「天涯の遊子」銀桂篇+土桂篇
銀時と桂と土方と。
竜宮篇以降、モンハン篇よりまえ。
全14回。其の十三。銀時、桂、神楽、土方。
R18。
翌朝、遅く。土方は、傍らに眠っていた桂のぬくもりが消えて生まれた寒さに、目を覚ました。
「かつら?」
寝惚けまなこで寝台を手で探り、周章てて飛び起きて周囲を見回し、そこに姿がないのに気がつく。脱ぎ散らかされていた土方の着衣は円卓にたたまれてあって、桂の、誂えた袷袴も替えた着物をくるんだ風呂敷包みもきれいに消え失せていた。その本人ごと。
「桂…」
一瞬の混乱ののち、絶望と諦念と未練と喪失感とが一気に押し寄せてきた。なにが起こったのかを土方は理解した。
記憶が戻ったのだ。
理性はそれを受け入れたが、感情はそうはいかなかった。いつ戻ったんだ。土方と同宿し同衾するおのれに気づいたとき、桂は混乱しなかったのだろうか。立つ鳥跡を濁さずとばかりに、きれいにたたまれた土方の黒の着流しに、激しい違和感を覚えた。
そのとき、部屋の電話の呼び出し音が鳴った。表帳場からではない外線直通を示す着信灯に、土方は受話器に飛びついた。
「桂 !?」
「朝っぱらから大声を出すな。芋侍」
「桂、なんだな」
まちがえようもない口調。だがその声は微かに掠れていた。
「いつ…。いつだ。いつ記憶が戻った?」
「…貴様のぴゅあな告白は憶えているな」
しれっと云ってのけられた。
「な…」
電話口で見えない相手に赤面しながら、土方のあたまは忙しなく一夜(ひとよ)の流れを反芻する。ところどころ抜け落ちているものの。
「あ、ああ。桂、てめぇ…」
土方の掌に指を這わせていた桂。たしかめるようになぞり、瞠られた眸。ちがうものを見たように揺らいで、
「あのときか…っ。あのときには、もう」
次いで零れた涙。
そこで、土方のことばが途切れた。じゃあ、あのあと向けられたことばは、乗せた天上の笑みは、なんだ。あのあともまた、繋がり、悦び、果てたのは。
「なぜだ。桂」
「世話になったようだな。ともあれ、礼は云っておく」
「桂!」
「一夜の伽では代価にならんか」
「……伽?」
平坦な感情を乗せぬものいいで繰り出されたことば。
「ほかになにがある」
あるだろう。そんな掠れた声をして。
「伽、ねぇ。党首さま自らが真選組の芋侍ごときに、ありがてぇこったな」
莫迦にするな。そんなことばを鵜呑みにすると思っていやがるのか、桂。
「そう、拗ねるな」
「忘れねぇ」
「…」
最後の最後、打ち込んだ楔に刻み込ませることをゆるした、てめぇの落ち度だ。
「忘れさせねぇ。なぁ、桂」
たとえ過ごした日々のぜんぶを忘れていようと、最後にみせた姿こそが真実だ。
「俺ぁ、てめぇを手に入れる」
その余地が万分の一でもおめぇの裡にあるなら、諦めきれるわけがねぇ。
「土方」
受話器の向こうで桂が薄く笑った気配があった。
「つくづく、愚かなおとこだな」
「おめぇは、そういうおとこが好きだろう?」
万事屋しかり。高杉しかり。桂への執着を隠さないおとこたちだけが、桂とともに在ることをゆるされている。
桂はまたひとつ笑って、電話を切った。
きっとこのあとなにくわぬ顔をして、仲間うちや万事屋にも連絡を入れるのだろう。
土方は寝台に寝転がり直して伸びをした。ふわり、桂の残り香が傍らから立ちのぼる。ぽっかりと空いてしまった空間を掻き抱き、昨夜(ゆうべ)の桂に思い馳せては、繰り返し脳裡に焼き付ける。昨夜の今朝なのに、からだの芯が熱く疼いた。
まだ足りない。欲しくてたまらない。ふたたびあのからだを、こんどこそはいま本来の桂の身を、この腕に抱くことはあるだろうか。この身であの深奥を思うさま穿つ日は来るだろうか。
眸を閉じ、まなうらにその姿を思い浮かべながら、土方の口唇に苦笑が浮かんだ。
刻みつけたはずなのに。刻み込まれたのはおのれのほうか。
* * *
「ヅラ? ヅラ アルか!?」
「うむ。心配かけてすまなかったな、リーダー」
