「天涯の遊子」土桂篇。4回に分割。
土方と桂。山崎の出番がちょこっと。
桂の江戸潜伏後あたりから、紅桜直後まで。時系列。
かたちのよい口唇が、すっと横に引かれて、笑みをかたちづくる。眸には嘲るような揶揄かうような色があった。
「遅い」
気づくのが。土方は歯噛みする。まったくそのとおりなので、返すことばがない。なんだって、自分はこいつに見惚れたりなどしたんだ。目のまえの憎々しげな顔を見つめて、土方は激しく悔やんだ。すまねぇ、近藤さん。
「狗。手柄にしそこねたな」
「まったくだ。てめぇをパクってりゃ、大将の株が上がったろうによ」
「ほう?」
意外なことでも聞いたかのように桂が目を眇めた。
「狗にしては殊勝な心がけだ。おのが立身より主(あるじ)の出世か」
「だまれ。屋根から落っこちるような間抜けテロリストに云われたかねえ」
「間抜けテロリストじゃない。攘夷志士、桂だ。ふん。それを不様に受けとめ損ねたような貴様に云われる筋合いはない」
「ああ? なんだって俺がてめぇを受けとめなきゃならねぇんだよっ」
「ひとが落ちてきたら、黙ってそうするのが侍というものだろう」
「どういう理屈だ、それは」
「やはり芋侍に、侍の心根を求めるのがまちがいだったか」
「かんけーねぇだろ。そりゃ。さっきから狗だの芋だの好き放題云いやがって」
どうにも、調子が出ない。話すほどに桂のペースに巻き込まれていく気がするが、なまじ知らず見惚れてしまったほどの容姿なものだから、云われっぱなしなのも癪に障る。土方は律儀に応対した。少しでもこの場に引き止めておこうという考えもあった。そのうち仲間が桂を追って、あるいは土方を捜しにやってくるかもしれない。だが見透かしたように桂はそこで、踵を返す。
「無駄だ。追っ手はとうに撒いた。貴様も帰り道に迷うなよ、芋侍」
云い捨てて、桂の姿は夕間暮れの路地の向こうに消えた。
ほうぅ、と大きな溜息が出る。そこで初めて、自分が緊張していたことに、土方は気づいた。緊張?いったいなにに? 土方は自問する。
「あのやろう、殺気のかけらもなかったってぇのに」
土方の右手を封じたから、というだけでなく、桂は土方に対して、敵愾心を向けてこなかった。土方にというより真選組自体に向けられる、敵意をさほど感じなかったというべきか。桂のそれは、煩い蠅を払い除けるに似た、感覚なのもしれない。追われるから逃げる。邪魔をされれば刀を抜くが、捕まるわけにはいかないから、ただ真選組を鬱陶しがっているだけなのだ。
「ちっくしょう。歯牙にもかけねぇってことか。攘夷の英雄さんはよぉ」
こっちは目の敵にして、必死で追ってるってえのに。
「あんな、どっかしら抜けてんのに」
殺気はなかった。が、隙もなかった。
いうならば、ただその存在感に気圧されたのだ。数多の修羅場をくぐり抜けてきた人間だけが持ちうる、存在そのものの気が、土方に緊張を強いた。
「なさけねぇ」
なにに対してそうつぶやいたのか。その真意を土方自身まだ気づけずにいた。
* * *
あれから、桂のことが頭から離れない。
なつかしく愛おしいものを見るような眼差し。その視線を絶った哀切な横顔。ぐったりと睫の影を落とした頬。黒い髪から覗いた白いうなじ。おのれを見た嘲笑とも揶揄ともとれる目顔。鮮やかな身のこなしと纏う涼やかな気配。なのにあのネジの弛んだような抜けた感覚。反しておのずと身を律する圧倒的な存在感。
そのどれもが、手配写真ではない生身の桂を土方に実感させ、消し去ろうとしても消えてくれない。捕まえてしまえば、こんな半端な感覚に悩まされずにすむと思うくせに、捕まらない桂に安堵したりする。おのれのこころのうごきを持て余し気味だった。
