「天涯の遊子」高桂篇。終話。
高杉と桂。もしくはヅラ子。
万斉、顔見せ。
紅桜以降、動乱篇まえ。
桂は薄く笑った。戦時に、ことにその末期に、よく見かけた表情だった。
「ひとを利用し切り捨てることなど、おれも腐るほどしてきた。貴様を咎め立てるような資格は、おれにはないのだ。ほんとうは」
「なに…云って、やがる」
つねの能面の眸の奥に虚ろな影が差す。その漆黒の虚無に魅入られ、高杉は目を離すことができない。
「おれはもっと冷酷に、ひとをひととも思わず使い切り捨ててきた。その罪過が今生で贖えるとは思わん」
莫迦を云え。そのたび、ひとり苦しんでいるのを、俺は見てきた。
「おまえにはそうあってほしくない。これはおれのわがままだ」
そうだ、わがままだ。こころの裡で高杉は叫んだ。
桂とともに在りたかった。桂と共有するのなら、それが、悲嘆でも復讐でも罪業でも、かまわない。桂の墜ちる場所にともに墜ちよう。いま叶うなら、おのれの堕ちる場所へ、ともに堕ちてほしいとさえ思う。
高杉だけきれいな場所に置いておきたかったというのなら、それは桂の自己満足だ。高杉が、高杉の信じた変わらぬ桂でいてほしいと願ったのと同様の、滑稽な独り善がりの茶番だ。
でも、ならなぜ。桂が高杉をその意味でいまもなお愛おしんでいるのなら。なぜ、あのとき。
「おめぇ、あんとき云ったじゃねぇか。俺を嫌いだって」
湧き上がった疑念と断ち切れぬおもいが、衝動的にことばとなって高杉の口を吐いて出た。われながら女々しいとは思いつつ、問わずにいられなかった。だが桂には相も変わらぬ能面で、さらりと返される。
「ああ、云ったな。だが貴様とて、俺を春雨に売ったろう」
高杉の後ろめたさを知ってか知らずか、淡々として真正面から斬り込んで。
「本意だったか?」
桂は見透かすように見つめてくる。
「よしんば本気だったとして、おれがあっさり殺られるなどとは思ってもおるまい?」
莞爾と笑んだ。
「そういうことだ。晋助」
なんと云い返そう。いや、そもそもどう云い返せるというのか。あれをただの、子どもの意地の張り合いのように云ってしまえる相手に。
「悪ぶりおって。貴様には似合わん」
そうして面と向かって、ひとの意気地を挫きやがる。
「てめぇこそ、諦めがわるい。まだ俺にそんな夢見てやがったか」
眼前の細い顎を片手に捉えて、高杉は桂を見据えた。このおとこはまだ、高杉を思い遣る。情を残している。
「夢など見てはおらん。貴様の本質を云っている。この国を壊すのはいい。だが貴様のやりようには腹が立つし、また世の民におなじまねをするとあらば、おれはおまえを斬るが」
それが憐憫なら、高杉はゆるせなかったろう。桂を。おのれ自身を。けれど。
「この世の恨みを果てのない憎しみに変えたところで、憎しみに傷つくのはおまえ自身だ。それを本望というのなら、もはや奪いはせぬ。おれが断ち切ってやる」
高杉はゆっくりと目を閉じた。
桂だ。やはり、桂だった。
たがいの目差す方向が逸れたいまでも、桂には高杉の往く途が見えている。この憎しみなしには高杉がもはや立てぬこと。それが空ろな形骸となろうと、これを奪われてはもはやこの身が立ち行かぬことを、桂は感受したのだ。
高杉にも見える。そんな破滅を桂は望んでいない。いないが、それが必要であるなら桂は迷わずそうするだろう。そう信じさせてくれる唯一無二の存在。それが桂を桂たらしめる。高杉にとって、松陽亡きあと、桂がほかのすべてに勝ることの証、その所以でもあった。
叶うなら、桂と在りたかった。桂が終わらせてくれるなら、それもいい。
