「天涯の遊子」番外。前後篇。前篇。
竜宮篇後の銀桂篇、そのもうひとつの世界。
竜宮城からの抗老化ウィルスワクチン撒布からしばらくのあいだ、江戸の町では奇怪な光景が出現した。老化ガスは万人を老爺老婆に変えたが、それを元に戻すワクチンの効き方には著しく個体差があったのが、その原因である。
最終的にはもとのからだに戻るから安心するようにとの当局からの呼びかけもあり、八割方の人間はほどなくもとどおりになったので、さほど混乱は起きなかったのだが。残り二割はそうはいかなかった。
即効性のあるはずが、効力の出が鈍くゆっくりもとの姿に若返っていくものがいるかと思えば、いったんもとどおりになったのに、効き過ぎて実年齢より若齢化してしまったものまである。子が親より年老いたままだったり兄弟の姿が逆転したりと、そこかしこに瑕疵はあったのだ。
* * *
だからって、この姿はないだろう。と、銀時は思う。
竜宮城ではたしかにもとの姿に戻ったはずなのに。効力はそこで止まらず、江戸に戻ってから若齢化が進み、あれよあれよという間に、私塾に通っていたころの姿にまで若返って、そこでようやく落ち着いた。いや、ここで落ち着かれてもこまるのだが、赤ん坊まで戻ったらどうしようかとなかば本気で心配していただけに、ひとまずは安堵する。
とはいえ、寝入るころに異変に気づいて、一晩でこのありさまとは。いつもの黒の上下に流水紋では当然丈も身頃も合わず、寝間着代わりの作務衣の袖と裾を端折って胴回りを絞って、まにあわせに着る。
だが、しかし。こんな姿では神楽や新八にあわせる顔がない。というか、なにを云われるか、なにをされるか、わかったものじゃない。なにより世帯主としての沽券にかかわる。常日頃の駄目保護者っぷりは棚にあげて、しばらく留守にするから神楽とあとをよろしく新八くん、との置き手紙一枚を残し、銀時はそそくさと朝ぼらけのなか万事屋をあとにした。
かといって行くところがあるわけでもない。知り合いがいるところはまずいしなぁ、と、あれこれ考えたあげく、教えられていた桂の隠れ家のひとつに潜り込むことにした。
桂がしょっちゅういるわけじゃないからふだんは空き家も同然で、銀時が会いに訪ねても会えることのほうが稀なのだから、からだがもとに戻るまでのほんの数日間(あくまで当局の発表を信じるならだが)、塒(ねぐら)にしたところでかまうまい。
仮にその間に桂が現れたとしても、桂なら銀時の子ども時代を知っているわけで、すぐに銀時とわかるだろう。それに。考えるまでもなく、桂あいてに、いまさら晒して恥ずかしい姿などないのだった。というか、桂以外には晒したくない。実のところそれがいちばんの理由だったのだが、そうと素直に認めるのも癪に障る。銀時は自らにいいわけしながら、その一軒家へと辿り着いた。
いわゆる大江戸八百八町の外郭に位置する小高い丘の中腹にひっそりと佇むそこは、数寄屋造りの瀟洒な建物で、桂の隠れ家のうちではめずらしく、潜伏目的の実用向きというよりは、ほんとうに隠棲するためのような塒だった。
子どもの足では思ったより時間が掛かってしまったようで、もう昼時近い。
空きっ腹を抱えて、ともあれ合い鍵で玄関の錠を外した。否、外そうとしたのだが、手応えがない。すでに鍵は開いていたのだ。
あいつ、いるのか? 不用心だな。
その場で家の中のようすをよくよく窺ってみると、たしかにひとの気配がある。いつもなら遠慮なく上がり込むところだが、さすがに逡巡があった。ここに来ておいてなにをいまさらと思い、だがまあ、この姿を見せてまじめくさった顔に笑われてやるかと腹を決めて、がらがらと引き戸を開ける。と、いままさに出かけようと玄関口へ続く廊下に出たところの、白いものと目があった。