以前にはありえなかった、桂のリアルな存在感に、土方は途方にくれた。
どうかしている。なにに、自分はそんなにこだわっているのか。リアルな桂がなんだというのだ。桂の過去も現在も、自分のあずかり知るところではないはずだ。あれはただの犯罪者だ。そう云いきかせる。だがいくら云いきかせたところで、まるきり書類上の存在だったころには戻らないことを、土方は知っていた。戻れないことを、知ってしまっていた。
* * *
橋のなかほどに、倒れ蹲る人影があった。夜の巡回中、土方はそれをみつけた。
笠、羽織り、帯刀。流れでる血。斬ばらな黒髪。
辻斬りが横行していた。最初は死体かと思った。近づくと、だが息があった。うつぶせたままのその顔に、土方は息を呑んだ。軽く揺すって、声を掛ける。かすかな返事が返った。
土方ひとりであったことが幸いした。幸いした、となぜ思ったか、その理由を自らに問うことはしなかった。
夜の町を人目をはばかるように、自失した桂を抱きかかえ、なじみの宿に運び込んだ。女と過ごすのに利用するような場所だから、いちいち詮索されたりもしない。宿の造りは和風だが個々に施錠もできる。
出血の場所をあらためて、止血と応急処置とを施す。潜りの医者に診せることも考えたが、桂とおのれ、双方の立場を顧みて、止めにした。幸い刀傷は、急所までにはいたっていない。懐に切れた冊子があった。これで命を拾ったか。もしここで死ぬようなら、桂の命運もそれまでだったということだ。否。そもそも土方がみつけた時点で、そうなっていたはずだった。そうなっていなければならなかったのだ。本来なら。
夜半過ぎには発熱していた。このまま熱が引かなければまずいことになるかもしれない。翌早朝、とりあえず薬だけは調達した。官医ではなく、懇意の町医者からだ。土方が仕事柄、理由を明かせぬ事情でやっかいになることもある、老医師だった。朝っぱらからたたき起こされたことへの文句を云いつつも、今回も深い事情までは質さずに、説明した刀傷の状態と症状とから、処方してくれた。
桂の意識が戻らないのでひとまず塗り薬だけを施して、水差しとコップと薬とを枕元に置いておく。とりあえず、仕事に出ねばならない時間だった。
素知らぬ顔で屯所に顔を出す。あまり眠っていないが、気が張っているのか眠気は催さなかった。ようやっと一日の勤めを終えて、そそくさと帰り支度をする土方に、山崎が声を掛けてきた。
「副長、きょうは外でお泊まりですか」
これですか?、と書類を手にしたまま小指を立てて示してくる。
「まあ、そんなもんだ」
銜え煙草で、曖昧にこたえる。女と思われるなら、そのほうが都合がいい。
「よっぽど、いいおんななんですね。そんなふうにいそいそと身支度する副長なんて、めずらしいですよ」
煙草がぽろりと口から落ちた。あわてて、銜えなおす。そんなふうに、見えたのだろうか。
「いいなぁ。うらやましい。僕も自分を待ってる女性のもとに帰ってみたいですよ」
土方の動揺をよそに、とんちんかんなことを云って、山崎は書類を抱えたまま詰め所へと消えた。
宿へ戻ると、朝とたがわぬ状態で桂はいた。水も薬も手つかずのままだ。
その枕元で、コンビニで買った弁当をひろげる。朝は薬の調達にでて摂る時間がなかったし、昼も適当で仕事の片手間に軽食を口にしただけだったから、いいかげんちゃんと食わないと、と思って買い出ししてはきたものの。
「あんまり、すすまねぇな」
マヨネーズをかけまくっても湧かない食欲に、無理矢理に箸を付けてぼそぼそと口に押し込む。目のまえに横たわる桂の血の気の失せた顔を見つめながらでは、食う気が起きねぇのも無理からぬことかと、ひとりごちる。
「早く、目ぇさませよ。ったく」
