「天涯の遊子」高桂篇。ほかげ、と読むよ。
高杉と桂。攘夷戦争から紅桜まで、ほぼ時系列展開。
銀時と坂本は直には出ない。やっぱり長いので、3回に分ける。
後半に微エロあり、注意。
射干玉の闇に光るものがあった。
熱くうずくそこにひんやりとしたなにかが触れる。出陣まえの光景を高杉は思い浮かべていた。
黒い尾っぽが視界の端で撥ねる。篝火の火影(ほかげ)に浮かぶ、長く艶やかな黒髪を高い位置で結い流し、黒鼠の上下に包まれた細身の体躯。明朝卯の刻には先陣を切るはずの彼は、迂回して奇襲を掛けるために深更に先発する高杉とその別動隊のもとを、わざわざ訪ねていた。
顔を見るなり咎め立てたのは高杉だ。
「莫迦か。てめぇのことを考えろ。それともなにか。そんなに俺は信用がならねぇか」
「莫迦じゃない。桂だ。陣頭に立つものとして最後の確認に赴いたのだ」
と、高杉の怒りを意に介すでもなくさらりと流し、桂は高杉の耳もとに口を寄せて囁く。
「と、いうのは建て前で。なに、おまえの顔を見に寄っただけだ」
瞬間赤面した高杉が、あわててわざとあきれたようなそぶりで返そうとするのを、めったに見せない笑顔で制した。
「今生の別れになるやも知れぬからな」
そう、桂が云うのも無理のない苛烈な作戦では、あった。その作戦を立てた当の本人は、むろん死ぬ気などはないし、貴様とてかんたんにくたばりはしまいが。とつづけて、高杉の顔に掛かる前髪を長い指先で梳く。届きそうで届かなかったわずかな身長差が口惜しい。常なら子ども扱いされる苛立ちに照れも混じって邪険に振り払うところだが、目のまえの、篝火を映し込むあまりに澄んだ眸とついぞない微笑にこころ奪われて、身じろぎもできないでいる。
「はっ。心配すんな、くたばったなら化けて出てやるから」
そう返すのが精一杯というありさまだ。いまここに銀時や出奔した坂本がいたなら、なにを云われるかわかったものでなかった。
ずきん、とまた熱いうずきが走る。そこに光はなく茫洋とした闇がひろがっている。先(せん)の光はどこへ行ったのだろう。目をこらしてみようとして、高杉は急激に視野に雪崩れ込んだ光の洪水に、呻いた。
「…晋助。気がついたか」
ひんやりとした掌にそっと包まれるように触れられていたそこが、昏黒の闇を落としたままであることに、ようやく高杉は気づいた。痛む手をうごかして触れてみると厚く包帯が巻かれている。だがこの闇がそのせいだけではないことを、直感的に覚った。
「破片は抜いたが。すまんな。充分な手当てもしてやれぬ」
「命拾っただけでも、めっけもんだ」
至近に落ちた砲撃弾。受けた爆風。視界を覆った砂塵と破片。同時に襲われた激痛に、痛いってことは死んでねぇってことだ、と思ったところまでは、憶えていた。
「戦況は?」
包帯越しにもわかる桂の冷えた手に、おのれの指先を絡ませて、最初に訊ねたことばがそれだった。見えているはずのほうの目も、まだ視野が霞んではっきりと、桂の姿を捉えることができないでいる。
「いまは、一進一退、といったところだな。貴様の別動隊の働きで一時的には優勢だったが」
「上出来じゃねぇか。一泡吹かせてやれた。ここんところ腐ってた隊の連中は快哉を叫んでるだろうぜ…痛ぅっ」
つとめて、張りのあるもの云いをしたら、とんでもない痛みが走った。
「あまり、しゃべるな。このあたりが潮時だ。こちらが退けば今回はこのまま収束するだろう」
触れていた掌を退き、高杉の腕を休ませるよう寝床に戻そうとした桂の手指を、反射的に強く握り込んでいた。
「高杉…?」
「冷たくて気持ちいいんだよ。もうちっとこうしててくれよ」
云って、ふたたびおのれの顔に触れさせる。ふんわりと、桂の笑う気配があった。ごく幼いころ、風邪かなにかでよく熱を出しては、似たようなだだをこねたことがあったのを、思い出した。
「わかったから、休め」
明いているほうの眸を閉じさせようともう片方の手がうごく。ようやく光になれ、定まってきた視界のなかに、あの男の姿がないのに気づいた。
「どうした? あれは」
「うん?」