とっさに、回れ右をする。どこの悪戯小僧かと思われるのが関の山だろう。その背後から声が掛かった。
「銀時?」
ああ、やっぱりいた。安堵と喜悦と、わずかに後悔めいたものが同時に沸き上がる。だが、まてよ。たしかに銀時の知る桂の声には違いないのだが。なんだか妙に懐かしいというか。ままよ、と振り返った銀時の目に飛び込んできたのは。
「………おめー、そのなりは、なんだよ」
いつもの袷羽織ではない。大人物の浴衣と思われるそれを、裾も袖も肩も思いっきり端折ってたくしあげ、細帯でとめてなんとか着てはいるが、それでも余る身頃にいまにもずり落ちそうな塩梅である。
「貴様、それをひとに云える立場か?」
幼さの残る声で、顔色ひとつ変えず、銀時を上から下まで眺めたあと淡々と返した桂は、銀時と大差なく若齢化していた。
「では、エリザベス。頼んだぞ」
『かしこまりました。ご心配なく。桂さんはこちらでゆっくりなさっていてくださいね』
桂に頼まれた買いものを終えて、ふたたびエリザベスは玄関へと向かった。さきほど来合わせた銀時のぶんまで増えた買いものは、当座必要な、子ども用の着物だの日用品だの食料品だのといった、こまごまとしたものである。そして、おとな桂が不在のあいだの代理活動をエリザベスは担うのだ。
まったく。どこまで波長が合うんだか、これも腐れ縁というやつなのか。銀時の唯一無二と定めたツレは、そのおそろしいまでの順応力の高さをいかんなく発揮して、子ども姿で過ごすあいだの算段を、あっという間にして見せた。
「天竺では休暇にならなかったからな。なに、そのぶんの休みと思えばよい」
買い出しの握り飯の最後の一口を食べ終えて、桂は茶を飲む。
「竜宮城だってーの。そらまあ、そうなんだけどもさ」
いちご味の蒟蒻ゼリーを口に放り込んだ。食後の甘味は銀時の必需品だ。
エリザベスの調達してきた夏向きの子ども用の着物は、絽の単衣、絹の襦袢に袴。往時さながらの桂のいでたちは、妙なくすぐったさをともなって、銀時の郷愁を誘った。銀時のほうは、やはり当時馴染んだ、丈の短い木綿の単衣の着流しだ。
桂に気づかれぬようそっと盗み見るようにその姿に見蕩れていた銀時は、なんとなく違和感を感じて、その原因に思い至った。
「あたっ」
突然髪をつかまれて、桂が思わず声をあげる。
「いきなりなにをする、貴様」
桂の抗議を無視して、長い黒髪を手にした銀時は、おもむろに手櫛でそれを梳きはじめた。さらさらと靡き、しっとりと手に馴染む感覚は、銀時にはことさらに懐かしく愛おしい。背にまとめて流しておいて立ち上がる。と、ごそごそと箪笥の引き出しをあさりはじめた。
「おい、銀時? なにを…」
「元結い、ないの?」
「元結い?それならそこの小引き出しに」
といって、中段の右を指す。一本引っ張りだしてきたそれを口に銜えて、また桂のうしろに膝立ちになる。
「おい?」
「やっぱ、そのなりにゃ、こうでねぇと」
いいながら手慣れたしぐさで、あたまのうしろの高い位置に髪をひとつにまとめ上げ、元結いで縛った。
「…………」
桂が一瞬虚をつかれた顔になり、やがて懐かしそうに笑む。
「むかし、よくこうしてもらったな。あのころから器用だったな貴様は」
「おめぇが不器用すぎるんですぅ」
そのむかし。桂の髪はもちろんふだんは家で整えられてきていたが、遊んだり稽古したりするうちに乱れてほどけてしまうこともあり、そのたびなおすのに苦心している桂を見るに見かねて、銀時が手を貸したのがはじまりだった。
