「天涯の遊子」坂桂篇。
坂本と桂のお話。戦後から紅桜前まで。攘夷時代も行ったり来たり。
銀桂前提の坂桂微エロあり、注意。R15、かな。高桂要素も含む。
長の滞在になっていた。
街道から少し外れた村の、旧庄屋宅を借り切って陣を張り、若き幹部らに統率される一軍は、幹部4人それぞれのカリスマ性も手伝って、規律の乱れこそまだ少なかったが。若さゆえの色の窮乏はどこかで発散しなんとか紛らわせても、食の逼迫はいかんともしがたく。
こうしたことを、ぼんぼん育ちの高杉や経済観念のうすい銀時に相談しても埒が明かないことを学習していた桂は、同じ武家の出でも武器や兵糧の調達に目端の利く、平たく云えば商売っけのある坂本に、よく助言を求めた。
桂とて、養子とはいえ名家の武士の出である。本来なら疎いはずの方面であった。だがここには桂以外に、いわゆる、そろばんをはじく、ということをまともに扱えるものがいなかった。坂本は商用の交渉ごとには労を惜しまないが、細々としたやりくりには向かない。根がまじめな桂には放っておくこともできず、覚えてしまったに過ぎない。軍資金の調達から日々の食費のやりくりまで、軍師的な立場の桂が、勘定方の役割までも、担うしかなかったのである。
「貴様、銀時や晋助らを誘って近くの花街によく繰りだしていたというではないか」
その夜、詰め所で帳簿をまえに眉をしかめて考え込んでいた桂が、ふいに、帳簿を手伝っていた坂本に、そう切り出した。
「いや、晋坊にゃぎっちり断られちゅう」
とっさに発言の真意をはかりかねた坂本は、端的に事実のみを云い添えた。
「そうなのか? いや、晋助のことはいいのだ、いまは。問題は、貴様がそうしたことの手練れだ、ということのほうなのだ」
「そうしたこと、ゆうんは…」
「むろん、その、あれだ。閨房でのまぐわい、というやつだ」
生真面目な桂ならではのまっすぐな、それゆえにあらぬ方向へぶっ飛んでいく会話の内容に、坂本は、常の豪放磊落さもよゆうすらも失くしかけている。
「いや、手練れゆうんは言い過ぎやき。ただちっくとばかりみなより場数を踏んじゅうというばあの話じゃ」
「それでいい。おれより詳しいことはまちがいなかろう」
「………」
どう応えていいのか、わからない。ことはデリケートな問題だ。ことに相応の男子にとっては。しかし、桂にそれは無用な気遣いだった。そうしたことへの体裁を繕う、ということを知らぬ彼は、知らぬがゆえに、あけすけだった。
「教えてくれぬか。貴様が閨をともにするおなごは、どのようにふるまう?」
「どう、といわれてもの」
「閨で貴様はどうされるとうれしい?」
質問の論点が微妙にずれていることに、坂本は、ようやく気づいた。
「桂さん」
「うむ?」
「おまん、なにを考えちゅう?」
そこでそちら方面にすぐ想像が及ぶあたりが、坂本である。
「わしはおなご専門じゃきに、おとこの抱き方抱かれ方なぞはしらんが」
「それでかまわん。することは、たいしてかわりあるまい」
いや、あると思うけんど。からだのつくりがちがうのやき。待てよ、大差ないといえば大差ないがか? いやいや、ほりゃあうだく側のほうは大差ないかも知れんが、こがな質問の意図から察するに、そちら側は、大差、おおありやか。というか、待て。いまので桂の考えは明白だ。内なるひとり問答をするうち、坂本の疑念は確信に変わった。
「そこまでして、軍資金を調達する気ながか?」
ぱたん、と帳簿を閉じて文机を押しやり、挟んで相対していた桂に、坂本はあらためて向きなおった。正気か、桂さん。むろんだ。
「背に腹は代えられぬと云うではないか。このままずるずるとみなが飢えていっては、攘夷もままならぬ。武器も燃料も底をつきかけているのだし」
「当てがあると?」
「うむ。幸いそちらの当てには、苦労しない」
ほりゃあそうろう。幸いかどうかは、さておき。
衆道(しゅどう)の風習はさほど古い時代の話ではない。まして、桂の見目ならば。それを切望するものからは、たとえ一晩きりの対価だとしてでも、引き換えに相応の金品が用意されるであろうことは、想像に難くなかった。だが、しかし。
「泣くぞ」
「ん?」
「知れば、晋坊や…金時が」
