「天涯の遊子」土桂篇。
土方と桂。沖田が一言出演、山崎の出番がちょこっと。
やっぱり長いので、4回に分ける。
桂の江戸潜伏後あたりから、紅桜直後まで。時系列。
そのとき、なぜ、手が出なかったのか、わからない。
その人物であることは、一目で知れた。おもえば、はっきり顔のわかるこんな距離で、それを見たのは、これが初めてだった。にもかかわらず確信できたのは、常日頃、見飽きるくらいに写真のその顔を見、その姿を遠くに追っては、駆けずり回っていたからだ。
あんまし、変わってねぇんだな。
指名手配の写真はずいぶんと若いころで、ちょうどいまの土方よりもいくぶん幼い年頃に見えた。髪型こそ違うが、顔立ちそのものは写真のままだ。年齢がいったぶん頬のあたりが鋭くなった感はあったが、土方よりもいくつか年上のおとこの顔には見えなかった。佳人といっていい。
ふいに浮かんだその表現に、土方は軽く頭を振った。どうかしている。あいては、攘夷志士、桂小太郎。攘夷の暁、いや狂乱の貴公子、いまやまぎれもなくお江戸を騒がす、過激派テロリストに過ぎないというのに。
だが、それをいうなら。通りをひとつ隔てただけのこの距離で、桂が土方の、真選組の存在に気づかないというのもどうかしているのかもしれない。
なにかに気をとられている。あきらかに。そんなふうに土方には感じられた。なにに気をとられれば、桂がこれほど無防備になるのだろう。なにをそこまで、と物陰から桂の視線の先を窺ってみる。
かぶき町の建て込んだ町並み。だが桂や土方がいるあたりからはちょうど視界が開けて、通りの半町ほどむこうに二階家の建物がみえる。一階はバーか飲み屋か、らしき看板が掛かっている。営業前のこの時間では、人影はない。二階には白板に墨書きの素朴な看板が見えたが、土方のいる位置からは書いてある文字までは判別できなかった。
「なんだ?」
銜え煙草で土方がそうひとりごちたとき、その二階の引き戸が開いて、なかから奇妙な風体のおとこが大あくびをし腹をかきながら出てきた。
奇妙な、というのは若いのか年寄なのか一見ではわからなかったからだ。遠目にはっきりとしないが、青年のような体躯にもかかわらずその髪は白くみえる。
と、桂のようすがおかしいのに気がついた。おとこが姿を見せた刹那、反射的に踏み出しかけた足を、意志のちからで止めた。ように見えた。そのままじっと見ている。見つめている。土方はその横顔をいまも忘れない。
なにかなつかしいものを見る眸。ようやく見つけたという安堵。だがそこにいるのがまだ信じられないでいるような、そんな揺らぎ。そして、さも愛おしげに微笑してから、つ、と、自らその視線を絶った。自ら断ち切った姿は、哀切だった。
つぶさに観察しすぎて、うっかり土方は、その視線がおのれの潜む方角に向けられたのに、気づくのが遅れた。しまった、と思ったときには遅かった。桂は土方を一瞥するや、ひらり、屋根の上に飛び乗った。
「桂!待ちやがれ」
煙草をもみ消してあわてて追おうとするのへ、
「なにを呆けていた、芋侍」
云って、蔑むような視線を落として、あっというまに屋根瓦の向こうへと消えていく。
「くそっ」
呆けていたのはてめぇのほうじゃねぇか。云ったところで、あとのまつりだ。おのれが桂の常にない姿に、目を奪われていたのには、まちがいない。
それまで土方にとって、桂はただの過激派テロリストだった。むかしがどうあれ、いまは江戸市中を騒がすだけのお尋ね者。攘夷の英雄と呼ばれたおとこの成れの果てだと、思っていた。だが。指名手配写真から抜け出た、生身の桂を初めて近くに捉えて、あたりまえだが、同じ人間だったのだと実感した。そしてそこにいたのは、その実感を遙かに超える、ひととしての感情を湛えた、桂小太郎という一箇の存在だったのだ。
詳しいことなどまるでわからないものの、桂が一心に見つめていたものが、桂の過ぎし日につながるものであることは、容易に察せられた。桂もまた、過去を抱えたひとりの青年にすぎないのだと、初めて気づく。