「あたまのぐあいはどうネ? からだはもとにもどったアルか? まだ声がちょっと違うヨ」
「からだのほうはもう少し掛かりそうだが、だいじょうぶだ」
「銀ちゃんは? 銀ちゃんとは会えたアルか」
「…銀時?」
「銀ちゃん、一週間くらいまえにヅラ捜しに出たヨ。毎日一回は連絡入れろヨと云ったのに、昨日は電話してこなかったネ。怠慢アル。ヅラと会えたなら、なんで知らせてこないアル」
「いや、リーダー。銀時とは、まだ会っていないのだ。…たぶん。いや、会ったような気もするな。…あれ?」
「ヅラぁ。おまえやっぱり、あたま変ネ。とっとと銀ちゃん連れて、帰ってくるヨロシ」
* * *
「なにをしているのだ、貴様は。こんなところで」
桂が銀時のまえに現れたのは、その日の、陽も沈むころだった。
「……ヅラ?」
「ヅラじゃない、桂だ」
立ち上がろうとして銀時は、膝にちからが入らないことに気づいた。
「あれ? 立てねーわ。なんで?」
「一晩中、いや、一日中か? 膝を抱えて蹲っていたのだろう、どうせ。貴様はむかしから、傷を負うとそうして閉じこもる」
「傷? 怪我なんかしてませんよ。銀さんは」
ぐうう。うごきかけたからか、腹の虫が鳴った。桂が、手にしたコンビニの袋を銀時の目のまえに突きつけた。
「昼餉の余りものだが食えるだろう」
「なんだよ、残飯かよ」
「贅沢を云うな。木の根を啜った戦時を思えば、拝みたくなるぞ」
袋を受け取って、ラップのままの握り飯やら飲みかけのお茶のペットボトルやらのなかに、紙パックのいちご牛乳とドーナツの小袋やら菓子パンやらが混ざっているのを見て、銀時は首を傾げた。
「おめー、こんなのあんま食わねーじゃん」
「貴様のぶんだ。ありがたく思え」
「なんでそう、えらそーなの。てめーは」
云いつつも、さっそくジャムパンにかじりつき、握り飯もドーナツもかたづけて、いちご牛乳を飲み干し、お茶で口を漱いで、ひとごこち着く。
と、そこにいたってようやく銀時は、桂とふつうに話していることの、奇妙さに気がついた。それがあたりまえだったから、きのうのことが抜け落ちていたのだ。いや、それを認めたくないばっかりに、忘れようとしていたからか。
「おめー…。記憶、戻ったの?」
「だから、さっきからそう云っておろう」
「さっき…って、いつよ」
桂が溜息を吐く。
「どちらが記憶喪失だ。まったく」
そういう桂の声は、ひどく掠れていた。
よくよく見れば、桂の顔にはうっすらと痣が残り、髪もほつれ、薄萌葱の袂から覗く腕にも胡座に組んだ裾からのぞく脚にも、ところどころ撲ったような痕とそれとは違う朱の痕がいくつも散っている。
真新しい、見慣れぬ、けれどどこか懐かしい色をした小袖にも、煤けたような擦過痕が見える。そういえば、松葉色の袴を穿いていたような。
ぼんやりと眺めながらそう思い至ったとき、遥かむかしの遠い記憶が鮮やかに甦ってきて、銀時は色を失った。
「え。ちょ…。俺。やった? やっちゃった?」
周章狼狽、というにふさわしいさまで目を泳がせて、銀時は桂の表情を窺い見る。桂はこんなとききまって見せたやわらかな笑みで、銀時の白くふわふわの髪を抱きよせた。
「ヅラ…」
「だいじょうぶだ」
「………悪ぃ」
「銀」
「………………ごめん」
「だいじょうぶ」
天守の展望窓から射し込む光は、夜明けの色をしていた。
ぎん。
組み敷いたおのれの下で、幽かに呟くように。
暴走するこころとからだを鎮められるのは、ずっとただひとりだ。
あれから、どのくらい経ったのだろう。仄暗い天守の木の床に蹲っていた銀時は、階下から近づいてくる足音に、ようやくあたまを擡げた。
あれ、ここどこだっけ。俺はなんで、こんなところにいるんだっけ。
とたんにずきんと胸が痛んだ。ああ、そうか。俺はひとりになったんだ。あのときみたいに。
階下の気配はおおきくなって、足音は天守への急階段を登ってくる。こんなところにまで来る物好きが、ほかにもいるのか。