「金時じゃない、銀時だ。貴様も泣くか、坂本?」
「あたりまえちや」
桂は文机のわきの燭台から灯を手燭に移すと、燭台の灯心を指先でつまむ。
「そうか。では3人そろって泣いてもらおう」
立ち上がって、明かりの落ちた詰め所から手燭の灯を頼りに、坂本をうながした。
「…おまんのぶんまで、か」
切り返したことばは、坂本には似つかわしくないほどに低く抑えた、声音だった。
「そうだな」
ぽつり、感情を乗せない声が、闇に沈んだ廊下に落ちる。手燭の灯に映える小面憎いほどの整った顔立ちは、どこまでも無表情だった。あとに続く坂本は、無言だ。らしくもない。坂本はおのれを内心で罵った。
「なに、たいしたことではない。この身ひとつで、すむのだから」
淡々と言の葉を紡ぐ桂に、返すことばを坂本は持たなかった。
「貴様には、すまぬとおもう。だがほかに頼れるものがいないのだ」
そのことばにおもわず足を止め、気づいたときには、坂本は薄い背中越しに桂を抱きしめていた。
「だから、教えてくれ」
と、桂は云った。
招じられた桂の寝間は、仄かに香った。常の出陣に際し桂が襦袢に薫き染める香(か)だ。朝早く、夜遅い、その多忙と体調とを慮って、幹部連でも唯一与えられたひとり部屋である。
ふたり、褥に身を沈ませるまえ、桂は帯を解きながら云った。経験がまったくないわけではない。だがそれは、子どものままごとのようなものだったゆえ、と。
とことん生真面目にできているのだ。やると決めたからには、できうるかぎりのことを準備して臨もう、と考えたらしかった。
そんなもの必要ない、えてして初めてを喜ぶ輩のほうが多いのだ、とは、坂本には云えなかった。まったくの白紙ではないにしろ、知らずに行けば、桂が傷つく。せめてそれだけは、避けたかった。だがそれがおのれへの抗弁であることも、坂本は知っていた。
経験とは、ただ肌を触れ合わせ互いを慰めるたぐいのことを指して云ったのだろう。戦地という女日照の環境ではめずらしいことではない。それすらも驚きといえば驚きで、反面、意外な気もした。いやそれとも。それ以上の行為を知っていて、さらに上を行く技巧的な意味合いに比して、ままごと、と称したのだろうか。閨の極意、その教えを請いたいと、云うのには。
どちらでも、かまわなかった。ただ、いま坂本は、その相手がおのれであることを、よろこんでいる。薄暗い感情を自覚しながら、それを振り払うだけの理性は、もう残っていなかった。おのれのありったけで、いとおしむ。ただそれしか、頭になかった。
坂本が、本気で桂を愛おしいと思うようになったのは、むしろ、この夜を突拍子もなく切り出した、桂の姿をまのあたりにしたときからである。
ままごとのあいてちゅうんは、銀時か。
桂は応えない。応える必要のない問いだった。否定がないことが、その応えだった。腕のなかで微笑む桂の肌も髪も、先刻までの熱情にしっとりと汗ばんでいる。
なぜに、金時に頼まん? 云ったろう。貴様がいちばん手練れだと聞いたからだ。 嘘はいかん、桂さん。 なんのことだ。 金時をまえにしたら、決意が揺らぐと、考えたからじゃろう?…こたろう。なにより、
「金時が知ったら止めゆうに決まっちょるきに」
下手を打てば刃傷沙汰じゃ。ありゃあふだんはつかみどころのない、ひとを食ったがうなやつけんど、おまんが絡むと、目先しか見えのおなる。
厚い胸板に寄せていた顔を上げ、桂は黙って坂本を見た。
「金時以外のおとこでも相手をこたうか試そうとしたがか」
わしは惨いことをゆうちゅう、そう承知していた。果たして桂は、思い掛けぬものを見たかのように目を瞠る。しばらく思案げに眸を揺らめかせたあと、つぶやいた。
「いやなおとこだ。そうと云われれば、それがなかったとは、云いきれぬ。だが、しかし、…そうではない。たぶん、きっと…おれが」
わずかばかりの躊躇いと、戸惑いと。
「貴様と、こうしたかったからだ。たつま」
おのれ自身に確かめるかのように抱きついてくる桂のからだを、抱き返しながら坂本は微笑んだ。
「こたろ。おまんは、はや充分に、おとこを喜ばせるすべを知っちゅう」
嘘じゃない。おれは貴様が好きだぞ。たつま。 きんときのつぎにか。 …ああ。 晋坊のつぎにか。 ……。