「ヅラぁ。おめぇは、甘い。なんで俺を見限らねぇ」
閉ざしていた瞼を開く。高杉は顎を捉えていた桂の口唇に指を這わせた。すっと横になぞると、指先に紅が移る。あの夢の血のようだ。
「死ぬまで無理だ」
されるままに高杉を見返しながら、桂は云いきる。
「どっちが?」
「おれが」
そうか。なら俺が死んでも。桂が死ぬまで、桂のなかに残るんだ。
「しつけぇなぁ」
無意識に高杉は口許に笑みをのぼらせていた。
「貴様もな」
「俺?」
「おれを忘れられんだろう?」
そう宣告する桂の、尊大で、冷酷で、美しく、艶やかな、微笑。
「ああ。…死ぬまでな」
否。きっと死んでも忘れねぇ。だがもしさきに桂が死んだら、俺は? 俺はもう、どこにもなににも残らない。残らなくていい。そのときこそまさしく、高杉の憎しみは形骸化し、すべての意味を失くすだろう。
高杉は陶然としてその微笑みを見つめた。
「小太郎」
「うん?」
「知ってたか?…俺が」
どれほどおまえに惹かれていたか。いまも惹かれているか。焦がれているか。
「晋助?」
「…なんでもねぇ」
ようやく桂の顔を解放して、高杉はソファに深く凭れ込んだ。
「そういや、髪…長さもどったなぁ」
よかった。
変わらない小太郎が好きだった。だから変わってゆく小太郎を見たくなかった。だがこいつはやっぱりこいつのままで。変わったけれど変わってなくて。いま俺の希むこたえのひとつをくれて。でもそれは、至上ではない最上。
「食わせてくれよ。さっきみたいに」
強請(ねだ)る高杉に、桂はテーブルのつまみの小分けを手に取る。
「図々しいやつめ」
「特別サービスなんだろ?」
口許に差し出されたそれを一口で食む。そのまま桂の手首をつかんで、桂の指ごと、舐め取った。
上目遣いにようすを窺う。桂は振り払うでもなく、高杉の単眼を見た。その眸には、嫌悪も忌避も拒絶も浮かんでいない。かといって羞恥も情欲もなく、ただ妖艶な色を湛えて、おのが帷のうちへと引き摺り込むかのようだった。
きっと知っているのだ。わかっていながらこいつは俺を手の内で遊ばせる。
おまえに惹かれて愛して嫌って憎んで。俺はやっぱりこのさきも、このおもいに引き裂かれてゆくのだろう。けして至上のこたえを返さない、このおとこに。
ならば、そう。生死の淵のその汀まで、それを引き摺ってあがくのもわるくない。おのれと桂との時間は、まだ終わってなどいなかったのだから。
奪わせない。桂は、少なくともその一部は永遠に高杉とともにあるはずだ。
高杉はおもうさま、桂の長い手指を口腔に含んで口唇と舌先で愛おしみ、離す名残にその指先に接吻を落とした。
高慢な微笑を浮かべ、桂はその指で高杉の顎をなぞる。
「おさわり厳禁だぞ。わすれたか」
「俺たちの仲で、そいつはいまさらじゃねぇか」
睨み合うような、睦み合うような。そんな曖昧さが心地よい白昼夢のごとき空間に、ふいに現実が這入り込んだ。
なにやら表戸のあたりがざわめいている。
あずみが万斉を連れ立って、預かりものを手にそそくさと桂のもとへ来た。
「まずいわ、ヅラ子。真選組のお常連(なじみ)さんがいらしたみたい」
すっと立ち上がった桂は、高杉を即座に裏口へ促した。万斉が続く。あずみは入口のほうへと戻って、巧みに引き留める西郷ママと時間を稼ぐつもりのようだ。
「ここでの捕り物は御法度だがな。面倒ごとになるのは避けたが無難だ」
桂は、路地へ通じる裏口へと高杉と万斉を押しやって、預かった腰のものをその手に押し付けた。受け取りながら、高杉が懸念する。
「おい、てめぇは?」
