「天涯の遊子」坂桂篇。
坂本と桂のお話。戦後から紅桜前まで。攘夷時代も行ったり来たり。
後半、銀桂前提の坂桂微エロあり、注意。高桂要素も含む。
『それでは、おやすみなさい。明明後日の正午に、お迎えにあがります』
ふたりぶんのお茶を淹れ、座敷にそう挨拶にきた白いものに、桂はあふれんばかりの情愛を込め、
「うむ。留守居ご苦労だったな、エリザベス」
そうねぎらってから、すでに調えられてあった酒肴への礼を述べる。エリザベスと呼ばれた白いものが隠れ家を辞したあと、坂本は破顔した。
「かわいがっちゅうようだのぉ。小太郎の趣味はわしがいちばんよおわかっちゅうからな。きっとステファンを気におると思っちょったが」
「ステファンではなくエリザベスだ。たしかに、あれほどに愛らしいものとは思わなかった。坂本には礼を云わねばな」
「礼なら、ことばでのうて、ほれ。ほれ」
と、その頬を差し出してくるのに、調子に乗るな、といいながらも桂は軽く口唇を触れさせた。坂本は満足げに、さっそく膳の銚子をつまみ上げる。
お互いに最初の一杯を注ぎあって、あとは手酌で進めながら、坂本の語る土産話に、桂は耳を傾けた。天人を廃しこの国の真の姿を取り戻すのは桂の生を賭しての目標だが、天人の話題を疎んじることは些かもない。敵を知るにはということなのか、持って生まれた好奇心のつよさからなのか。どちらかといえば後者だと坂本などは思うのだが、桂に問えば、攘夷のための情報収集、という答えしか返らぬであろうことは想像がつく。
それでも興味深げに、ときには目を輝かせておのれの話に聴き入る桂の姿は、戦をともにしたころからの坂本の、最上級のお気に入りのひとつであった。それはいまでは坂本にとって、江戸に立ち寄る理由のひとつに充分になり得ている。
だが、今日立ち寄ったのはそのためではない。今回の商いで江戸に寄港する快援隊に、坂本との対面を求めてきたのは、桂のほうだった。党首自ら坂本の旗艦に出迎えの足を運んだのは、それが正式な交渉ごとだという意思表示にほかならない。隠れ家まで招いたのは、坂本相手だからこその、信頼と気易さのなせるわざなのだったとしても。
ひとしきり話をし終えて、坂本は水を向けた。
「小太郎、いや、桂さん。ほき今回は、なにを御入り用ながか」
と、本題に入る。
「鬼兵隊と春雨の現況を知りたい」
なんの前置きも逡巡もなく、用件のみをすっぱりと桂は云い
「些か不穏な動きがあるようなのでな」
とつづけた。
「地を這う我々とは別の、宇宙をゆく商船ならではの情報網が欲しい」
「晋坊か」
戦後、桂と袂を分かった盟友の名を口に出す。盟友などということばではすまされない縺れた絆が、桂とその男のあいだにあることを、坂本は承知していた。桂の表情を塵ひとつも見落とすまいとする。
「…まだわからん。高杉が糸を引いているのか、あれが御せぬ一部が手前勝手にうごいているだけなのか、別の繰り手がいるのか」
うなずいて、坂本は桂を見つめた。商船ならではの情報網を桂に開くということは、すなわち坂本らが商売上知り得る機密を、一部であれ開示し桂一派と共有するということだ。一歩まちがえば商人としての信用に関わる。死活問題になりえた。
「ほき、その、見返りは?」
笑んではいるが、そこにあるのは毛玉の旧友ではなく、宇宙を股にかける商人(あきんど)、快援隊隊長の顔だった。
桂もすでに攘夷派党首の顔である。坂本は、桂のこの切り替えの早さと、割り切りのよさを、愛でていた。そしてそのいっそみごとな、実利主義を。
桂にとって重要なのは、おのが信念である攘夷を果たすことである。そのためになら、多少の臭い水など平気で飲めるし、危ない橋は飛び越えてでも渡る気質だ。もとより我が身を賭すことになんの躊躇いもない。攘夷戦争半ばにはすでに萌芽を見せていたそれは、末期には芯を持った幹となり、いまや枝葉を増やしつつそれを支えきる根が生えている。
