「天涯の遊子」土桂篇。終話。
土方と桂。と、高杉。 山崎、沖田、銀時、ほかも。
動乱篇以降、攘夷志士試験の後日。
其の七。土方、桂、高杉、近藤。
「ふん。…まあいい。それで、こいつを見逃せと?」
「無益な殺生は好まぬ。こんなことで貴様の手を汚させるのも、こんなことで土方の未来を奪うのも、忍びない」
俺の…未来。そいつを惜しんでくれるってぇのか。桂?
「おもしろくねぇな」
「そういう問題ではなかろう」
「そういう問題だよ。桂、てめぇ、俺と銀時だけじゃ足りねぇか」
「なんの話だ」
「ついでにバカ本も」
「だから、なんのことだ。晋助」
「かまっ娘の店で見たときはまさかと思ったが。真選組の副長まで誑かすたぁ恐れ入ったぜ」
誑かされたわけじゃねぇ。畜生。万事屋とおんなじことを云いやがる。
「こいつ、意外や、マジだぜ。さっきもヅラの名を出したとたん、斬りかかって来やがった」
ああ、そうだった。そんなことを云っていた。いつのまに見られていたのか知れないが。てか、このおとこも平然と江戸に出入りしてるってことじゃねぇか。まったく。江戸の民は攘夷贔屓でいけねぇ。
「貴様が挑発したのか。それでさっきの仕儀か。おれが来なかったらどうするつもりだったのだ」
「来たじゃねぇか」
「貴様が勝手に、隠れ家に置き手紙など残しておいたのだろうが」
「あそこじゃおちおち肩も抱けねぇ。おめぇはあちこち出歩いてるし、白いのは張り付いてるし、志士どもは彷徨いてるし」
「白いのではない、エリザベスだ。エリザベスに救われたくせに、文句を垂れるな」
「にしちゃあ、乱暴な助け船だったよなぁ。おかげで脚は挫くは、風邪は引くは」
「その身が癒えても転がり込んだまま、好き放題しておったろう。真選組にちょっかいを出すのは勝手だが、いいかげん度が過ぎて、見ろ、このざまだ」
「だれのせいだと思ってやがる」
なんだか妙な雲行きだ。このおとこ、いまなんて云った。肩も抱けない?
ここは恋しいあいてと忍ぶ場所だぜ。
ふと先刻のことばがよみがえる。あれはただ、もうひとりひとがいることの仄めかしだけではなかったのか。
本気でそのあいてと逢うつもりだったのだ。置き手紙で呼び出して、待っていたのは。捕り手から逃げもせず、待ち続けていたのは。
「かつら」
不意に、土方の口から、音になって零れ出ていた。
「…。気がついたか?」
「………いや、まだ眠ってるみてぇだ。ぴくりともうごかねぇ」
「寝言か」
それを云うなら譫言だろうが。土方は思考のなかでだけ突っ込んだ。
「毒でも仕込んだんじゃあるめぇな」
「そんな準備がいつできる。ただ軽く経絡をだな、こう押さえて…」
「だっっ。やめろばか。俺まで気絶させる気か」
「完全に貴様に注意が行っていたからな。刀で止めるよりは手間が掛からんかと思って」
「その細腕で熊も倒す野郎だよ、てめぇは」
「好きで細腕に生まれたわけではないのだが」
「わかってるよ、んなこたぁ」
「放っておけば、そのうち回復する。そろそろ戻るぞおれは」
そういいながら触れてきた指先が、土方の額を撫でた。ひんやりとした感触が、だがやわらかに額から頬へと流れる。散った髪を梳くようになんどか往復した。
やめろ。からだの自由が利いたなら、土方はきっとそう叫びだしていただろう。いや、それとも。縁日で手を取られたときのように固まってしまったろうか。それほどに桂の指のうごきはやさしく、慈愛すら感じさせて、土方のこころを掻き乱した。
やめてくれ。これ以上俺にかまうな。惑わすな。いまさっき奈落に突き落としたその手で、またこの身を恋獄の淵へと引き摺り込むのか。
そうあたまでは誹りながら、いざ離れていく桂の指先に、こころは名残を惜しむ。そのままずっと触れていてほしいと、願うおのれがいる。
畳に寝かされているのだろう、土方の傍らで桂の立ち上がる気配があった。次いで高杉の気配も腰を上げる。
「外には真選組がいまごろは大挙して待ち受けてるぜ。気ぃつけるんだな」
そういえば。ここはどこなんだ。まださっきの出逢い茶屋にいるということか。意識が戻ったとき真っ先にするべき状況確認を怠っていたのは、からだの自由が利かないからばかりではない。自棄に陥っていたせいだ。
「おれをだれだと思っている」
笑みを含んだ声で桂は云った。出口に向かうのか衣擦れの音がする。
