「天涯の遊子」高桂篇。せきえい、と読む。
高杉と桂(若桂)。
竜宮篇以降、モンハン篇よりまえ。
連作時系列では、高桂『虜囚』のあと。銀桂+土桂『朧』の連動挿話。
「なんだ、ありゃあ」
幻を見たのかと思った。それほどにその姿はかつての幼なじみに生き写しだった。
ひさしぶり、でもないが江戸に降り立ち、われながら酔狂が過ぎると思いながらも陸路京へと向かっていた。その道中でその幻を見た。
幻のこどもは若衆振袖に長い黒髪をうしろで高く結い、駅前の街道筋から脇道に逸れたあたりで柴犬と戯れていた。首に輪を付けているから飼い犬だろうか。犬の姿こそ違え、そんなところまでそっくりだ。
いや、当時とちがうのはその屈託のない笑顔。あの年頃にはもうそんな姿は拝めなかった。ちょうどそのころ、俺たちは松陽先生を失ったのだから。
若衆振袖の少年はうれしそうに柴犬と追いかけっこをし、立ち止まっては抱きよせて握手している。ちんまるの柴はまだ仔犬のようでぺろぺろとその手を舌で舐め懐いているが、ああもかまわれちゃそのうち逃げ出すんじゃねぇか、そう思い遣られるほどだった。
「姿形が似ると思考まで似るものなのかねぇ」
そうひとりごちて、懐から愛用の煙管を取り出す。道端の木陰に腰をおろして一服がてら、しばしその姿を眺めたのしむとした。
しかし似ている。
白皙の頬に茱萸の口唇。長い睫に縁取られた黒曜石の眸。華奢な首筋にまといつく後れ毛。薄い肩、細い腰、それでいてちからづよい足取り。かつて惹かれてやまなかった、いまもまだつねにどこかで恋しくてやまないままの、こんなにも似たものがこの世にふたつあるとは。
「あんくらいのときに、攫っておきゃあよかったよなぁ」
云っても詮ないことと知っている。だいちあいてはおとなしく攫われてくれるようなタマでもない。あの白髪頭がそばにいなければかなったかもしれないが、いまさら覆らない過去の仮定は意味のない夢想に過ぎなかった。
わん。
目のまえの風景から知らず記憶のなかの情景へと引き込まれていた高杉は、耳もとのその鳴き声に我に返った。
「あん?」
気づけば、柴の仔犬がいつのまにやら高杉の膝もとに寄ってきていて、派手な着流しの裾を咬んだ。
「おいおい」
咬んで着物とじゃれだした柴わんこを片手でひょいとつまみ上げる。そのまま腹に手を回して掌で抱えるように持ちあげた。
「もうしわけない。貴殿の犬であったか」
そう掛けられた声に、高杉はぎくりとしてその主を見た。
ありえねぇ。
まだ幼さの残るその涼やかな声までもが、記憶の奥底に深く染みついている往時の桂の声、そのままだったからだ。
「いや、てめぇのわんころじゃねぇのか?」
「残念ながらちがうのだ。してみると貴殿の犬でもないのだな」
そう小首を傾げるしぐさまでもが、まるでおなじだ。
「こまったな。旅のものゆえ、そう長くも時間が割けぬ。どこの飼い犬かご存じなかろうか」
「なんでぇ。迷い犬か」
「うむ。そこの路地でな。まだ仔犬ゆえ自分の飼い主の家もわからぬと見えてうろうろしておったのだ」
「捨てられたんじゃねぇのかい」
「こんなかわいらしいものをだれが捨てるのだ。仮にそうだとすればゆるせぬ」
きっ、と高杉を真正面から挑むように見つめてきた双眸に、眩暈を覚えた。
なんだ、これは。まんま小太郎じゃねぇか。
「まあ、首輪も付いてるからなぁ。んなこたぁねぇとは思うが」
少年はほっとしたように視線をゆるめた。
「そうであろう? そう思えばこそ飼い主を捜しておったのだが」
いや、捜していたようには見えなかったぞ。
仔犬を片手で持ちあげたまま、高杉が腰を上げる。並び立った少年の背丈はちょうど顎のあたりで、これが桂ならこうして目線が下になるのは初めてだな、などと埒もないことを考えた。
