「天涯の遊子」銀桂篇+土桂篇
銀時と桂と土方と。
竜宮篇以降、モンハン篇よりまえ。
全14回予定。其の九。土方、桂。
気持ち、R15。
一ヶ所に長逗留はかえって面倒だろうが、あちこち移動してりゃからだのことにも気づかれずにやり過ごせるんじゃねぇか。
その土方のことばに素直にうなずいた桂と、気ままな道行きとなっていた。
土方自身は三日も休みがあればどう過ごせばいいかわからなくなるほうだから、目先を変えたところで観光自体はすぐにも厭きるだろうと想像がついた。ただ桂とふたりで過ごせるならと、めいっぱいせしめた有休のうちに、桂のからだがどこまで回復するかも定かではない。ましていつ記憶がもどるのか、もどったとき自分はどうするのか、まるで考えちゃいない。考えたところでこたえなどでないことはわかりきっていたし、いま自分がずいぶんと刹那的な行動に出ている自覚はあった。
「土方。土方」
明け方、隣室から桂の呼ぶ声で目が覚めた。宿の部屋をわざわざ別けてとることに、なにも知らない桂は宿代がもったいないと首を傾げたが、土方にしてみればやむをえぬ措置である。二十四時間行動を共にしているのだ。このうえ相部屋に同宿などすれば、まだ年若い桂に対してであれ、おのれを押さえきる自信など皆目ない。
「また背が伸びた」
顔を合わせるなり朝の挨拶もそこそこにそう告げてくる。表情の薄い能面のそれでも微かに乗ったうれしげな笑みは、土方にこの道行きを後悔させないだけのよすがとなるに充分だった。じつはおのれのほうが年長であると知り、土方自身がそう望んだこともあって、桂のおのれを呼ぶ名からは敬称が消えている。桂のほうには「かつら」という名だけをあたえていた。それが名字なのかなまえなのか俗称なのかすら当人は知らぬままに、呼ばれている。
「そいつぁ、よかったな」
桂は日々成長するおのれのからだにも戸惑うより好奇に駆られるらしい。再成長だが記憶のないいまの桂にとっては初めてとおなじである。それは土方にとっては、この道行きの果てに一歩近づくことであったが、どのみち留め置くことのできぬ仮初めの夢とわかっている。それなら、この奇妙なかたちで実現した、桂の過去の姿を追体験するという希有な時間を、ひとときたりとも見逃したくはない。
しかもこうして、成長の階(きざはし)を刻むたび無邪気に桂は報告してくる。きっと本来のその過程でも、桂はこれを身近な人間にやってきたのだろう。その相手はきっと、銀時だったり高杉だったりしたのだ。ふだんが無愛想なぶん、この振る舞いの無邪気さはたまらないものがある。そしていまそれはなによりこの桂が、土方に馴染み気をゆるしている証でもあった。
あれから六日。いま桂は元服期を越えたあたりだろうか。旅先では若衆振袖の袖を詰めるのもままならないからそのままだが、背も土方の肩を越える辺りまでには伸び、しなやかな筋肉は少年のそれからわずかずつおとなびてゆく。とはいえ、おとなの桂自身が生来の細身だったわけだから、どこかしら線の細さは残したままだ。
本来のこの年頃には桂は戦場に立っていたはずだ。あの剣の冴えをもって、幾人もの天人を屠っていたころだ。そのかたわらには、銀時が、高杉が、たつまと桂が呼んだおとこが、立っていたのだろう。
やつらが共有した時間。おのれが共有し得なかった時間。
そこに馳せるおもいは複雑に渦を巻くが、いま眼前にある桂の、この造形を観ることの叶った僥倖を思った。
いまの年齢(とし)をかさねた桂も十二分に美しい。が。年の頃十六、七か。時分の花開く生命力の醸しだす風姿は、希代の絵師の筆をもってしても描きとどめることは叶わず、名にし負う文筆家であろうと筆舌に尽くしがたしと一文に認(したた)めるほかあるまい、と思わせる。初期の手配書の写真の桂はおそらくこの数年後なのだろうが、密かに蒐集家さえいると云われる桂の指名手配書は、それでもこの万分の一もその真実を写してはいなかった。
