「天涯の遊子」銀桂篇。
銀時と桂。と、エリザベス。4回に分ける。
紅桜以降、雪まつりよりまえ。
後半に微エロあり、注意。
連作的には、沖桂篇『雪白』の一部と連動。坂桂篇『揺籃』の後日。
「あ…」
桂の長い指が空(くう)を掻いた。天井に向けて伸ばされた腕がしなる。
どうせならこの身に縋ればいいものを、まだそれをおのれにゆるす気分ではないのか、桂は空しく天を掻く手指にちからを込める。
こんなとき、銀時はせつなくなる。もうずっと、そうだった。
この、剣を扱うにしては細身に過ぎる、けれどつよくしなやかな腕が自分の首や背や肩や腰に回されるまで、いま現実に組み敷いているはずの桂が、真に自分を受け入れているのだという気分にはならず、銀時は途方にくれるのだ。
* * *
こぢんまりとした平屋建て。もとは近隣の雑木林の管理用に立てられたという小さな一軒家は、ようやく聞き出した桂の隠れ家のひとつだ。ほかにも裏長屋の一角だの町中の屋敷だの大小さまざまあるようだが、桂が銀時にあたえたのは、ここの情報と緊急時の連絡先という他人名義の携帯番号だけだった。
正確を記せば教えられた隠れ家はここが二件めにあたる。一件めのそれは、やはり似たような一軒家で町境の竹林沿いの道を行った先にあった。らしい。らしいというのは実際にこの目で見るまえに、桂がそこを引き払ったからだ。
銀時が初めてみずから桂の隠れ家を、見舞いを口実に訪なおうとしたとき、その道すがら沖田と対峙する桂に出くわした。あとになって聞いたあらましでは、過激派浪士たちの不満分子の襲撃を受けていたところへ桂潜伏の報を受けた真選組が駆けつけ、浪士たちをあっさり返り討ちにしたまではいいが、こんどは沖田が刀を抜いたということのようである。隊士たちをみな浪士捕縛にあたらせて、一対一で。
桂に差しの勝負を挑むなど沖田もよほど腕に覚えがあるようだが、一見して銀時は、桂のほうにその意志のないことを見て取った。先日の怪我も治りきってはいないはずだが、怪我云々以前に、積極的に剣を交える気がないのだとわかる。なのでふらりと行きがかりのそぶりで勝負に水を差したのだが。
その隙に桂は当然のごとく姿を眩まし、銀時はその日隠れ家を訪ねる意味を失った。きょうはもう、桂の居所はつかめまい。果たして桂は、その隠れ家も露見したと判断し、即日引き払った。
約束だからか、律儀な桂はその数日後にはこの新たな一軒家を知らせてきたわけだが。そのやりとりのすべては伝聞だった。あとに証拠となるような手段を取らないというのはわかる。最初銀時に教える際にも、あたまにたたき込めと云って、メモを取らせなかったくらいだ。だが直に顔も見せずに、直接の電話ですらなく、桂が信頼を置く部下のひとりを介して伝えてきたことが、銀時を暗鬱とした気分にさせた。
まだ日は高いのに、うっそうと茂った木々の木洩れ日では室内までは多く届かず、覗き込んだその家の玄関奥はどこかしらほの暗い。よくこんなところにひとりで、いや、あの白いものとであっても、暮らしているものだと思う。
だが入ってすぐの台所で、白いものと蕎麦打ちに精を出している桂の姿を目にして、銀時はしばし唖然となった。
「…なにしてんの、おめー」
「見てわからんか、蕎麦を打っている」
それはわかるが、人目を忍んで潜伏する攘夷志士が昼日中にやることとも思えない。
「てか、貴様こそ。このような刻限になにをしている。仕事はどうした」
銀時に目もくれず、捏ね終えた蕎麦粉の玉を麺棒で丹念に延しながら、桂が問う。
「んなことより、不用心だろうがよ。玄関開いてたぞ」
先にあんなことがあったばかりなのに。用心深いくせにどこかしら抜けているのは、いまに始まったことではないが。
「うむ。たしかに不用心だったな。その開いた玄関から勝手に入ってきた輩がここにいるのだから」
めずらしく羽織を脱いだ着流しで。たすき掛けにたくし上げた袖から覗く腕の白さが妙に艶めかしくて、銀時はわずかに目を泳がせた。
「怪我は、ちゃんと完治してんの。そんな重労働して」
「してる。これは、あれだ。りはびりの一環というやつだ」