少年が少し見あげるようにして、高杉の眸をじっと見つめてきた。隻眼がめずらしいのだろうか。だが不思議といやな気分にはならない。深く吸い込まれそうな眸の色だ。清んだ深淵の黒はとてもこの年頃の少年の持つ色とは思えなかった。
かつら…。
思わずそうこぼれ落ちそうになったことばを、高杉は呑み込んだ。
莫迦か、俺は。どうかしている。
つ、と少年の指先が高杉の片側の眼窩から頬を覆う包帯に触れてくる。内心でどきりとしながら、けれど高杉は微動だにできなかった。否、その指先を避けようとは思わなかった。
「痛むか?」
かるく覗き込むようにして、少年が正面から問うてくる。
「こりゃあ古傷だから、もうなにも感じねぇよ」
触れる指先から伝わるものまでがこの肌の記憶に馴染んだものだ。その指先を捉えたい衝動に駆られて、煙管を持つ手がわずかに泳いだ。
「ほんとうか? 無理をしていないか?」
案ずる眸が高杉の暗緑色の隻眼を映す。
「してねぇよ」
「そうか。…ならよいが」
少年はまだ少し憂いを残した眸で高杉を見ている。
「なんでぇ。そんなに痛がってるように見えるのかい?」
「うむ。こっちの明いているほうの眸がな。泣いているかに見えた」
「…………」
「気のせいだったか。いや、ご無礼した」
少年は手を引っ込めて、ぺこりとあたまを下げた。その拍子に結わえた黒髪がちいさく跳ねて肩先に流れ落ちる。そのうごきに刹那目を奪われて、つぎの瞬間、無意識に手を伸ばそうとした高杉の腕から抱えていた柴の仔犬が滑り落ちた。
きゃん。
それを周章てて少年が抱きとめる。仔犬はいったんは少年の腕に収まりながら、その肩越しになにかを見つけたように、ひと声啼いた。
わふぅおん。
「あ」
一声とともに少年の腕からぴょんと抜け出し、駆け出した仔犬は一目散にその人影を目指す。飼い主らしき女性(にょしょう)が屈み込み腕を広げて仔犬を抱きとめた。
「…ああ」
仔犬を追って踏み出し掛けた足を止めて、少年はその光景に軽く手を振る。気づいた女性が微笑み、会釈して去った。連れ立つ姿に、ばいばい、と少年は手を振り続ける。
その後ろに立つおのれからでは、見えないはずの少年の表情がありありと目に浮かんで、高杉は舌を打った。
「莫迦が。ひとの飼い犬なんぞにかまうからだ」
呆れたようなその口調とは裏腹に、高杉は背後からその少年を抱きとめた。そうしないと、いまにもその仔犬を追って駆け出しそうだった。いつまでもちいさく振り続ける少年の華奢な腕をつかむ。その指を手の甲から握り込んだ。
「いちいち情を移してんじゃねぇよ。てめぇがつらくなるだけだぞ」
背中越しに少年の耳もとで囁く。少年は前方を見つめたままちいさく笑った。
「在るべきところへ帰ったのだ。少しさみしいがよろこばしい」
過ぎし日の小太郎のもの云いだ。高杉はまた、惑乱するものを覚える。鼻先を擽る、頸筋から匂い立つ聞き覚えのある香(か)がそれに拍車を掛けた。
「おめぇは、どこに帰る」
「…わからぬ」
「おめぇも迷い子かい」
「の、ようなものだ」
「なら…俺と来ねぇか」
これは桂ではない。桂の代わりなどない。そう知っていながら高杉は、まんざら戯れでもないことばを遊ぶ。
少年はおのれの胸もとに回された高杉の腕のさきの、刻み煙草の燃え尽きて灰の落ちそうな煙管をつかむと、それを軸に、するりと慣れたしぐさでその腕の輪から抜け出した。
まったく、どこまで似てやがる。
「不思議とそれもわるくないようにおもえるが」
苦笑する高杉に、少年は嫣然と微笑んだ。
「あいにくと同行のものがいま、つぎの駅までの切符を手配しに行っているところでな」