間近でつぶさに眺めれば目も眩む。これを高嶺の花と仰ぎ見るのでなしに、四六時中近しく目の当たりにして、戦時という極限状態を駆け抜けたなら、いまの銀時や高杉が見せる執着にもなんら不思議を感じない。それはある一線を越えた『美』のみがもちうる圧倒的な求心力だった。むろん彼らがその外見だけに囚われているわけもなかったが、これを抜きにしてはやはりいまの執着はなかったにちがいないのだ。
「土方?」
意識はそんな想念に向かっていたから、知らずあまりにじっと見つめすぎていたようで、桂が怪訝そうに首を傾げた。
「…ああ、いや。このぶんだとあと十日もありゃ、もどりそうだな」
「うむ」
土方の部屋のほうで揃っての遅めの朝食をすませて、さて、きょうはどうするかと周辺の地図を広げながら、桂は心持ちすまなさそうに云った。
「そこまで世話になってもよいのか? せっかくの『ゆうきゅうきゅうか』とやらなのだろう?」
「いいんだよ。俺がそうしてぇんだから」
土方のほうは、携帯を取りだして周辺情報を検索している。たいがいは桂の好奇心にまかせて行き先を決め、土方がそれを具体的に段取る、という分担がなんとはなしにできていた。
桂の好みは、おおよそ動物園か自然公園あたりで、古い寺社庭園の散策や旧大名家の古文庫を覗くことも多い。かわいらしすぎるか渋すぎるかの趣味だがやたらひとの多いだけの観光地でなかったことは、桂と過ごす時間をのみ望む土方にとっては幸いだった。
なにしろ、見てくれが見てくれである。道中すれ違うもので振り返らぬものがない。
「かつら。ちょっと先に寄りてぇ場所があるんだが」
この日訪ねることとなった旧い城下町の最寄り駅に降り立って、そう土方が切り出すと、
「なんだ。めずらしいな。むろんかまわんぞ。どこだ?」
桂はあっさり頷いた。これまで土方のほうからどこかに行きたがるということがほとんどなかっただけに、おもしろがっているようだ。
連れて入ったのは城下の旧道沿いにある呉服屋だった。
「旅のものなんで、反物から誂えてるよゆうがねぇ。仕立物でこいつに合うやつを見繕ってもらえねぇか」
「おい、土方」
呉服屋の老主人は、入るなりの土方のぞんざいなものいいに如才ない応対を返すにとどめたが、次いで店内に姿を見せた桂を一目見るなり、息を呑んだ。これは択び甲斐がございますな、と奥に声を掛け、すぐさま仕立て上がりの袷と袴をもってこさせる。
「いまの着物じゃ、いいかげん丈も裄も合わなくなって来たろう」
「それはそうだが」
「お武家さまでございますかな」
桐の箱からかわるがわる何枚もの着物を取り出し、選び抜いた数点を桂の身に当てながら、店の主人はそう語り掛けた。
「なぜ、そう思う?」
問うたのは桂本人ではなく土方だ。土方のほうはいつもの黒の着流しに刀を佩いているが、いまの桂は丸腰である。
「長年この商いをやっておりますと、居住まいやちょっとした立ち居振る舞いでわかるものなのでございます。こちらなどいかかでございましょう」
薄萌葱の色無地、ではなくよくよく見れば同系色で江戸小紋の万寿菊があしらわれている洒脱な小袖だった。合わせた袴は松葉色。
「つぎにはぜひ、反物から仕立てさせていただきたいものです」
目にやわらかな色彩は桂の凛とした瑞々しい美貌を引き立てた。