「どんなリハビリだよ」
いつもながら桂の発想というのは、常人の理解の域を斜め上に超えている。
「なんだ。見舞いにでも来たのか? それが必要なのはまだ貴様のほうだろうに」
「いっぺんも来やがらねぇで、よく云う」
徐々に薄く薄く延ばされていく蕎麦の板を見ながら、銀時は不満げに呟いた。延ばしたそれに打ち粉を入れながら慎重にたたみ終えて、桂がようやく銀時に目を向ける。
「紅桜の一件で、貴様には一時期、真選組の監査が入っただろう。そんな折りにのこのこと、おれが万事屋近辺に顔を出すわけにもゆくまい」
ときに桂は、当人以上の正確さで銀時の身辺状況を把握している。ちらりと攘夷一派の党首としての顔の裏面を覗かせつつ、手の粉を軽く叩(はた)いて落とし、姉さん被りの手拭いを外しながら、小さく首を傾げた。
こんなとき、常ならばうしろにひとくくりにされるはずの黒髪は、いまはその必要すらなく、さらさらと首筋に流れるばかりで。そのうごきに目を奪われていた銀時の顔を覗き込むようにして、桂は笑んだ。
「なんだ。寂しかったのか」
ぱっかん。
「だれがだっ」
ばっこん。
つい、条件反射的にそのあたまを叩いてしまった銀時の後頭部を、白いものの手のプラカードが、したたかに殴った。
「なにしやがる、このペンギンお化け」
「ペンギンお化けではない、エリザベスだ」
『桂さん。蕎麦を切って茹でましょう。乾燥してしまいます』
と、銀時を殴ったプラカードを素知らぬ顔でそのまま示す。
「おお、そうだったな。エリザベス」
云って、たたんだ手拭いを懐にしまい込み、桂は蕎麦用とおぼしき菜切り包丁をつかんだ。が。
その手つきの危うさに銀時は目を覆った。さすがにエリザベスが代わろうとしたのだが、桂はリハビリだからと譲らない。どこがリハビリになっているんだか知らないが、
「てめーは、包丁持つんじゃねぇ」
有無を云わさぬ勢いで、桂の手から包丁を奪い取った。
「銀時」
桂の抗議を無視して、蕎麦打ち台のまえからその身を押しのける。こんどはエリザベスもプラカードの武器化は控えた。まったく。あれだけ鮮やかな太刀捌きを見せるものが、どうしてああも不器用に包丁を扱えるのだろう。
さく。とん。すー。さく。とん。すー。
心地よいリズムで、銀時の手が、細く均一な蕎麦を切り出していく。それに魅入られたかのように、桂の目が釘付けになった。
「すごいな。さすがは銀時。駒板もなしにみごとなものだ」
こんなときの桂には衒いというものがない。手放しの賞賛に面映ゆい気分を押し隠して、銀時は蕎麦を切ることに集中した。
結局そのあとの茹で加減までをも銀時が見て、その間にエリザベスが蕎麦つゆと薬味をこしらえるという、奇妙な共同作業になった。
『感心しました。だれにでも取り柄はあるものですね』
出汁の味見をしながら、器用にプラカードで語ってくる。半分喧嘩を売られているようにも感じながら、
「いやいや。取り柄だらけですよ、銀さんは」
応じて、銀時は茹であがった蕎麦を洗い流し、笊にとって冷水で締めた。
おのれの出番のなくなった桂は、茶の間兼用の和室で丸いちゃぶ台をまえに端座し、着流しのたすきを外してぼんやりと蕎麦を待っている。三枚の大盛り蒸籠に仕立てて、運んできた銀時は、その光景に一瞬入るのを躊躇った。
昼飯時だというのにいささかほの暗い室内で、ここで桂はひとり−−−あのペットがいるにせよ−−−いっときを暮らすのだ、という実感が銀時の胸を締め付ける。
銀時の後ろに続いてエリザベスの運んできた、蕎麦つゆと薬味の好い香りに誘われたように、桂が振り返る。浮かんでいたやわらかな笑顔に、銀時は知らずほっと息を吐いた。
打った桂も、切って茹でた銀時も、満足のいくできばえの蕎麦を堪能して、後かたづけをしに、エリザベスが台所に立つ。その行きがけ、食後の茶をたのしむ桂にプラカードでなにかを告げた。桂を挟んで座していた銀時は、食後のごろ寝を決め込みながら、ちらりと目線だけをそちらへ向ける。桂はうなずいている。
「もちろん、かまわぬが。べつに急ぎではない。きょうでなくともよいのだぞ?」