「ええよ。応えんでええ。いま、わしを選きくれたばあでも、わしにとっては大いに意味のあることやき。わしのような多情もんにゃ、ほき充分ちや」
「貴様は多情なのではない、博愛主義、とかいうものなのだろう?」
桂は云って、小さく笑った。
「多情なのはむしろおれのほうだろう」
「おまんは情が深い。そうして広うてふとい。それぞれ情のかけ方がちがう」
「それを多情と呼ぶのではないのか」
「ちがう。こたろ。少なくともわしは、そうはおもわん」
そういって坂本は、もういちどからだの下に桂を抱き込む。そのまま下肢へ手を滑らせた。至近の眼差しをそらすことなく桂は受けとめる。それから、ゆるりと微笑んだ。ふたたび湧き上がった坂本の情欲を、揶揄するような、それでいて愛おしむかのような、得も云われぬ顔。そうして坂本の毛玉に指を遊ばせる。ただ撫でるのではなく、叩いたり引っぱったり口接けたり。じゃれついてくる愛犬か愛猫かを戯れに相手にしているような、無邪気とも傲慢ともおもえるしぐさだった。
からだの芯が、痺れるように熱い。自覚のない桂の媚態に、坂本をして、官能の淵に身を滑らせそうになる。桂が目を閉じた。背後から再び奥を探る手指の感触だけを追いながら、与えられる快楽に身を委ねていく。おもむろに、坂本は悟った。おのれのすべきは、ただ桂を抱き技巧を伝えることではない。この天性の無垢なる傲慢さは、桂の美貌のもとにあっては、それだけで閨をともにする人間を虜にできるだろう。
いまや、桂は攘夷の旗頭も同じだ。カリスマはカリスマにふさわしくあらねばならない。金策にその身を擲つというなら、それは決して、小姓や色子の奉仕であってはならなかった。むしろ貢がせることこそが、似つかわしく、肝要なのだ。
抜きんでた容色と有無を云わさぬ統率力、情の深さと気高い志、それらを支える信念こそが、桂の核だ。閨では奔放に、傲慢なほどの振る舞いをすればいい。そして戯れて、愛玩物のようにおとこを愛おしめばいい。それでいてこそ桂の、桂を抱けることの、ありがたみは増す。坂本は、そこへと、後押ししてやらねばならない。
自分には、それができる。いや、おのれだからこそ、できる。なるほど、手練れを、と桂が坂本を名指ししたのは、このためだったか。桂のあずかり知らぬ勝手な想像を巡らせながら、坂本はおのれの腕のなかであえかに啼く、愛しい生きものを見つめた。
* * *
夢を見た。
戦闘後ひとり帰陣の遅れた桂に、幼なじみふたりが、それぞれに気を揉んでいた。おのれだけが蚊帳の外だった。
また幾日かして。支援者との会合に出たまま、宿営地に桂がなかなかもどらぬときがあった。やはりふたりともが気を揉んでいるのがわかった。あらかじめ用意された台本どおり、さりげなくもっともらしいことを云い聞かせるのは坂本の役目だった。
この場合、どちらが蚊帳の外なのだろう。ぼんやりとそんなことを考える。ふたりのどちらかならば、桂のために桂を止められただろうか。坂本は、桂のために桂の背を押すしかなかったが。そんな埒もない考えが、浮かんでは消えた。
毎日のように誰かが死ぬ。そんな戦況に倦んだ。大儀のためにおのれのなすべきを考えながら、やがて見定めたおのれの目指す途には、桂の姿は見えてこなかった。それを悲しくも当然とおもう気持ちの一方で、ちょっと意地の悪いことを考えてみる。
「なあ、桂さん」
「うん?」
「おんし、銀時がいのおなったらどうする?」
「泣く」
「………」
「…きっと泣く。だが涙が枯れれば、おれはまた進める」
「小太郎」
「あれも、時折つらそうだ」
「こたろう」
「無駄につらい思いをするな、辰馬」
「こたろ」
「おれもつらいが、これはおれの生きる場所だからな」
「わしは」
「坂本。貴様には貴様の場所があるのだろう?」
だから、咎めたりしない。だから、連れ出してやってくれ。もし銀時が、それを望むのなら。そう、ことばには乗せない桂のおもいが、滲んた。けれどもそれを、口にすることのなかった自身の弱さを、桂はあのとき、憎んだろうか。坂本が伝えたかったその先を云わせなかった、強靱な意志の裏側で。
続 2008.01.04.