銀時はこの髪の感触が好きだった。しっとりなめらかで、しなやかに絡みつき、そのくせさらさらと指のあいだからこぼれ落ちる。桂そのひとを現すかのような手触り。長じてからは、別の理由で乱された髪を整えなおすのも、銀時の秘やかなたのしみであり馴染んだ習慣のようなものであったが。
と、同時にそれに思い至ったらしく、知らず脂下がった銀時を桂が睨めた。
「云っておくが…せんぞ」
「たりめーです。このなりでやったっておもしろくねーでしょうが」
いや、おもしろくないことはないだろうが、いまそれを口にしたら、せっかく得た塒から叩き出されかねない。なにしろ、むかしこの年頃のとき銀時は、まだ悶々とするばかりで、桂の肌にそういう意味で触れたことはなかった。ああ、でもそうだ。たしか戯れに触れあわせたことがあったっけ。
回想に耽って、目のまえにある当時のままの桂の姿に、意識が遡っていく。結い終わったひとつ髪を掬い取っては流すことを繰り返しながら黙ってしまった銀時に、桂が背中越しに訝しんだような声をかけた。
「銀?」
「いや。なんかさ、思い出さね?」
「なにをだ」
「こーゆーの」
云って、振り向いた桂の朱唇に口唇を落とす。啄むように、触れるだけの。
「…………貴様は。云ったそばから」
「だから。たしかこんくらいのときだったじゃん?」
戯れに。好奇心から。理由はさまざまあるが、なにより銀時が、桂のそれに触れてみたかったから。初めて交わしたのは、銀時が桂への恋情を自覚するかしないかのころだった。
「くだらんことを憶えているのだな」
むかっ。
「くだらなくねーだろ。俺にとっちゃ、一大事…」
云い止して、周章てて口を噤んだ。桂がにやりと笑った気がする。
「いちだいじ?」
「るせー。なんでもねぇよ。くだらんことなんだろ。放っとけや」
「そうだ。くだらないことだ」
からだごと向き直った桂が、銀時の頬を両の手で挟んだ。と、そのまま啄み返す。銀時が目をまるくした。
「こんなことを、おたがいいまもだいじに憶えているなど」
「えっ…とぉ」
銀時が返答に窮していると、桂がそのままこつんと額を合わせて、呟いた。
「野山を駆けずり回って、日がな一日遊んだこともあったな」
そのことばに、銀時は思い立つ。
「なら、それもしてみっか?」
どうせなら。こんな巫山戯た事態なら。たのしんだほうが勝ちだ。
今朝がたの不安と憂鬱はどこへやら。桂がいるなら、こんな不条理な時間もわるくない。と思える自分が、われながら現金でいけない。
竜宮城での老いさらばえた身の、のんびりゆったりボケのかましあいも、来るべき未来の姿としてはわるいものではなかったが。
というかむしろ銀時にしてみれば、あの歳であんなふうに桂のとなりに在れるのなら、それはしあわせと呼べる一生なんじゃないか、と思ってしまったりしたわけで。
そんな銀時の内心など知りもしないであろう桂は、だが乗り気で云った。
「それなら、きさまもそのなりではおかしかろう」
銀時が腰に佩いていた木刀を取りあげるや、桂はそこに、おのれの本身の刀を差し込んだ。そうして自分は袴の腰に脇差だけを佩く。
「あのころの貴様はこれを片時も放さなかったではないか」
「こいつぁ……おめぇのだろ」
侍がおのれの刀を余人にあずけることは、おのが魂をあずけるに等しい。こんな戯れごとに、あっさり銀時に腰のものを貸す桂は、どうかしている。どうかしていると思いながらも、それを突き返すことができない。この身はこれを喜んでいる。この魂の震えを、重荷に感じた時期もたしかにあったというのに。桂もまた、かつてそれに気づいていたろうに。
ぐい、と腰のものを手で押さえ、空いたほうの手でむかしのように屈託なく桂の手を取って、周囲の野っぱらへと繰り出した。
* * *
続 2008.08.15.