「と、いうことでどうだ?」
提示された交換条件に、坂本は一瞬、煎じ薬でも飲まされたような顔をした。桂の口にのぼったのが、宇宙でもつとに知られた交易商の一族の、天人の族称だったからである。商いの手広さに反して糸口のつかめぬ一族との接触を、坂本はルートを手繰り過去になんどか試みていた。が、いずれも果たせず終わっていたのだ。
「ただし、こちらで用意してやれるのは、席だけだ」
坂本の微妙な反応を意に介するようすもなく、桂は
「そこでどんな交渉をし、結果、首尾不首尾いずれに終わろうとも、それは貴様らの才覚のうちということになる」
と続けて、いったん言葉を切った。
「なして、ほがなルートを攘夷派が持っちゅう?」
「なに、単純な図式だ。天人は一枚岩ではない。天人という名の多種族の集まりに過ぎぬ。いま幕府とつるんでいる天人どもと、利害の反する天人どものなかには、攘夷派を支援する顔で利用したほうが得策、と考える輩がいても不思議ではないというだけのこと」
狐狸の化かし合いのような関係をさらりと告げる。それは、そうかもしれぬ。だが坂本がその天人一族と接触を図ろうとしているなどと、話題にしたことはない。いつ知った。こちらのうごきを読んでいたのか。それともただの偶然か。これが桂だ。あらためて坂本は、このおとこのおそろしさを嚙み締める。
こともなげに云う桂は、よりにもよって、こう締めた。
「ここ一番、頭として誤り無きよう、判断してほしい」
冷酷なまでに一途なおとこだ、と坂本はおもう。攘夷のためになら、このおとこは。そうだ。むかしから。手段を選ばぬ一方で、かんたんに相手に下駄を預けてしまう。その結果、相手の感情という場にもたらす混沌には、一向に頓着しない。
「おんしは、しょうまっこと変わらん。あのときと、ぶっちゅうやか」
坂本は、頭を掻きむしった。
「やめんか。それ以上、もじゃになったらなんとする」
「したら、おんしのせいやき」
軽口に軽口で返しておいて、しかし坂本はめずらしく本気で頭を抱え込んだ。
のどから手が出るほどに欲しいルートだった。しかし成立の確証があるならともかく、交渉の場だけでは、引き替えるにはリスクがでかい。桂の欲する情報が万一商売上の機密に触れるものと一致したなら。商いは信用第一である。だがむろんそれだけでは、利益で世界をうごかすことなどできようはずもないことも、承知していた。
天人の牛耳るこの国の政治に、坂本は貿易商としての影響力の大きさをもって食い込み、やがてはこの国のものの手によって実権を掌握させる。実権を握るのは、この国を真によくする指導者であればいい。それは坂本ではなく別の誰かだ。
未だ政治思想という大手門から天人に闘いを挑んでいるのが桂であり、あるいはかつての高杉であったとするなら、坂本は経済という搦め手から挑んでいるようなものなのである。それはたしかに、攘夷を抜けた坂本の、次の目処のひとつでもあったのだ。むろん忘れてはいない。いないが、しかし。日々の商い事にただ忙殺されていたのも、また事実だった。
「おんしは、酒瓶の底にたまった澱を揺さぶってまた混ぜ合わせるようなまねを、平気でしゆう。わしのなかに残っちゅう、攘夷の残滓を鎮めさせておいてはくれん」
ちら、とうらめしげに、坂本が桂を見る。婉然と、いや、いっそ妖艶と呼べる笑みを桂は浮かべた。
「あきらめろ。貴様は一介の商人に納まる器ではない。つまり、そういうことだ」
「わしに、そがな野心を植え付けようとするがか」
「抜かせ。野心もない人間が、宇宙を股に掛ける貿易商など目指すものか。それにだな、坂本」
情けなさそうに頭を抱えて上目遣いに睨める坂本に、桂はゆったり微笑んだ。
