ミレイナ・ヴァスティが天使の絵を描くとき、その羽根は決まって薄桃色に塗られている。
彼女が初めてその天使を見たのはまだジュニアスクールにも上がるまえの歳だった。もっともスペースドック育ちの彼女にはスクール通いの経験はないのだけれど。
両親であるイアン・ヴァスティとリンダ・ヴァスティは、優秀な総合整備士でありMS技術開発者でもあって、CBという組織で働いていた。幼いミレイナはまだ父母の仕事場である基地内の最高機密区画には立ち入りをゆるされておらず、父母が揃って出掛ける際には基地内の養育施設に預けられる。
でもその日は、父の出勤にミレイナは母とふたりでその区画の出入り口まえまで見送ることが叶った。ほんとうなら休日でミレイナと遊ぶ約束をしていたのにそれを破ったから、特別にわがままを聞いてもらえたのだ。
そこでその天使に出会った。
それは居住区域とは逆の、宙港から機密区画へと向かう通路を優雅に泳いでいた。紫がかった黒というのか見たことのないような不思議な髪の色をしていて、薄い桃色のふわりとした衣服を纏っていた。
通り過ぎたのは一瞬だったのに、ミレイナの幼い目にその面影はつよく刻まれた。なぜって、その紫黒と薄桃色に彩られた真白いおもてがこの世のものとは思えないほどに美しくきれいだったからだ。
透きとおるような紅い眸をしていた。微重力を泳ぐ姿は、映像でしか知らない地球の大空を舞う鳥を思わせた。その佇まいはホログラムの絵本で見たことのある、神話の天使のようだと彼女は思った。
だからその日からミレイナのなかで、天使は薄桃色の羽根を持っている。
* * *
天使と再会したのは、ではなくて天使が人間だったと知ったのはその数年ののちのことだ。ミレイナはようやく二桁の年齢になっていた。
〝彼〟は医療ポッドで眠りに就いていた。
「アーデさんはまだ眠っているですか?」
天使は、父母の働く組織の、父の整備する機体の、ガンダムマイスターだった。ティエリア・アーデというきれいななまえを持っていた。
「ティエリアがみつかったですって!?」
スメラギ・李・ノリエガは、有能な戦術予報士らしくもなく声を震わせた。
国連軍との死闘後、GNアームズの損壊した機体から重傷を負っていた砲撃士ラッセを救出した。エクシアの刹那とは通信の途絶えたまま、太陽炉からの信号さえ認識できなくなっている。キュリオスはCBのサポート組織が太陽炉を回収したものの、その機体はマイスターのアレルヤごと行方知れずだ。
ナドレは太陽炉放出後に機体の行方がわからなくなった。だからGNドライブは強襲用コンテナですぐさま回収できたのに、ティエリアを見つけられないままじりじりと時間だけが過ぎていた、その矢先のことだった。
ナドレのコクピットから収容されたティエリアは、ただちにラグランジュ3の偽装ドックに運ばれた。ラグランジュ1の秘密ドックはその存在が敵方に知られてしまっていたし、そこに適した医療ポッドもなかったためだ。
亡きドクターモレノから、ティエリアの治療には通常の医療ポッドに特別なプログラミングを施すか、大事のときには彼専用のポッドを使うよう指示されていた。この一年使われることのなかったそれが、いま生死の境にあるティエリアには必要なのだ。
幸いラグランジュ3のアジトにはモレノの手によるティエリアの医療データのバックアップが残されている。これでヴェーダが無くともティエリアの決戦直前までのからだの状態もわかる。
彼の正体をスメラギは知らされていない。いないが、ティエリアが人間とは異なる存在であることは、長くCBにいればうすうす察せられてくることで、古株のイアンは暗黙のうちに受け容れていたし、スメラギにも感じられていたことだ。
おなじマイスターのなかでも、ティエリアと親密な仲だったと思われるロックオン・ストラトスはその真相に辿り着いていたふしがある。だがそのロックオンはプトレマイオスに於ける最初のKIA、すなわち戦死者となってしまった。
「ロックオン…。お願い、彼を連れて行かないで」
外傷の酷かったラッセは一時危ぶまれたが、幸い意識を取り戻すのが早く、いまは再生治療のためのポッドに入っている。加療期間は三ヶ月と見込まれている。