ひとそろいを着替えて、脱いだ着物は風呂敷包みにして、斜めに背に負う。その場で勘定をすませた土方と店主に礼を述べて、桂はぺこりとあたまを下げた。その拍子に跳ねた長い尾っぽ、あたまのうしろで高く結われた艶やかな黒髪が、薄萌葱によく映える。奉公人だけでなく老主人直々に店先まで見送られて、ふたりはまた街道筋に立ち戻った。
「よいのか、土方」
「うん?」
いまは観光用に有料開放されている、かつての城郭の天守閣を目指して、緩やかに傾斜する路を辿りながら、桂が傍らを行く土方を見た。
「貴殿にここまでしてもらう謂われがない」
「…迷惑か?」
「いや、そういうことではなくて。職分を越えている気がするのだが」
「そりゃもうとうに越えてるだろうよ。おめぇの回復の時間につきあうことにした時点でな」
それ以前に、この旅路を思い立った時点ですでに職務を放棄しているのだから。土方にはいまさらのことだったが、桂にしてみればたしかにそう思えるだろう。
城の大手門だった場所のてまえに設えられた小屋で入場料金を払い、登城券と三つ折りの簡素な案内図を受け取る。桂に手渡せば、いつもなら興味深げに一読するものを、ぱらりとめくっただけで薄萌葱の袂のうちに落とした。
隅櫓の石垣を横手に見ながら、城内へと進む。攘夷戦争以前の城郭がけっこうきちんと残っている平山城(ひらやまじろ)だから、径は狭く葛折りに入り組んで、目のまえにあるようでいて、本丸にはなかなか辿り着けない。
「云ったろう。俺がしてぇからしてるだけだ。おめぇが迷惑じゃねぇなら、いまは黙ってさせとけや」
径沿いの、いまは名勝として手入れされた回遊式庭園を巡る横道にいったん逸れた。
「なぜ、そうしたいと思うのかがわからん」
白と赤紫のちいさな花を満開にし枝垂れる萩。下草と木々の綾なす仲秋の気配に染まりはじめた庭を渡る桂は、納得のいきかねる態で呟く。
やれやれ、記憶を失くしていても桂は桂だ。こうしたときに曖昧さは美徳だと思うのだが、それができるたちではないらしい。
「おめぇは記憶喪失のかわいそうな迷子だ。おまけにわけのわからん現象に見舞われた、いわば病人だ。そいつに同情したから、てぇのでは理由にならねぇのか?」
半ば揶揄う口調で軽口を叩く。桂は土方の目をじっと見返してきて、小首を傾げた。
「そうなのか?」
ああ、くそう。こいつのこのしぐさにゃ弱い。土方は溜息をひとつ吐いて、脚をとめた。見返してきた目は妙に真摯で、土方の空言などお見通しだと云わんばかりで。
「じゃあよ、おめぇに惚れてるから、てぇのはどうだ」
腹を括ったようなやけっぱちのような気分も手伝って、土方は戯れ言のように本音を混ぜてみる。うごきにつられて歩みを止めた桂は、量るようにちいさく笑った。
「記憶喪失のかわいそうな迷子の病人にか」
云って、庭の園路から少し奥まった木陰に設えられた四阿を見つけて、桂はちょこんと腰をおろす。
「それをものともしねぇタフさに、さ」
そのあとを追った土方は、四阿の柱に背を凭せ掛けて懐から煙草をとりだした。しぐさで、喫っていいかと問い掛ける。桂は周囲を見回し、半円をふたつ組み合わせたような長椅子の内側、すなわち四阿の中央に、天然木の灰皿台の用意があるのを見て、頷いた。
一服喫って、煙を吐く。土方の指先から燻る紫煙が流れるさきを、桂が目で追った。なにがおもしろいのか、そよぐ風にくるくると舞うそれを倦かず眺めている。途切れた会話の継ぎ穂に土方が迷っていると、ふいに変わった風向きに煙を吸い込んだ桂が噎せた。
けほん。こほん。
「なにをする」
「風に云えよ」
理不尽な桂の抗議に土方は、こんどはとなりに座り込み、わざと至近で煙を吹きかけた。
けっほん、こっほん、ごほんごほん。
「やめんか」
煙が沁みて涙目になった桂が睨めた。ああ、こんなふうに揶揄っていじめてみたくなるときもあるんだな。