「そういうものを野心とは呼ばん。こころざし、というのだ」
国と民を思うという一点においては無私に等しいおとこに云われたのでは、坂本に返すことばはない。交換条件のもと協定を結ぶのに、否やのあろうはずもなかった。
短いトップ会談を済ませ、さっさと協定書にサインまで交わして、腹が決まった。三日も必要なかったか、という桂に、ほんなら残りの時間はわしと遊興三昧じゃいか。と、坂本はいつもの調子を取り戻し、酒を勧め、自らも喰らいながら、懲りずに桂を膝もとへと抱きよせる。
「小太郎は、あのころと変わらん。うつくしいままやき」
「そんなわけがあるか。この、もじゃ」
話がまとまり、だいぶ酒も入って、気分がほぐれてきたのだろう。抱きよせられるままにからだの重みをあずけてくる桂に、べつの、もうひとつの残滓が掻き立てられる。こちらは燻りつづけていて鎮めたわけでもないから、容易に煽られた。
「責任、取らせてくれんろうか」
「無用だ。おれはおなごではないからな」
桂はからだをひねって、色硝子の眼鏡を外させ、坂本の目線を捉える。
「だいちあれは、おれから頼んだことではないか。貴様がなんの責を負う必要がある?」
「つれないのぉ。こたろ。わしは責任を負いたいわけがやない。おんしを負いたいちや」
いつもの軽い口調のくせに、眸に真摯な色のあるのを見てとって、桂は黙った。
「わしは、あん夜の小太郎をよお忘れられん」
「…悪趣味なやつだ」
「忘れられんがは、こん腕のなかにいたおんしじゃーのうて。…むろんほれっちゃあ忘れがたいが」
猪口を片手に、空いたほうの掌を桂のやや崩した膝に置く。袷の衽(おくみ)のあたりをそのままするりと、大腿へと撫で上げた。
「あの夜、閨の極意を問うてきたときの、こたろうじゃ」
* * *
「正気か、桂さん」
「むろんだ。このようなことを冗談で問えるおれとおもうか?」
ほりゃあ、そうながけんど。桂の、あまりに突拍子もない発言に、そうしたスレた会話には慣れていたはずの坂本が、おもわず耳を疑った。疑ってしまった。
野郎同士ならではのあけすけな会話に桂が加わることはこれまでもほとんど無かったし、攘夷軍の同志のあいだでも、桂のまえでは妙な気恥ずかしさを覚えるらしく、桂がいれば、自然話の方向が逸れていった。それが桂の外見に因るものだということは、桂以外の全員に共有される認識であるところであった。
むしろ桂のいないところでは、桂自身がそうしたあけすけな会話の対象とされてもおかしくはないほどに、桂の容貌は軍のなかにあっては際だって異色であったから、懸想するものとてけして少なくはなかったのだ。だが。
高杉はもともと桂以外の人間とは距離を置くところがあって、みなとそうした莫迦話に興じることを好まなかった。銀時はみなの輪の端っこでだらりとかまえながらも、そうしたときに年相応の関心は隠さなかった。だがそのふたりともが、桂をそうした話題の対象にしようものなら、あからさまに不機嫌になり無言の眼力でもって話題をねじ伏せたのだから、まして邪なまねを試みるような輩は命がいくつあっても足りない。自分たちが幹部として並び称されるころには、そう、いつのまにか暗黙の了解が成り立ってしまっていた。
だから桂はおよそそうした下世話さとは縁のない場所に、ひとりいたのだ。冴えた玉容には似つかわしくないとさえ思えて、なにごとにも遠慮のない坂本でさえ、そうした話題をあえて桂に振るようなまねは、したことがない。桂の美は、仮初にも劣情の対象とされるべきではない、真に崇拝の対象たるべきだ。いつのまにかそんなふうに考えていたのかもしれなかった。
だから、耳を疑った。まじまじと、坂本は桂を見返した。なんの衒いもなく桂は端座している。
続 2008.01.02.