「おれの心配なら無用。ここにいるのはヅラ子だ」
「ヅラ子殿、これを」
万斉が桂につんぽ名義の名刺を差し出した。
「万斉、てめぇなにしてやがる?」
「なにって、チケット手配の約束をしたでござろう」
「おお、ちゃんと覚えていてくれたか」
「ここの請求書もそこへ回してくれればよいでござるよ」
「うむ。しかと、西郷殿に伝えよう」
受け取る桂の手を逆に捕り、その甲に万斉がうやうやしく口接ける。高杉がたまらずなにか怒鳴ろうとしたところへ、桂が小声で叱咤した。
「はやく、行け」
まず万斉が裏口から路地の向こうを確かめ、するりと外へ出る。次いで高杉が出掛かって振り返り見た。もう、会えるかどうかわからない。
「桂」
「からだをいとえよ」
ホールのほうから零れる薄明かりのなかで、そう云ってまっすぐに高杉を見た桂に、その一瞬すべてが飛んだ。
我知らずその身を引き寄せ、高杉は桂を深く抱きしめていた。
桂の腕が高杉の背に回されて、ほんのわずか、だがたしかに、抱き返すかのちからを込める。桂はすぐさま抱擁を解いて、高杉を送り出し裏戸を閉じた。
* * *
路地裏から店の表へと廻り、物陰からしばし気配を窺う。
ああは云っても、客が真選組であるなら、やはり桂のことが気にかかった。店の表口の入り端で、西郷ママが客の足止めに成功している。隊士のようだが隊服姿ではない。あずみの声が聞こえてきた。
「ごめんなさいね。いまあの子、指名が入ってて。もう替わりますから。こちらの席へどうぞ」
やはりようすを見ていた万斉が、背後から感心したように呟いた。
「やはりなぁ。ヅラ子殿は売れっ子でござろう。これは拙者も足繁く通って、がんばらねば」
高杉は思わず背後に目を剥く。
「なにをがんばるってぇんだ、てめぇは」
「決まっているでござる。ヅラ子殿を口説くのでござるよ」
「はあ?」
呆れる高杉を意に介すでもなく、万斉は宣った。
「あんな美人を放っておいては、男が廃るでござる」
「いや、廃らねぇよ。美人でも男だぞ」
「よく云うでござる。桂が現れぬのをいいことに、晋助もさきほどまで、ちゃっかりしっぽり、やっていたではござらぬか」
こいつ、みてやがったのか。
「いや、あれは……だから」
てか、マジでか。
たしかに万斉はあのときも船艇(ふね)の甲板から遠目にしただけだったし、桂を間近に見たことなどないだろうし、たしかにみごとな女装だし。
本気で気づいていないのか、気づかないふりで桂にちかづく気か。いずれにせよ口説く気は満々らしい。
「てめぇにあれがあつかえりゃ、たいしたもんだぜ。万斉」
高杉にしてみればむろんおもしろくないのだが、ひとを小馬鹿にしたように振る舞うこの男が、あの桂にどうあしらわれるか、見てみたい気もする。
「あ、ヅラ子、こっちよ。土方さんお待ちかね」
その声につられて、高杉は思わず表口のなかを覗き込むように見た。
隊服ではなく黒い着流しのおとこが、出迎えた桂に相好を崩すのが見えた。桂に手を取られて席へ着く。あの莫迦ヅラ。真選組相手に、なにしてやがる。気軽に触らせてんじゃねぇよ。気にくわねぇ。
「万斉」
「なんでござる」
物陰から店の奥に射抜くような視線をあてたまま、高杉は口の端で笑む。
「件の、あれ。妙案が浮かんだぜ」
「?…ああ、春雨から頼まれていた案件でござるか」
「利用させてもらおうじゃねぇか」
くい、と顎で指し示した。
「真選組を?」
万斉は少しだけ考えて、同意する。
「承知。ライバルも減らせるでござるしな」
高杉の眸が剣呑な光を宿した。
了 2008.03.30.