「なあ、かつら」
なおも喫おうとした土方の手から、桂は煙草をひったくるようにして奪い取る。その手首を、反対に土方がつよくつかんだ。驚いたように瞠られた漆黒の双眸を至近に捉えて、そこからあとは土方にはほとんど無意識の行動だった。
奪い取られた煙草が、桂の指先からぽとりと四阿の床土に落ちる。それを視界の端で捉えていた。きつく握った細い手首の先が空を掻いて、土方の着物の肩口をつかんだ。押し返そうと込められたちからを感じながら、土方はいま、おのれの口唇が感じているものを、さらに深く捉えようとする。細い後ろ頸をとって押さえたもう一方の手指にちからを籠めた。くぐもった声が洩れて、角度を変えるわずかな隙に、忙しなく息が継がれる。またいっそう深く捉えて、舌をからめた。
「ん。ん…ぅん」
舌の根から締め上げるように吸いあげて、ゆるめては口腔を舌先で擽る。おのれの舌の腹で、あいてのやわらかな舌を余すことなく舐め上げた。いったん引いて再び歯列をなぞり、つぎには喉の奥深くまで撫でるように舌をつかう。
「んむ…う。…ふ……う」
濡れた音のあいまあいまに、どちらのものともつかぬ吐息と漏れ出る喘ぎ。それだけに支配された聴覚が世界を隔て、四方を開け放たれた四阿の、夢幻の密室にふたりだけを閉じこめる。
つかんだ手首から抗うちからが抜けて、押さえつけるように抱きしめていた若木を思わせるしなやかな体躯が、ゆるやかに緊張を解いていく。そのあいだも倦かず桂の口腔と舌と口唇とを味わいつづける土方の、両の肩に桂の長い指が絡んだ。
「かつら」
貪るような口接けのあいまにその名を呟く。桂の腕が応えるように土方の背に回され、深く口を吸うごとに、灯された情欲の行き場を求めて彷徨った。
続 2009.04.25.
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一ヶ所に長逗留はかえって面倒だろうが、あちこち移動してりゃからだのことにも気づかれずにやり過ごせるんじゃねぇか。
その土方のことばに素直にうなずいた桂と、気ままな道行きとなっていた。
土方自身は三日も休みがあればどう過ごせばいいかわからなくなるほうだから、目先を変えたところで観光自体はすぐにも厭きるだろうと想像がついた。ただ桂とふたりで過ごせるならと、めいっぱいせしめた有休のうちに、桂のからだがどこまで回復するかも定かではない。ましていつ記憶がもどるのか、もどったとき自分はどうするのか、まるで考えちゃいない。考えたところでこたえなどでないことはわかりきっていたし、いま自分がずいぶんと刹那的な行動に出ている自覚はあった。
「土方。土方」
明け方、隣室から桂の呼ぶ声で目が覚めた。宿の部屋をわざわざ別けてとることに、なにも知らない桂は宿代がもったいないと首を傾げたが、土方にしてみればやむをえぬ措置である。二十四時間行動を共にしているのだ。このうえ相部屋に同宿などすれば、まだ年若い桂に対してであれ、おのれを押さえきる自信など皆目ない。
「また背が伸びた」
顔を合わせるなり朝の挨拶もそこそこにそう告げてくる。表情の薄い能面のそれでも微かに乗ったうれしげな笑みは、土方にこの道行きを後悔させないだけのよすがとなるに充分だった。じつはおのれのほうが年長であると知り、土方自身がそう望んだこともあって、桂のおのれを呼ぶ名からは敬称が消えている。桂のほうには「かつら」という名だけをあたえていた。それが名字なのかなまえなのか俗称なのかすら当人は知らぬままに、呼ばれている。
「そいつぁ、よかったな」