エリザベスはふるふるとあるかないかの首を振って、台所へと向かった。
「なんだって?」
半分だけ身を起こしながら、銀時が問う。
「いや、今朝方たのんだ仕事でな。先日会見した新たな支援者の背後固めというか、ようは身辺調査の再確認のようなものなのだが。それにこのあと向かうから明日まで留守にしてよいかと」
おや、と銀時は思ったが、顔には出さずに継いだ。
「なに、おまえ、あの白いのにンなことまでやらせてんの。てか、できんの?あのペットもどきに」
「もどきではない、エリザベスは立派なペットだぞ。家事万端、諸事交渉ごとまでまかせても抜かりない」
これまた桂は、思い切り褒める。なんだか自分も白いものも同列に置かれているような気分に、銀時は内心で舌打ちしたくなる。
「それでだな、銀時。貴様、天麩羅をつくれるか」
「はあ?」
「エリザベスが、残りの蕎麦で夜は天麩羅蕎麦にしたらどうかというのだが。材料はあっても当のエリザベスがおらぬのではな。天麩羅だけ買いに町まで出向くのも手間だし」
銀時は複雑な顔をした。それは夜までここにいられる理由にはなるが。
「なにそれ。俺、あれの代わり? 冗談じゃねーよ。なんで俺が昼飯ばかりか晩飯までおまえにつくんなきゃならないわけ?」
「まずいか? …ああ、そうだな。帰らねばリーダーの食事のこともあるし、心配もするだろうし」
そこまで云って、桂はおもむろに、文机ごと紙と硯と筆とを持ってきた。訝しむ銀時に桂は筆を渡して、
「手順を書いておけ。それを見ながらつくるから」
「手順って。天麩羅の?…おまえがつくんの!?」
おそるおそる聞く銀時に、桂はつくるき満々で早く書けとせっついてくる。
ああ、もう。なんでこいつは、莫迦なんだろう。ひとこと、簡単なひとことを云ってくれさえすれば、天蕎麦だろうがカツ丼だろうがちらし寿司だろうがつくってやるのに。そもそも見舞いなどただの口実に過ぎぬと知れているはずなのだから。
続 2008.03.18.
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「あ…」
桂の長い指が空(くう)を掻いた。天井に向けて伸ばされた腕がしなる。
どうせならこの身に縋ればいいものを、まだそれをおのれにゆるす気分ではないのか、桂は空しく天を掻く手指にちからを込める。
こんなとき、銀時はせつなくなる。もうずっと、そうだった。
この、剣を扱うにしては細身に過ぎる、けれどつよくしなやかな腕が自分の首や背や肩や腰に回されるまで、いま現実に組み敷いているはずの桂が、真に自分を受け入れているのだという気分にはならず、銀時は途方にくれるのだ。
* * *
こぢんまりとした平屋建て。もとは近隣の雑木林の管理用に立てられたという小さな一軒家は、ようやく聞き出した桂の隠れ家のひとつだ。ほかにも裏長屋の一角だの町中の屋敷だの大小さまざまあるようだが、桂が銀時にあたえたのは、ここの情報と緊急時の連絡先という他人名義の携帯番号だけだった。
正確を記せば教えられた隠れ家はここが二件めにあたる。一件めのそれは、やはり似たような一軒家で町境の竹林沿いの道を行った先にあった。らしい。らしいというのは実際にこの目で見るまえに、桂がそこを引き払ったからだ。
銀時が初めてみずから桂の隠れ家を、見舞いを口実に訪なおうとしたとき、その道すがら沖田と対峙する桂に出くわした。あとになって聞いたあらましでは、過激派浪士たちの不満分子の襲撃を受けていたところへ桂潜伏の報を受けた真選組が駆けつけ、浪士たちをあっさり返り討ちにしたまではいいが、こんどは沖田が刀を抜いたということのようである。隊士たちをみな浪士捕縛にあたらせて、一対一で。
桂に差しの勝負を挑むなど沖田もよほど腕に覚えがあるようだが、一見して銀時は、桂のほうにその意志のないことを見て取った。先日の怪我も治りきってはいないはずだが、怪我云々以前に、積極的に剣を交える気がないのだとわかる。なのでふらりと行きがかりのそぶりで勝負に水を差したのだが。