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桂は薄く笑った。戦時に、ことにその末期に、よく見かけた表情だった。
「ひとを利用し切り捨てることなど、おれも腐るほどしてきた。貴様を咎め立てるような資格は、おれにはないのだ。ほんとうは」
「なに…云って、やがる」
つねの能面の眸の奥に虚ろな影が差す。その漆黒の虚無に魅入られ、高杉は目を離すことができない。
「おれはもっと冷酷に、ひとをひととも思わず使い切り捨ててきた。その罪過が今生で贖えるとは思わん」
莫迦を云え。そのたび、ひとり苦しんでいるのを、俺は見てきた。
「おまえにはそうあってほしくない。これはおれのわがままだ」
そうだ、わがままだ。こころの裡で高杉は叫んだ。
桂とともに在りたかった。桂と共有するのなら、それが、悲嘆でも復讐でも罪業でも、かまわない。桂の墜ちる場所にともに墜ちよう。いま叶うなら、おのれの堕ちる場所へ、ともに堕ちてほしいとさえ思う。
高杉だけきれいな場所に置いておきたかったというのなら、それは桂の自己満足だ。高杉が、高杉の信じた変わらぬ桂でいてほしいと願ったのと同様の、滑稽な独り善がりの茶番だ。
でも、ならなぜ。桂が高杉をその意味でいまもなお愛おしんでいるのなら。なぜ、あのとき。
「おめぇ、あんとき云ったじゃねぇか。俺を嫌いだって」
湧き上がった疑念と断ち切れぬおもいが、衝動的にことばとなって高杉の口を吐いて出た。われながら女々しいとは思いつつ、問わずにいられなかった。だが桂には相も変わらぬ能面で、さらりと返される。
「ああ、云ったな。だが貴様とて、俺を春雨に売ったろう」
高杉の後ろめたさを知ってか知らずか、淡々として真正面から斬り込んで。
「本意だったか?」
桂は見透かすように見つめてくる。
「よしんば本気だったとして、おれがあっさり殺られるなどとは思ってもおるまい?」
莞爾と笑んだ。
「そういうことだ。晋助」
なんと云い返そう。いや、そもそもどう云い返せるというのか。あれをただの、子どもの意地の張り合いのように云ってしまえる相手に。
「悪ぶりおって。貴様には似合わん」
そうして面と向かって、ひとの意気地を挫きやがる。
「てめぇこそ、諦めがわるい。まだ俺にそんな夢見てやがったか」
眼前の細い顎を片手に捉えて、高杉は桂を見据えた。このおとこはまだ、高杉を思い遣る。情を残している。
「夢など見てはおらん。貴様の本質を云っている。この国を壊すのはいい。だが貴様のやりようには腹が立つし、また世の民におなじまねをするとあらば、おれはおまえを斬るが」
それが憐憫なら、高杉はゆるせなかったろう。桂を。おのれ自身を。けれど。
「この世の恨みを果てのない憎しみに変えたところで、憎しみに傷つくのはおまえ自身だ。それを本望というのなら、もはや奪いはせぬ。おれが断ち切ってやる」
高杉はゆっくりと目を閉じた。
桂だ。やはり、桂だった。
たがいの目差す方向が逸れたいまでも、桂には高杉の往く途が見えている。この憎しみなしには高杉がもはや立てぬこと。それが空ろな形骸となろうと、これを奪われてはもはやこの身が立ち行かぬことを、桂は感受したのだ。
高杉にも見える。そんな破滅を桂は望んでいない。いないが、それが必要であるなら桂は迷わずそうするだろう。そう信じさせてくれる唯一無二の存在。それが桂を桂たらしめる。高杉にとって、松陽亡きあと、桂がほかのすべてに勝ることの証、その所以でもあった。
叶うなら、桂と在りたかった。桂が終わらせてくれるなら、それもいい。