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竜宮城からの抗老化ウィルスワクチン撒布からしばらくのあいだ、江戸の町では奇怪な光景が出現した。老化ガスは万人を老爺老婆に変えたが、それを元に戻すワクチンの効き方には著しく個体差があったのが、その原因である。
最終的にはもとのからだに戻るから安心するようにとの当局からの呼びかけもあり、八割方の人間はほどなくもとどおりになったので、さほど混乱は起きなかったのだが。残り二割はそうはいかなかった。
即効性のあるはずが、効力の出が鈍くゆっくりもとの姿に若返っていくものがいるかと思えば、いったんもとどおりになったのに、効き過ぎて実年齢より若齢化してしまったものまである。子が親より年老いたままだったり兄弟の姿が逆転したりと、そこかしこに瑕疵はあったのだ。
* * *
だからって、この姿はないだろう。と、銀時は思う。
竜宮城ではたしかにもとの姿に戻ったはずなのに。効力はそこで止まらず、江戸に戻ってから若齢化が進み、あれよあれよという間に、私塾に通っていたころの姿にまで若返って、そこでようやく落ち着いた。いや、ここで落ち着かれてもこまるのだが、赤ん坊まで戻ったらどうしようかとなかば本気で心配していただけに、ひとまずは安堵する。
とはいえ、寝入るころに異変に気づいて、一晩でこのありさまとは。いつもの黒の上下に流水紋では当然丈も身頃も合わず、寝間着代わりの作務衣の袖と裾を端折って胴回りを絞って、まにあわせに着る。
だが、しかし。こんな姿では神楽や新八にあわせる顔がない。というか、なにを云われるか、なにをされるか、わかったものじゃない。なにより世帯主としての沽券にかかわる。常日頃の駄目保護者っぷりは棚にあげて、しばらく留守にするから神楽とあとをよろしく新八くん、との置き手紙一枚を残し、銀時はそそくさと朝ぼらけのなか万事屋をあとにした。
かといって行くところがあるわけでもない。知り合いがいるところはまずいしなぁ、と、あれこれ考えたあげく、教えられていた桂の隠れ家のひとつに潜り込むことにした。
桂がしょっちゅういるわけじゃないからふだんは空き家も同然で、銀時が会いに訪ねても会えることのほうが稀なのだから、からだがもとに戻るまでのほんの数日間(あくまで当局の発表を信じるならだが)、塒(ねぐら)にしたところでかまうまい。
仮にその間に桂が現れたとしても、桂なら銀時の子ども時代を知っているわけで、すぐに銀時とわかるだろう。それに。考えるまでもなく、桂あいてに、いまさら晒して恥ずかしい姿などないのだった。というか、桂以外には晒したくない。実のところそれがいちばんの理由だったのだが、そうと素直に認めるのも癪に障る。銀時は自らにいいわけしながら、その一軒家へと辿り着いた。
いわゆる大江戸八百八町の外郭に位置する小高い丘の中腹にひっそりと佇むそこは、数寄屋造りの瀟洒な建物で、桂の隠れ家のうちではめずらしく、潜伏目的の実用向きというよりは、ほんとうに隠棲するためのような塒だった。
子どもの足では思ったより時間が掛かってしまったようで、もう昼時近い。
空きっ腹を抱えて、ともあれ合い鍵で玄関の錠を外した。否、外そうとしたのだが、手応えがない。すでに鍵は開いていたのだ。
あいつ、いるのか? 不用心だな。
その場で家の中のようすをよくよく窺ってみると、たしかにひとの気配がある。いつもなら遠慮なく上がり込むところだが、さすがに逡巡があった。ここに来ておいてなにをいまさらと思い、だがまあ、この姿を見せてまじめくさった顔に笑われてやるかと腹を決めて、がらがらと引き戸を開ける。と、いままさに出かけようと玄関口へ続く廊下に出たところの、白いものと目があった。