桂は日々成長するおのれのからだにも戸惑うより好奇に駆られるらしい。再成長だが記憶のないいまの桂にとっては初めてとおなじである。それは土方にとっては、この道行きの果てに一歩近づくことであったが、どのみち留め置くことのできぬ仮初めの夢とわかっている。それなら、この奇妙なかたちで実現した、桂の過去の姿を追体験するという希有な時間を、ひとときたりとも見逃したくはない。
しかもこうして、成長の階(きざはし)を刻むたび無邪気に桂は報告してくる。きっと本来のその過程でも、桂はこれを身近な人間にやってきたのだろう。その相手はきっと、銀時だったり高杉だったりしたのだ。ふだんが無愛想なぶん、この振る舞いの無邪気さはたまらないものがある。そしていまそれはなによりこの桂が、土方に馴染み気をゆるしている証でもあった。
あれから六日。いま桂は元服期を越えたあたりだろうか。旅先では若衆振袖の袖を詰めるのもままならないからそのままだが、背も土方の肩を越える辺りまでには伸び、しなやかな筋肉は少年のそれからわずかずつおとなびてゆく。とはいえ、おとなの桂自身が生来の細身だったわけだから、どこかしら線の細さは残したままだ。
本来のこの年頃には桂は戦場に立っていたはずだ。あの剣の冴えをもって、幾人もの天人を屠っていたころだ。そのかたわらには、銀時が、高杉が、たつまと桂が呼んだおとこが、立っていたのだろう。
やつらが共有した時間。おのれが共有し得なかった時間。
そこに馳せるおもいは複雑に渦を巻くが、いま眼前にある桂の、この造形を観ることの叶った僥倖を思った。
いまの年齢(とし)をかさねた桂も十二分に美しい。が。年の頃十六、七か。時分の花開く生命力の醸しだす風姿は、希代の絵師の筆をもってしても描きとどめることは叶わず、名にし負う文筆家であろうと筆舌に尽くしがたしと一文に認(したた)めるほかあるまい、と思わせる。初期の手配書の写真の桂はおそらくこの数年後なのだろうが、密かに蒐集家さえいると云われる桂の指名手配書は、それでもこの万分の一もその真実を写してはいなかった。
間近でつぶさに眺めれば目も眩む。これを高嶺の花と仰ぎ見るのでなしに、四六時中近しく目の当たりにして、戦時という極限状態を駆け抜けたなら、いまの銀時や高杉が見せる執着にもなんら不思議を感じない。それはある一線を越えた『美』のみがもちうる圧倒的な求心力だった。むろん彼らがその外見だけに囚われているわけもなかったが、これを抜きにしてはやはりいまの執着はなかったにちがいないのだ。
「土方?」
意識はそんな想念に向かっていたから、知らずあまりにじっと見つめすぎていたようで、桂が怪訝そうに首を傾げた。
「…ああ、いや。このぶんだとあと十日もありゃ、もどりそうだな」
「うむ」
土方の部屋のほうで揃っての遅めの朝食をすませて、さて、きょうはどうするかと周辺の地図を広げながら、桂は心持ちすまなさそうに云った。
「そこまで世話になってもよいのか? せっかくの『ゆうきゅうきゅうか』とやらなのだろう?」
「いいんだよ。俺がそうしてぇんだから」
土方のほうは、携帯を取りだして周辺情報を検索している。たいがいは桂の好奇心にまかせて行き先を決め、土方がそれを具体的に段取る、という分担がなんとはなしにできていた。
桂の好みは、おおよそ動物園か自然公園あたりで、古い寺社庭園の散策や旧大名家の古文庫を覗くことも多い。かわいらしすぎるか渋すぎるかの趣味だがやたらひとの多いだけの観光地でなかったことは、桂と過ごす時間をのみ望む土方にとっては幸いだった。
なにしろ、見てくれが見てくれである。道中すれ違うもので振り返らぬものがない。
「かつら。ちょっと先に寄りてぇ場所があるんだが」
この日訪ねることとなった旧い城下町の最寄り駅に降り立って、そう土方が切り出すと、