PR
長の滞在になっていた。
街道から少し外れた村の、旧庄屋宅を借り切って陣を張り、若き幹部らに統率される一軍は、幹部4人それぞれのカリスマ性も手伝って、規律の乱れこそまだ少なかったが。若さゆえの色の窮乏はどこかで発散しなんとか紛らわせても、食の逼迫はいかんともしがたく。
こうしたことを、ぼんぼん育ちの高杉や経済観念のうすい銀時に相談しても埒が明かないことを学習していた桂は、同じ武家の出でも武器や兵糧の調達に目端の利く、平たく云えば商売っけのある坂本に、よく助言を求めた。
桂とて、養子とはいえ名家の武士の出である。本来なら疎いはずの方面であった。だがここには桂以外に、いわゆる、そろばんをはじく、ということをまともに扱えるものがいなかった。坂本は商用の交渉ごとには労を惜しまないが、細々としたやりくりには向かない。根がまじめな桂には放っておくこともできず、覚えてしまったに過ぎない。軍資金の調達から日々の食費のやりくりまで、軍師的な立場の桂が、勘定方の役割までも、担うしかなかったのである。
「貴様、銀時や晋助らを誘って近くの花街によく繰りだしていたというではないか」
その夜、詰め所で帳簿をまえに眉をしかめて考え込んでいた桂が、ふいに、帳簿を手伝っていた坂本に、そう切り出した。
「いや、晋坊にゃぎっちり断られちゅう」
とっさに発言の真意をはかりかねた坂本は、端的に事実のみを云い添えた。
「そうなのか? いや、晋助のことはいいのだ、いまは。問題は、貴様がそうしたことの手練れだ、ということのほうなのだ」
「そうしたこと、ゆうんは…」
「むろん、その、あれだ。閨房でのまぐわい、というやつだ」
生真面目な桂ならではのまっすぐな、それゆえにあらぬ方向へぶっ飛んでいく会話の内容に、坂本は、常の豪放磊落さもよゆうすらも失くしかけている。
「いや、手練れゆうんは言い過ぎやき。ただちっくとばかりみなより場数を踏んじゅうというばあの話じゃ」
「それでいい。おれより詳しいことはまちがいなかろう」
「………」
どう応えていいのか、わからない。ことはデリケートな問題だ。ことに相応の男子にとっては。しかし、桂にそれは無用な気遣いだった。そうしたことへの体裁を繕う、ということを知らぬ彼は、知らぬがゆえに、あけすけだった。
「教えてくれぬか。貴様が閨をともにするおなごは、どのようにふるまう?」
「どう、といわれてもの」
「閨で貴様はどうされるとうれしい?」
質問の論点が微妙にずれていることに、坂本は、ようやく気づいた。
「桂さん」
「うむ?」
「おまん、なにを考えちゅう?」
そこでそちら方面にすぐ想像が及ぶあたりが、坂本である。
「わしはおなご専門じゃきに、おとこの抱き方抱かれ方なぞはしらんが」
「それでかまわん。することは、たいしてかわりあるまい」
いや、あると思うけんど。からだのつくりがちがうのやき。待てよ、大差ないといえば大差ないがか? いやいや、ほりゃあうだく側のほうは大差ないかも知れんが、こがな質問の意図から察するに、そちら側は、大差、おおありやか。というか、待て。いまので桂の考えは明白だ。内なるひとり問答をするうち、坂本の疑念は確信に変わった。
「そこまでして、軍資金を調達する気ながか?」
ぱたん、と帳簿を閉じて文机を押しやり、挟んで相対していた桂に、坂本はあらためて向きなおった。正気か、桂さん。むろんだ。
「背に腹は代えられぬと云うではないか。このままずるずるとみなが飢えていっては、攘夷もままならぬ。武器も燃料も底をつきかけているのだし」
「当てがあると?」
「うむ。幸いそちらの当てには、苦労しない」
ほりゃあそうろう。幸いかどうかは、さておき。
衆道(しゅどう)の風習はさほど古い時代の話ではない。まして、桂の見目ならば。それを切望するものからは、たとえ一晩きりの対価だとしてでも、引き換えに相応の金品が用意されるであろうことは、想像に難くなかった。だが、しかし。
「泣くぞ」
「ん?」
「知れば、晋坊や…金時が」
「金時じゃない、銀時だ。貴様も泣くか、坂本?」
「あたりまえちや」