「そいつぁまさか、白髪の天パじゃねぇだろうな」
「?? いや。黒髪の短髪直毛だ」
「そうかい。残念だったなぁ。俺ぁおめぇが気に入ったんだが」
少年の長い睫が音のしそうな瞬きをし、その双眸がふいにいたずらっぽい光を放った。
「貴殿の知り合いのどこぞのだれかに、おれが似ているのか?」
不覚にも取り落としそうになった煙管を、少年のたおやかな指先がもういちど抑えた。
「こら。灰をこぼすな」
「おめ…」
眼前に佇む、かつてよく見知った少年の姿に、高杉はもうそのさきを継ぐことばを持たなかった。
これは。こいつは。
遠く呼ぶ声がする。少年はその声のさきを振り返り軽く手を挙げると、高杉に向きなおって、ふたたびその包帯に触れてきた。
「ではな。御身をいとわれよ」
そのことばも終わらぬ間に、翻った小振袖の袂が煙管を持つ手を撫でるように滑って、離れた。
脇道から覗く街道筋の駅舎のまえで、黒髪短髪、黒い着流しに佩刀したおとこが、その少年を待ち受けていた。遠く眺めたそのひとがたにどこかで見たようなと思い、思いながらも目は少年の華奢な後ろ影ただひとつを追っていた。
少年がその人影に肩を並べるよりさきに、高杉は思い切るように身を返し、とうに火の消えた灰を袂に落として、煙管を懐に収める。ただの行きずりだ。で、なければ、あれは。
「さて、俺も行くか」
と、脇道を向こうに進み掛けたそのときに。
待たせてわるかったな。かつら。
風に乗って届いた声に、高杉は息を呑んだ。
駅舎前までを脱兎のごとく駆け戻ってみるが、疎らに行き交う人影に塵や木の葉が風にくるくると舞うばかりで、そう呼んだ声のおとこもかつて見慣れた麗姿も、もうそこにない。
高杉はただ茫然と眺め、佇み、やはりなと嘆息する。来し方にその一挙手一投足に魅入られた。それを見誤るはずもない。
でなければ、あれは。
幻を見たのだ。
了 2010.06.11.
PR
「なんだ、ありゃあ」
幻を見たのかと思った。それほどにその姿はかつての幼なじみに生き写しだった。
ひさしぶり、でもないが江戸に降り立ち、われながら酔狂が過ぎると思いながらも陸路京へと向かっていた。その道中でその幻を見た。
幻のこどもは若衆振袖に長い黒髪をうしろで高く結い、駅前の街道筋から脇道に逸れたあたりで柴犬と戯れていた。首に輪を付けているから飼い犬だろうか。犬の姿こそ違え、そんなところまでそっくりだ。
いや、当時とちがうのはその屈託のない笑顔。あの年頃にはもうそんな姿は拝めなかった。ちょうどそのころ、俺たちは松陽先生を失ったのだから。
若衆振袖の少年はうれしそうに柴犬と追いかけっこをし、立ち止まっては抱きよせて握手している。ちんまるの柴はまだ仔犬のようでぺろぺろとその手を舌で舐め懐いているが、ああもかまわれちゃそのうち逃げ出すんじゃねぇか、そう思い遣られるほどだった。
「姿形が似ると思考まで似るものなのかねぇ」
そうひとりごちて、懐から愛用の煙管を取り出す。道端の木陰に腰をおろして一服がてら、しばしその姿を眺めたのしむとした。
しかし似ている。
白皙の頬に茱萸の口唇。長い睫に縁取られた黒曜石の眸。華奢な首筋にまといつく後れ毛。薄い肩、細い腰、それでいてちからづよい足取り。かつて惹かれてやまなかった、いまもまだつねにどこかで恋しくてやまないままの、こんなにも似たものがこの世にふたつあるとは。
「あんくらいのときに、攫っておきゃあよかったよなぁ」
云っても詮ないことと知っている。だいちあいてはおとなしく攫われてくれるようなタマでもない。あの白髪頭がそばにいなければかなったかもしれないが、いまさら覆らない過去の仮定は意味のない夢想に過ぎなかった。