「なんだ。めずらしいな。むろんかまわんぞ。どこだ?」
桂はあっさり頷いた。これまで土方のほうからどこかに行きたがるということがほとんどなかっただけに、おもしろがっているようだ。
連れて入ったのは城下の旧道沿いにある呉服屋だった。
「旅のものなんで、反物から誂えてるよゆうがねぇ。仕立物でこいつに合うやつを見繕ってもらえねぇか」
「おい、土方」
呉服屋の老主人は、入るなりの土方のぞんざいなものいいに如才ない応対を返すにとどめたが、次いで店内に姿を見せた桂を一目見るなり、息を呑んだ。これは択び甲斐がございますな、と奥に声を掛け、すぐさま仕立て上がりの袷と袴をもってこさせる。
「いまの着物じゃ、いいかげん丈も裄も合わなくなって来たろう」
「それはそうだが」
「お武家さまでございますかな」
桐の箱からかわるがわる何枚もの着物を取り出し、選び抜いた数点を桂の身に当てながら、店の主人はそう語り掛けた。
「なぜ、そう思う?」
問うたのは桂本人ではなく土方だ。土方のほうはいつもの黒の着流しに刀を佩いているが、いまの桂は丸腰である。
「長年この商いをやっておりますと、居住まいやちょっとした立ち居振る舞いでわかるものなのでございます。こちらなどいかかでございましょう」
薄萌葱の色無地、ではなくよくよく見れば同系色で江戸小紋の万寿菊があしらわれている洒脱な小袖だった。合わせた袴は松葉色。
「つぎにはぜひ、反物から仕立てさせていただきたいものです」
目にやわらかな色彩は桂の凛とした瑞々しい美貌を引き立てた。
ひとそろいを着替えて、脱いだ着物は風呂敷包みにして、斜めに背に負う。その場で勘定をすませた土方と店主に礼を述べて、桂はぺこりとあたまを下げた。その拍子に跳ねた長い尾っぽ、あたまのうしろで高く結われた艶やかな黒髪が、薄萌葱によく映える。奉公人だけでなく老主人直々に店先まで見送られて、ふたりはまた街道筋に立ち戻った。
「よいのか、土方」
「うん?」
いまは観光用に有料開放されている、かつての城郭の天守閣を目指して、緩やかに傾斜する路を辿りながら、桂が傍らを行く土方を見た。
「貴殿にここまでしてもらう謂われがない」
「…迷惑か?」
「いや、そういうことではなくて。職分を越えている気がするのだが」
「そりゃもうとうに越えてるだろうよ。おめぇの回復の時間につきあうことにした時点でな」
それ以前に、この旅路を思い立った時点ですでに職務を放棄しているのだから。土方にはいまさらのことだったが、桂にしてみればたしかにそう思えるだろう。
城の大手門だった場所のてまえに設えられた小屋で入場料金を払い、登城券と三つ折りの簡素な案内図を受け取る。桂に手渡せば、いつもなら興味深げに一読するものを、ぱらりとめくっただけで薄萌葱の袂のうちに落とした。
隅櫓の石垣を横手に見ながら、城内へと進む。攘夷戦争以前の城郭がけっこうきちんと残っている平山城(ひらやまじろ)だから、径は狭く葛折りに入り組んで、目のまえにあるようでいて、本丸にはなかなか辿り着けない。
「云ったろう。俺がしてぇからしてるだけだ。おめぇが迷惑じゃねぇなら、いまは黙ってさせとけや」
径沿いの、いまは名勝として手入れされた回遊式庭園を巡る横道にいったん逸れた。
「なぜ、そうしたいと思うのかがわからん」
白と赤紫のちいさな花を満開にし枝垂れる萩。下草と木々の綾なす仲秋の気配に染まりはじめた庭を渡る桂は、納得のいきかねる態で呟く。
やれやれ、記憶を失くしていても桂は桂だ。こうしたときに曖昧さは美徳だと思うのだが、それができるたちではないらしい。