土方たちが少々若く田舎もので、賛同するにも否定するにも間に合わなかった、攘夷戦争という時代。桂が、そこをくぐり抜けた人間だというわかりきっていたはずの事実が、すとんと、土方の胸に痛みと重みとをもって、納まった。納まってしまったことは、土方にとって、よい兆候とはいえない。敵を知ることは、諸刃の剣だ。その敵に感情移入しては、警察機構の役職はつとまらない。だがいちど起こってしまった情動は、理屈ではなく、土方を捉えた。
廃刀令のご時世に、剣にしか生きる道を見いだせない、真選組はそんなものたちの集まりだ。まして土方は、その最たる存在だった。いまだに刀を捨てられない、刀にすがって生きているような人間に、刀をもって国を憂い闘った人間を心底貶める感情など、もともと抱けようはずもなかったのだから。
そんなことがあってから、幾度かの桂首謀と思われる天人襲撃騒動を経てのち。
池田屋で桂を取り逃がした。なぜかその場にいて絡んできた白銀髪の男に、なにかしら引っかかるものを感じたが、それがなんだったのかを土方は思い出せなかった。自分の感情にとまどっていたせいもある。公儀にたてつくものはなんであろうと敵。取り逃がしたことは痛恨の極みであったのに。その一方で、どこかしらほっとしている自分がいるのに、気づいたからだった。
* * *
「かぁつらぁぁぁぁ」
江戸の町に、バズーカ砲の音がきょうも鳴り響く。ひらりひらり屋根の上を身軽に駆けてゆく長い黒髪の姿が遠ざかる。沖田と配下の数名がその後を追って走っていくのが見えた。銜えていた煙草を地面に吐き出し靴の爪先で踏み消して、やれやれとでも云いたげに、土方はひとり、沖田が追った通りの筋の横道へと入った。
「ふだんの仕事も、あれぐらい熱心にやりやがれ、ってんだ。総悟のやつ」
桂が江戸の町に出没しはじめて、もうずいぶんになる。真選組がこの町の治安を預かるようになってこのかた、桂の影すら踏ませてもらえた試しがない。指名手配の若き日の写真でしか拝んだことのない桂の顔を、少しまえまでは間近に見ることさえかなわないでいた。桂を桂と識別するのはだから、黒髪長髪だったり、その身のこなしだったり、テロ騒動の至近にいたからだったり、するだけだ。
もっともここ最近の桂は妙におとなしく、町で警邏中にたまたま出くわして、追走劇がはじまるといったケースのほうが多い。ちょうど、いまのように。
この横道を行けば、通りの先へ先回りできる。桂が素直に屋根伝いに通り沿いを逃げているとも思えなかったが、後から追ってはけして捕まらないことは、すでにわかりきっている。それほどに桂の逃げ足は速く、追っ手の撒き方は鮮やかだ。沖田のように飛び道具を持たない以上、桂の脚を止める手だてなどほかに、土方にはないのだから。
「髪の長いの、見なかったかい?」
狭い横道をすれ違う町人に聞いても、さあ、と小首を傾げられるばかりで。この町のものたちは多く、田舎出のどこの輩とも知れぬ粗暴な真選組より、出自卑しからぬかつての攘夷の英雄に対して好意的であったから、当てになどならないが、聞かぬわけにもいかない。
そうこうするうちに、いつのまにか横道を逸れ、横道の横道というのか迷路のように入り組んだ場所へ、這入り込んでしまっていた。土方が、そうと気づいたときには、もう遅かった。まったく、この町は奥が知れねえ。
「真選組副長ともあろうものが、将軍家お膝元の町で迷子になるなんざ、洒落にもならねえ」
などと愚痴ってみても、現状が解決するわけもない。しょうがねぇ、山崎にでも連絡をつけて、拾わせるか。監査方の山崎なら、自分よりは江戸の町に詳しいはずだ。周りの場景を説明すれば、土方の居場所も自ずと知れるかもしれない。辺りが暗くなってからではまずい。迷子になったなどとは口が裂けても云えないが。と考えて、土方が隊服の内ポケットから携帯を取りだした、そのとき。空から、なにかが降ってきた。