「今回は後詰めだったろうが、戦況を聞くに、とっくに本隊と合流してる頃合いだろう。てめぇの背中を預かってる野郎が、てめぇのそばに貼り付いていないなんざ、珍しいじゃねぇか」
怪我の身の長口上を咎めるように、こんどこそ閉じさせるよう瞼を覆って、
「さきほど、撤退の準備に掛かるよう伝えたからな。それまでは、ここでおまえの看病をしてくれていた。おれが指揮で離れているあいだは」
と桂は云った。ふぅん、と気のない返事を返して、高杉はうながされるまま眸を閉じた。
右の瞼に結ばれた残像は、平静な口振りとは裏腹な、高杉を心底案じる桂の表情だった。最後に滲ませた銀時への信頼感には無視を決めこんで、その残像がこの痛みを和らげてくれる気さえするのを感じながら、高杉は眠りの淵へと滑り込む。
そういえば。この失くした左目に残った最後の姿は、あの黒い尾っぽか。
篝火の火影に見た、艶やかな尾っぽと、澄んだ眼差しと、稀なる微笑。あれが最後なら、悪くない。この左目がこのさき永久にほかのなにものを映すことができずとも。むしろそれによってあの光の残像は消されずに残るのだ。それなら。うん、悪くない。
深い睡りに落ちる間際、高杉はそんなことを思っていた。
* * *
それからは幾度かの小競り合いが続いた。そのたびに敗色は濃厚になったが、桂はあきらめることを知らなかった。高杉も、戦線に復帰できるまでは苛つくこともあったが、傷も癒え別動隊を鬼兵隊として自由に動かすようになってからは、大勢で勝てずとも一矢報いることに活路を見いだしていた。
本隊に残すかたちになった桂のことが気にはなったが、見た目どれほど線が細かろうと、剣術でも体術でも悔しいがおのれを凌ぐおとこには、要らぬ心配だろう。まして桂には互いに背を預けうる白夜叉がいる。銀時のちからをたのむことは高杉の望むところではなかったが、白夜叉の図抜けた戦闘力を認めるに吝かではない。冷徹な戦略頭脳をもつくせに現場ではときに直情径行な面を覗かせる桂の、背をまもるに安心してまかせられるのは銀時をおいてほかになかった。だからこそ、高杉も鬼兵隊に専心していられたのだ。それなのに。
最後の、長く大きな戦闘だった。結果的には、だが。
桂と銀時の率いる本隊が壊滅的な大打撃を被ったことを、離れた地にいて聞かされた。生死さえ知れぬまま、だが即座に駆けつける余裕は高杉ら鬼兵隊にもありはしなかった。結局、戦況は本隊と変わらぬほどの惨状に陥り、直属の部下とも散り散りとなって、身ひとつで、なんとか生きながらえた。否、生きながらえてしまった。
生を望んだわけではない。目の前で、あるいはおのれの知らぬところで、死んでいく部下達の数を数える日々に、からだ以上にこころが疲弊していった。それは、桂も銀時もおなじだったろう。そう思えばこそ、耐えられた日々だったのだ。
死屍累々たる戦場にひとり取り残されたとき、初めて、敗北したのだという実感が押し寄せてきた。その場に立っていられるおのれが不思議でならなかった。蹲って泣き叫びたかった。なのにそれさえできなかった。なにも考えられない。考えることを全身が拒否していた。あたまも、こころも、からだも。ただ本能が命ずるままに、とぼとぼと歩いた。のどが渇く。水が欲しい。水が。途中、なんどか敵兵に襲われた。気がする。生存への本能と、慣れ親しんだ闘いへの反射だけで、斬り伏せていたようなものだ。気がつけば、山間の細い川縁に出ていた。
ごくごくと川の清水を飲み干し、ざばざばと顔を洗う。赤く染まった左半分の包帯の、固まりかけた血が溶けて、浅い川面を少しの間染め、流れ去った。洗ってもまとわりつく血臭に顔をしかめ、ようやっと、いま来た道を振り返る。戦場からは遠く離れてしまったのか、闘いの喧噪は窺えない。いや、本隊も自分たちも壊滅したのだから、すでに戦は終結し、敵も退いただけのことなのだろうか。
敗けたのだ。
おのれも、桂も、銀時も。部隊も、掲げた思想も、亡き先生への供養も、弔い合戦も、なにもかもが潰えて消えた。
水面に映るおのれの顔が、酷くゆがんで見えた。流れのせいか。いや。そうしてようやく、自分が泣いていたことに、高杉は気づいた。