あの眸が、見たい。愛惜、哀切、嘲笑、揶揄、啓蒙、達観、なんでもいいから。強い意志の光を宿すあの眸を、見たいと切実に土方は思った。
桂が目覚めれば、この状況をどう説明するのか。そのさきどうしようというのか。そんなやっかいな事態が待ってはいたが。そんなことより、ただ目覚めて欲しかった。それだけを思って、土方はそれからの二晩を過ごした。
朝夕に傷口をあらため、薬を塗り、包帯を替える。昼は仕事、夜は枕元に座して、時折、額の手ぬぐいと氷嚢をとりかえる。熱に乾いた口唇は濡れ布巾で湿らせ、わずかばかりの水分を摂らせた。ほかにすることもなく、する気もおきなかった。土方もさすがにうつらうつらと、船を漕ぐ。
「………き」
ふいに、桂の口唇がうごいた。気づいた土方が、あわてて声を掛ける。意識を取り戻したかに見えたが、高熱と痛みからか朦朧としたままで、夢と現とを往復しているようだった。
「ほら、口開けろ。飲め。薬だ。楽になる」
意識のある間を見計らってそう声にして、処方された丸薬を口許へ運ぶ。桂は、視線はこちらに向けるが、焦点は定まらないままだ。
「……ぎん? …しん…すけ? たつま?」
聞き取れるか取れないかというほどの、か細い声で、名を紡ぐ。
「…だれ…だ?」
しんすけ、というのは高杉晋助のことだろうか。土方にはあとは耳慣れない名だった。攘夷戦争のころと意識が錯綜しているのかもしれない。土方は一瞬迷って、ことばを濁した。
「…俺だ。いいから、飲め」
桂の半身を抱き起こして、口に丸薬を押し込む。水の入ったコップを口に付けてやるが、丸三日、飲まず食わずで熱に浮かされていたのだから、飲み込むだけのちからがない。やむをえず、土方は桂の顎を捉えて仰向かせる。軽く抑えて開かせた口唇に、おのが口に含んだ水を含ませ、そのまま舌を差し入れて、桂の舌にのせた丸薬をのどの奥まで押し込んだ。桂がそれを嚥下するのを確認して、口唇を放す。口の端から零れた水滴を指先で拭った。
「…? な…んだ? なにを…」
「だから、薬だ。痛み止めと化膿止め。もうちょっと待って、熱が下がらなけりゃ、解熱剤も飲ませるからな」
そういって、もとのように桂の身を横たわらせる。
「くすりは…きらいだ」
幼子のような口調になった。
「だからよ。好き嫌いの問題じゃねぇのよ、いまは。いやなら早く治すこったな」
ぷぅ、と小さくふくれる。ちからのないしぐさだが、会話の意味はわかっているようだ。だがおそらく相手が土方だとまでは、わかっていない。でなければ、こんな表情や態度を見せるわけがない。
捲れたふとんをかけなおして、ぽんぽんと赤子をあやすように叩く。ほどなく薬が効いてきたのか、桂はうつらうつらしながらやがて寝入った。寝息を確かめて離れようとした土方は、ぎょっとしてその場に固まった。ふとんに掛けていた指を離そうとした瞬間、桂の手がそれを阻んだからだ。
「…!?」
以前の路地でのことが頭をよぎり、もういちど桂の寝息を確かめる。やはり、眠っている。薬を飲ませるまえよりか幾分呼吸も楽になったように思う。なんのことはない、無意識の行動だったのだ。おのれの指にしかと絡ませた桂の手指に、それを外すこともできず、土方は苦笑した。
「…ったく。だれと、まちがえてんだ。桂?」
なんといったか。晋助と、たつま、に、ぎん、だったか。攘夷をともに闘った男たちの名か。思い浮かべそう考えたとき、胸に鋭い痛みが走った。その痛みに、土方は気づかないふりをした。
目覚めた桂が正気を取り戻したら、どうするだろう。いや、それよりもおのれこそ、どうしようというのか。自分のした行動の理由など、土方自身説明のつく感情からでたものでは、ないのだから。
続 2008.01.22.