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『それでは、おやすみなさい。明明後日の正午に、お迎えにあがります』
ふたりぶんのお茶を淹れ、座敷にそう挨拶にきた白いものに、桂はあふれんばかりの情愛を込め、
「うむ。留守居ご苦労だったな、エリザベス」
そうねぎらってから、すでに調えられてあった酒肴への礼を述べる。エリザベスと呼ばれた白いものが隠れ家を辞したあと、坂本は破顔した。
「かわいがっちゅうようだのぉ。小太郎の趣味はわしがいちばんよおわかっちゅうからな。きっとステファンを気におると思っちょったが」
「ステファンではなくエリザベスだ。たしかに、あれほどに愛らしいものとは思わなかった。坂本には礼を云わねばな」
「礼なら、ことばでのうて、ほれ。ほれ」
と、その頬を差し出してくるのに、調子に乗るな、といいながらも桂は軽く口唇を触れさせた。坂本は満足げに、さっそく膳の銚子をつまみ上げる。
お互いに最初の一杯を注ぎあって、あとは手酌で進めながら、坂本の語る土産話に、桂は耳を傾けた。天人を廃しこの国の真の姿を取り戻すのは桂の生を賭しての目標だが、天人の話題を疎んじることは些かもない。敵を知るにはということなのか、持って生まれた好奇心のつよさからなのか。どちらかといえば後者だと坂本などは思うのだが、桂に問えば、攘夷のための情報収集、という答えしか返らぬであろうことは想像がつく。
それでも興味深げに、ときには目を輝かせておのれの話に聴き入る桂の姿は、戦をともにしたころからの坂本の、最上級のお気に入りのひとつであった。それはいまでは坂本にとって、江戸に立ち寄る理由のひとつに充分になり得ている。
だが、今日立ち寄ったのはそのためではない。今回の商いで江戸に寄港する快援隊に、坂本との対面を求めてきたのは、桂のほうだった。党首自ら坂本の旗艦に出迎えの足を運んだのは、それが正式な交渉ごとだという意思表示にほかならない。隠れ家まで招いたのは、坂本相手だからこその、信頼と気易さのなせるわざなのだったとしても。
ひとしきり話をし終えて、坂本は水を向けた。
「小太郎、いや、桂さん。ほき今回は、なにを御入り用ながか」
と、本題に入る。
「鬼兵隊と春雨の現況を知りたい」
なんの前置きも逡巡もなく、用件のみをすっぱりと桂は云い
「些か不穏な動きがあるようなのでな」
とつづけた。
「地を這う我々とは別の、宇宙をゆく商船ならではの情報網が欲しい」
「晋坊か」
戦後、桂と袂を分かった盟友の名を口に出す。盟友などということばではすまされない縺れた絆が、桂とその男のあいだにあることを、坂本は承知していた。桂の表情を塵ひとつも見落とすまいとする。
「…まだわからん。高杉が糸を引いているのか、あれが御せぬ一部が手前勝手にうごいているだけなのか、別の繰り手がいるのか」
うなずいて、坂本は桂を見つめた。商船ならではの情報網を桂に開くということは、すなわち坂本らが商売上知り得る機密を、一部であれ開示し桂一派と共有するということだ。一歩まちがえば商人としての信用に関わる。死活問題になりえた。
「ほき、その、見返りは?」
笑んではいるが、そこにあるのは毛玉の旧友ではなく、宇宙を股にかける商人(あきんど)、快援隊隊長の顔だった。
桂もすでに攘夷派党首の顔である。坂本は、桂のこの切り替えの早さと、割り切りのよさを、愛でていた。そしてそのいっそみごとな、実利主義を。
桂にとって重要なのは、おのが信念である攘夷を果たすことである。そのためになら、多少の臭い水など平気で飲めるし、危ない橋は飛び越えてでも渡る気質だ。もとより我が身を賭すことになんの躊躇いもない。攘夷戦争半ばにはすでに萌芽を見せていたそれは、末期には芯を持った幹となり、いまや枝葉を増やしつつそれを支えきる根が生えている。