どっすん。
ふぎゃ。
らしくもない声を上げて、土方はおのれの上に落っこちてきたものから逃れようともがく。一瞬息が詰まったのは、もののみごとに首筋から背中へと激突し、いまは馬乗りのかたちになっているようだからだ。だが落ちてきたものはうごく気配すらない。うちどころでも悪かったのか? いや、こっちのほうが被害甚大だろう。全身で、もろに受けとめるかたちになったのだから。
なんとか首だけひねって肩越しに覗き見る。その土方の頬に、ふわりと仄かに甘く香るなめらかな髪が触れてどきりとした。おんな?いや、まさか。しかしそういえば衝撃のわりに重みが少ない。なんで女が降ってくるんだ。いや。そもそも、なんで人間が降ってくるんだ。ちょっと惜しいな、などと思いながら落ち掛かった髪をそっとよけてあらためてみる。だが、それは。
「桂ぁ!?」
紛れもない、桂小太郎そのひとだった。こいつ、こんなに軽いのか。てか、おとこにしちゃ細すぎね? あまりのことについどうでもいいことにまで気が及ぶ。桂はぐったりとしたまま、うごかない。額にぶつけたようなあとがある。血が滲み赤黒く腫れかけていた。痛そうだ。
「おいおい。まさかこれで記憶喪失、なんてパターンじゃねぇだろうな?」
ようやく桂のからだを自分の背から除けて、自然ずり落ちそうになるのを
「おっと」
なぜだかあわてて抱きかかえるようになりながら、上方を仰ぎ見る。細い路地を渡る屋根と屋根のひさしのあいだにアンテナ線が延びている。その先には衛星テレビ用のパラボラアンテナだ。擦れたようなあとと、アンテナの方角があさっての方を向いているところから見て、どうやら足を取られてこれにしたたかにぶつけ、落っこちてきたのだろう。あの日のときのことといい、どうも勝手が狂う。こいつもしかして
「意外と、どじっつうか、抜けてんじゃねーの?」
いずことも知れぬ路地裏で、桂を抱きかかえながら、土方は思った。
あのときにも感じたが。ごく至近で見る桂は、その印象以上に美しかった。色白の面に長いまつげが伏せられ、繊細な鼻梁の先に、かたちのよい口唇。鋭角だがなめらかさのある顎のライン。いま、ぐったりと土方にからだを預けている桂の、濡れ羽色の長い髪が乱れて覗く首筋からうなじにかけてなど、匂い立つような色香があった。これが、攘夷の英雄? これが、過激派テロリスト?
しばらく、呆けたように見つめていた土方は、おのれの喉がごくりと鳴った音に、我に返った。
そうだった。こんなふうに観察している場合じゃない。たんに見惚れてしまっていただけなのをそう自分で自分に云いつくろって、あわてて右の尻の後ろを探る。千載一遇のチャンスだった。桂を捕らえる。気を失っているものに手錠を咬ますのは少々気が退けたが、相手はあの桂だ。四の五の云っている場合ではなかった。が。探ってもそこにあるはずのものがない。ぶつかった拍子に落としたのだろうか。抱きかかえていた桂を自分の身の片側に寄せて、もう一度よく探そうとする。
かちゃり。
え?
その土方の手首に、探していた手錠が咬まされた。状況に認識が追いつかぬ間に、もう片方の輪がそのまま隊服のベルトとベルト通しとに嵌められる。あ、と土方が思ったときには、腕の中でぐったりとしていたからだは、するりと抜け出ていた。
「…!!!」
そのまますっと、桂はからだを半歩退く。少しふらついたのは、額の怪我のせいだろう。土方の間合いから出たのだ。そうはさせまいと反射的に腰のものに手をやろうとして、土方の動きが止まった。否、止められた。右腕は手錠に自由を奪われている。腰のものは左だ。鯉口は切れても、左手で腰のものは抜けない。よしんば鞘ごと抜いて放って、抜刀しても、その隙に桂なら容易に姿を眩ませるだろう。もとより左腕一本で太刀打ちできる相手でもなかった。土方は桂を睨んだ。
「桂。てめぇ」
いつのまに正気づいていたんだ。最初たしかに、桂は気を失っていた。
続 2008.01.22.
