「天涯の遊子」土桂篇。
土方と桂。と、沖田。
モンハン篇、獄門島篇(原作順準拠)以降、ソウ篇よりまえ。
前後篇、前篇。 R15。
連作時系列では、坂桂『架橋』のあと。
銀桂+土桂『朧』『叢雲』の流れを汲む。
からからと耳もとで回る音がする。
なんだろうと目を閉じて耳を澄ませるが、正体は知れない。
* * *
若齢化し記憶を失くした桂と過ごしてのちの再会は、おたがいドライバー化というおまぬけな姿だった。
出くわしたのは電脳遊戯のオフ会でほかのやつらもいたから、土方はつとめて平静を装い素知らぬ顔で手錠をかけ、桂は沖田に痺れ生肉を食わされていたが。攘夷志士の鬱憤を叫んだあとは、ひとりドライバーの身の建設的な行く末を語り、そのまま獄中の身となり、その翌日にはなんなく脱獄した。それが真選組のトップ3の不在ゆえというのも態のいいいいわけだ。そのあとぶち込まれた地獄の獄門島でさえ、桂はほどなく抜けだしてしまったのだから。
だから土方がまっとうな姿の桂をこの目にするのはずいぶんと久方ぶりのことだった。
着流しに法被にはちまきという出で立ちで、いつものごとく白いものを従えて呼び込みのバイトに精を出している。隊服の土方と鉢合わせても、警邏が土方ひとりと見てか逃げ出す風でもない。
こちらがともに過ごした時間のすべてを覚えているのに、あちらはそのほんの一部しか記憶していないというのはずいぶんとやっかいで、自業自得と諦めはしても、どこか理不尽な気さえする。
「寄っていかんか芋侍。いまサービスタイムだぞ」
「見りゃわかんだろうが。俺ぁいま職務中だ」
「ほう。それにしてはやけにおとなしいではないか」
手錠をかけようとすればとたんにひらりと逃げるだろうくせに。いや、お縄になってさえあっさりと姿を眩ますくせに。こんなふうに唐突に現れては土方を眩惑する。
「…桂」
袖から覗く雪肌の、呼び込みの看板を持つ細い腕をつかんで、いますぐにでも抱きよせたかった。
初めて桂と枕を交わし、しばらくのあいだその残像に悩まされつづけて餓(かつ)えた時期はなんとかやり過ごしたけれど。いざこうして平素のままの桂を間近にしてしまえば、宥め賺してきた身のうちの情火はあっというまにこの身を焦がす。
「……会いてぇ」
絞り出すように声にした。
「? いま会っているだろうが」
桂はいつもの平板な声できょとんとしたように小首を傾げた。
「そうじゃねぇよ。またおめぇと差しで過ごしてぇ」
はちまきを額にいただく黒眼勝ちの双眸が、艶やかな長い黒髪の前髪越しにゆるやかな三日月の弧を描く。
「夢は夢のままでこそ佳き…」
「悪夢に墜ちようがかまわねぇんだよ俺は」
遮るように被せた土方のことばに、桂は薄く笑むにとどめた。
「桂」
「あたまを冷やしてこい芋侍。その隊服が泣くぞ」
おのれのもとであれほど乱れておきながら、いま髪の一条も乱さずに平然と云い放つ。わかってはいたが、こいつはどうにも捕らえようがない。
「あたまは充分冷えてる。持て余してんのは身の熱だけで、こいつはおめぇにしか鎮められねぇ」
「それをおれが鎮めてやる義理もないがな」
「だからこうして頼んでるんだろうがよ」
「それが頼んでいる態度か?」
桂はおもしろそうに笑って、肩を竦める。
「わすれるが身のためと知れ、土方」
淡々と紡がれたその言の葉を掻き消すかの声が、遠くから飛んできた。
「かぁつらぁあああああああああ」
間髪入れずに、至近にバズーカ砲が着弾する。