桂は文机のわきの燭台から灯を手燭に移すと、燭台の灯心を指先でつまむ。
「そうか。では3人そろって泣いてもらおう」
立ち上がって、明かりの落ちた詰め所から手燭の灯を頼りに、坂本をうながした。
「…おまんのぶんまで、か」
切り返したことばは、坂本には似つかわしくないほどに低く抑えた、声音だった。
「そうだな」
ぽつり、感情を乗せない声が、闇に沈んだ廊下に落ちる。手燭の灯に映える小面憎いほどの整った顔立ちは、どこまでも無表情だった。あとに続く坂本は、無言だ。らしくもない。坂本はおのれを内心で罵った。
「なに、たいしたことではない。この身ひとつで、すむのだから」
淡々と言の葉を紡ぐ桂に、返すことばを坂本は持たなかった。
「貴様には、すまぬとおもう。だがほかに頼れるものがいないのだ」
そのことばにおもわず足を止め、気づいたときには、坂本は薄い背中越しに桂を抱きしめていた。
「だから、教えてくれ」
と、桂は云った。
招じられた桂の寝間は、仄かに香った。常の出陣に際し桂が襦袢に薫き染める香(か)だ。朝早く、夜遅い、その多忙と体調とを慮って、幹部連でも唯一与えられたひとり部屋である。
ふたり、褥に身を沈ませるまえ、桂は帯を解きながら云った。経験がまったくないわけではない。だがそれは、子どものままごとのようなものだったゆえ、と。
とことん生真面目にできているのだ。やると決めたからには、できうるかぎりのことを準備して臨もう、と考えたらしかった。
そんなもの必要ない、えてして初めてを喜ぶ輩のほうが多いのだ、とは、坂本には云えなかった。まったくの白紙ではないにしろ、知らずに行けば、桂が傷つく。せめてそれだけは、避けたかった。だがそれがおのれへの抗弁であることも、坂本は知っていた。
経験とは、ただ肌を触れ合わせ互いを慰めるたぐいのことを指して云ったのだろう。戦地という女日照の環境ではめずらしいことではない。それすらも驚きといえば驚きで、反面、意外な気もした。いやそれとも。それ以上の行為を知っていて、さらに上を行く技巧的な意味合いに比して、ままごと、と称したのだろうか。閨の極意、その教えを請いたいと、云うのには。
どちらでも、かまわなかった。ただ、いま坂本は、その相手がおのれであることを、よろこんでいる。薄暗い感情を自覚しながら、それを振り払うだけの理性は、もう残っていなかった。おのれのありったけで、いとおしむ。ただそれしか、頭になかった。
坂本が、本気で桂を愛おしいと思うようになったのは、むしろ、この夜を突拍子もなく切り出した、桂の姿をまのあたりにしたときからである。
ままごとのあいてちゅうんは、銀時か。
桂は応えない。応える必要のない問いだった。否定がないことが、その応えだった。腕のなかで微笑む桂の肌も髪も、先刻までの熱情にしっとりと汗ばんでいる。
なぜに、金時に頼まん? 云ったろう。貴様がいちばん手練れだと聞いたからだ。 嘘はいかん、桂さん。 なんのことだ。 金時をまえにしたら、決意が揺らぐと、考えたからじゃろう?…こたろう。なにより、
「金時が知ったら止めゆうに決まっちょるきに」
下手を打てば刃傷沙汰じゃ。ありゃあふだんはつかみどころのない、ひとを食ったがうなやつけんど、おまんが絡むと、目先しか見えのおなる。
厚い胸板に寄せていた顔を上げ、桂は黙って坂本を見た。
「金時以外のおとこでも相手をこたうか試そうとしたがか」
わしは惨いことをゆうちゅう、そう承知していた。果たして桂は、思い掛けぬものを見たかのように目を瞠る。しばらく思案げに眸を揺らめかせたあと、つぶやいた。
「いやなおとこだ。そうと云われれば、それがなかったとは、云いきれぬ。だが、しかし、…そうではない。たぶん、きっと…おれが」
わずかばかりの躊躇いと、戸惑いと。
「貴様と、こうしたかったからだ。たつま」
おのれ自身に確かめるかのように抱きついてくる桂のからだを、抱き返しながら坂本は微笑んだ。
「こたろ。おまんは、はや充分に、おとこを喜ばせるすべを知っちゅう」
嘘じゃない。おれは貴様が好きだぞ。たつま。 きんときのつぎにか。 …ああ。 晋坊のつぎにか。 ……。