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かたちのよい口唇が、すっと横に引かれて、笑みをかたちづくる。眸には嘲るような揶揄かうような色があった。
「遅い」
気づくのが。土方は歯噛みする。まったくそのとおりなので、返すことばがない。なんだって、自分はこいつに見惚れたりなどしたんだ。目のまえの憎々しげな顔を見つめて、土方は激しく悔やんだ。すまねぇ、近藤さん。
「狗。手柄にしそこねたな」
「まったくだ。てめぇをパクってりゃ、大将の株が上がったろうによ」
「ほう?」
意外なことでも聞いたかのように桂が目を眇めた。
「狗にしては殊勝な心がけだ。おのが立身より主(あるじ)の出世か」
「だまれ。屋根から落っこちるような間抜けテロリストに云われたかねえ」
「間抜けテロリストじゃない。攘夷志士、桂だ。ふん。それを不様に受けとめ損ねたような貴様に云われる筋合いはない」
「ああ? なんだって俺がてめぇを受けとめなきゃならねぇんだよっ」
「ひとが落ちてきたら、黙ってそうするのが侍というものだろう」
「どういう理屈だ、それは」
「やはり芋侍に、侍の心根を求めるのがまちがいだったか」
「かんけーねぇだろ。そりゃ。さっきから狗だの芋だの好き放題云いやがって」
どうにも、調子が出ない。話すほどに桂のペースに巻き込まれていく気がするが、なまじ知らず見惚れてしまったほどの容姿なものだから、云われっぱなしなのも癪に障る。土方は律儀に応対した。少しでもこの場に引き止めておこうという考えもあった。そのうち仲間が桂を追って、あるいは土方を捜しにやってくるかもしれない。だが見透かしたように桂はそこで、踵を返す。
「無駄だ。追っ手はとうに撒いた。貴様も帰り道に迷うなよ、芋侍」
云い捨てて、桂の姿は夕間暮れの路地の向こうに消えた。
ほうぅ、と大きな溜息が出る。そこで初めて、自分が緊張していたことに、土方は気づいた。緊張?いったいなにに? 土方は自問する。
「あのやろう、殺気のかけらもなかったってぇのに」
土方の右手を封じたから、というだけでなく、桂は土方に対して、敵愾心を向けてこなかった。土方にというより真選組自体に向けられる、敵意をさほど感じなかったというべきか。桂のそれは、煩い蠅を払い除けるに似た、感覚なのもしれない。追われるから逃げる。邪魔をされれば刀を抜くが、捕まるわけにはいかないから、ただ真選組を鬱陶しがっているだけなのだ。
「ちっくしょう。歯牙にもかけねぇってことか。攘夷の英雄さんはよぉ」
こっちは目の敵にして、必死で追ってるってえのに。
「あんな、どっかしら抜けてんのに」
殺気はなかった。が、隙もなかった。
いうならば、ただその存在感に気圧されたのだ。数多の修羅場をくぐり抜けてきた人間だけが持ちうる、存在そのものの気が、土方に緊張を強いた。
「なさけねぇ」
なにに対してそうつぶやいたのか。その真意を土方自身まだ気づけずにいた。
* * *
あれから、桂のことが頭から離れない。
なつかしく愛おしいものを見るような眼差し。その視線を絶った哀切な横顔。ぐったりと睫の影を落とした頬。黒い髪から覗いた白いうなじ。おのれを見た嘲笑とも揶揄ともとれる目顔。鮮やかな身のこなしと纏う涼やかな気配。なのにあのネジの弛んだような抜けた感覚。反しておのずと身を律する圧倒的な存在感。
そのどれもが、手配写真ではない生身の桂を土方に実感させ、消し去ろうとしても消えてくれない。捕まえてしまえば、こんな半端な感覚に悩まされずにすむと思うくせに、捕まらない桂に安堵したりする。おのれのこころのうごきを持て余し気味だった。
以前にはありえなかった、桂のリアルな存在感に、土方は途方にくれた。