高い位置でひとつに結われた黒髪があたまを覗かせる。銀時がいまいちばん恋しくて、けれどいちばん会いたくなかった顔が、銀時を見るなり小言を云った。
「なにをしているのだ、貴様は。こんなところで」
「……ヅラ?」
「ヅラじゃない、桂だ」
いつものことば。いつものせりふ。けれどこの手は、銀時をはねのけた。
「てめーなんざ、知らねー」
未だ幼さをのこす、せつなくも懐かしい、このうえなくきれいなおもてで、銀時を知らないと云った。
「…銀時?」
「知らねーよ。気安く、呼ぶな」
空ろに凝(こご)った声が、ずっとずっとむかしの幼い自分の声にかさなる。
「銀。どうしたのだ、銀」
つかつかと近寄って、蹲る銀時の両肩を揺すぶった。まっすぐに覗き込んできた黒曜石の双眸が、銀時の紅い眸を映す。
ああ、桂の眸だ。銀時の大好きな、つよくまっすぐな美しい眸の色だ。
「…ヅラ?」
「だから、ヅラじゃない。桂…」
だんっと音を立てて、桂の身が床に転がった。
桂。桂。桂。桂。
銀時は譫言のように叫び、その勢いのまま桂のからだにのしかかった。
「ぎんっ」
噛みつくような接吻をして、荒々しく着物のまえを開き、白くなめらかな胸にむしゃぶりつく。
「銀時」
桂は抵抗しなかったが、困惑したように銀時の名を呼んだ。
蒼い薄闇のなか、間近に触れた首筋に胸もとに、散らされた朱痕が銀時の目を射る。合わせを暴き、袴をまくり上げて、露わになった情交の痕跡が胸を灼いた。
「なに、これ」
「銀」
無抵抗の桂の袴と帯を剥ぎ取って、肩掛けの内着ひとつになった白い裸身が床にうちひろがった薄萌葱のなかで、艶めかしく蠢いた。いまが昼なら、その全身に朱痕が残るのをはっきり捉えられただろう。目も眩むような悋気が銀時の惑乱に拍車をかけ、忘却の恐怖に凍てついたこころが、過ぎ去った亡失の刻の絶望を連れてくる。
「おめーも俺をおいてくの。せんせいみたいに、消えちゃうの」
それをゆるすまいと、銀時は桂に覆い被さった。
続 2009.05.07.
PR
翌朝、遅く。土方は、傍らに眠っていた桂のぬくもりが消えて生まれた寒さに、目を覚ました。
「かつら?」
寝惚けまなこで寝台を手で探り、周章てて飛び起きて周囲を見回し、そこに姿がないのに気がつく。脱ぎ散らかされていた土方の着衣は円卓にたたまれてあって、桂の、誂えた袷袴も替えた着物をくるんだ風呂敷包みもきれいに消え失せていた。その本人ごと。
「桂…」
一瞬の混乱ののち、絶望と諦念と未練と喪失感とが一気に押し寄せてきた。なにが起こったのかを土方は理解した。
記憶が戻ったのだ。
理性はそれを受け入れたが、感情はそうはいかなかった。いつ戻ったんだ。土方と同宿し同衾するおのれに気づいたとき、桂は混乱しなかったのだろうか。立つ鳥跡を濁さずとばかりに、きれいにたたまれた土方の黒の着流しに、激しい違和感を覚えた。
そのとき、部屋の電話の呼び出し音が鳴った。表帳場からではない外線直通を示す着信灯に、土方は受話器に飛びついた。
「桂 !?」
「朝っぱらから大声を出すな。芋侍」
「桂、なんだな」
まちがえようもない口調。だがその声は微かに掠れていた。
「いつ…。いつだ。いつ記憶が戻った?」
「…貴様のぴゅあな告白は憶えているな」
しれっと云ってのけられた。
「な…」
電話口で見えない相手に赤面しながら、土方のあたまは忙しなく一夜(ひとよ)の流れを反芻する。ところどころ抜け落ちているものの。
「あ、ああ。桂、てめぇ…」
土方の掌に指を這わせていた桂。たしかめるようになぞり、瞠られた眸。ちがうものを見たように揺らいで、
「あのときか…っ。あのときには、もう」
次いで零れた涙。
そこで、土方のことばが途切れた。じゃあ、あのあと向けられたことばは、乗せた天上の笑みは、なんだ。あのあともまた、繋がり、悦び、果てたのは。
「なぜだ。桂」
「世話になったようだな。ともあれ、礼は云っておく」