「ええよ。応えんでええ。いま、わしを選きくれたばあでも、わしにとっては大いに意味のあることやき。わしのような多情もんにゃ、ほき充分ちや」
「貴様は多情なのではない、博愛主義、とかいうものなのだろう?」
桂は云って、小さく笑った。
「多情なのはむしろおれのほうだろう」
「おまんは情が深い。そうして広うてふとい。それぞれ情のかけ方がちがう」
「それを多情と呼ぶのではないのか」
「ちがう。こたろ。少なくともわしは、そうはおもわん」
そういって坂本は、もういちどからだの下に桂を抱き込む。そのまま下肢へ手を滑らせた。至近の眼差しをそらすことなく桂は受けとめる。それから、ゆるりと微笑んだ。ふたたび湧き上がった坂本の情欲を、揶揄するような、それでいて愛おしむかのような、得も云われぬ顔。そうして坂本の毛玉に指を遊ばせる。ただ撫でるのではなく、叩いたり引っぱったり口接けたり。じゃれついてくる愛犬か愛猫かを戯れに相手にしているような、無邪気とも傲慢ともおもえるしぐさだった。
からだの芯が、痺れるように熱い。自覚のない桂の媚態に、坂本をして、官能の淵に身を滑らせそうになる。桂が目を閉じた。背後から再び奥を探る手指の感触だけを追いながら、与えられる快楽に身を委ねていく。おもむろに、坂本は悟った。おのれのすべきは、ただ桂を抱き技巧を伝えることではない。この天性の無垢なる傲慢さは、桂の美貌のもとにあっては、それだけで閨をともにする人間を虜にできるだろう。
いまや、桂は攘夷の旗頭も同じだ。カリスマはカリスマにふさわしくあらねばならない。金策にその身を擲つというなら、それは決して、小姓や色子の奉仕であってはならなかった。むしろ貢がせることこそが、似つかわしく、肝要なのだ。
抜きんでた容色と有無を云わさぬ統率力、情の深さと気高い志、それらを支える信念こそが、桂の核だ。閨では奔放に、傲慢なほどの振る舞いをすればいい。そして戯れて、愛玩物のようにおとこを愛おしめばいい。それでいてこそ桂の、桂を抱けることの、ありがたみは増す。坂本は、そこへと、後押ししてやらねばならない。
自分には、それができる。いや、おのれだからこそ、できる。なるほど、手練れを、と桂が坂本を名指ししたのは、このためだったか。桂のあずかり知らぬ勝手な想像を巡らせながら、坂本はおのれの腕のなかであえかに啼く、愛しい生きものを見つめた。
* * *
夢を見た。
戦闘後ひとり帰陣の遅れた桂に、幼なじみふたりが、それぞれに気を揉んでいた。おのれだけが蚊帳の外だった。
また幾日かして。支援者との会合に出たまま、宿営地に桂がなかなかもどらぬときがあった。やはりふたりともが気を揉んでいるのがわかった。あらかじめ用意された台本どおり、さりげなくもっともらしいことを云い聞かせるのは坂本の役目だった。
この場合、どちらが蚊帳の外なのだろう。ぼんやりとそんなことを考える。ふたりのどちらかならば、桂のために桂を止められただろうか。坂本は、桂のために桂の背を押すしかなかったが。そんな埒もない考えが、浮かんでは消えた。
毎日のように誰かが死ぬ。そんな戦況に倦んだ。大儀のためにおのれのなすべきを考えながら、やがて見定めたおのれの目指す途には、桂の姿は見えてこなかった。それを悲しくも当然とおもう気持ちの一方で、ちょっと意地の悪いことを考えてみる。
「なあ、桂さん」
「うん?」
「おんし、銀時がいのおなったらどうする?」
「泣く」
「………」
「…きっと泣く。だが涙が枯れれば、おれはまた進める」
「小太郎」
「あれも、時折つらそうだ」
「こたろう」
「無駄につらい思いをするな、辰馬」
「こたろ」
「おれもつらいが、これはおれの生きる場所だからな」
「わしは」
「坂本。貴様には貴様の場所があるのだろう?」
だから、咎めたりしない。だから、連れ出してやってくれ。もし銀時が、それを望むのなら。そう、ことばには乗せない桂のおもいが、滲んた。けれどもそれを、口にすることのなかった自身の弱さを、桂はあのとき、憎んだろうか。坂本が伝えたかったその先を云わせなかった、強靱な意志の裏側で。
続 2008.01.04.
PR