わん。
目のまえの風景から知らず記憶のなかの情景へと引き込まれていた高杉は、耳もとのその鳴き声に我に返った。
「あん?」
気づけば、柴の仔犬がいつのまにやら高杉の膝もとに寄ってきていて、派手な着流しの裾を咬んだ。
「おいおい」
咬んで着物とじゃれだした柴わんこを片手でひょいとつまみ上げる。そのまま腹に手を回して掌で抱えるように持ちあげた。
「もうしわけない。貴殿の犬であったか」
そう掛けられた声に、高杉はぎくりとしてその主を見た。
ありえねぇ。
まだ幼さの残るその涼やかな声までもが、記憶の奥底に深く染みついている往時の桂の声、そのままだったからだ。
「いや、てめぇのわんころじゃねぇのか?」
「残念ながらちがうのだ。してみると貴殿の犬でもないのだな」
そう小首を傾げるしぐさまでもが、まるでおなじだ。
「こまったな。旅のものゆえ、そう長くも時間が割けぬ。どこの飼い犬かご存じなかろうか」
「なんでぇ。迷い犬か」
「うむ。そこの路地でな。まだ仔犬ゆえ自分の飼い主の家もわからぬと見えてうろうろしておったのだ」
「捨てられたんじゃねぇのかい」
「こんなかわいらしいものをだれが捨てるのだ。仮にそうだとすればゆるせぬ」
きっ、と高杉を真正面から挑むように見つめてきた双眸に、眩暈を覚えた。
なんだ、これは。まんま小太郎じゃねぇか。
「まあ、首輪も付いてるからなぁ。んなこたぁねぇとは思うが」
少年はほっとしたように視線をゆるめた。
「そうであろう? そう思えばこそ飼い主を捜しておったのだが」
いや、捜していたようには見えなかったぞ。
仔犬を片手で持ちあげたまま、高杉が腰を上げる。並び立った少年の背丈はちょうど顎のあたりで、これが桂ならこうして目線が下になるのは初めてだな、などと埒もないことを考えた。
少年が少し見あげるようにして、高杉の眸をじっと見つめてきた。隻眼がめずらしいのだろうか。だが不思議といやな気分にはならない。深く吸い込まれそうな眸の色だ。清んだ深淵の黒はとてもこの年頃の少年の持つ色とは思えなかった。
かつら…。
思わずそうこぼれ落ちそうになったことばを、高杉は呑み込んだ。
莫迦か、俺は。どうかしている。
つ、と少年の指先が高杉の片側の眼窩から頬を覆う包帯に触れてくる。内心でどきりとしながら、けれど高杉は微動だにできなかった。否、その指先を避けようとは思わなかった。
「痛むか?」
かるく覗き込むようにして、少年が正面から問うてくる。
「こりゃあ古傷だから、もうなにも感じねぇよ」
触れる指先から伝わるものまでがこの肌の記憶に馴染んだものだ。その指先を捉えたい衝動に駆られて、煙管を持つ手がわずかに泳いだ。
「ほんとうか? 無理をしていないか?」
案ずる眸が高杉の暗緑色の隻眼を映す。
「してねぇよ」
「そうか。…ならよいが」
少年はまだ少し憂いを残した眸で高杉を見ている。
「なんでぇ。そんなに痛がってるように見えるのかい?」
「うむ。こっちの明いているほうの眸がな。泣いているかに見えた」
「…………」
「気のせいだったか。いや、ご無礼した」
少年は手を引っ込めて、ぺこりとあたまを下げた。その拍子に結わえた黒髪がちいさく跳ねて肩先に流れ落ちる。そのうごきに刹那目を奪われて、つぎの瞬間、無意識に手を伸ばそうとした高杉の腕から抱えていた柴の仔犬が滑り落ちた。
きゃん。
それを周章てて少年が抱きとめる。仔犬はいったんは少年の腕に収まりながら、その肩越しになにかを見つけたように、ひと声啼いた。
わふぅおん。
「あ」
一声とともに少年の腕からぴょんと抜け出し、駆け出した仔犬は一目散にその人影を目指す。飼い主らしき女性(にょしょう)が屈み込み腕を広げて仔犬を抱きとめた。