爆撃に巻き込まれ、巻き上がった粉塵に視界を奪われた土方が目をこらして見たときにはもう、そこに桂の姿はなかった。白いものの姿とともに痕跡ひとつ残さず掻き消えていた。
「あれぇ。土方さん。あんたここでなにをやってんですかぃ」
バズーカ弾を追うように駆けてきた沖田が、ひとを喰ったような顔で現れ、塵芥にまみれた土方をみとめてふたたびバズーカ砲を構えた。
「だぁっ。総悟。街なかでぶっ放すなとなんど云やぁわかるんだ。また市民から苦情が来るだろうが! てめぇの始末書で屯所の蔵は溢れてんだよ」
「おっかしいなぁ。俺ぁ、指名手配犯を見つけて引っ捕らえようとしただけですぜぃ」
「だから引っ捕らえるのになんでバズーカだ!」
「桂あいてに飛び道具も無しでまともにやり合えるなんて思ってるんですかぃ土方さん。だいたいあんた、桂を目のまえにしてなにしてやがったんでぃ」
「俺は…っ」
そこで云い淀んだのは、おのれ自身にもいいわけのできぬことを自覚していたからだ。
沖田の薄い色の眸が酷薄に笑んだ。
「いいかげんにしてくだせぇよ。公務に私情を持ち込むなんざ、真選組副長にあるまじき愚行じゃねぇですかぃ。なあ、そうだろぃ、土方ぁ」
こうなれば土方も開きなおるしかない。
「てめぇだって充分職務に私情を持ち込んでるだろうがよ」
「俺ぁいつだって、手前ぇに正直に生きてるだけでさぁ」
構えたバズーカ砲の照準を合わせて、沖田がつぶやく。
「死ね、土方」
* * *
沖田の砲撃から逃れ、見失った桂の姿を求めて、土方は夜の街を彷徨っている。
昼日中、ひとたび燃え上がってしまった情火は、抑えつけていたぶんなかなか鎮まってはくれない。どうせ眠れそうにないならと夜の巡回を買ってでた。危険度の高い任務でもないから、夜回り数名の隊士はそれぞれ持ち場を分けて巡っている。鬼の副長と組みたがる隊士はまずいないし、土方自身もそのほうが気楽なこともあって、こんなときたいがいはひとりでうごく。紅桜に斬られた桂を見つけたのもそんな晩だった。
桂がとうぶんヅラ子として店に出ないことは西郷ママに聞いて知っていたから、かまっ娘倶楽部には巡視ついでの馴染みの挨拶だけをかんたんにすませておいて、いつもより時間をかけてより遠くまでを見回ってみる。いちどたまたまに出くわしたその日のうちにふたたび相見えられるとは思えなかったけれど、眠れずに悶々とするよりは気が紛れる。とはいえやはり、こころのどこかで期待していたことは否めない。
橋を渡って川沿いを下る。子の刻を過ぎても、ぽつりぽつりと屋形船の灯のまだ残る川面を眺めながら、枝垂れた柳の並木をくぐった。幽霊でも出そうだとふと思い、周章ててかぶりを振る。ほかに怖いものなどなかったが、その手の方面だけは苦手な土方である。人家も疎らな寂れた野っ原に出たあたりで、踵を返した。
「些と足を伸ばしすぎたな」
木を隠すなら森、の喩えもあるように、桂は堂々と市中に隠れていることのほうが多い。堂々と隠れているというのも妙な云い回しだが、実際そうとしか云いようがないのだからしかたがない。隠れ処はいくつもあるらしく虚実取り混ぜて転々としている、というのがおおかたの見方だ。そこまで見当が付いていながら、実際に踏み込んだときには往々にしてもぬけの殻、というのも情けない話ではある。
疎らな外灯と遠い街灯りにたすけられて帰路を急ぐ。往きと異なる道を選んだのは巡回という任務が念頭にあったからだが、道端の蒲楊のもとに蹲る人影を見つけて、ぎょっとした。
長い黒髪が影になって顔を隠していたが、影絵のようなそのほっそりとした輪郭は見間違えようもない。