夕映えが、あたりの川縁の緑と水面とを染めていた。なんだ、血の色より浅いんじゃないか。そんなことを思った。
膝を抱き、蹲って、高杉はその場で動かなくなった。
気配を感じて、目が覚めた。いつのまにやら眠っていたものらしい。生きものの気配。動物か?いやちがう。天人か。人間か。わずかに漏れ出る殺気があった。蹲ったまま寝たふりで腰のものに手を掛ける。音もなく鯉口を切った。そんなおのれの動作に、自嘲が漏れた。まだ生きようというのか。だがしかし、相手も高杉の気配を、殺気を感じたらしく、じりじりと近寄ってきていたうごきが、ぴたりとやんだ。こちらの押し殺した殺気を感じとったのだ。ただ者ではない。息がつまる。疲弊しきった神経には、長の時間は耐えられなかった。
抜き打ちざまに、気配の足下を払った。はずだった。一瞬早く、気配は飛び退いていた。間髪を入れず次の一撃を繰り出そうとしたところを、切っ先でいなされる。同時に鋭い制止の声が飛んだ。
「待て!高杉か!?」
透るその声音。宵闇にも、紛うことない、尾っぽに細身のシルエット。頃合をはかったように、東の空に昇りかけた月が、声の主を照らし出す。高杉は声を失った。こんなときに、なにを呑気な不謹慎な、と思い、そう思った自分に、また笑った。その姿を、きれいだ、と思ったのだ。
乱れた髪。血と泥にまみれた着衣。傷ついた腕にすらりと抜かれた刀身。血を吸った抜き身は、ところどころに月明かりを映す。疲れが全身に色濃く漂い、整った顔には表情がない。だがその双眸だけが生気を失くしていなかった。凄艶とは、これを指して云うのだろう。青白い光を全身に浴びてたたずむ姿は、ぞっとするほどに美しかった。
「………小太郎」
失くしていたことばを、高杉はやっとの思いで口にのぼらせる。名を呼ばれ呆然とした口許が、しんすけ、と象られた。生きていたか。震えを抑えて絞り出されたそれは、ふたり同時に発せられていた。
続 2008.01.09.
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射干玉の闇に光るものがあった。
熱くうずくそこにひんやりとしたなにかが触れる。出陣まえの光景を高杉は思い浮かべていた。
黒い尾っぽが視界の端で撥ねる。篝火の火影(ほかげ)に浮かぶ、長く艶やかな黒髪を高い位置で結い流し、黒鼠の上下に包まれた細身の体躯。明朝卯の刻には先陣を切るはずの彼は、迂回して奇襲を掛けるために深更に先発する高杉とその別動隊のもとを、わざわざ訪ねていた。
顔を見るなり咎め立てたのは高杉だ。
「莫迦か。てめぇのことを考えろ。それともなにか。そんなに俺は信用がならねぇか」
「莫迦じゃない。桂だ。陣頭に立つものとして最後の確認に赴いたのだ」
と、高杉の怒りを意に介すでもなくさらりと流し、桂は高杉の耳もとに口を寄せて囁く。
「と、いうのは建て前で。なに、おまえの顔を見に寄っただけだ」
瞬間赤面した高杉が、あわててわざとあきれたようなそぶりで返そうとするのを、めったに見せない笑顔で制した。
「今生の別れになるやも知れぬからな」
そう、桂が云うのも無理のない苛烈な作戦では、あった。その作戦を立てた当の本人は、むろん死ぬ気などはないし、貴様とてかんたんにくたばりはしまいが。とつづけて、高杉の顔に掛かる前髪を長い指先で梳く。届きそうで届かなかったわずかな身長差が口惜しい。常なら子ども扱いされる苛立ちに照れも混じって邪険に振り払うところだが、目のまえの、篝火を映し込むあまりに澄んだ眸とついぞない微笑にこころ奪われて、身じろぎもできないでいる。
「はっ。心配すんな、くたばったなら化けて出てやるから」
そう返すのが精一杯というありさまだ。いまここに銀時や出奔した坂本がいたなら、なにを云われるかわかったものでなかった。
ずきん、とまた熱いうずきが走る。そこに光はなく茫洋とした闇がひろがっている。先(せん)の光はどこへ行ったのだろう。目をこらしてみようとして、高杉は急激に視野に雪崩れ込んだ光の洪水に、呻いた。