その隙に桂は当然のごとく姿を眩まし、銀時はその日隠れ家を訪ねる意味を失った。きょうはもう、桂の居所はつかめまい。果たして桂は、その隠れ家も露見したと判断し、即日引き払った。
約束だからか、律儀な桂はその数日後にはこの新たな一軒家を知らせてきたわけだが。そのやりとりのすべては伝聞だった。あとに証拠となるような手段を取らないというのはわかる。最初銀時に教える際にも、あたまにたたき込めと云って、メモを取らせなかったくらいだ。だが直に顔も見せずに、直接の電話ですらなく、桂が信頼を置く部下のひとりを介して伝えてきたことが、銀時を暗鬱とした気分にさせた。
まだ日は高いのに、うっそうと茂った木々の木洩れ日では室内までは多く届かず、覗き込んだその家の玄関奥はどこかしらほの暗い。よくこんなところにひとりで、いや、あの白いものとであっても、暮らしているものだと思う。
だが入ってすぐの台所で、白いものと蕎麦打ちに精を出している桂の姿を目にして、銀時はしばし唖然となった。
「…なにしてんの、おめー」
「見てわからんか、蕎麦を打っている」
それはわかるが、人目を忍んで潜伏する攘夷志士が昼日中にやることとも思えない。
「てか、貴様こそ。このような刻限になにをしている。仕事はどうした」
銀時に目もくれず、捏ね終えた蕎麦粉の玉を麺棒で丹念に延しながら、桂が問う。
「んなことより、不用心だろうがよ。玄関開いてたぞ」
先にあんなことがあったばかりなのに。用心深いくせにどこかしら抜けているのは、いまに始まったことではないが。
「うむ。たしかに不用心だったな。その開いた玄関から勝手に入ってきた輩がここにいるのだから」
めずらしく羽織を脱いだ着流しで。たすき掛けにたくし上げた袖から覗く腕の白さが妙に艶めかしくて、銀時はわずかに目を泳がせた。
「怪我は、ちゃんと完治してんの。そんな重労働して」
「してる。これは、あれだ。りはびりの一環というやつだ」
「どんなリハビリだよ」
いつもながら桂の発想というのは、常人の理解の域を斜め上に超えている。
「なんだ。見舞いにでも来たのか? それが必要なのはまだ貴様のほうだろうに」
「いっぺんも来やがらねぇで、よく云う」
徐々に薄く薄く延ばされていく蕎麦の板を見ながら、銀時は不満げに呟いた。延ばしたそれに打ち粉を入れながら慎重にたたみ終えて、桂がようやく銀時に目を向ける。
「紅桜の一件で、貴様には一時期、真選組の監査が入っただろう。そんな折りにのこのこと、おれが万事屋近辺に顔を出すわけにもゆくまい」
ときに桂は、当人以上の正確さで銀時の身辺状況を把握している。ちらりと攘夷一派の党首としての顔の裏面を覗かせつつ、手の粉を軽く叩(はた)いて落とし、姉さん被りの手拭いを外しながら、小さく首を傾げた。
こんなとき、常ならばうしろにひとくくりにされるはずの黒髪は、いまはその必要すらなく、さらさらと首筋に流れるばかりで。そのうごきに目を奪われていた銀時の顔を覗き込むようにして、桂は笑んだ。
「なんだ。寂しかったのか」
ぱっかん。
「だれがだっ」
ばっこん。
つい、条件反射的にそのあたまを叩いてしまった銀時の後頭部を、白いものの手のプラカードが、したたかに殴った。
「なにしやがる、このペンギンお化け」
「ペンギンお化けではない、エリザベスだ」
『桂さん。蕎麦を切って茹でましょう。乾燥してしまいます』
と、銀時を殴ったプラカードを素知らぬ顔でそのまま示す。
「おお、そうだったな。エリザベス」
云って、たたんだ手拭いを懐にしまい込み、桂は蕎麦用とおぼしき菜切り包丁をつかんだ。が。
その手つきの危うさに銀時は目を覆った。さすがにエリザベスが代わろうとしたのだが、桂はリハビリだからと譲らない。どこがリハビリになっているんだか知らないが、
「てめーは、包丁持つんじゃねぇ」
有無を云わさぬ勢いで、桂の手から包丁を奪い取った。
「銀時」
桂の抗議を無視して、蕎麦打ち台のまえからその身を押しのける。こんどはエリザベスもプラカードの武器化は控えた。まったく。あれだけ鮮やかな太刀捌きを見せるものが、どうしてああも不器用に包丁を扱えるのだろう。