「桂…?」
近づく気配か足音にか、気づいていたのだろう。真白いおもてがゆっくりと土方のほうを見返った。蹲った足もとに濃い黒い影が射している。それが血溜まりだと気づいて、土方は急いで駆け寄った。
「昼間の砲撃で、やられたのか」
奇妙な違和感を覚えたが、考えるよりさきにからだがうごいた。
「…貴様か、芋侍」
間近に迫ってようやくこちらが土方だと知れたらしい。
「あの程度の威嚇で、らしくもねぇ」
云いながら、口に銜えた手拭いを細く裂く。
「まったくだ」
つねと変わらぬ平坦な口調で淡々と頷くが、土方が足首の傷をあらためるとちいさく呻いた。裂いた布できつめに縛る。もう血は渇きかけていて、血溜まりほどには大きな怪我ではなさそうだ。それにほっとして、土方は知らず詰めていた息を吐いた。
「やはり人間平常心がだいじということだな」
桂がぽつりとつぶやいた。
「おめぇはいつだって動じたりしねぇだろうがよ」
そうだ、口惜しいほどに。
「おれが動じていないとなぜ思う?」
らしくもない覚束ない口調で、問い返された。
「…え?」
まさか土方に気を取られて逃げるのが遅れたとでも云うつもりか。
暗くて表情の読みとれぬおもてが、土方を至近に捉える。遠い微かな灯りを映した漆黒の双眸が、おのが眼界に揺れた。
記憶のなかの年若い桂の面影がかさなる。あのとき触れた口唇の、つかんだ髪の、交わした肌の、生々しいまでの感覚が身のうちに甦って、土方は息を呑んだ。
「かつら」
手当てのためにと添えられていた指先に、無意識のままにちからがこもる。逃げられぬようにと思ってなのか、おのれにもわからなかった。片膝立ちで、草履履きの足の甲を押さえつけて、ずいと身を寄せる。そのまま吸い込まれるように桂の身のうえに倒れ込んだ。
長くたおやかな指が、存外につよいちからで土方の隊服をつかむ。声が上がらなかったのは、その朱唇を土方の口唇が塞いでいたからだ。
押さえつけていた足首から、這入り込んだ手が着流しの裾を乱して遡る。もう一方の掌が胸の袷を暴いてひんやりとした雪肌を舐めた。くぐもった呻きが合わせた口唇の端から漏れる。おのが膝を食い込ませて膝をわり、遡った土方の手は委細かまわずなめらかな内腿を奥へ奥へと探った。
あの一夜を限りに触れた甘い襞の感触が、手指の先に掛かる。躊躇いもなく潜り込ませた刹那に零れでた桂の喘ぎが、とうに昂ぶっていた土方の芯を一気に燃えさからせた。
燃え立つ身の焼けつくような情欲を深奥に叩きつけながら、どこか乾いた感覚でそれを見ている自分がいる。全身の触覚が泥に浸かりまみれ絡みつかれるようななかで、土方は足掻いていた。
ちがう。これはちがう。
あたまの片隅の冷めた視野が、さっきから警鐘を鳴らし続けている。なのにからだはおもうようにうごかない。春機の発露はあまりにあからさまで、おのれの意思とはべつのところで支配されたからだが、愛しい身をおもうさま蹂躙する。
ちがうのだ。
激しくかぶりを振って、土方は抵抗する。身の欲は隠すべくもないけれど、これはちがうのだと、土方は思う。なにがちがうのかと問われれば、ただちがうのだとしか云いようのないもどかしさで、だが土方はただお題目のようにその一言(いちごん)を唱えつづけた。
ちがうちがうちがう。ちがう。
…じゃない。
桂じゃ、ない。
そうだ。これは。
桂ではありえない。
意思が表層に上り、明確なことばとなって結ばれたとたん、ぱぁん、と音の鳴るような鮮やかさで、昏く濁っていた視界が白く晴れた。
続 2011.07.14.