「桂!」
「一夜の伽では代価にならんか」
「……伽?」
平坦な感情を乗せぬものいいで繰り出されたことば。
「ほかになにがある」
あるだろう。そんな掠れた声をして。
「伽、ねぇ。党首さま自らが真選組の芋侍ごときに、ありがてぇこったな」
莫迦にするな。そんなことばを鵜呑みにすると思っていやがるのか、桂。
「そう、拗ねるな」
「忘れねぇ」
「…」
最後の最後、打ち込んだ楔に刻み込ませることをゆるした、てめぇの落ち度だ。
「忘れさせねぇ。なぁ、桂」
たとえ過ごした日々のぜんぶを忘れていようと、最後にみせた姿こそが真実だ。
「俺ぁ、てめぇを手に入れる」
その余地が万分の一でもおめぇの裡にあるなら、諦めきれるわけがねぇ。
「土方」
受話器の向こうで桂が薄く笑った気配があった。
「つくづく、愚かなおとこだな」
「おめぇは、そういうおとこが好きだろう?」
万事屋しかり。高杉しかり。桂への執着を隠さないおとこたちだけが、桂とともに在ることをゆるされている。
桂はまたひとつ笑って、電話を切った。
きっとこのあとなにくわぬ顔をして、仲間うちや万事屋にも連絡を入れるのだろう。
土方は寝台に寝転がり直して伸びをした。ふわり、桂の残り香が傍らから立ちのぼる。ぽっかりと空いてしまった空間を掻き抱き、昨夜(ゆうべ)の桂に思い馳せては、繰り返し脳裡に焼き付ける。昨夜の今朝なのに、からだの芯が熱く疼いた。
まだ足りない。欲しくてたまらない。ふたたびあのからだを、こんどこそはいま本来の桂の身を、この腕に抱くことはあるだろうか。この身であの深奥を思うさま穿つ日は来るだろうか。
眸を閉じ、まなうらにその姿を思い浮かべながら、土方の口唇に苦笑が浮かんだ。
刻みつけたはずなのに。刻み込まれたのはおのれのほうか。
* * *
「ヅラ? ヅラ アルか!?」
「うむ。心配かけてすまなかったな、リーダー」
「あたまのぐあいはどうネ? からだはもとにもどったアルか? まだ声がちょっと違うヨ」
「からだのほうはもう少し掛かりそうだが、だいじょうぶだ」
「銀ちゃんは? 銀ちゃんとは会えたアルか」
「…銀時?」
「銀ちゃん、一週間くらいまえにヅラ捜しに出たヨ。毎日一回は連絡入れろヨと云ったのに、昨日は電話してこなかったネ。怠慢アル。ヅラと会えたなら、なんで知らせてこないアル」
「いや、リーダー。銀時とは、まだ会っていないのだ。…たぶん。いや、会ったような気もするな。…あれ?」
「ヅラぁ。おまえやっぱり、あたま変ネ。とっとと銀ちゃん連れて、帰ってくるヨロシ」
* * *
「なにをしているのだ、貴様は。こんなところで」
桂が銀時のまえに現れたのは、その日の、陽も沈むころだった。
「……ヅラ?」
「ヅラじゃない、桂だ」
立ち上がろうとして銀時は、膝にちからが入らないことに気づいた。
「あれ? 立てねーわ。なんで?」
「一晩中、いや、一日中か? 膝を抱えて蹲っていたのだろう、どうせ。貴様はむかしから、傷を負うとそうして閉じこもる」
「傷? 怪我なんかしてませんよ。銀さんは」
ぐうう。うごきかけたからか、腹の虫が鳴った。桂が、手にしたコンビニの袋を銀時の目のまえに突きつけた。
「昼餉の余りものだが食えるだろう」
「なんだよ、残飯かよ」
「贅沢を云うな。木の根を啜った戦時を思えば、拝みたくなるぞ」
袋を受け取って、ラップのままの握り飯やら飲みかけのお茶のペットボトルやらのなかに、紙パックのいちご牛乳とドーナツの小袋やら菓子パンやらが混ざっているのを見て、銀時は首を傾げた。
「おめー、こんなのあんま食わねーじゃん」
「貴様のぶんだ。ありがたく思え」
「なんでそう、えらそーなの。てめーは」
云いつつも、さっそくジャムパンにかじりつき、握り飯もドーナツもかたづけて、いちご牛乳を飲み干し、お茶で口を漱いで、ひとごこち着く。