「と、いうことでどうだ?」
提示された交換条件に、坂本は一瞬、煎じ薬でも飲まされたような顔をした。桂の口にのぼったのが、宇宙でもつとに知られた交易商の一族の、天人の族称だったからである。商いの手広さに反して糸口のつかめぬ一族との接触を、坂本はルートを手繰り過去になんどか試みていた。が、いずれも果たせず終わっていたのだ。
「ただし、こちらで用意してやれるのは、席だけだ」
坂本の微妙な反応を意に介するようすもなく、桂は
「そこでどんな交渉をし、結果、首尾不首尾いずれに終わろうとも、それは貴様らの才覚のうちということになる」
と続けて、いったん言葉を切った。
「なして、ほがなルートを攘夷派が持っちゅう?」
「なに、単純な図式だ。天人は一枚岩ではない。天人という名の多種族の集まりに過ぎぬ。いま幕府とつるんでいる天人どもと、利害の反する天人どものなかには、攘夷派を支援する顔で利用したほうが得策、と考える輩がいても不思議ではないというだけのこと」
狐狸の化かし合いのような関係をさらりと告げる。それは、そうかもしれぬ。だが坂本がその天人一族と接触を図ろうとしているなどと、話題にしたことはない。いつ知った。こちらのうごきを読んでいたのか。それともただの偶然か。これが桂だ。あらためて坂本は、このおとこのおそろしさを嚙み締める。
こともなげに云う桂は、よりにもよって、こう締めた。
「ここ一番、頭として誤り無きよう、判断してほしい」
冷酷なまでに一途なおとこだ、と坂本はおもう。攘夷のためになら、このおとこは。そうだ。むかしから。手段を選ばぬ一方で、かんたんに相手に下駄を預けてしまう。その結果、相手の感情という場にもたらす混沌には、一向に頓着しない。
「おんしは、しょうまっこと変わらん。あのときと、ぶっちゅうやか」
坂本は、頭を掻きむしった。
「やめんか。それ以上、もじゃになったらなんとする」
「したら、おんしのせいやき」
軽口に軽口で返しておいて、しかし坂本はめずらしく本気で頭を抱え込んだ。
のどから手が出るほどに欲しいルートだった。しかし成立の確証があるならともかく、交渉の場だけでは、引き替えるにはリスクがでかい。桂の欲する情報が万一商売上の機密に触れるものと一致したなら。商いは信用第一である。だがむろんそれだけでは、利益で世界をうごかすことなどできようはずもないことも、承知していた。
天人の牛耳るこの国の政治に、坂本は貿易商としての影響力の大きさをもって食い込み、やがてはこの国のものの手によって実権を掌握させる。実権を握るのは、この国を真によくする指導者であればいい。それは坂本ではなく別の誰かだ。
未だ政治思想という大手門から天人に闘いを挑んでいるのが桂であり、あるいはかつての高杉であったとするなら、坂本は経済という搦め手から挑んでいるようなものなのである。それはたしかに、攘夷を抜けた坂本の、次の目処のひとつでもあったのだ。むろん忘れてはいない。いないが、しかし。日々の商い事にただ忙殺されていたのも、また事実だった。
「おんしは、酒瓶の底にたまった澱を揺さぶってまた混ぜ合わせるようなまねを、平気でしゆう。わしのなかに残っちゅう、攘夷の残滓を鎮めさせておいてはくれん」
ちら、とうらめしげに、坂本が桂を見る。婉然と、いや、いっそ妖艶と呼べる笑みを桂は浮かべた。
「あきらめろ。貴様は一介の商人に納まる器ではない。つまり、そういうことだ」
「わしに、そがな野心を植え付けようとするがか」
「抜かせ。野心もない人間が、宇宙を股に掛ける貿易商など目指すものか。それにだな、坂本」
情けなさそうに頭を抱えて上目遣いに睨める坂本に、桂はゆったり微笑んだ。
「そういうものを野心とは呼ばん。こころざし、というのだ」