どうかしている。なにに、自分はそんなにこだわっているのか。リアルな桂がなんだというのだ。桂の過去も現在も、自分のあずかり知るところではないはずだ。あれはただの犯罪者だ。そう云いきかせる。だがいくら云いきかせたところで、まるきり書類上の存在だったころには戻らないことを、土方は知っていた。戻れないことを、知ってしまっていた。
* * *
橋のなかほどに、倒れ蹲る人影があった。夜の巡回中、土方はそれをみつけた。
笠、羽織り、帯刀。流れでる血。斬ばらな黒髪。
辻斬りが横行していた。最初は死体かと思った。近づくと、だが息があった。うつぶせたままのその顔に、土方は息を呑んだ。軽く揺すって、声を掛ける。かすかな返事が返った。
土方ひとりであったことが幸いした。幸いした、となぜ思ったか、その理由を自らに問うことはしなかった。
夜の町を人目をはばかるように、自失した桂を抱きかかえ、なじみの宿に運び込んだ。女と過ごすのに利用するような場所だから、いちいち詮索されたりもしない。宿の造りは和風だが個々に施錠もできる。
出血の場所をあらためて、止血と応急処置とを施す。潜りの医者に診せることも考えたが、桂とおのれ、双方の立場を顧みて、止めにした。幸い刀傷は、急所までにはいたっていない。懐に切れた冊子があった。これで命を拾ったか。もしここで死ぬようなら、桂の命運もそれまでだったということだ。否。そもそも土方がみつけた時点で、そうなっていたはずだった。そうなっていなければならなかったのだ。本来なら。
夜半過ぎには発熱していた。このまま熱が引かなければまずいことになるかもしれない。翌早朝、とりあえず薬だけは調達した。官医ではなく、懇意の町医者からだ。土方が仕事柄、理由を明かせぬ事情でやっかいになることもある、老医師だった。朝っぱらからたたき起こされたことへの文句を云いつつも、今回も深い事情までは質さずに、説明した刀傷の状態と症状とから、処方してくれた。
桂の意識が戻らないのでひとまず塗り薬だけを施して、水差しとコップと薬とを枕元に置いておく。とりあえず、仕事に出ねばならない時間だった。
素知らぬ顔で屯所に顔を出す。あまり眠っていないが、気が張っているのか眠気は催さなかった。ようやっと一日の勤めを終えて、そそくさと帰り支度をする土方に、山崎が声を掛けてきた。
「副長、きょうは外でお泊まりですか」
これですか?、と書類を手にしたまま小指を立てて示してくる。
「まあ、そんなもんだ」
銜え煙草で、曖昧にこたえる。女と思われるなら、そのほうが都合がいい。
「よっぽど、いいおんななんですね。そんなふうにいそいそと身支度する副長なんて、めずらしいですよ」
煙草がぽろりと口から落ちた。あわてて、銜えなおす。そんなふうに、見えたのだろうか。
「いいなぁ。うらやましい。僕も自分を待ってる女性のもとに帰ってみたいですよ」
土方の動揺をよそに、とんちんかんなことを云って、山崎は書類を抱えたまま詰め所へと消えた。
宿へ戻ると、朝とたがわぬ状態で桂はいた。水も薬も手つかずのままだ。
その枕元で、コンビニで買った弁当をひろげる。朝は薬の調達にでて摂る時間がなかったし、昼も適当で仕事の片手間に軽食を口にしただけだったから、いいかげんちゃんと食わないと、と思って買い出ししてはきたものの。
「あんまり、すすまねぇな」
マヨネーズをかけまくっても湧かない食欲に、無理矢理に箸を付けてぼそぼそと口に押し込む。目のまえに横たわる桂の血の気の失せた顔を見つめながらでは、食う気が起きねぇのも無理からぬことかと、ひとりごちる。
「早く、目ぇさませよ。ったく」
あの眸が、見たい。愛惜、哀切、嘲笑、揶揄、啓蒙、達観、なんでもいいから。強い意志の光を宿すあの眸を、見たいと切実に土方は思った。