「ヅラぁ。おめぇは、甘い。なんで俺を見限らねぇ」
閉ざしていた瞼を開く。高杉は顎を捉えていた桂の口唇に指を這わせた。すっと横になぞると、指先に紅が移る。あの夢の血のようだ。
「死ぬまで無理だ」
されるままに高杉を見返しながら、桂は云いきる。
「どっちが?」
「おれが」
そうか。なら俺が死んでも。桂が死ぬまで、桂のなかに残るんだ。
「しつけぇなぁ」
無意識に高杉は口許に笑みをのぼらせていた。
「貴様もな」
「俺?」
「おれを忘れられんだろう?」
そう宣告する桂の、尊大で、冷酷で、美しく、艶やかな、微笑。
「ああ。…死ぬまでな」
否。きっと死んでも忘れねぇ。だがもしさきに桂が死んだら、俺は? 俺はもう、どこにもなににも残らない。残らなくていい。そのときこそまさしく、高杉の憎しみは形骸化し、すべての意味を失くすだろう。
高杉は陶然としてその微笑みを見つめた。
「小太郎」
「うん?」
「知ってたか?…俺が」
どれほどおまえに惹かれていたか。いまも惹かれているか。焦がれているか。
「晋助?」
「…なんでもねぇ」
ようやく桂の顔を解放して、高杉はソファに深く凭れ込んだ。
「そういや、髪…長さもどったなぁ」
よかった。
変わらない小太郎が好きだった。だから変わってゆく小太郎を見たくなかった。だがこいつはやっぱりこいつのままで。変わったけれど変わってなくて。いま俺の希むこたえのひとつをくれて。でもそれは、至上ではない最上。
「食わせてくれよ。さっきみたいに」
強請(ねだ)る高杉に、桂はテーブルのつまみの小分けを手に取る。
「図々しいやつめ」
「特別サービスなんだろ?」
口許に差し出されたそれを一口で食む。そのまま桂の手首をつかんで、桂の指ごと、舐め取った。
上目遣いにようすを窺う。桂は振り払うでもなく、高杉の単眼を見た。その眸には、嫌悪も忌避も拒絶も浮かんでいない。かといって羞恥も情欲もなく、ただ妖艶な色を湛えて、おのが帷のうちへと引き摺り込むかのようだった。
きっと知っているのだ。わかっていながらこいつは俺を手の内で遊ばせる。
おまえに惹かれて愛して嫌って憎んで。俺はやっぱりこのさきも、このおもいに引き裂かれてゆくのだろう。けして至上のこたえを返さない、このおとこに。
ならば、そう。生死の淵のその汀まで、それを引き摺ってあがくのもわるくない。おのれと桂との時間は、まだ終わってなどいなかったのだから。
奪わせない。桂は、少なくともその一部は永遠に高杉とともにあるはずだ。
高杉はおもうさま、桂の長い手指を口腔に含んで口唇と舌先で愛おしみ、離す名残にその指先に接吻を落とした。
高慢な微笑を浮かべ、桂はその指で高杉の顎をなぞる。
「おさわり厳禁だぞ。わすれたか」
「俺たちの仲で、そいつはいまさらじゃねぇか」
睨み合うような、睦み合うような。そんな曖昧さが心地よい白昼夢のごとき空間に、ふいに現実が這入り込んだ。
なにやら表戸のあたりがざわめいている。
あずみが万斉を連れ立って、預かりものを手にそそくさと桂のもとへ来た。
「まずいわ、ヅラ子。真選組のお常連(なじみ)さんがいらしたみたい」
すっと立ち上がった桂は、高杉を即座に裏口へ促した。万斉が続く。あずみは入口のほうへと戻って、巧みに引き留める西郷ママと時間を稼ぐつもりのようだ。
「ここでの捕り物は御法度だがな。面倒ごとになるのは避けたが無難だ」
桂は、路地へ通じる裏口へと高杉と万斉を押しやって、預かった腰のものをその手に押し付けた。受け取りながら、高杉が懸念する。
「おい、てめぇは?」
「おれの心配なら無用。ここにいるのはヅラ子だ」