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そのとき、なぜ、手が出なかったのか、わからない。
その人物であることは、一目で知れた。おもえば、はっきり顔のわかるこんな距離で、それを見たのは、これが初めてだった。にもかかわらず確信できたのは、常日頃、見飽きるくらいに写真のその顔を見、その姿を遠くに追っては、駆けずり回っていたからだ。
あんまし、変わってねぇんだな。
指名手配の写真はずいぶんと若いころで、ちょうどいまの土方よりもいくぶん幼い年頃に見えた。髪型こそ違うが、顔立ちそのものは写真のままだ。年齢がいったぶん頬のあたりが鋭くなった感はあったが、土方よりもいくつか年上のおとこの顔には見えなかった。佳人といっていい。
ふいに浮かんだその表現に、土方は軽く頭を振った。どうかしている。あいては、攘夷志士、桂小太郎。攘夷の暁、いや狂乱の貴公子、いまやまぎれもなくお江戸を騒がす、過激派テロリストに過ぎないというのに。
だが、それをいうなら。通りをひとつ隔てただけのこの距離で、桂が土方の、真選組の存在に気づかないというのもどうかしているのかもしれない。
なにかに気をとられている。あきらかに。そんなふうに土方には感じられた。なにに気をとられれば、桂がこれほど無防備になるのだろう。なにをそこまで、と物陰から桂の視線の先を窺ってみる。
かぶき町の建て込んだ町並み。だが桂や土方がいるあたりからはちょうど視界が開けて、通りの半町ほどむこうに二階家の建物がみえる。一階はバーか飲み屋か、らしき看板が掛かっている。営業前のこの時間では、人影はない。二階には白板に墨書きの素朴な看板が見えたが、土方のいる位置からは書いてある文字までは判別できなかった。
「なんだ?」
銜え煙草で土方がそうひとりごちたとき、その二階の引き戸が開いて、なかから奇妙な風体のおとこが大あくびをし腹をかきながら出てきた。
奇妙な、というのは若いのか年寄なのか一見ではわからなかったからだ。遠目にはっきりとしないが、青年のような体躯にもかかわらずその髪は白くみえる。
と、桂のようすがおかしいのに気がついた。おとこが姿を見せた刹那、反射的に踏み出しかけた足を、意志のちからで止めた。ように見えた。そのままじっと見ている。見つめている。土方はその横顔をいまも忘れない。
なにかなつかしいものを見る眸。ようやく見つけたという安堵。だがそこにいるのがまだ信じられないでいるような、そんな揺らぎ。そして、さも愛おしげに微笑してから、つ、と、自らその視線を絶った。自ら断ち切った姿は、哀切だった。
つぶさに観察しすぎて、うっかり土方は、その視線がおのれの潜む方角に向けられたのに、気づくのが遅れた。しまった、と思ったときには遅かった。桂は土方を一瞥するや、ひらり、屋根の上に飛び乗った。
「桂!待ちやがれ」
煙草をもみ消してあわてて追おうとするのへ、
「なにを呆けていた、芋侍」
云って、蔑むような視線を落として、あっというまに屋根瓦の向こうへと消えていく。
「くそっ」
呆けていたのはてめぇのほうじゃねぇか。云ったところで、あとのまつりだ。おのれが桂の常にない姿に、目を奪われていたのには、まちがいない。
それまで土方にとって、桂はただの過激派テロリストだった。むかしがどうあれ、いまは江戸市中を騒がすだけのお尋ね者。攘夷の英雄と呼ばれたおとこの成れの果てだと、思っていた。だが。指名手配写真から抜け出た、生身の桂を初めて近くに捉えて、あたりまえだが、同じ人間だったのだと実感した。そしてそこにいたのは、その実感を遙かに超える、ひととしての感情を湛えた、桂小太郎という一箇の存在だったのだ。
詳しいことなどまるでわからないものの、桂が一心に見つめていたものが、桂の過ぎし日につながるものであることは、容易に察せられた。桂もまた、過去を抱えたひとりの青年にすぎないのだと、初めて気づく。
