「天涯の遊子」沖桂篇。終話。
沖田と桂。と、銀時。
動乱篇を挟んで、その前哨と後日譚。
「…ヅラが斬った」
「へい?」
葛折りの丘の小径も半ば、唐突に銀時が切り出した。振り返り見た沖田からは、薄暮に銀時の姿もうっすら暈ける。
「深手を負って、火急の行軍についていかれなくなってね。引き摺って連れて進むも、置き去りにするも、早晩死ぬのは明らかだった。だから」
立ち止まった沖田に追いつくかたちになった銀時は、気怠げな眼差しで薄紫の上空を仰いでいる。薄く笑むようにも見える口の端で、淡々と紡いだ。
兵は自らが足手纏いになるのを厭い、将は全体を生かすために個を切り捨てる非情さを強いられる。
「そいつ、ヅラに心酔してたからなぁ。怪我に気がふれたふりなんかしてさ。桂の手にかかって、笑って死んだ」
「………」
攘夷志士の暁だのといまもって崇め立てられる、けれど沈む夕陽なしに朝陽は拝めないのだ。おのれの足もとの屍を乗り越えて、あれは暁であることを自ら体現する。ひとり超然と、沈むことなど知らぬげに。
「そーゆーのって、たまんねーでしょ。どっちも莫迦でしょ」
そのどちらにもなにもしてやれなかったおのれの無力さに、この旦那もまた苛まれたのだろうと、漠然として沖田は思った。そのうえでなお、銀時がなにを置いてもまず案ずるのは、結句、桂なのだとも知れた気がした。
「主戦場は…西のほうだったと聞いてやすが」
沖田の知らない、知りようのない戦の現実。
「そう。もうどこだったかなんて忘れたし。この場所も、そいつから話しに聞かされてたってだけ。こっちの出だったんだろうな。ヅラも江戸に来てから、ここだと知ったんだろ」
その戦争を追体験したいと、沖田は思わない。沖田にとっての戦は、真選組とともにある。すなわち近藤の立つ場所にある。おのれ自身のために、たいせつなものと必要な居場所をまもるのが、自分の闘いだ。そのために故郷(くに)を離れ、こんなところまで来た。それを幸とも不幸とも思わなかった。そういうものだと思ってきた。いまもそうだ。それは変わらない。変わらないのに。
先日の戦闘の感触が、ふいに生々しく沖田の身によみがえる。
あの憤り。たとえようのない昂揚感。とてつもない疲労感。
「てめーもさ、存外しんどかったろう。見知った顔を斬るってのは」
思いもよらぬことばを掛けてきた銀時に、沖田は肩を竦めてみせた。
「俺にとっちゃ、大将の敵でしかありやせんや」
「そう? ならいいけどね」
銀時は、至極あっさり翻して沖田の言に同調しながら、さらりと付け足す。
「桂がおめー連れて歩いてたのは、総一郞くん、放っとけない面(つら)でもしてたんじゃねぇのかと、なんか思っちまったわけよ」
違うんなら、いいんだ。と、つづけられたことばは、沖田のあたまに入ってきてはいなかった。
なんだって?