さく。とん。すー。さく。とん。すー。
心地よいリズムで、銀時の手が、細く均一な蕎麦を切り出していく。それに魅入られたかのように、桂の目が釘付けになった。
「すごいな。さすがは銀時。駒板もなしにみごとなものだ」
こんなときの桂には衒いというものがない。手放しの賞賛に面映ゆい気分を押し隠して、銀時は蕎麦を切ることに集中した。
結局そのあとの茹で加減までをも銀時が見て、その間にエリザベスが蕎麦つゆと薬味をこしらえるという、奇妙な共同作業になった。
『感心しました。だれにでも取り柄はあるものですね』
出汁の味見をしながら、器用にプラカードで語ってくる。半分喧嘩を売られているようにも感じながら、
「いやいや。取り柄だらけですよ、銀さんは」
応じて、銀時は茹であがった蕎麦を洗い流し、笊にとって冷水で締めた。
おのれの出番のなくなった桂は、茶の間兼用の和室で丸いちゃぶ台をまえに端座し、着流しのたすきを外してぼんやりと蕎麦を待っている。三枚の大盛り蒸籠に仕立てて、運んできた銀時は、その光景に一瞬入るのを躊躇った。
昼飯時だというのにいささかほの暗い室内で、ここで桂はひとり−−−あのペットがいるにせよ−−−いっときを暮らすのだ、という実感が銀時の胸を締め付ける。
銀時の後ろに続いてエリザベスの運んできた、蕎麦つゆと薬味の好い香りに誘われたように、桂が振り返る。浮かんでいたやわらかな笑顔に、銀時は知らずほっと息を吐いた。
打った桂も、切って茹でた銀時も、満足のいくできばえの蕎麦を堪能して、後かたづけをしに、エリザベスが台所に立つ。その行きがけ、食後の茶をたのしむ桂にプラカードでなにかを告げた。桂を挟んで座していた銀時は、食後のごろ寝を決め込みながら、ちらりと目線だけをそちらへ向ける。桂はうなずいている。
「もちろん、かまわぬが。べつに急ぎではない。きょうでなくともよいのだぞ?」
エリザベスはふるふるとあるかないかの首を振って、台所へと向かった。
「なんだって?」
半分だけ身を起こしながら、銀時が問う。
「いや、今朝方たのんだ仕事でな。先日会見した新たな支援者の背後固めというか、ようは身辺調査の再確認のようなものなのだが。それにこのあと向かうから明日まで留守にしてよいかと」
おや、と銀時は思ったが、顔には出さずに継いだ。
「なに、おまえ、あの白いのにンなことまでやらせてんの。てか、できんの?あのペットもどきに」
「もどきではない、エリザベスは立派なペットだぞ。家事万端、諸事交渉ごとまでまかせても抜かりない」
これまた桂は、思い切り褒める。なんだか自分も白いものも同列に置かれているような気分に、銀時は内心で舌打ちしたくなる。
「それでだな、銀時。貴様、天麩羅をつくれるか」
「はあ?」
「エリザベスが、残りの蕎麦で夜は天麩羅蕎麦にしたらどうかというのだが。材料はあっても当のエリザベスがおらぬのではな。天麩羅だけ買いに町まで出向くのも手間だし」
銀時は複雑な顔をした。それは夜までここにいられる理由にはなるが。
「なにそれ。俺、あれの代わり? 冗談じゃねーよ。なんで俺が昼飯ばかりか晩飯までおまえにつくんなきゃならないわけ?」
「まずいか? …ああ、そうだな。帰らねばリーダーの食事のこともあるし、心配もするだろうし」
そこまで云って、桂はおもむろに、文机ごと紙と硯と筆とを持ってきた。訝しむ銀時に桂は筆を渡して、
「手順を書いておけ。それを見ながらつくるから」
「手順って。天麩羅の?…おまえがつくんの!?」
おそるおそる聞く銀時に、桂はつくるき満々で早く書けとせっついてくる。
ああ、もう。なんでこいつは、莫迦なんだろう。ひとこと、簡単なひとことを云ってくれさえすれば、天蕎麦だろうがカツ丼だろうがちらし寿司だろうがつくってやるのに。そもそも見舞いなどただの口実に過ぎぬと知れているはずなのだから。
続 2008.03.18.
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