土方たちが少々若く田舎もので、賛同するにも否定するにも間に合わなかった、攘夷戦争という時代。桂が、そこをくぐり抜けた人間だというわかりきっていたはずの事実が、すとんと、土方の胸に痛みと重みとをもって、納まった。納まってしまったことは、土方にとって、よい兆候とはいえない。敵を知ることは、諸刃の剣だ。その敵に感情移入しては、警察機構の役職はつとまらない。だがいちど起こってしまった情動は、理屈ではなく、土方を捉えた。
廃刀令のご時世に、剣にしか生きる道を見いだせない、真選組はそんなものたちの集まりだ。まして土方は、その最たる存在だった。いまだに刀を捨てられない、刀にすがって生きているような人間に、刀をもって国を憂い闘った人間を心底貶める感情など、もともと抱けようはずもなかったのだから。
そんなことがあってから、幾度かの桂首謀と思われる天人襲撃騒動を経てのち。
池田屋で桂を取り逃がした。なぜかその場にいて絡んできた白銀髪の男に、なにかしら引っかかるものを感じたが、それがなんだったのかを土方は思い出せなかった。自分の感情にとまどっていたせいもある。公儀にたてつくものはなんであろうと敵。取り逃がしたことは痛恨の極みであったのに。その一方で、どこかしらほっとしている自分がいるのに、気づいたからだった。
* * *
「かぁつらぁぁぁぁ」
江戸の町に、バズーカ砲の音がきょうも鳴り響く。ひらりひらり屋根の上を身軽に駆けてゆく長い黒髪の姿が遠ざかる。沖田と配下の数名がその後を追って走っていくのが見えた。銜えていた煙草を地面に吐き出し靴の爪先で踏み消して、やれやれとでも云いたげに、土方はひとり、沖田が追った通りの筋の横道へと入った。
「ふだんの仕事も、あれぐらい熱心にやりやがれ、ってんだ。総悟のやつ」
桂が江戸の町に出没しはじめて、もうずいぶんになる。真選組がこの町の治安を預かるようになってこのかた、桂の影すら踏ませてもらえた試しがない。指名手配の若き日の写真でしか拝んだことのない桂の顔を、少しまえまでは間近に見ることさえかなわないでいた。桂を桂と識別するのはだから、黒髪長髪だったり、その身のこなしだったり、テロ騒動の至近にいたからだったり、するだけだ。
もっともここ最近の桂は妙におとなしく、町で警邏中にたまたま出くわして、追走劇がはじまるといったケースのほうが多い。ちょうど、いまのように。
この横道を行けば、通りの先へ先回りできる。桂が素直に屋根伝いに通り沿いを逃げているとも思えなかったが、後から追ってはけして捕まらないことは、すでにわかりきっている。それほどに桂の逃げ足は速く、追っ手の撒き方は鮮やかだ。沖田のように飛び道具を持たない以上、桂の脚を止める手だてなどほかに、土方にはないのだから。
「髪の長いの、見なかったかい?」
狭い横道をすれ違う町人に聞いても、さあ、と小首を傾げられるばかりで。この町のものたちは多く、田舎出のどこの輩とも知れぬ粗暴な真選組より、出自卑しからぬかつての攘夷の英雄に対して好意的であったから、当てになどならないが、聞かぬわけにもいかない。
そうこうするうちに、いつのまにか横道を逸れ、横道の横道というのか迷路のように入り組んだ場所へ、這入り込んでしまっていた。土方が、そうと気づいたときには、もう遅かった。まったく、この町は奥が知れねえ。
「真選組副長ともあろうものが、将軍家お膝元の町で迷子になるなんざ、洒落にもならねえ」
などと愚痴ってみても、現状が解決するわけもない。しょうがねぇ、山崎にでも連絡をつけて、拾わせるか。監査方の山崎なら、自分よりは江戸の町に詳しいはずだ。周りの場景を説明すれば、土方の居場所も自ずと知れるかもしれない。辺りが暗くなってからではまずい。迷子になったなどとは口が裂けても云えないが。と考えて、土方が隊服の内ポケットから携帯を取りだした、そのとき。空から、なにかが降ってきた。
どっすん。
ふぎゃ。