「おめぇは記憶喪失のかわいそうな迷子だ。おまけにわけのわからん現象に見舞われた、いわば病人だ。そいつに同情したから、てぇのでは理由にならねぇのか?」
半ば揶揄う口調で軽口を叩く。桂は土方の目をじっと見返してきて、小首を傾げた。
「そうなのか?」
ああ、くそう。こいつのこのしぐさにゃ弱い。土方は溜息をひとつ吐いて、脚をとめた。見返してきた目は妙に真摯で、土方の空言などお見通しだと云わんばかりで。
「じゃあよ、おめぇに惚れてるから、てぇのはどうだ」
腹を括ったようなやけっぱちのような気分も手伝って、土方は戯れ言のように本音を混ぜてみる。うごきにつられて歩みを止めた桂は、量るようにちいさく笑った。
「記憶喪失のかわいそうな迷子の病人にか」
云って、庭の園路から少し奥まった木陰に設えられた四阿を見つけて、桂はちょこんと腰をおろす。
「それをものともしねぇタフさに、さ」
そのあとを追った土方は、四阿の柱に背を凭せ掛けて懐から煙草をとりだした。しぐさで、喫っていいかと問い掛ける。桂は周囲を見回し、半円をふたつ組み合わせたような長椅子の内側、すなわち四阿の中央に、天然木の灰皿台の用意があるのを見て、頷いた。
一服喫って、煙を吐く。土方の指先から燻る紫煙が流れるさきを、桂が目で追った。なにがおもしろいのか、そよぐ風にくるくると舞うそれを倦かず眺めている。途切れた会話の継ぎ穂に土方が迷っていると、ふいに変わった風向きに煙を吸い込んだ桂が噎せた。
けほん。こほん。
「なにをする」
「風に云えよ」
理不尽な桂の抗議に土方は、こんどはとなりに座り込み、わざと至近で煙を吹きかけた。
けっほん、こっほん、ごほんごほん。
「やめんか」
煙が沁みて涙目になった桂が睨めた。ああ、こんなふうに揶揄っていじめてみたくなるときもあるんだな。
「なあ、かつら」
なおも喫おうとした土方の手から、桂は煙草をひったくるようにして奪い取る。その手首を、反対に土方がつよくつかんだ。驚いたように瞠られた漆黒の双眸を至近に捉えて、そこからあとは土方にはほとんど無意識の行動だった。
奪い取られた煙草が、桂の指先からぽとりと四阿の床土に落ちる。それを視界の端で捉えていた。きつく握った細い手首の先が空を掻いて、土方の着物の肩口をつかんだ。押し返そうと込められたちからを感じながら、土方はいま、おのれの口唇が感じているものを、さらに深く捉えようとする。細い後ろ頸をとって押さえたもう一方の手指にちからを籠めた。くぐもった声が洩れて、角度を変えるわずかな隙に、忙しなく息が継がれる。またいっそう深く捉えて、舌をからめた。
「ん。ん…ぅん」
舌の根から締め上げるように吸いあげて、ゆるめては口腔を舌先で擽る。おのれの舌の腹で、あいてのやわらかな舌を余すことなく舐め上げた。いったん引いて再び歯列をなぞり、つぎには喉の奥深くまで撫でるように舌をつかう。
「んむ…う。…ふ……う」
濡れた音のあいまあいまに、どちらのものともつかぬ吐息と漏れ出る喘ぎ。それだけに支配された聴覚が世界を隔て、四方を開け放たれた四阿の、夢幻の密室にふたりだけを閉じこめる。
つかんだ手首から抗うちからが抜けて、押さえつけるように抱きしめていた若木を思わせるしなやかな体躯が、ゆるやかに緊張を解いていく。そのあいだも倦かず桂の口腔と舌と口唇とを味わいつづける土方の、両の肩に桂の長い指が絡んだ。
「かつら」
貪るような口接けのあいまにその名を呟く。桂の腕が応えるように土方の背に回され、深く口を吸うごとに、灯された情欲の行き場を求めて彷徨った。
続 2009.04.25.
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