「桂 小太郎」
そう皮肉っぽく応じた声が、わずかにそれを追う気配があった。
いまだ視界が閉ざされていることに、土方は感謝した。高杉が万事屋の云う恋敵のひとりなら、こんな別れ際にすることなど容易に想像がつく。
「…少ししたら俺も出る」
わずかばかりの間を置いて掛けられた声は、打って変わった甘さを含んでいた。桂の隠れ家に舞い戻るのか、鬼兵隊の根城に帰るのか。
「付けられるなよ。晋助」
捕まるなよ、ではないんだな。見下しやがって。気にくわねぇ。
桂は音もなく立ち去った。部屋に在ったひとの気配が減ったから、立ち去ったのだろうと思ったにすぎない。消えたというほうが当たっている。それほどに現れたとき同様、忽然として、鮮やかだった。
高杉の気配はまだある。三味線をかたしているらしい、しゅるりと絹のすべる音がして、きゅっと紐を縛る音が続く。だがそれに続いた音に土方は内心でぎょっとなった。
腰に佩いた刀の、鞘走る音。
「狸寝入りもいいかげんにしやがれ」
そう、声が降ってきて、首筋から喉もとにかけて冷たいものが当たった。
濡れ衣だ。いいがかりだ。からだが動かないんだからしょうがねぇだろ。
「とっくに意識は戻ってるんだろう。瞼は開かねぇのかもしれねぇが、目ん玉うごいてんのはわかんだよ。夢でも見てるかとも思ったが、いまのではっきりしたぜ。刀抜く音に反応するってぇのは、おたがい哀しいサガだよなぁ」
隻眼のくせに、よくみてやがる。
「ヅラの顔立てて、いまは見逃しちゃあやるが。俺ぁ、腑抜けた銀時のやろうとは違う。あれの生きざまの妨げになるようなら、容赦はしねぇよ。憶えときな」
こいつ。
嗤いを含んだ声音だったが、腹の底に冷たいものが流れていた。
こいつ、どうかしている。桂とは思想的に相容れずに訣別したはずなのに。それではまるで桂の在りようを認めているような、いやむしろ。そこに流れているのは肯定以上のもので。
「あれの手は冷てぇが温けぇだろう。その残酷さをあいつはわかっていねぇ。退けるうちに退いたほうが身のためだぜ。田舎侍の副長さんよ」
ま、些と遅かったか。
ククッと嗤い声を立て云わずもがなのひとことを付け足して、納刀の気配とともに高杉が去っていく。身じろぎできぬ土方がひとり、あとに残される。
万事屋の惚気も悋気もたいがい拗くれちゃいたが、こいつも相当なもんだ。
どうしてそこまで桂に拘る。執着する。万事屋も高杉も、どうして。
そう呆れながらも、自覚があった。おのれもまたそのひとりであることの。
どうしてかなど知らない。わからない。応えなどない。
わかっているのは、いまおのれが生きてこの身を横たえていることだけ。そうなのだ。瞬時の判断で高杉を護り、桂は、だが同時に土方をも庇った。桂は無惨にこの身を切り捨てるが、その刃を握るおなじ手はこの身を慈しみもするだろう。触れられた指先から流れ込んだものを土方は信じた。いや、縋った。
まだだ。届いていないわけじゃない。この手も声も、このおもいも。
去り際に高杉が云い捨てた科白も、さきに万事屋に刺された釘も、根っこはおんなじだ。やつらはとうに、それを越えたところにいる。
ああ、そうか。これだったのか。
なるほど、桂というのは手に余る。手に余るぶん、愛しさが募る。消え失せてはくれぬ恋情なら、求めつづけるほか途はない。
うごかなかった手足にようやく意思のちからが伝わりはじめる。
土方は重い瞼をゆるりと擡げた。
開け放したままの茶屋の窓から、夜の帷を下ろした町並みが覗く。
土方は携帯を取りだし、おのれのせいで取り逃がしたことを局長に告げた。トシ、無事でよかった。と震える声が返る。ああ、あんたは甘い、近藤さん。だからこそ、自分は真選組を裏切れない。
引き裂かれていくおのれを感じながら、土方は床畳から立ち上がる。
いいさ。思うさま引き裂くがいい。俺はどちらも諦めない。捨てられない。放せない。失くさずには得られないものが、引き裂かれてでも得られるなら、失くして得られないよりずっとましだ。
夜の空気を思い切り吸い込んでから、土方は窓を閉ざして錠を下ろす。今宵見ることの叶わなかった白皙のおもてを、思い浮かべた。
おのれのなかに相反するものを抱えながら、恋うている。
土方も。
高杉も。
銀時も。
みなどこか、狂っているのだ。
それだけだ。
了 2008.07.08.