ティエリアはその逆で目立つ外傷は右腹部だけだったのだが、専用医療ポッドによって内部組織の異常が検知された。発見が遅れたため低酸素状態に晒された可能性もある。外傷については一ヶ月ほどで完治の報告がポッドからもたらされていたが、意識の回復しないまま、いまだポッドから出ることはなく、その期限も見えないという容態だ。
CBの実行部隊プトレマイオスチームは壊滅してしまった。敵に内通した裏切り者のせいで支援のサポートチームや技術開発チームもとても無事とはいえない状況に追い込まれ、実質的にCBは解体の危機に瀕している。
「お願い…目を覚まして。ティエリア。あなたは私たちに残された唯一の希望なの」
あの戦場で、失われていったいのち。行方を見失ってしまったものたち。そのなかで見つけることの叶った、ただひとりの。
いまこのたったひとりのガンダムマイスターまで失われてしまえば、きっとCBは二度と立ち上がれない。GNドライブは残されている。技術者が生きていてくれるからヴェーダがなくとも機体の開発はできる。それでもマイスターがいなければガンダムはただの器でしかないのだから。
「せっかくイオリアが、オーガンダムとツインドライブシステムを残していってくれたと云うのに」
イアンが口惜しそうに右手の拳で左の掌を撲った。
オーガンダム、すなわち最初に太陽炉を積んで飛んだガンダムは、そのGNドライブとともにサポート組織によって秘かに守られていた。
ツインドライブシステムは、太陽炉のブラックボックスに秘されていたトランザムシステムの封印が解かれたとき、同時にプトレマイオスにもたらされたイオリア・シュヘンベルグによる技術情報だ。
「ティエリアがいれば、開発にも弾みがつく。あの子にはヴェーダがなくとも我々には及ばないガンダムの知識がある。それを乗りこなせる腕がある」
「…それだけじゃない」
基地のメディカルルームで、専用医療ポッドの置かれた集中治療室を透過壁越しに眺めながら、フェルト・グレイスはぽつりと呟いた。
「そんなことより、…ただ生きていて欲しい。もうだれも死んで欲しくない」
ロックオンだけではない。クルーのほぼ半数が失われたのだ。
「フェルト…」
傍らに立つスメラギはそっとその肩を抱く。
「刹那が云ってたの…。ロックオンはティエリアを…とてもたいせつに思ってたって。だから…ロックオンのためにも生きて欲しい。ロックオンはむこうで寂しいかもしれないけど…いまはまだ、わたしたちに残しておいて欲しい」
「…ええ、そうよね。ほんとうに、そう願いたいわ」
フェルトを慰めるスメラギを見、ミレイナはとなりの父を見遣った。
「パパ、無神経ですぅ。アーデさんはただガンダムやソレスタルビーイングのために、いまがんばって生きてるわけじゃないとミレイナは思うです」
イアンのジャケットの裾を引っ張って、ミレイナが口を尖らせる。
「すまんすまん。…ああ、もちろん。わかっとるさ」
整備士の掌が愛娘のあたまを撫でた。
刹那もアレルヤも、まだ戻ってはこない。どこにいるかもわからない。生きているのかさえ。だから、せめて。
「帰ってきて、ティエリア…」
フェルトはもういちど、医療ポッドで眠るティエリアに呼びかける。
「アーデさん。ミレイナはもういちどアーデさんのきれいな紅い眸を見たいです」
幼い少女は背伸びをして、透過壁の向こうを覗き込んだ。
* * *
ロックオン。…ロックオン・ストラトス。
どこだ。どこにいるんだ。
なぜ…どこにもいない。
常闇だった。なにもない。なにも見えない。音も匂いも温度も湿度もない。でも宇宙とはちがう、深淵の真の闇。
感じられるのはただ、この身しかここには存在していないこと。
なぜぼくはこんなところにいるんだろう。
待っていてくれと云ったのに。あなたはひとりでいってしまったのか。
あなたをひとりにしないと誓ったのに、どうしてここにいないんだ。
待っていてくれると、云ったのに。
ぼくはあなたのもとへ行くと、云ったのに。
どうして。
どうして。
どうして。
『かんたんなことだよ。それは、きみがまだ死んでいないからさ…』
「死んで…いない?」
うそだ。やっといけると…、ぼくは。あのとき、ぼくは。
『ティエリア・アーデ…。きみにはやらなければならないことがあるはずだろう?』
「………」