桂が目覚めれば、この状況をどう説明するのか。そのさきどうしようというのか。そんなやっかいな事態が待ってはいたが。そんなことより、ただ目覚めて欲しかった。それだけを思って、土方はそれからの二晩を過ごした。
朝夕に傷口をあらため、薬を塗り、包帯を替える。昼は仕事、夜は枕元に座して、時折、額の手ぬぐいと氷嚢をとりかえる。熱に乾いた口唇は濡れ布巾で湿らせ、わずかばかりの水分を摂らせた。ほかにすることもなく、する気もおきなかった。土方もさすがにうつらうつらと、船を漕ぐ。
「………き」
ふいに、桂の口唇がうごいた。気づいた土方が、あわてて声を掛ける。意識を取り戻したかに見えたが、高熱と痛みからか朦朧としたままで、夢と現とを往復しているようだった。
「ほら、口開けろ。飲め。薬だ。楽になる」
意識のある間を見計らってそう声にして、処方された丸薬を口許へ運ぶ。桂は、視線はこちらに向けるが、焦点は定まらないままだ。
「……ぎん? …しん…すけ? たつま?」
聞き取れるか取れないかというほどの、か細い声で、名を紡ぐ。
「…だれ…だ?」
しんすけ、というのは高杉晋助のことだろうか。土方にはあとは耳慣れない名だった。攘夷戦争のころと意識が錯綜しているのかもしれない。土方は一瞬迷って、ことばを濁した。
「…俺だ。いいから、飲め」
桂の半身を抱き起こして、口に丸薬を押し込む。水の入ったコップを口に付けてやるが、丸三日、飲まず食わずで熱に浮かされていたのだから、飲み込むだけのちからがない。やむをえず、土方は桂の顎を捉えて仰向かせる。軽く抑えて開かせた口唇に、おのが口に含んだ水を含ませ、そのまま舌を差し入れて、桂の舌にのせた丸薬をのどの奥まで押し込んだ。桂がそれを嚥下するのを確認して、口唇を放す。口の端から零れた水滴を指先で拭った。
「…? な…んだ? なにを…」
「だから、薬だ。痛み止めと化膿止め。もうちょっと待って、熱が下がらなけりゃ、解熱剤も飲ませるからな」
そういって、もとのように桂の身を横たわらせる。
「くすりは…きらいだ」
幼子のような口調になった。
「だからよ。好き嫌いの問題じゃねぇのよ、いまは。いやなら早く治すこったな」
ぷぅ、と小さくふくれる。ちからのないしぐさだが、会話の意味はわかっているようだ。だがおそらく相手が土方だとまでは、わかっていない。でなければ、こんな表情や態度を見せるわけがない。
捲れたふとんをかけなおして、ぽんぽんと赤子をあやすように叩く。ほどなく薬が効いてきたのか、桂はうつらうつらしながらやがて寝入った。寝息を確かめて離れようとした土方は、ぎょっとしてその場に固まった。ふとんに掛けていた指を離そうとした瞬間、桂の手がそれを阻んだからだ。
「…!?」
以前の路地でのことが頭をよぎり、もういちど桂の寝息を確かめる。やはり、眠っている。薬を飲ませるまえよりか幾分呼吸も楽になったように思う。なんのことはない、無意識の行動だったのだ。おのれの指にしかと絡ませた桂の手指に、それを外すこともできず、土方は苦笑した。
「…ったく。だれと、まちがえてんだ。桂?」
なんといったか。晋助と、たつま、に、ぎん、だったか。攘夷をともに闘った男たちの名か。思い浮かべそう考えたとき、胸に鋭い痛みが走った。その痛みに、土方は気づかないふりをした。
目覚めた桂が正気を取り戻したら、どうするだろう。いや、それよりもおのれこそ、どうしようというのか。自分のした行動の理由など、土方自身説明のつく感情からでたものでは、ないのだから。
続 2008.01.22.
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