意識が急速に、まえを歩く桂のもとへと向かっていくのがわかる。
歩みの止まった後続に気づいた桂が振り返るのが、見えた。
「おい、なにをしている。ふたりとも。置いていくぞ」
「へいへい。てか、気早なんだよ、ヅラくん」
叫び返しながら、銀時が飄々と、そのくせ小走りに桂のもとへと駆ける。
「ヅラじゃない。気早でもない。桂だ」
そんなやりとりも、沖田の目と耳とを素通りしていく。いま沖田の目に映っているのは、目のまえの姿ではない。今朝方の。
立ち止まる、傘。
振り返る、背の黒髪。
しばしこちらを眺め、傘を差し掛けた。
桂。
手に預かったままだった、番傘を開く。その手がおぼつかない。めずらしく沖田は周章てた。周章てたことに気づいてまた、おぼつかなくなる手で開いた傘を目深に傾ける。おのれは、どんな面(つら)を晒していたというのか。
視界を隔てても、今朝方の姿は消えてくれない。花屋を出かけて空を見あげた横顔。同時に視野から断ったはずの、前方で振り返り見る桂の姿も。その声に、抵抗むなしく引き摺りもどされた。
「沖田。行くぞ」
びくりと、傘が揺れる。なんで、よりにもよって、いまなんでィ。
「なにしちゃってるの、総一郞くん、また傘なんか差して」
それでも沖田は傘を傾けたままで。
「こうすれば、帰るまに乾くじゃねいですかィ」
ゆっくり、一歩を踏み出した。
ぬかるんだ小径を踏みしめるおのれの足先を見つめながら、沖田は一足一足歩を進める。湧き上がる、甘く痺れたようなふわふわとした感覚に、この足を取られないように。そのくせ、この感覚を手放したくなくて。また一歩を踏みしめる。
ああ、どうやって、こうして踏み込んでやろうか。どう掻き回してやろう。いま、沖田、と初めて名を呼んだ、あのおとこを。消そうにも消せない、あの姿を。あの声を。
どうしたら、抱きしめられるだろう。
「わっ」
唐突に響いた初めて聞く小さな叫び声に、沖田は思わず、前方に傾けていた傘を上げた。被さるように、声が続く。
「おわっ。おま、なにやってんの。この莫迦」
見れば、ぬかるみに足を取られたらしい桂が、尻もち寸前の体勢で、銀時に抱えられるように支えられている。
「莫迦じゃない。桂だ」
呑気に常套句を吐きながら、銀時の腕をつかんで、桂は足もとを立て直す。
「テロリストが、ぬかるみにすってんころりんして、どーすんの。鈍(なま)ったんじゃないの」
「だれがテロリストだ。攘夷志士だ。鈍った貴様に鈍ったと云われるほど鈍ってはおらんぞ、この糖尿」
「だから。俺はまだ糖尿じゃねぇっての」
口ではぽんぽんと云い合いながら、銀時は支える手を解こうとはしないし、桂もそれを当然のように受けている。
「あーもう。痴話喧嘩は余所でやってくだせぇ」
沖田は閉じた傘を、支えるほうの腕を目掛けて、投げつけた。銀時が周章ててそれを受け止める。ふいに支えを失った桂は、すでに体勢をもどしていて、事無きを得たが。
「総一郞くん。先の尖ったもの、ひとさまに向けちゃだめでしょーが」
「旦那じゃなかったら、目ん玉目掛けて投げてましたぜ」
云いながら、ざっざっと大股で沖田はふたりに近づいた。
「きょうのところは、譲りまさぁ。だが、つぎ、このひとの身を支えるのは」
俺でさぁ。
とは告げずに。ただ、にっと笑って、沖田はそのままふたりの横を通り過ぎる。
すれ違いざま銀時が、刹那、沖田を刺すような眸で見た。それはほんとうにほんの一瞬のことで、すぐにもいつもの死んだような色に塗り込められたが。
背中に粟立つものを感じながら、だが沖田はそのままの勢いで径を下った。振り返らない。
その後ろから、おっとりと、桂の声がかかる。
「迷うなよ、沖田」
ああ、いい音色だ。ひとを酔わす声音というものが存在することを、実感する。ようやくその名を意識に留めてくれやしたねィ、桂さん。
「これでも記憶力はいいんでィ。来た径くらい憶えてまさぁ」
葛折りをいくつか曲がり下ったところで、沖田は歩む速度をゆるめた。背の低い草木越しに、いま来た道筋がところどころ顔を覗かせている。まだうごかないふたつの人影が、かろうじて見て取れた。
じきに夜の帷がその姿を覆い隠すだろう。その寸前、その影はひとつにかさなる。いささか乱暴に引き寄せられたのか、長い髪がなびいて沖田の見つめるさきに影を残した。
丘の頂を背に、来た途を辿る。薄闇が、完全に夜の色に塗り籠められるまえに、足もとのぬかるんだ小径は舗装された間道へと変わった。
自分もまだまだだな、と、沖田は自嘲する。知らん顔で旦那と土方とを焚きつけて、自分は漁夫の利にありつけばよかったのに。あんなふうにあからさまに匂わせたら、万事屋の旦那が黙っているはずがない。
現にいまさっき、悋気に駆られて旦那は、桂のその身を抱(いだ)いたろう。あのあと桂を足止めしたまま、きっと口接けている。
なびく髪とひとつにかさなった人影が、まなうらに残って消えない。
それは沖田が初めて味わう、嫉妬という名の恋情だった。
了 2008.05.17.