国と民を思うという一点においては無私に等しいおとこに云われたのでは、坂本に返すことばはない。交換条件のもと協定を結ぶのに、否やのあろうはずもなかった。
短いトップ会談を済ませ、さっさと協定書にサインまで交わして、腹が決まった。三日も必要なかったか、という桂に、ほんなら残りの時間はわしと遊興三昧じゃいか。と、坂本はいつもの調子を取り戻し、酒を勧め、自らも喰らいながら、懲りずに桂を膝もとへと抱きよせる。
「小太郎は、あのころと変わらん。うつくしいままやき」
「そんなわけがあるか。この、もじゃ」
話がまとまり、だいぶ酒も入って、気分がほぐれてきたのだろう。抱きよせられるままにからだの重みをあずけてくる桂に、べつの、もうひとつの残滓が掻き立てられる。こちらは燻りつづけていて鎮めたわけでもないから、容易に煽られた。
「責任、取らせてくれんろうか」
「無用だ。おれはおなごではないからな」
桂はからだをひねって、色硝子の眼鏡を外させ、坂本の目線を捉える。
「だいちあれは、おれから頼んだことではないか。貴様がなんの責を負う必要がある?」
「つれないのぉ。こたろ。わしは責任を負いたいわけがやない。おんしを負いたいちや」
いつもの軽い口調のくせに、眸に真摯な色のあるのを見てとって、桂は黙った。
「わしは、あん夜の小太郎をよお忘れられん」
「…悪趣味なやつだ」
「忘れられんがは、こん腕のなかにいたおんしじゃーのうて。…むろんほれっちゃあ忘れがたいが」
猪口を片手に、空いたほうの掌を桂のやや崩した膝に置く。袷の衽(おくみ)のあたりをそのままするりと、大腿へと撫で上げた。
「あの夜、閨の極意を問うてきたときの、こたろうじゃ」
* * *
「正気か、桂さん」
「むろんだ。このようなことを冗談で問えるおれとおもうか?」
ほりゃあ、そうながけんど。桂の、あまりに突拍子もない発言に、そうしたスレた会話には慣れていたはずの坂本が、おもわず耳を疑った。疑ってしまった。
野郎同士ならではのあけすけな会話に桂が加わることはこれまでもほとんど無かったし、攘夷軍の同志のあいだでも、桂のまえでは妙な気恥ずかしさを覚えるらしく、桂がいれば、自然話の方向が逸れていった。それが桂の外見に因るものだということは、桂以外の全員に共有される認識であるところであった。
むしろ桂のいないところでは、桂自身がそうしたあけすけな会話の対象とされてもおかしくはないほどに、桂の容貌は軍のなかにあっては際だって異色であったから、懸想するものとてけして少なくはなかったのだ。だが。
高杉はもともと桂以外の人間とは距離を置くところがあって、みなとそうした莫迦話に興じることを好まなかった。銀時はみなの輪の端っこでだらりとかまえながらも、そうしたときに年相応の関心は隠さなかった。だがそのふたりともが、桂をそうした話題の対象にしようものなら、あからさまに不機嫌になり無言の眼力でもって話題をねじ伏せたのだから、まして邪なまねを試みるような輩は命がいくつあっても足りない。自分たちが幹部として並び称されるころには、そう、いつのまにか暗黙の了解が成り立ってしまっていた。
だから桂はおよそそうした下世話さとは縁のない場所に、ひとりいたのだ。冴えた玉容には似つかわしくないとさえ思えて、なにごとにも遠慮のない坂本でさえ、そうした話題をあえて桂に振るようなまねは、したことがない。桂の美は、仮初にも劣情の対象とされるべきではない、真に崇拝の対象たるべきだ。いつのまにかそんなふうに考えていたのかもしれなかった。
だから、耳を疑った。まじまじと、坂本は桂を見返した。なんの衒いもなく桂は端座している。
続 2008.01.02.
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