と、そこにいたってようやく銀時は、桂とふつうに話していることの、奇妙さに気がついた。それがあたりまえだったから、きのうのことが抜け落ちていたのだ。いや、それを認めたくないばっかりに、忘れようとしていたからか。
「おめー…。記憶、戻ったの?」
「だから、さっきからそう云っておろう」
「さっき…って、いつよ」
桂が溜息を吐く。
「どちらが記憶喪失だ。まったく」
そういう桂の声は、ひどく掠れていた。
よくよく見れば、桂の顔にはうっすらと痣が残り、髪もほつれ、薄萌葱の袂から覗く腕にも胡座に組んだ裾からのぞく脚にも、ところどころ撲ったような痕とそれとは違う朱の痕がいくつも散っている。
真新しい、見慣れぬ、けれどどこか懐かしい色をした小袖にも、煤けたような擦過痕が見える。そういえば、松葉色の袴を穿いていたような。
ぼんやりと眺めながらそう思い至ったとき、遥かむかしの遠い記憶が鮮やかに甦ってきて、銀時は色を失った。
「え。ちょ…。俺。やった? やっちゃった?」
周章狼狽、というにふさわしいさまで目を泳がせて、銀時は桂の表情を窺い見る。桂はこんなとききまって見せたやわらかな笑みで、銀時の白くふわふわの髪を抱きよせた。
「ヅラ…」
「だいじょうぶだ」
「………悪ぃ」
「銀」
「………………ごめん」
「だいじょうぶ」
天守の展望窓から射し込む光は、夜明けの色をしていた。
ぎん。
組み敷いたおのれの下で、幽かに呟くように。
暴走するこころとからだを鎮められるのは、ずっとただひとりだ。
あれから、どのくらい経ったのだろう。仄暗い天守の木の床に蹲っていた銀時は、階下から近づいてくる足音に、ようやくあたまを擡げた。
あれ、ここどこだっけ。俺はなんで、こんなところにいるんだっけ。
とたんにずきんと胸が痛んだ。ああ、そうか。俺はひとりになったんだ。あのときみたいに。
階下の気配はおおきくなって、足音は天守への急階段を登ってくる。こんなところにまで来る物好きが、ほかにもいるのか。
高い位置でひとつに結われた黒髪があたまを覗かせる。銀時がいまいちばん恋しくて、けれどいちばん会いたくなかった顔が、銀時を見るなり小言を云った。
「なにをしているのだ、貴様は。こんなところで」
「……ヅラ?」
「ヅラじゃない、桂だ」
いつものことば。いつものせりふ。けれどこの手は、銀時をはねのけた。
「てめーなんざ、知らねー」
未だ幼さをのこす、せつなくも懐かしい、このうえなくきれいなおもてで、銀時を知らないと云った。
「…銀時?」
「知らねーよ。気安く、呼ぶな」
空ろに凝(こご)った声が、ずっとずっとむかしの幼い自分の声にかさなる。
「銀。どうしたのだ、銀」
つかつかと近寄って、蹲る銀時の両肩を揺すぶった。まっすぐに覗き込んできた黒曜石の双眸が、銀時の紅い眸を映す。
ああ、桂の眸だ。銀時の大好きな、つよくまっすぐな美しい眸の色だ。
「…ヅラ?」
「だから、ヅラじゃない。桂…」
だんっと音を立てて、桂の身が床に転がった。
桂。桂。桂。桂。
銀時は譫言のように叫び、その勢いのまま桂のからだにのしかかった。
「ぎんっ」
噛みつくような接吻をして、荒々しく着物のまえを開き、白くなめらかな胸にむしゃぶりつく。
「銀時」
桂は抵抗しなかったが、困惑したように銀時の名を呼んだ。
蒼い薄闇のなか、間近に触れた首筋に胸もとに、散らされた朱痕が銀時の目を射る。合わせを暴き、袴をまくり上げて、露わになった情交の痕跡が胸を灼いた。
「なに、これ」
「銀」
無抵抗の桂の袴と帯を剥ぎ取って、肩掛けの内着ひとつになった白い裸身が床にうちひろがった薄萌葱のなかで、艶めかしく蠢いた。いまが昼なら、その全身に朱痕が残るのをはっきり捉えられただろう。目も眩むような悋気が銀時の惑乱に拍車をかけ、忘却の恐怖に凍てついたこころが、過ぎ去った亡失の刻の絶望を連れてくる。
「おめーも俺をおいてくの。せんせいみたいに、消えちゃうの」
それをゆるすまいと、銀時は桂に覆い被さった。
続 2009.05.07.
PR