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「…ヅラが斬った」
「へい?」
葛折りの丘の小径も半ば、唐突に銀時が切り出した。振り返り見た沖田からは、薄暮に銀時の姿もうっすら暈ける。
「深手を負って、火急の行軍についていかれなくなってね。引き摺って連れて進むも、置き去りにするも、早晩死ぬのは明らかだった。だから」
立ち止まった沖田に追いつくかたちになった銀時は、気怠げな眼差しで薄紫の上空を仰いでいる。薄く笑むようにも見える口の端で、淡々と紡いだ。
兵は自らが足手纏いになるのを厭い、将は全体を生かすために個を切り捨てる非情さを強いられる。
「そいつ、ヅラに心酔してたからなぁ。怪我に気がふれたふりなんかしてさ。桂の手にかかって、笑って死んだ」
「………」
攘夷志士の暁だのといまもって崇め立てられる、けれど沈む夕陽なしに朝陽は拝めないのだ。おのれの足もとの屍を乗り越えて、あれは暁であることを自ら体現する。ひとり超然と、沈むことなど知らぬげに。
「そーゆーのって、たまんねーでしょ。どっちも莫迦でしょ」
そのどちらにもなにもしてやれなかったおのれの無力さに、この旦那もまた苛まれたのだろうと、漠然として沖田は思った。そのうえでなお、銀時がなにを置いてもまず案ずるのは、結句、桂なのだとも知れた気がした。
「主戦場は…西のほうだったと聞いてやすが」
沖田の知らない、知りようのない戦の現実。
「そう。もうどこだったかなんて忘れたし。この場所も、そいつから話しに聞かされてたってだけ。こっちの出だったんだろうな。ヅラも江戸に来てから、ここだと知ったんだろ」
その戦争を追体験したいと、沖田は思わない。沖田にとっての戦は、真選組とともにある。すなわち近藤の立つ場所にある。おのれ自身のために、たいせつなものと必要な居場所をまもるのが、自分の闘いだ。そのために故郷(くに)を離れ、こんなところまで来た。それを幸とも不幸とも思わなかった。そういうものだと思ってきた。いまもそうだ。それは変わらない。変わらないのに。
先日の戦闘の感触が、ふいに生々しく沖田の身によみがえる。
あの憤り。たとえようのない昂揚感。とてつもない疲労感。
「てめーもさ、存外しんどかったろう。見知った顔を斬るってのは」
思いもよらぬことばを掛けてきた銀時に、沖田は肩を竦めてみせた。
「俺にとっちゃ、大将の敵でしかありやせんや」
「そう? ならいいけどね」
銀時は、至極あっさり翻して沖田の言に同調しながら、さらりと付け足す。
「桂がおめー連れて歩いてたのは、総一郞くん、放っとけない面(つら)でもしてたんじゃねぇのかと、なんか思っちまったわけよ」
違うんなら、いいんだ。と、つづけられたことばは、沖田のあたまに入ってきてはいなかった。
なんだって?
