ラグランジュ3の資源衛星群に隠された偽装ドックはあきれるくらいに大規模なものだった。
先般スカウトされたのはどうもこちらの想像の遥か上を行く武装組織だったらしい。武力による紛争根絶という理念には共鳴したものの、その抱える矛盾からして組織の規模など問うていなかったのは、おのれの不明だったろうか。口の端に苦笑を閃かせ、ニール・ディランディは広々としたMSの整備ドックを通路口から見あげるように眺めた。
「…ロックオン・ストラトス。ロックオン・ストラトス、こちらへ」
何度目かの呼びかけに、ようやくそれが自分を呼ぶものなのだと気づいて、ニールはいささか間の抜けたような返事を返し、癖のつよい髪を掻き上げる。頸筋に絡まる中途半端に伸びた胡桃色の髪が襟元にふわりと揺蕩い、地上とはたしかに違う宇宙空間を感じさせた。
基地内は微重力に調整されている。軽く床を蹴るだけであっけなくからだが中空に持ち上がるそれは、長く地球上での生活に慣れた身には馴染みが薄く、まだ一挙一動が覚束ない。各所をつなぐ通路沿いの壁に張り巡らされた歩行制御用のバーを握って半自動的に運ばれるにも、浮き上がって進み、手を放して降り立つ、という簡単な動作ひとつ、思うようには身体のコントロールが効かなかった。
「こればっかりは慣れるしかねぇか」
地上でも無重力訓練は受けてきたが、しょせんおのれは地を這いずり回るようにして生きてきた人間だ。たいせつな家族を暴力的に奪われてのちニール・ディランディの名を捨て、狙撃手として闇世界に馳せた二つ名もまた捨てて、新たに冠せられたコードネームがこの身に馴染むころには、無重力にも慣れるだろう。
新参者の案内に立っていた、スメラギ・李・ノリエガが整備のクルーに声を掛けている。豊かな栗色の巻き髪に覆われた背からでも露わなナイスバディの妙齢の美女は、その見かけによらずトップレベルの戦術予報士だ。ニールが誘いを受け容れた武装組織ソレスタルビーイングの、実行部隊の事実上の責任者である。
いくぶんか年嵩と見受けられるスメラギはニールの好みといえば好みだったが、地上での短い付き合いのうちにさえ、その酒豪というか酒乱というかアルコール中毒一歩手前の様相は明らかで、それゆえの親しみは覚えてもさすがにおつきあいを願いたいような心持ちには至らない。
その背から視線を移しニールはふたたび上空を眺めやる。そびえ立つMSの脚部を下方として、その腰のあたりの高さに設置された通路から、天井はまだ遥か向こうだ。いまドックは地上とおなじ空気で満たされていて、ふつうに呼吸できるのだが、実際の作業を行っているのはカレルと呼ばれる整備メカで、担当クルーの指示のもとそれを球体の独立型AIが制御していた。
と、そのカレルのあいまを縫うように泳ぎ、空間を渡っていくものがある。ふわふわと漂いながら、しかし不意にうごきを止め、かと思うとまたひらりと滑らかに揺蕩う。おもうがまま自在に微重力を移ろっていくさまに、ニールは知らず見蕩れた。まるで水槽を泳ぐ小さな熱帯魚のようだ。
その身に纏った薄桃色の上衣がやわらかに翻る。すい、と見る間に近づいてきたそれが、おのれのまえに降り立つのを、ニールはぼんやりと眺めていた。妙に現実感に乏しい。スメラギの声にわれに返るまで、ニールはそれがなんであるかを認識できないでいた。
「紹介するわね」
来たのはどうもスメラギに呼ばれたためらしい。
「こちらはロックオン・ストラトス。デュナメスに乗ってもらいます。十八時間後にここでの訓練に入るわ。よろしくね」
眼前に降り立った姿は眉ひとつうごかさずにニールを見つめてきて、思わず辟易ろいだ。眼差しで射殺せるほどの鋭さを持った双眸は硬質な紅玉で、息を呑む。それを蔽う素通しの眼鏡がなければ、直視すら叶わないと思わせるほどに、美しき異形の色合いは冷たく清んでいた。
「彼は、ティエリア・アーデ。ヴァーチェのガンダムマイスターよ。ロックオン」
ロックオン、と呼ばれてニールは紹介を受けたことにいまさらのように気づき、だがそれを悟らせぬ程度には如才のない挨拶をとっつきやすいとよく云われる笑顔で返す。初対面のあいてに気を呑まれる、などというのは自身あまり無い経験だ。