「…晋助。気がついたか」
ひんやりとした掌にそっと包まれるように触れられていたそこが、昏黒の闇を落としたままであることに、ようやく高杉は気づいた。痛む手をうごかして触れてみると厚く包帯が巻かれている。だがこの闇がそのせいだけではないことを、直感的に覚った。
「破片は抜いたが。すまんな。充分な手当てもしてやれぬ」
「命拾っただけでも、めっけもんだ」
至近に落ちた砲撃弾。受けた爆風。視界を覆った砂塵と破片。同時に襲われた激痛に、痛いってことは死んでねぇってことだ、と思ったところまでは、憶えていた。
「戦況は?」
包帯越しにもわかる桂の冷えた手に、おのれの指先を絡ませて、最初に訊ねたことばがそれだった。見えているはずのほうの目も、まだ視野が霞んではっきりと、桂の姿を捉えることができないでいる。
「いまは、一進一退、といったところだな。貴様の別動隊の働きで一時的には優勢だったが」
「上出来じゃねぇか。一泡吹かせてやれた。ここんところ腐ってた隊の連中は快哉を叫んでるだろうぜ…痛ぅっ」
つとめて、張りのあるもの云いをしたら、とんでもない痛みが走った。
「あまり、しゃべるな。このあたりが潮時だ。こちらが退けば今回はこのまま収束するだろう」
触れていた掌を退き、高杉の腕を休ませるよう寝床に戻そうとした桂の手指を、反射的に強く握り込んでいた。
「高杉…?」
「冷たくて気持ちいいんだよ。もうちっとこうしててくれよ」
云って、ふたたびおのれの顔に触れさせる。ふんわりと、桂の笑う気配があった。ごく幼いころ、風邪かなにかでよく熱を出しては、似たようなだだをこねたことがあったのを、思い出した。
「わかったから、休め」
明いているほうの眸を閉じさせようともう片方の手がうごく。ようやく光になれ、定まってきた視界のなかに、あの男の姿がないのに気づいた。
「どうした? あれは」
「うん?」
「今回は後詰めだったろうが、戦況を聞くに、とっくに本隊と合流してる頃合いだろう。てめぇの背中を預かってる野郎が、てめぇのそばに貼り付いていないなんざ、珍しいじゃねぇか」
怪我の身の長口上を咎めるように、こんどこそ閉じさせるよう瞼を覆って、
「さきほど、撤退の準備に掛かるよう伝えたからな。それまでは、ここでおまえの看病をしてくれていた。おれが指揮で離れているあいだは」
と桂は云った。ふぅん、と気のない返事を返して、高杉はうながされるまま眸を閉じた。
右の瞼に結ばれた残像は、平静な口振りとは裏腹な、高杉を心底案じる桂の表情だった。最後に滲ませた銀時への信頼感には無視を決めこんで、その残像がこの痛みを和らげてくれる気さえするのを感じながら、高杉は眠りの淵へと滑り込む。
そういえば。この失くした左目に残った最後の姿は、あの黒い尾っぽか。
篝火の火影に見た、艶やかな尾っぽと、澄んだ眼差しと、稀なる微笑。あれが最後なら、悪くない。この左目がこのさき永久にほかのなにものを映すことができずとも。むしろそれによってあの光の残像は消されずに残るのだ。それなら。うん、悪くない。
深い睡りに落ちる間際、高杉はそんなことを思っていた。
* * *
それからは幾度かの小競り合いが続いた。そのたびに敗色は濃厚になったが、桂はあきらめることを知らなかった。高杉も、戦線に復帰できるまでは苛つくこともあったが、傷も癒え別動隊を鬼兵隊として自由に動かすようになってからは、大勢で勝てずとも一矢報いることに活路を見いだしていた。
本隊に残すかたちになった桂のことが気にはなったが、見た目どれほど線が細かろうと、剣術でも体術でも悔しいがおのれを凌ぐおとこには、要らぬ心配だろう。まして桂には互いに背を預けうる白夜叉がいる。銀時のちからをたのむことは高杉の望むところではなかったが、白夜叉の図抜けた戦闘力を認めるに吝かではない。冷徹な戦略頭脳をもつくせに現場ではときに直情径行な面を覗かせる桂の、背をまもるに安心してまかせられるのは銀時をおいてほかになかった。だからこそ、高杉も鬼兵隊に専心していられたのだ。それなのに。