意識が急速に、まえを歩く桂のもとへと向かっていくのがわかる。
歩みの止まった後続に気づいた桂が振り返るのが、見えた。
「おい、なにをしている。ふたりとも。置いていくぞ」
「へいへい。てか、気早なんだよ、ヅラくん」
叫び返しながら、銀時が飄々と、そのくせ小走りに桂のもとへと駆ける。
「ヅラじゃない。気早でもない。桂だ」
そんなやりとりも、沖田の目と耳とを素通りしていく。いま沖田の目に映っているのは、目のまえの姿ではない。今朝方の。
立ち止まる、傘。
振り返る、背の黒髪。
しばしこちらを眺め、傘を差し掛けた。
桂。
手に預かったままだった、番傘を開く。その手がおぼつかない。めずらしく沖田は周章てた。周章てたことに気づいてまた、おぼつかなくなる手で開いた傘を目深に傾ける。おのれは、どんな面(つら)を晒していたというのか。
視界を隔てても、今朝方の姿は消えてくれない。花屋を出かけて空を見あげた横顔。同時に視野から断ったはずの、前方で振り返り見る桂の姿も。その声に、抵抗むなしく引き摺りもどされた。
「沖田。行くぞ」
びくりと、傘が揺れる。なんで、よりにもよって、いまなんでィ。
「なにしちゃってるの、総一郞くん、また傘なんか差して」
それでも沖田は傘を傾けたままで。
「こうすれば、帰るまに乾くじゃねいですかィ」
ゆっくり、一歩を踏み出した。
ぬかるんだ小径を踏みしめるおのれの足先を見つめながら、沖田は一足一足歩を進める。湧き上がる、甘く痺れたようなふわふわとした感覚に、この足を取られないように。そのくせ、この感覚を手放したくなくて。また一歩を踏みしめる。
ああ、どうやって、こうして踏み込んでやろうか。どう掻き回してやろう。いま、沖田、と初めて名を呼んだ、あのおとこを。消そうにも消せない、あの姿を。あの声を。
どうしたら、抱きしめられるだろう。
「わっ」
唐突に響いた初めて聞く小さな叫び声に、沖田は思わず、前方に傾けていた傘を上げた。被さるように、声が続く。
「おわっ。おま、なにやってんの。この莫迦」
見れば、ぬかるみに足を取られたらしい桂が、尻もち寸前の体勢で、銀時に抱えられるように支えられている。
「莫迦じゃない。桂だ」
呑気に常套句を吐きながら、銀時の腕をつかんで、桂は足もとを立て直す。
「テロリストが、ぬかるみにすってんころりんして、どーすんの。鈍(なま)ったんじゃないの」
「だれがテロリストだ。攘夷志士だ。鈍った貴様に鈍ったと云われるほど鈍ってはおらんぞ、この糖尿」
「だから。俺はまだ糖尿じゃねぇっての」
口ではぽんぽんと云い合いながら、銀時は支える手を解こうとはしないし、桂もそれを当然のように受けている。
「あーもう。痴話喧嘩は余所でやってくだせぇ」
沖田は閉じた傘を、支えるほうの腕を目掛けて、投げつけた。銀時が周章ててそれを受け止める。ふいに支えを失った桂は、すでに体勢をもどしていて、事無きを得たが。
「総一郞くん。先の尖ったもの、ひとさまに向けちゃだめでしょーが」
「旦那じゃなかったら、目ん玉目掛けて投げてましたぜ」
云いながら、ざっざっと大股で沖田はふたりに近づいた。
「きょうのところは、譲りまさぁ。だが、つぎ、このひとの身を支えるのは」
俺でさぁ。
とは告げずに。ただ、にっと笑って、沖田はそのままふたりの横を通り過ぎる。
すれ違いざま銀時が、刹那、沖田を刺すような眸で見た。それはほんとうにほんの一瞬のことで、すぐにもいつもの死んだような色に塗り込められたが。
背中に粟立つものを感じながら、だが沖田はそのままの勢いで径を下った。振り返らない。
その後ろから、おっとりと、桂の声がかかる。
「迷うなよ、沖田」
ああ、いい音色だ。ひとを酔わす声音というものが存在することを、実感する。ようやくその名を意識に留めてくれやしたねィ、桂さん。
「これでも記憶力はいいんでィ。来た径くらい憶えてまさぁ」
葛折りをいくつか曲がり下ったところで、沖田は歩む速度をゆるめた。背の低い草木越しに、いま来た道筋がところどころ顔を覗かせている。まだうごかないふたつの人影が、かろうじて見て取れた。
じきに夜の帷がその姿を覆い隠すだろう。その寸前、その影はひとつにかさなる。いささか乱暴に引き寄せられたのか、長い髪がなびいて沖田の見つめるさきに影を残した。
丘の頂を背に、来た途を辿る。薄闇が、完全に夜の色に塗り籠められるまえに、足もとのぬかるんだ小径は舗装された間道へと変わった。
自分もまだまだだな、と、沖田は自嘲する。知らん顔で旦那と土方とを焚きつけて、自分は漁夫の利にありつけばよかったのに。あんなふうにあからさまに匂わせたら、万事屋の旦那が黙っているはずがない。
現にいまさっき、悋気に駆られて旦那は、桂のその身を抱(いだ)いたろう。あのあと桂を足止めしたまま、きっと口接けている。
なびく髪とひとつにかさなった人影が、まなうらに残って消えない。
それは沖田が初めて味わう、嫉妬という名の恋情だった。
了 2008.05.17.
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