とっさに、回れ右をする。どこの悪戯小僧かと思われるのが関の山だろう。その背後から声が掛かった。
「銀時?」
ああ、やっぱりいた。安堵と喜悦と、わずかに後悔めいたものが同時に沸き上がる。だが、まてよ。たしかに銀時の知る桂の声には違いないのだが。なんだか妙に懐かしいというか。ままよ、と振り返った銀時の目に飛び込んできたのは。
「………おめー、そのなりは、なんだよ」
いつもの袷羽織ではない。大人物の浴衣と思われるそれを、裾も袖も肩も思いっきり端折ってたくしあげ、細帯でとめてなんとか着てはいるが、それでも余る身頃にいまにもずり落ちそうな塩梅である。
「貴様、それをひとに云える立場か?」
幼さの残る声で、顔色ひとつ変えず、銀時を上から下まで眺めたあと淡々と返した桂は、銀時と大差なく若齢化していた。
「では、エリザベス。頼んだぞ」
『かしこまりました。ご心配なく。桂さんはこちらでゆっくりなさっていてくださいね』
桂に頼まれた買いものを終えて、ふたたびエリザベスは玄関へと向かった。さきほど来合わせた銀時のぶんまで増えた買いものは、当座必要な、子ども用の着物だの日用品だの食料品だのといった、こまごまとしたものである。そして、おとな桂が不在のあいだの代理活動をエリザベスは担うのだ。
まったく。どこまで波長が合うんだか、これも腐れ縁というやつなのか。銀時の唯一無二と定めたツレは、そのおそろしいまでの順応力の高さをいかんなく発揮して、子ども姿で過ごすあいだの算段を、あっという間にして見せた。
「天竺では休暇にならなかったからな。なに、そのぶんの休みと思えばよい」
買い出しの握り飯の最後の一口を食べ終えて、桂は茶を飲む。
「竜宮城だってーの。そらまあ、そうなんだけどもさ」
いちご味の蒟蒻ゼリーを口に放り込んだ。食後の甘味は銀時の必需品だ。
エリザベスの調達してきた夏向きの子ども用の着物は、絽の単衣、絹の襦袢に袴。往時さながらの桂のいでたちは、妙なくすぐったさをともなって、銀時の郷愁を誘った。銀時のほうは、やはり当時馴染んだ、丈の短い木綿の単衣の着流しだ。
桂に気づかれぬようそっと盗み見るようにその姿に見蕩れていた銀時は、なんとなく違和感を感じて、その原因に思い至った。
「あたっ」
突然髪をつかまれて、桂が思わず声をあげる。
「いきなりなにをする、貴様」
桂の抗議を無視して、長い黒髪を手にした銀時は、おもむろに手櫛でそれを梳きはじめた。さらさらと靡き、しっとりと手に馴染む感覚は、銀時にはことさらに懐かしく愛おしい。背にまとめて流しておいて立ち上がる。と、ごそごそと箪笥の引き出しをあさりはじめた。
「おい、銀時? なにを…」
「元結い、ないの?」
「元結い?それならそこの小引き出しに」
といって、中段の右を指す。一本引っ張りだしてきたそれを口に銜えて、また桂のうしろに膝立ちになる。
「おい?」
「やっぱ、そのなりにゃ、こうでねぇと」
いいながら手慣れたしぐさで、あたまのうしろの高い位置に髪をひとつにまとめ上げ、元結いで縛った。
「…………」
桂が一瞬虚をつかれた顔になり、やがて懐かしそうに笑む。
「むかし、よくこうしてもらったな。あのころから器用だったな貴様は」
「おめぇが不器用すぎるんですぅ」
そのむかし。桂の髪はもちろんふだんは家で整えられてきていたが、遊んだり稽古したりするうちに乱れてほどけてしまうこともあり、そのたびなおすのに苦心している桂を見るに見かねて、銀時が手を貸したのがはじまりだった。
銀時はこの髪の感触が好きだった。しっとりなめらかで、しなやかに絡みつき、そのくせさらさらと指のあいだからこぼれ落ちる。桂そのひとを現すかのような手触り。長じてからは、別の理由で乱された髪を整えなおすのも、銀時の秘やかなたのしみであり馴染んだ習慣のようなものであったが。