彼、というからには男なのだろうが、背丈こそ長身のニールの顎あたりほどはあっても、まだ少年と呼ぶのが自然な年頃に見受けられる。華奢な体躯と、肩口でやや前下がり気味に切りそろえられたまっすぐな紫黒(しこく)の髪とが相俟って、およそ性別不詳だ。輪郭がたおやかな稜線を描くおもて、けぶる睫に縁取られた切れ長の眸、整った鼻梁とうすく色づいた口唇。このおそろしくきれいな生きものが、おなじくガンダムを駆るマイスターだとは、俄には信じがたかった。
ニールの笑みと差し伸べた右手をきれいさっぱり無視した少年は、抑揚のない口調でスメラギに確認をとる。
「ヴェーダがえらんだのであれば否やはない。では、デュナメスの調整を先に上げてくる」
やや低めのやわらかな声質を口調の硬質さが裏切っている。簡潔に云い置いて、紫黒に薄桃色の姿はまたふわりと浮かびあがった。
まるきり空気のように扱われて、ニールはしばし茫然と遊泳するその優美な姿態を見送った。となりでスメラギがわずかに苦笑を浮かべる。
「ごめんなさいね。ああいう子なのよ」
「いや…いいけど」
とはいえ、あいての警戒心を解くことに長けた、おのれの愛想のよさが通じないというのも、じつはあまり無い。
「デュナメスの調整って、俺がやらなくていいのかい?」
「いずれはね。でもあなた、射撃の腕は超一流でもMSやシステムを扱うのにはまだ慣れてないでしょう」
「彼は…ティエリアは慣れてるわけか? …あの若さで?」
ティエリア、と口に出して初めて、きれいな音の羅列だなと感じ入る。
「あの子は…ティエリアはちょっと特別かしら。ここではヴェーダの申し子とまで呼ばれてる。そちらはまかせておいてまちがいはないわ」
ヴェーダという名の量子型演算処理システムは、この組織とのちに為される計画の根幹だ。スメラギのそのことばに混じるなにがしか苦いものにニールは気づいたが、気づかぬ振りをしてみせた。
「んじゃま、こっちは明日からに備えてやすませてもらうとしますか」
飄々と応じると、聡い戦術予報士はおそらくそれをも察したのだろう、笑顔でちいさく肩を竦めた。
* * *
教習という名の強化訓練は激務のひとことに尽きた。憶えることがありすぎる。
無重力空間における体感認識、戦闘用MSの基本操作、おのれの機体に特化された装備の詳細な把握と実効の検証。加うるに、日常的なメンテナンスの手順と方法。システム調整やらハードやメカニカルな整備やなんやらはむろん専任のクルーがするが、自機の簡易メンテ程度は単独でこなせないとマイスターはつとまらない。さらには、基礎的な筋力や体術のトレーニングだってある。マイスターがまだ全員揃っていないこともあって戦術フォーメーションの模擬訓練がないだけましなのかもしれない。
長年腕に馴染んだライフルも、直に扱うのとMSで扱うのとでは、どうしても認識上にずれが出る。革手袋の狙撃手の指が凝ることはなくても、その誤差の微妙な修正がことのほかやっかいだった。
「ロックオン・ストラトス」
この数十時間で耳に馴染んだ声が、デュナメスのコクピットハッチを開いてひと息ついていたニールの耳に届いた。
「よう、ティエリア。またなにか説教かい?」
そう軽口を叩くのも、この少年が、こと『ガンダムマイスターとしてのあるべき資質』に関しては、微塵の妥協も情け容赦も持ち合わせていないことを、すでに学習してしまっていたからだ。初日など、ひととおりの操作説明と確認をすませただけで、いきなり無慈悲なまでの実戦シミュレーションをあてがわれて、現状の能力値と問題点を洗いざらいに吐き出さされた。元狙撃手としての矜持を取り繕う余裕さえ、あたえてはもらえなかった。
初手としては許容範囲内の数字ですね。
と、木で鼻を括ったような慰めにもならないいらえを返し、そのデータを持ち帰ったティエリアは、つぎの教習にはしれっとしてプログラムソフトに新たな調整と難題とを加えてきた。なにごとも自主修得が基本のマイスターとしては、そんなふうに挑まれて、つい煽られた。としか云いようがない。気づけばほぼ毎日、似て非なるシミュレーションを繰り返している。教練のマニュアル以上の頻度で。
つまるところそれは、その実証データをもとに、よりレベルアップを促せる環境を構築するだけの十全な能力がティエリアにはある、ということにほかならないのだ。これを自機の調整や自身の基礎訓練と並行してやってのけているのだから畏れ入る。
ヴェーダの申し子、と云ったミス・スメラギのことばを思い出す。