「…ああ」
仔犬を追って踏み出し掛けた足を止めて、少年はその光景に軽く手を振る。気づいた女性が微笑み、会釈して去った。連れ立つ姿に、ばいばい、と少年は手を振り続ける。
その後ろに立つおのれからでは、見えないはずの少年の表情がありありと目に浮かんで、高杉は舌を打った。
「莫迦が。ひとの飼い犬なんぞにかまうからだ」
呆れたようなその口調とは裏腹に、高杉は背後からその少年を抱きとめた。そうしないと、いまにもその仔犬を追って駆け出しそうだった。いつまでもちいさく振り続ける少年の華奢な腕をつかむ。その指を手の甲から握り込んだ。
「いちいち情を移してんじゃねぇよ。てめぇがつらくなるだけだぞ」
背中越しに少年の耳もとで囁く。少年は前方を見つめたままちいさく笑った。
「在るべきところへ帰ったのだ。少しさみしいがよろこばしい」
過ぎし日の小太郎のもの云いだ。高杉はまた、惑乱するものを覚える。鼻先を擽る、頸筋から匂い立つ聞き覚えのある香(か)がそれに拍車を掛けた。
「おめぇは、どこに帰る」
「…わからぬ」
「おめぇも迷い子かい」
「の、ようなものだ」
「なら…俺と来ねぇか」
これは桂ではない。桂の代わりなどない。そう知っていながら高杉は、まんざら戯れでもないことばを遊ぶ。
少年はおのれの胸もとに回された高杉の腕のさきの、刻み煙草の燃え尽きて灰の落ちそうな煙管をつかむと、それを軸に、するりと慣れたしぐさでその腕の輪から抜け出した。
まったく、どこまで似てやがる。
「不思議とそれもわるくないようにおもえるが」
苦笑する高杉に、少年は嫣然と微笑んだ。
「あいにくと同行のものがいま、つぎの駅までの切符を手配しに行っているところでな」
「そいつぁまさか、白髪の天パじゃねぇだろうな」
「?? いや。黒髪の短髪直毛だ」
「そうかい。残念だったなぁ。俺ぁおめぇが気に入ったんだが」
少年の長い睫が音のしそうな瞬きをし、その双眸がふいにいたずらっぽい光を放った。
「貴殿の知り合いのどこぞのだれかに、おれが似ているのか?」
不覚にも取り落としそうになった煙管を、少年のたおやかな指先がもういちど抑えた。
「こら。灰をこぼすな」
「おめ…」
眼前に佇む、かつてよく見知った少年の姿に、高杉はもうそのさきを継ぐことばを持たなかった。
これは。こいつは。
遠く呼ぶ声がする。少年はその声のさきを振り返り軽く手を挙げると、高杉に向きなおって、ふたたびその包帯に触れてきた。
「ではな。御身をいとわれよ」
そのことばも終わらぬ間に、翻った小振袖の袂が煙管を持つ手を撫でるように滑って、離れた。
脇道から覗く街道筋の駅舎のまえで、黒髪短髪、黒い着流しに佩刀したおとこが、その少年を待ち受けていた。遠く眺めたそのひとがたにどこかで見たようなと思い、思いながらも目は少年の華奢な後ろ影ただひとつを追っていた。
少年がその人影に肩を並べるよりさきに、高杉は思い切るように身を返し、とうに火の消えた灰を袂に落として、煙管を懐に収める。ただの行きずりだ。で、なければ、あれは。
「さて、俺も行くか」
と、脇道を向こうに進み掛けたそのときに。
待たせてわるかったな。かつら。
風に乗って届いた声に、高杉は息を呑んだ。
駅舎前までを脱兎のごとく駆け戻ってみるが、疎らに行き交う人影に塵や木の葉が風にくるくると舞うばかりで、そう呼んだ声のおとこもかつて見慣れた麗姿も、もうそこにない。
高杉はただ茫然と眺め、佇み、やはりなと嘆息する。来し方にその一挙手一投足に魅入られた。それを見誤るはずもない。
でなければ、あれは。
幻を見たのだ。
了 2010.06.11.
PR