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からからと耳もとで回る音がする。
なんだろうと目を閉じて耳を澄ませるが、正体は知れない。
* * *
若齢化し記憶を失くした桂と過ごしてのちの再会は、おたがいドライバー化というおまぬけな姿だった。
出くわしたのは電脳遊戯のオフ会でほかのやつらもいたから、土方はつとめて平静を装い素知らぬ顔で手錠をかけ、桂は沖田に痺れ生肉を食わされていたが。攘夷志士の鬱憤を叫んだあとは、ひとりドライバーの身の建設的な行く末を語り、そのまま獄中の身となり、その翌日にはなんなく脱獄した。それが真選組のトップ3の不在ゆえというのも態のいいいいわけだ。そのあとぶち込まれた地獄の獄門島でさえ、桂はほどなく抜けだしてしまったのだから。
だから土方がまっとうな姿の桂をこの目にするのはずいぶんと久方ぶりのことだった。
着流しに法被にはちまきという出で立ちで、いつものごとく白いものを従えて呼び込みのバイトに精を出している。隊服の土方と鉢合わせても、警邏が土方ひとりと見てか逃げ出す風でもない。
こちらがともに過ごした時間のすべてを覚えているのに、あちらはそのほんの一部しか記憶していないというのはずいぶんとやっかいで、自業自得と諦めはしても、どこか理不尽な気さえする。
「寄っていかんか芋侍。いまサービスタイムだぞ」
「見りゃわかんだろうが。俺ぁいま職務中だ」
「ほう。それにしてはやけにおとなしいではないか」
手錠をかけようとすればとたんにひらりと逃げるだろうくせに。いや、お縄になってさえあっさりと姿を眩ますくせに。こんなふうに唐突に現れては土方を眩惑する。
「…桂」
袖から覗く雪肌の、呼び込みの看板を持つ細い腕をつかんで、いますぐにでも抱きよせたかった。
初めて桂と枕を交わし、しばらくのあいだその残像に悩まされつづけて餓(かつ)えた時期はなんとかやり過ごしたけれど。いざこうして平素のままの桂を間近にしてしまえば、宥め賺してきた身のうちの情火はあっというまにこの身を焦がす。
「……会いてぇ」
絞り出すように声にした。
「? いま会っているだろうが」
桂はいつもの平板な声できょとんとしたように小首を傾げた。
「そうじゃねぇよ。またおめぇと差しで過ごしてぇ」
はちまきを額にいただく黒眼勝ちの双眸が、艶やかな長い黒髪の前髪越しにゆるやかな三日月の弧を描く。
「夢は夢のままでこそ佳き…」
「悪夢に墜ちようがかまわねぇんだよ俺は」
遮るように被せた土方のことばに、桂は薄く笑むにとどめた。
「桂」
「あたまを冷やしてこい芋侍。その隊服が泣くぞ」
おのれのもとであれほど乱れておきながら、いま髪の一条も乱さずに平然と云い放つ。わかってはいたが、こいつはどうにも捕らえようがない。
「あたまは充分冷えてる。持て余してんのは身の熱だけで、こいつはおめぇにしか鎮められねぇ」
「それをおれが鎮めてやる義理もないがな」
「だからこうして頼んでるんだろうがよ」
「それが頼んでいる態度か?」
桂はおもしろそうに笑って、肩を竦める。
「わすれるが身のためと知れ、土方」
淡々と紡がれたその言の葉を掻き消すかの声が、遠くから飛んできた。
「かぁつらぁあああああああああ」
間髪入れずに、至近にバズーカ砲が着弾する。
爆撃に巻き込まれ、巻き上がった粉塵に視界を奪われた土方が目をこらして見たときにはもう、そこに桂の姿はなかった。白いものの姿とともに痕跡ひとつ残さず掻き消えていた。