「ヅラ子殿、これを」
万斉が桂につんぽ名義の名刺を差し出した。
「万斉、てめぇなにしてやがる?」
「なにって、チケット手配の約束をしたでござろう」
「おお、ちゃんと覚えていてくれたか」
「ここの請求書もそこへ回してくれればよいでござるよ」
「うむ。しかと、西郷殿に伝えよう」
受け取る桂の手を逆に捕り、その甲に万斉がうやうやしく口接ける。高杉がたまらずなにか怒鳴ろうとしたところへ、桂が小声で叱咤した。
「はやく、行け」
まず万斉が裏口から路地の向こうを確かめ、するりと外へ出る。次いで高杉が出掛かって振り返り見た。もう、会えるかどうかわからない。
「桂」
「からだをいとえよ」
ホールのほうから零れる薄明かりのなかで、そう云ってまっすぐに高杉を見た桂に、その一瞬すべてが飛んだ。
我知らずその身を引き寄せ、高杉は桂を深く抱きしめていた。
桂の腕が高杉の背に回されて、ほんのわずか、だがたしかに、抱き返すかのちからを込める。桂はすぐさま抱擁を解いて、高杉を送り出し裏戸を閉じた。
* * *
路地裏から店の表へと廻り、物陰からしばし気配を窺う。
ああは云っても、客が真選組であるなら、やはり桂のことが気にかかった。店の表口の入り端で、西郷ママが客の足止めに成功している。隊士のようだが隊服姿ではない。あずみの声が聞こえてきた。
「ごめんなさいね。いまあの子、指名が入ってて。もう替わりますから。こちらの席へどうぞ」
やはりようすを見ていた万斉が、背後から感心したように呟いた。
「やはりなぁ。ヅラ子殿は売れっ子でござろう。これは拙者も足繁く通って、がんばらねば」
高杉は思わず背後に目を剥く。
「なにをがんばるってぇんだ、てめぇは」
「決まっているでござる。ヅラ子殿を口説くのでござるよ」
「はあ?」
呆れる高杉を意に介すでもなく、万斉は宣った。
「あんな美人を放っておいては、男が廃るでござる」
「いや、廃らねぇよ。美人でも男だぞ」
「よく云うでござる。桂が現れぬのをいいことに、晋助もさきほどまで、ちゃっかりしっぽり、やっていたではござらぬか」
こいつ、みてやがったのか。
「いや、あれは……だから」
てか、マジでか。
たしかに万斉はあのときも船艇(ふね)の甲板から遠目にしただけだったし、桂を間近に見たことなどないだろうし、たしかにみごとな女装だし。
本気で気づいていないのか、気づかないふりで桂にちかづく気か。いずれにせよ口説く気は満々らしい。
「てめぇにあれがあつかえりゃ、たいしたもんだぜ。万斉」
高杉にしてみればむろんおもしろくないのだが、ひとを小馬鹿にしたように振る舞うこの男が、あの桂にどうあしらわれるか、見てみたい気もする。
「あ、ヅラ子、こっちよ。土方さんお待ちかね」
その声につられて、高杉は思わず表口のなかを覗き込むように見た。
隊服ではなく黒い着流しのおとこが、出迎えた桂に相好を崩すのが見えた。桂に手を取られて席へ着く。あの莫迦ヅラ。真選組相手に、なにしてやがる。気軽に触らせてんじゃねぇよ。気にくわねぇ。
「万斉」
「なんでござる」
物陰から店の奥に射抜くような視線をあてたまま、高杉は口の端で笑む。
「件の、あれ。妙案が浮かんだぜ」
「?…ああ、春雨から頼まれていた案件でござるか」
「利用させてもらおうじゃねぇか」
くい、と顎で指し示した。
「真選組を?」
万斉は少しだけ考えて、同意する。
「承知。ライバルも減らせるでござるしな」
高杉の眸が剣呑な光を宿した。
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