようなものだと、エルエルフも云っていた」
内心で赤面してあたまを抱え込みたくなった。この年下コンビはこういう点でも容赦ない。
ハーノインとイクスアインの家事分担は折半だが、毎度ここで饗される食事がアードライの手料理であることから、おそらくはこれもアードライの仕切りだ。アードライのエルエルフへの過干渉、世話焼きはいまに始まったことではない。
居間でくつろがせてもらいつつ、手際よくテーブルセッティングしていくのを手持ち無沙汰に眺める。いちど手伝いをもうしでて、やんわりと断られてからは客に徹することにしている。アードライのことだから、客をもてなすのは一家の主人(あるじ)のつとめだという美学でもあるのかも知れない。
そこでふと目にとまった。
エルエルフはふらりと出ていったままだ。なのに準備された席は三つ。
夕食の時間には帰ってくるという確信があるのか、それともそれまでにハーノインが迎えにくるという計算なのか。
どちらとも取りかねてイクスアインが首をひねっていると、玄関先に人声があって、扉の開閉の音がつづき、さらりとした銀色の髪が居間を突っ切ってそのまま奥へと向かう。エルエルフはちらりと食卓に目をやり、手洗いをすませると勝手にもうひと組セッティングしはじめた。
おもむろに調理中のアードライの傍らに立ち、ぐつぐつと煮立つ銅鍋を覗き込む。
「足りるか?」
「いつも多めにつくっているし、客があるときは融通の利くメニューにしている。問題はない」
「そうか」
「今回はやけに迎えが早いのだな」
「街で偶然会った」
反射的に腰を浮かしたイクスアインに、エルエルフが目線を投げる。
「早過ぎたか?」
「いや、…そういうわけでは」
というのは嘘で、じつのところはかなり気まずい。ふたりの家に来るときにはそれなりに時間と距離を置きたいときだから、本音を云えばもう少し心の準備をしたいところだ。だがしかし。目のまえの、あまりにあっさりと喧嘩のことなどなかったようなふたりのやりとりに、毒気を抜かれてしまっている。
気づけばいつの間にやらハーノインがソファに座り込んでいた。綺麗な背表紙の本を両手で拝むように挟み込み、捧げ持って軽くこうべを垂れている。溜め息を吐いて、イクスアインはその手から本を抜き取った。
表題を見、ぱらりとページを繰って、表情がゆるむ。
「いいセレクトだな」
「でっしょ?」
「…エルエルフか?」
「あちゃ、ばれたか」
照れを含んだ苦笑が返って、気まずい空気も徐々にほどける。
「あいつらを見てると、自分らが莫迦みたいに思えるよ」
イクスアインがそう零すと、ハーノインも笑うしかないといったようすでうなずいた。
「だまってひと晩、自分が家を空けようものなら、どれだけ心配させるかはちゃんとわかってんだよ。あいつ」
「…ああ。そうか。…だからか」
「特務機関のころなんて、一旦作戦に入ればそんなもんじゃすまなかったのにな。おかしなもんだ」
「そうだな。だがそういうのも、あいつらにはきっと…わるくない」
あのころ、平穏な日常から遠くに在ったのはみな同じだったけれど。
その〝平穏があたりまえの日常〟というものを、エルエルフは知らずに生きていたのだから。
食卓に料理を運ぶエルエルフに、アードライが指示を出す。その声は、ついさっき銅鍋をまえにしていたときよりもさらに和らいでいる。
居間の客人の存在などあってないようなものなのだろう。キッチンとダイニングを往復するあいまに、ふたりは軽く口唇を交わした。
「…平常運転だねぇ」
思わず目を泳がせたイクスアインのとなりでハーノインがのんびりと笑う。
他人の目など気にしないエルエルフに、エルエルフ以外は視界の外のアードライの、織りなす日常があたりまえかはべつの話としても。
了 2014.12.20.
PR