「あれぇ。土方さん。あんたここでなにをやってんですかぃ」
バズーカ弾を追うように駆けてきた沖田が、ひとを喰ったような顔で現れ、塵芥にまみれた土方をみとめてふたたびバズーカ砲を構えた。
「だぁっ。総悟。街なかでぶっ放すなとなんど云やぁわかるんだ。また市民から苦情が来るだろうが! てめぇの始末書で屯所の蔵は溢れてんだよ」
「おっかしいなぁ。俺ぁ、指名手配犯を見つけて引っ捕らえようとしただけですぜぃ」
「だから引っ捕らえるのになんでバズーカだ!」
「桂あいてに飛び道具も無しでまともにやり合えるなんて思ってるんですかぃ土方さん。だいたいあんた、桂を目のまえにしてなにしてやがったんでぃ」
「俺は…っ」
そこで云い淀んだのは、おのれ自身にもいいわけのできぬことを自覚していたからだ。
沖田の薄い色の眸が酷薄に笑んだ。
「いいかげんにしてくだせぇよ。公務に私情を持ち込むなんざ、真選組副長にあるまじき愚行じゃねぇですかぃ。なあ、そうだろぃ、土方ぁ」
こうなれば土方も開きなおるしかない。
「てめぇだって充分職務に私情を持ち込んでるだろうがよ」
「俺ぁいつだって、手前ぇに正直に生きてるだけでさぁ」
構えたバズーカ砲の照準を合わせて、沖田がつぶやく。
「死ね、土方」
* * *
沖田の砲撃から逃れ、見失った桂の姿を求めて、土方は夜の街を彷徨っている。
昼日中、ひとたび燃え上がってしまった情火は、抑えつけていたぶんなかなか鎮まってはくれない。どうせ眠れそうにないならと夜の巡回を買ってでた。危険度の高い任務でもないから、夜回り数名の隊士はそれぞれ持ち場を分けて巡っている。鬼の副長と組みたがる隊士はまずいないし、土方自身もそのほうが気楽なこともあって、こんなときたいがいはひとりでうごく。紅桜に斬られた桂を見つけたのもそんな晩だった。
桂がとうぶんヅラ子として店に出ないことは西郷ママに聞いて知っていたから、かまっ娘倶楽部には巡視ついでの馴染みの挨拶だけをかんたんにすませておいて、いつもより時間をかけてより遠くまでを見回ってみる。いちどたまたまに出くわしたその日のうちにふたたび相見えられるとは思えなかったけれど、眠れずに悶々とするよりは気が紛れる。とはいえやはり、こころのどこかで期待していたことは否めない。
橋を渡って川沿いを下る。子の刻を過ぎても、ぽつりぽつりと屋形船の灯のまだ残る川面を眺めながら、枝垂れた柳の並木をくぐった。幽霊でも出そうだとふと思い、周章ててかぶりを振る。ほかに怖いものなどなかったが、その手の方面だけは苦手な土方である。人家も疎らな寂れた野っ原に出たあたりで、踵を返した。
「些と足を伸ばしすぎたな」
木を隠すなら森、の喩えもあるように、桂は堂々と市中に隠れていることのほうが多い。堂々と隠れているというのも妙な云い回しだが、実際そうとしか云いようがないのだからしかたがない。隠れ処はいくつもあるらしく虚実取り混ぜて転々としている、というのがおおかたの見方だ。そこまで見当が付いていながら、実際に踏み込んだときには往々にしてもぬけの殻、というのも情けない話ではある。
疎らな外灯と遠い街灯りにたすけられて帰路を急ぐ。往きと異なる道を選んだのは巡回という任務が念頭にあったからだが、道端の蒲楊のもとに蹲る人影を見つけて、ぎょっとした。
長い黒髪が影になって顔を隠していたが、影絵のようなそのほっそりとした輪郭は見間違えようもない。
「桂…?」
近づく気配か足音にか、気づいていたのだろう。真白いおもてがゆっくりと土方のほうを見返った。蹲った足もとに濃い黒い影が射している。それが血溜まりだと気づいて、土方は急いで駆け寄った。