ぼくは……死んでいない…。死んでいないのか。
ぼくは、あなたのもとへ…まだ行くことをゆるされないのか。
『おいでよ。…待っている。ずっと、待っていたんだよ、ティエリア』
「…だれだ、きみは」
たしかにだれもいないのに、声だけがする。
『待っているよ。きみを』
不意に顕れた声は、また不意に消えた。
ぼくは、あなたのもとへ……。行きたい。
行きたかったのに。
…ロックオン……ニール・ディランディ…。
あなたがいないのに、ぼくは。
まだ…生きなければならないのか。
あなたのいない世界で。あなたを奪ったこの世界で。
* * *
「アーデさん。ミレイナ、きょうはアーデさんにみなさんからのプレゼントを持ってきたですよ」
少女がなにやら抱えてメディカルルームにやってきた。そのあとをオレンジの球体がふわふわと飛んで付いてくる。
「お、定期便だな。ミレイナ。きょうはハロもいっしょか」
「アイオンさんも、お加減いかがですかです」
「らっせ、ゲンキカ。らっせ、ゲンキカ」
再生治療を終えたラッセは、すでにその加療期間と同じ時間をリハビリに費やしている。
「おう。順調だぜ。ティエリアはいまどんなぐあいだい?」
リハビリメニュー後にセルフマシンでのメディカルチェックを受けながら、集中治療室の医療ポッドに語りかけるミレイナを眺めるのも、もう慣れた日常だ。
「お顔の色はよさそうですぅ。パパもママもグレイスさんも、みなさんお仕事で忙しいですから、ミレイナが代表でお届けに来たです」
少女は薄桃色のカーディガンをおおきく広げて見せた。
「…スメラギさんは、やっぱり?」
「はいです。ノリエガさんは明日、地球にもどられるそうです…」
少ししょんぼりと返したミレイナは、ハロにも手伝われながらカーディガンを医療ポッドの透明ケース越しに、眠るティエリアに掛ける。
「ほんとうはアーデさんがこれを着る姿をノリエガさんも見たかったと思うですぅ…」
「いまのソレスタルビーイングにゃ戦術予報士の仕事は無いに等しいからな」
「寂しくなるです」
「おやっさんもリンダさんも、ツインドライブを載せる機体の開発製造に追われてるし」
遊びたい盛りの少女には、眠るティエリアを訪ねることもたのしみな日課のひとつなのだ。ついでにこの時間はたいていラッセもここに来ているから、話し相手もできる。
「ハロさんは、きょうはアーデさんの主治医です。ちょうど六ヶ月になるので医療ポッドのプログラムチェックと医療データの確認をするですよ」
有能な独立型AIはぱたぱたとうごかしていた耳のような開閉口からアームを伸ばして、自ら医療ポッドの端末と自身とを接続する。
ミレイナはその邪魔をしないようにと集中治療室を出てきた。ラッセのいるセルフチェックマシンに近寄って、チューブボトルを手渡してくる。
「アイオンさんにもプレゼントがあるです。ママ特製の栄養ドリンクですぅ」
「そいつはうれしいね。礼を云っておいてくれな」
「はいです」
にこやかに会話を弾ませていると、不意にハロの声が響いた。
「てぃえりあ!てぃえりあ!」
見れば、コードをつないだまま、ぱたぱたと医療ポッドのまわりを飛び回っている。
「どうした、ハロ」
「ハロさん、どうしたですか」
尋常でないようすに周章ててふたりは集中治療室に飛び込んだ。
床に薄桃色のカーディガンが滑り落ちている。
医療ポッドの透明な蓋が開き、よこたわって紫黒の髪をうち広げた白いおもての、鮮やかな紅い双眸がぼんやりと中空を見つめていた。
ティエリアの意識が回復した姿をひと目見られて、酒浸りのスメラギは疲れたなかにも安堵の表情を浮かべてCBを去った。
ロックオン、クリス、リヒティ、モレノら、先立った仲間の死を弔った。しかし遺体があるわけでもなく、あったとしてもそれが遺族に返されることはない。CBに属した時点でたとえ身内がいようとも、その死の詳細は明かされることなく、遺族に届くのは死亡通知という短い文書データだけ。
さらには刹那とアレルヤの行方の知れぬまま、目覚めないティエリアと向きあう日々は、自らの戦術が招いた結果を突きつけられる針のむしろに等しく、耐えきれなくなったのだ。
けれど半年を眠りつづけたティエリアもまた、まだ本復には遠かった。
了 2011.10.29.