PR
「ふん。…まあいい。それで、こいつを見逃せと?」
「無益な殺生は好まぬ。こんなことで貴様の手を汚させるのも、こんなことで土方の未来を奪うのも、忍びない」
俺の…未来。そいつを惜しんでくれるってぇのか。桂?
「おもしろくねぇな」
「そういう問題ではなかろう」
「そういう問題だよ。桂、てめぇ、俺と銀時だけじゃ足りねぇか」
「なんの話だ」
「ついでにバカ本も」
「だから、なんのことだ。晋助」
「かまっ娘の店で見たときはまさかと思ったが。真選組の副長まで誑かすたぁ恐れ入ったぜ」
誑かされたわけじゃねぇ。畜生。万事屋とおんなじことを云いやがる。
「こいつ、意外や、マジだぜ。さっきもヅラの名を出したとたん、斬りかかって来やがった」
ああ、そうだった。そんなことを云っていた。いつのまに見られていたのか知れないが。てか、このおとこも平然と江戸に出入りしてるってことじゃねぇか。まったく。江戸の民は攘夷贔屓でいけねぇ。
「貴様が挑発したのか。それでさっきの仕儀か。おれが来なかったらどうするつもりだったのだ」
「来たじゃねぇか」
「貴様が勝手に、隠れ家に置き手紙など残しておいたのだろうが」
「あそこじゃおちおち肩も抱けねぇ。おめぇはあちこち出歩いてるし、白いのは張り付いてるし、志士どもは彷徨いてるし」
「白いのではない、エリザベスだ。エリザベスに救われたくせに、文句を垂れるな」
「にしちゃあ、乱暴な助け船だったよなぁ。おかげで脚は挫くは、風邪は引くは」
「その身が癒えても転がり込んだまま、好き放題しておったろう。真選組にちょっかいを出すのは勝手だが、いいかげん度が過ぎて、見ろ、このざまだ」
「だれのせいだと思ってやがる」
なんだか妙な雲行きだ。このおとこ、いまなんて云った。肩も抱けない?
ここは恋しいあいてと忍ぶ場所だぜ。
ふと先刻のことばがよみがえる。あれはただ、もうひとりひとがいることの仄めかしだけではなかったのか。
本気でそのあいてと逢うつもりだったのだ。置き手紙で呼び出して、待っていたのは。捕り手から逃げもせず、待ち続けていたのは。
「かつら」
不意に、土方の口から、音になって零れ出ていた。
「…。気がついたか?」
「………いや、まだ眠ってるみてぇだ。ぴくりともうごかねぇ」
「寝言か」
それを云うなら譫言だろうが。土方は思考のなかでだけ突っ込んだ。
「毒でも仕込んだんじゃあるめぇな」
「そんな準備がいつできる。ただ軽く経絡をだな、こう押さえて…」
「だっっ。やめろばか。俺まで気絶させる気か」
「完全に貴様に注意が行っていたからな。刀で止めるよりは手間が掛からんかと思って」
「その細腕で熊も倒す野郎だよ、てめぇは」
「好きで細腕に生まれたわけではないのだが」
「わかってるよ、んなこたぁ」
「放っておけば、そのうち回復する。そろそろ戻るぞおれは」
そういいながら触れてきた指先が、土方の額を撫でた。ひんやりとした感触が、だがやわらかに額から頬へと流れる。散った髪を梳くようになんどか往復した。
やめろ。からだの自由が利いたなら、土方はきっとそう叫びだしていただろう。いや、それとも。縁日で手を取られたときのように固まってしまったろうか。それほどに桂の指のうごきはやさしく、慈愛すら感じさせて、土方のこころを掻き乱した。
やめてくれ。これ以上俺にかまうな。惑わすな。いまさっき奈落に突き落としたその手で、またこの身を恋獄の淵へと引き摺り込むのか。
そうあたまでは誹りながら、いざ離れていく桂の指先に、こころは名残を惜しむ。そのままずっと触れていてほしいと、願うおのれがいる。
畳に寝かされているのだろう、土方の傍らで桂の立ち上がる気配があった。次いで高杉の気配も腰を上げる。
「外には真選組がいまごろは大挙して待ち受けてるぜ。気ぃつけるんだな」
そういえば。ここはどこなんだ。まださっきの出逢い茶屋にいるということか。意識が戻ったとき真っ先にするべき状況確認を怠っていたのは、からだの自由が利かないからばかりではない。自棄に陥っていたせいだ。
「おれをだれだと思っている」
笑みを含んだ声で桂は云った。出口に向かうのか衣擦れの音がする。
「桂 小太郎」
そう皮肉っぽく応じた声が、わずかにそれを追う気配があった。