らしくもない声を上げて、土方はおのれの上に落っこちてきたものから逃れようともがく。一瞬息が詰まったのは、もののみごとに首筋から背中へと激突し、いまは馬乗りのかたちになっているようだからだ。だが落ちてきたものはうごく気配すらない。うちどころでも悪かったのか? いや、こっちのほうが被害甚大だろう。全身で、もろに受けとめるかたちになったのだから。
なんとか首だけひねって肩越しに覗き見る。その土方の頬に、ふわりと仄かに甘く香るなめらかな髪が触れてどきりとした。おんな?いや、まさか。しかしそういえば衝撃のわりに重みが少ない。なんで女が降ってくるんだ。いや。そもそも、なんで人間が降ってくるんだ。ちょっと惜しいな、などと思いながら落ち掛かった髪をそっとよけてあらためてみる。だが、それは。
「桂ぁ!?」
紛れもない、桂小太郎そのひとだった。こいつ、こんなに軽いのか。てか、おとこにしちゃ細すぎね? あまりのことについどうでもいいことにまで気が及ぶ。桂はぐったりとしたまま、うごかない。額にぶつけたようなあとがある。血が滲み赤黒く腫れかけていた。痛そうだ。
「おいおい。まさかこれで記憶喪失、なんてパターンじゃねぇだろうな?」
ようやく桂のからだを自分の背から除けて、自然ずり落ちそうになるのを
「おっと」
なぜだかあわてて抱きかかえるようになりながら、上方を仰ぎ見る。細い路地を渡る屋根と屋根のひさしのあいだにアンテナ線が延びている。その先には衛星テレビ用のパラボラアンテナだ。擦れたようなあとと、アンテナの方角があさっての方を向いているところから見て、どうやら足を取られてこれにしたたかにぶつけ、落っこちてきたのだろう。あの日のときのことといい、どうも勝手が狂う。こいつもしかして
「意外と、どじっつうか、抜けてんじゃねーの?」
いずことも知れぬ路地裏で、桂を抱きかかえながら、土方は思った。
あのときにも感じたが。ごく至近で見る桂は、その印象以上に美しかった。色白の面に長いまつげが伏せられ、繊細な鼻梁の先に、かたちのよい口唇。鋭角だがなめらかさのある顎のライン。いま、ぐったりと土方にからだを預けている桂の、濡れ羽色の長い髪が乱れて覗く首筋からうなじにかけてなど、匂い立つような色香があった。これが、攘夷の英雄? これが、過激派テロリスト?
しばらく、呆けたように見つめていた土方は、おのれの喉がごくりと鳴った音に、我に返った。
そうだった。こんなふうに観察している場合じゃない。たんに見惚れてしまっていただけなのをそう自分で自分に云いつくろって、あわてて右の尻の後ろを探る。千載一遇のチャンスだった。桂を捕らえる。気を失っているものに手錠を咬ますのは少々気が退けたが、相手はあの桂だ。四の五の云っている場合ではなかった。が。探ってもそこにあるはずのものがない。ぶつかった拍子に落としたのだろうか。抱きかかえていた桂を自分の身の片側に寄せて、もう一度よく探そうとする。
かちゃり。
え?
その土方の手首に、探していた手錠が咬まされた。状況に認識が追いつかぬ間に、もう片方の輪がそのまま隊服のベルトとベルト通しとに嵌められる。あ、と土方が思ったときには、腕の中でぐったりとしていたからだは、するりと抜け出ていた。
「…!!!」
そのまますっと、桂はからだを半歩退く。少しふらついたのは、額の怪我のせいだろう。土方の間合いから出たのだ。そうはさせまいと反射的に腰のものに手をやろうとして、土方の動きが止まった。否、止められた。右腕は手錠に自由を奪われている。腰のものは左だ。鯉口は切れても、左手で腰のものは抜けない。よしんば鞘ごと抜いて放って、抜刀しても、その隙に桂なら容易に姿を眩ませるだろう。もとより左腕一本で太刀打ちできる相手でもなかった。土方は桂を睨んだ。
「桂。てめぇ」
いつのまに正気づいていたんだ。最初たしかに、桂は気を失っていた。
続 2008.01.22.
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