最後の、長く大きな戦闘だった。結果的には、だが。
桂と銀時の率いる本隊が壊滅的な大打撃を被ったことを、離れた地にいて聞かされた。生死さえ知れぬまま、だが即座に駆けつける余裕は高杉ら鬼兵隊にもありはしなかった。結局、戦況は本隊と変わらぬほどの惨状に陥り、直属の部下とも散り散りとなって、身ひとつで、なんとか生きながらえた。否、生きながらえてしまった。
生を望んだわけではない。目の前で、あるいはおのれの知らぬところで、死んでいく部下達の数を数える日々に、からだ以上にこころが疲弊していった。それは、桂も銀時もおなじだったろう。そう思えばこそ、耐えられた日々だったのだ。
死屍累々たる戦場にひとり取り残されたとき、初めて、敗北したのだという実感が押し寄せてきた。その場に立っていられるおのれが不思議でならなかった。蹲って泣き叫びたかった。なのにそれさえできなかった。なにも考えられない。考えることを全身が拒否していた。あたまも、こころも、からだも。ただ本能が命ずるままに、とぼとぼと歩いた。のどが渇く。水が欲しい。水が。途中、なんどか敵兵に襲われた。気がする。生存への本能と、慣れ親しんだ闘いへの反射だけで、斬り伏せていたようなものだ。気がつけば、山間の細い川縁に出ていた。
ごくごくと川の清水を飲み干し、ざばざばと顔を洗う。赤く染まった左半分の包帯の、固まりかけた血が溶けて、浅い川面を少しの間染め、流れ去った。洗ってもまとわりつく血臭に顔をしかめ、ようやっと、いま来た道を振り返る。戦場からは遠く離れてしまったのか、闘いの喧噪は窺えない。いや、本隊も自分たちも壊滅したのだから、すでに戦は終結し、敵も退いただけのことなのだろうか。
敗けたのだ。
おのれも、桂も、銀時も。部隊も、掲げた思想も、亡き先生への供養も、弔い合戦も、なにもかもが潰えて消えた。
水面に映るおのれの顔が、酷くゆがんで見えた。流れのせいか。いや。そうしてようやく、自分が泣いていたことに、高杉は気づいた。
夕映えが、あたりの川縁の緑と水面とを染めていた。なんだ、血の色より浅いんじゃないか。そんなことを思った。
膝を抱き、蹲って、高杉はその場で動かなくなった。
気配を感じて、目が覚めた。いつのまにやら眠っていたものらしい。生きものの気配。動物か?いやちがう。天人か。人間か。わずかに漏れ出る殺気があった。蹲ったまま寝たふりで腰のものに手を掛ける。音もなく鯉口を切った。そんなおのれの動作に、自嘲が漏れた。まだ生きようというのか。だがしかし、相手も高杉の気配を、殺気を感じたらしく、じりじりと近寄ってきていたうごきが、ぴたりとやんだ。こちらの押し殺した殺気を感じとったのだ。ただ者ではない。息がつまる。疲弊しきった神経には、長の時間は耐えられなかった。
抜き打ちざまに、気配の足下を払った。はずだった。一瞬早く、気配は飛び退いていた。間髪を入れず次の一撃を繰り出そうとしたところを、切っ先でいなされる。同時に鋭い制止の声が飛んだ。
「待て!高杉か!?」
透るその声音。宵闇にも、紛うことない、尾っぽに細身のシルエット。頃合をはかったように、東の空に昇りかけた月が、声の主を照らし出す。高杉は声を失った。こんなときに、なにを呑気な不謹慎な、と思い、そう思った自分に、また笑った。その姿を、きれいだ、と思ったのだ。
乱れた髪。血と泥にまみれた着衣。傷ついた腕にすらりと抜かれた刀身。血を吸った抜き身は、ところどころに月明かりを映す。疲れが全身に色濃く漂い、整った顔には表情がない。だがその双眸だけが生気を失くしていなかった。凄艶とは、これを指して云うのだろう。青白い光を全身に浴びてたたずむ姿は、ぞっとするほどに美しかった。
「………小太郎」
失くしていたことばを、高杉はやっとの思いで口にのぼらせる。名を呼ばれ呆然とした口許が、しんすけ、と象られた。生きていたか。震えを抑えて絞り出されたそれは、ふたり同時に発せられていた。
続 2008.01.09.
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