いまだ視界が閉ざされていることに、土方は感謝した。高杉が万事屋の云う恋敵のひとりなら、こんな別れ際にすることなど容易に想像がつく。
「…少ししたら俺も出る」
わずかばかりの間を置いて掛けられた声は、打って変わった甘さを含んでいた。桂の隠れ家に舞い戻るのか、鬼兵隊の根城に帰るのか。
「付けられるなよ。晋助」
捕まるなよ、ではないんだな。見下しやがって。気にくわねぇ。
桂は音もなく立ち去った。部屋に在ったひとの気配が減ったから、立ち去ったのだろうと思ったにすぎない。消えたというほうが当たっている。それほどに現れたとき同様、忽然として、鮮やかだった。
高杉の気配はまだある。三味線をかたしているらしい、しゅるりと絹のすべる音がして、きゅっと紐を縛る音が続く。だがそれに続いた音に土方は内心でぎょっとなった。
腰に佩いた刀の、鞘走る音。
「狸寝入りもいいかげんにしやがれ」
そう、声が降ってきて、首筋から喉もとにかけて冷たいものが当たった。
濡れ衣だ。いいがかりだ。からだが動かないんだからしょうがねぇだろ。
「とっくに意識は戻ってるんだろう。瞼は開かねぇのかもしれねぇが、目ん玉うごいてんのはわかんだよ。夢でも見てるかとも思ったが、いまのではっきりしたぜ。刀抜く音に反応するってぇのは、おたがい哀しいサガだよなぁ」
隻眼のくせに、よくみてやがる。
「ヅラの顔立てて、いまは見逃しちゃあやるが。俺ぁ、腑抜けた銀時のやろうとは違う。あれの生きざまの妨げになるようなら、容赦はしねぇよ。憶えときな」
こいつ。
嗤いを含んだ声音だったが、腹の底に冷たいものが流れていた。
こいつ、どうかしている。桂とは思想的に相容れずに訣別したはずなのに。それではまるで桂の在りようを認めているような、いやむしろ。そこに流れているのは肯定以上のもので。
「あれの手は冷てぇが温けぇだろう。その残酷さをあいつはわかっていねぇ。退けるうちに退いたほうが身のためだぜ。田舎侍の副長さんよ」
ま、些と遅かったか。
ククッと嗤い声を立て云わずもがなのひとことを付け足して、納刀の気配とともに高杉が去っていく。身じろぎできぬ土方がひとり、あとに残される。
万事屋の惚気も悋気もたいがい拗くれちゃいたが、こいつも相当なもんだ。
どうしてそこまで桂に拘る。執着する。万事屋も高杉も、どうして。
そう呆れながらも、自覚があった。おのれもまたそのひとりであることの。
どうしてかなど知らない。わからない。応えなどない。
わかっているのは、いまおのれが生きてこの身を横たえていることだけ。そうなのだ。瞬時の判断で高杉を護り、桂は、だが同時に土方をも庇った。桂は無惨にこの身を切り捨てるが、その刃を握るおなじ手はこの身を慈しみもするだろう。触れられた指先から流れ込んだものを土方は信じた。いや、縋った。
まだだ。届いていないわけじゃない。この手も声も、このおもいも。
去り際に高杉が云い捨てた科白も、さきに万事屋に刺された釘も、根っこはおんなじだ。やつらはとうに、それを越えたところにいる。
ああ、そうか。これだったのか。
なるほど、桂というのは手に余る。手に余るぶん、愛しさが募る。消え失せてはくれぬ恋情なら、求めつづけるほか途はない。
うごかなかった手足にようやく意思のちからが伝わりはじめる。
土方は重い瞼をゆるりと擡げた。
開け放したままの茶屋の窓から、夜の帷を下ろした町並みが覗く。
土方は携帯を取りだし、おのれのせいで取り逃がしたことを局長に告げた。トシ、無事でよかった。と震える声が返る。ああ、あんたは甘い、近藤さん。だからこそ、自分は真選組を裏切れない。
引き裂かれていくおのれを感じながら、土方は床畳から立ち上がる。
いいさ。思うさま引き裂くがいい。俺はどちらも諦めない。捨てられない。放せない。失くさずには得られないものが、引き裂かれてでも得られるなら、失くして得られないよりずっとましだ。
夜の空気を思い切り吸い込んでから、土方は窓を閉ざして錠を下ろす。今宵見ることの叶わなかった白皙のおもてを、思い浮かべた。
おのれのなかに相反するものを抱えながら、恋うている。
土方も。
高杉も。
銀時も。
みなどこか、狂っているのだ。
それだけだ。
了 2008.07.08.
PR