とはいえ、ティエリアの対人スキルには問題がありすぎるほどあったから、これがニールでなければ、よくもわるくも柔軟に躱せる術を身につけたあいてでなければ、みすみすマイスターをひとり潰していたのかも知れなかったが。
「茶化さないで欲しい。あなたに必要なのは説教ではない」
生真面目にそう返して、軽く首を傾げる。ヘルメットはしていない。紫黒の髪がさらりと揺れる。髪色を映したかのような紫系を基調としたパイロットスーツのしなやかな肢体が、ドックの床を蹴ってコクピットの傍らに音もなく取り付いた。
内部のモニターを覗き込むように、からだをよせて傾ける。はからずも至近に迫った白磁のごとき無機質なおもては、めずらしく疲れを窺わせて、紅玉の双眸の下に影をつくっている。
「数値は上がってきているが。これまでのシミュレーションデータから、まだ誤差の修正に戸惑っているように見受けられる」
「おっしゃるとおりで」
かるく肩を竦める。この少年にデータ上の誤魔化しは利かない。
「先般、実際のライフル射撃のデータをとらせてもらった。鑑みるに、やはり狙撃の際に出る癖のようなものがある」
「…まあ、長年の習性ってやつだな」
理に適った正しい射撃方法というのはむろんのこと存在するが、結局はベストなポジション取りやトリガーを引くタイミングなどは、経験を積み重ねて独自に染み着いていくものだ。それは往々にして理論を凌駕し、それゆえにこそ卓越した無二の技能として狙撃手に還元されていく。
「あなたのそれが無意識下のレベルにあるなら」
ニールは首肯する。おそらくはそれに近い状態なのだろうと思う。
「それを取り除くのは難儀だし本末転倒と考えた。あなたはヴェーダにえらばれたデュナメスのマイスターなのだから」
ティエリアはそうつづけて、データスティックを差し出した。
「あなたの身体能力値にその特性を加味して、システムプログラムから練りなおしてみた。デュナメスにも機体固有の癖のようなものがある。それを摺り合わせるにはこの方法が最善と判断した。これで使い勝手も向上するかと思う。試すといい」
淡々とこともなげに告げられて、あやうくその意味するところを取り落とすところだった。
プログラミングなど門外漢だが、それがただソフトで調整するというのとは次元がちがう、というくらいのことはわかる。結果として、より有益な手段を選択したにすぎない、と云っているのだろうことも。
けれど。
「おまえさんが、わざわざ俺のためにデュナメスのほうを合わせてくれたってことだろ? それ」
受け取りながらそう返せば、ティエリアは少し考えてから、こくりと頷く。妙に幼いしぐさだと思った。
「…ありがとよ」
それで目の下の隈か。なんてこった。
「……?」
ティエリアはきょとんとしている。軽く見開かれた硬質な紅玉からは鋭さが薄れて、そこに浮かぶのは剥き出しの無垢だ。
「礼を云われる理由がわからない。ヴェーダの意志を全うするために、おれはここにいる」
なるほど、これはヴェーダの申し子にちがいない。
ティエリアにとっての絶対の指針はそこなのだ。他意などなく、当人にはそんな余地すらないのだろう。が、しかし。
「やられるほうは、たまらねぇよ…なぁ」
ひとりごちたニールの碧緑の眼差しの向こう、紫黒の髪に紫のパイロットスーツが、ヴァーチェのもとへとゆるやかに泳いでいく。データスティックをコクピットのコンソールパネルに差し込んで読み込ませるあいだ、ニールはその傍らに鎮座するオレンジ色の球体に語りかけた。
「なあ、ハロ?」
高度射撃に特化されたデュナメスの戦闘時の機体制御は、マイスターが狙撃に集中できるよう、この独立型AI端末に委ねられている。ロックオン・ストラトスの、いわば相棒だ。
「タマラネェヨ、タマラネェヨ」
いささか人間味のありすぎる機械音声が、球体の上部側面にある二ヶ所の蓋を両耳のようにぱたぱたさせて、同意するかのように返してきたから、革手袋の右の掌で撫でてやった。
「しっかし。これで結果を出せなかったら、けちょんけちょんに云われるんだろうぜ」
容易く想像ができて、苦笑する。むろんそんな結果にするつもりはない。
シートに身を凭せ掛け、改良型オペレーティングシステムがオールグリーンになるのを待つ。
「……ティエリア・アーデ…」
きれいな音の羅列をたのしむように、その名を口で転がしてみる。
その口許に自然浮かんだ笑みに、ニール自身気づかずにいる。
了 2011.08.26.