「昼間の砲撃で、やられたのか」
奇妙な違和感を覚えたが、考えるよりさきにからだがうごいた。
「…貴様か、芋侍」
間近に迫ってようやくこちらが土方だと知れたらしい。
「あの程度の威嚇で、らしくもねぇ」
云いながら、口に銜えた手拭いを細く裂く。
「まったくだ」
つねと変わらぬ平坦な口調で淡々と頷くが、土方が足首の傷をあらためるとちいさく呻いた。裂いた布できつめに縛る。もう血は渇きかけていて、血溜まりほどには大きな怪我ではなさそうだ。それにほっとして、土方は知らず詰めていた息を吐いた。
「やはり人間平常心がだいじということだな」
桂がぽつりとつぶやいた。
「おめぇはいつだって動じたりしねぇだろうがよ」
そうだ、口惜しいほどに。
「おれが動じていないとなぜ思う?」
らしくもない覚束ない口調で、問い返された。
「…え?」
まさか土方に気を取られて逃げるのが遅れたとでも云うつもりか。
暗くて表情の読みとれぬおもてが、土方を至近に捉える。遠い微かな灯りを映した漆黒の双眸が、おのが眼界に揺れた。
記憶のなかの年若い桂の面影がかさなる。あのとき触れた口唇の、つかんだ髪の、交わした肌の、生々しいまでの感覚が身のうちに甦って、土方は息を呑んだ。
「かつら」
手当てのためにと添えられていた指先に、無意識のままにちからがこもる。逃げられぬようにと思ってなのか、おのれにもわからなかった。片膝立ちで、草履履きの足の甲を押さえつけて、ずいと身を寄せる。そのまま吸い込まれるように桂の身のうえに倒れ込んだ。
長くたおやかな指が、存外につよいちからで土方の隊服をつかむ。声が上がらなかったのは、その朱唇を土方の口唇が塞いでいたからだ。
押さえつけていた足首から、這入り込んだ手が着流しの裾を乱して遡る。もう一方の掌が胸の袷を暴いてひんやりとした雪肌を舐めた。くぐもった呻きが合わせた口唇の端から漏れる。おのが膝を食い込ませて膝をわり、遡った土方の手は委細かまわずなめらかな内腿を奥へ奥へと探った。
あの一夜を限りに触れた甘い襞の感触が、手指の先に掛かる。躊躇いもなく潜り込ませた刹那に零れでた桂の喘ぎが、とうに昂ぶっていた土方の芯を一気に燃えさからせた。
燃え立つ身の焼けつくような情欲を深奥に叩きつけながら、どこか乾いた感覚でそれを見ている自分がいる。全身の触覚が泥に浸かりまみれ絡みつかれるようななかで、土方は足掻いていた。
ちがう。これはちがう。
あたまの片隅の冷めた視野が、さっきから警鐘を鳴らし続けている。なのにからだはおもうようにうごかない。春機の発露はあまりにあからさまで、おのれの意思とはべつのところで支配されたからだが、愛しい身をおもうさま蹂躙する。
ちがうのだ。
激しくかぶりを振って、土方は抵抗する。身の欲は隠すべくもないけれど、これはちがうのだと、土方は思う。なにがちがうのかと問われれば、ただちがうのだとしか云いようのないもどかしさで、だが土方はただお題目のようにその一言(いちごん)を唱えつづけた。
ちがうちがうちがう。ちがう。
…じゃない。
桂じゃ、ない。
そうだ。これは。
桂ではありえない。
意思が表層に上り、明確なことばとなって結ばれたとたん、ぱぁん、と音の鳴るような鮮やかさで、昏く濁っていた視界が白く晴れた。
続 2011.07.14.
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