と、同時にそれに思い至ったらしく、知らず脂下がった銀時を桂が睨めた。
「云っておくが…せんぞ」
「たりめーです。このなりでやったっておもしろくねーでしょうが」
いや、おもしろくないことはないだろうが、いまそれを口にしたら、せっかく得た塒から叩き出されかねない。なにしろ、むかしこの年頃のとき銀時は、まだ悶々とするばかりで、桂の肌にそういう意味で触れたことはなかった。ああ、でもそうだ。たしか戯れに触れあわせたことがあったっけ。
回想に耽って、目のまえにある当時のままの桂の姿に、意識が遡っていく。結い終わったひとつ髪を掬い取っては流すことを繰り返しながら黙ってしまった銀時に、桂が背中越しに訝しんだような声をかけた。
「銀?」
「いや。なんかさ、思い出さね?」
「なにをだ」
「こーゆーの」
云って、振り向いた桂の朱唇に口唇を落とす。啄むように、触れるだけの。
「…………貴様は。云ったそばから」
「だから。たしかこんくらいのときだったじゃん?」
戯れに。好奇心から。理由はさまざまあるが、なにより銀時が、桂のそれに触れてみたかったから。初めて交わしたのは、銀時が桂への恋情を自覚するかしないかのころだった。
「くだらんことを憶えているのだな」
むかっ。
「くだらなくねーだろ。俺にとっちゃ、一大事…」
云い止して、周章てて口を噤んだ。桂がにやりと笑った気がする。
「いちだいじ?」
「るせー。なんでもねぇよ。くだらんことなんだろ。放っとけや」
「そうだ。くだらないことだ」
からだごと向き直った桂が、銀時の頬を両の手で挟んだ。と、そのまま啄み返す。銀時が目をまるくした。
「こんなことを、おたがいいまもだいじに憶えているなど」
「えっ…とぉ」
銀時が返答に窮していると、桂がそのままこつんと額を合わせて、呟いた。
「野山を駆けずり回って、日がな一日遊んだこともあったな」
そのことばに、銀時は思い立つ。
「なら、それもしてみっか?」
どうせなら。こんな巫山戯た事態なら。たのしんだほうが勝ちだ。
今朝がたの不安と憂鬱はどこへやら。桂がいるなら、こんな不条理な時間もわるくない。と思える自分が、われながら現金でいけない。
竜宮城での老いさらばえた身の、のんびりゆったりボケのかましあいも、来るべき未来の姿としてはわるいものではなかったが。
というかむしろ銀時にしてみれば、あの歳であんなふうに桂のとなりに在れるのなら、それはしあわせと呼べる一生なんじゃないか、と思ってしまったりしたわけで。
そんな銀時の内心など知りもしないであろう桂は、だが乗り気で云った。
「それなら、きさまもそのなりではおかしかろう」
銀時が腰に佩いていた木刀を取りあげるや、桂はそこに、おのれの本身の刀を差し込んだ。そうして自分は袴の腰に脇差だけを佩く。
「あのころの貴様はこれを片時も放さなかったではないか」
「こいつぁ……おめぇのだろ」
侍がおのれの刀を余人にあずけることは、おのが魂をあずけるに等しい。こんな戯れごとに、あっさり銀時に腰のものを貸す桂は、どうかしている。どうかしていると思いながらも、それを突き返すことができない。この身はこれを喜んでいる。この魂の震えを、重荷に感じた時期もたしかにあったというのに。桂もまた、かつてそれに気づいていたろうに。
ぐい、と腰のものを手で押さえ、空いたほうの手でむかしのように屈託なく桂の手を取って、周囲の野っぱらへと繰り出した。
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続 2008.08.15.
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