「天涯の遊子」高桂篇。
高杉と桂。もしくはヅラ子。
万斉、顔見せ。坂本がちょこっと。3回に分ける。
紅桜以降、動乱篇まえ。
連作的には、高桂篇『火影』を引き継ぐ。時系列では土桂篇『陽炎』のあと。
血溜まりの中に蹲る人影がある。長い黒髪が浮かぶように散っている。ぱっくりと開いた刀傷からはまだ鮮血があふれ出している。なのにその顔はすでに紙のように白い。
「…かつら?」
ぼんやりと、高杉はその場景を眺める。あたりは音を失ったかのようで、聞こえてくるのは耳障りなおのれの呼吸音だけだ。
流れでる血汐の先には、白く濁った鈍色の刃。ところどころ赤黒く染まり、伝い落ちるそれが柄までをべっとりと濡らしていた。その鍔のない柄を握るのはおのれの、強張った手。 手? おのれの?
ゆっくりと高杉は、また刀の柄から人影へと視線を巡らす。鮮紅色で繋がったそのふたつを交互にながめ、高杉は声にならない悲鳴をあげた。
こたろう!
* * *
跳ね起きた高杉は、目のまえの真闇をひたと見据えた。
動悸がする。ふとんのへりを握りしめた手が汗ばんでいる。全身にいやな汗をかいているのがわかった。
どれほど目をこらしても、しかしそこにあの鮮やかな血の色はない。
もういちどゆっくりと瞬きをし、見つめ直した暗闇はやはりいつもの寝間のそれで、高杉は大きく息を吐き出した。
夢か。それはそうだろう。血溜まりに沈むなら、この身のはずだ。桂か、あるいは銀時に、斬られて。むろん、銀時に斬られるのは御免だが。
「どうせなら桂だよなぁ」
未練だと思う。桂を本気で殺めたいなどと考えたことはない。なのにこんな夢を見るのは、天人に桂を売るような真似をしたことへの後ろめたさか。それとも、殺してでもおのがもとへ留め置けばよかったのだという、心の闇の後悔か。いずれにせよ、未練だ。
高杉は虚空の闇に向かって自嘲した。
「くくっ」
まったく、おのれというやつは。笑うしかない。
おのれはまだこんなにも桂の存在を欲しているのか。これほどに深く、桂にこの身を浸食されていようとは。いや、わかっていた。わかっていたのに。
しばしぼんやりと身を起こしたまま寝床に座り込んでいると。襖の向こうに気配を感じて、高杉はようすを窺った。間を置かず密やかに声が掛かる。
「晋助。起きているでござるか」
「万斉か。ああ。なんだ」
「緊急通信が。快援隊と名告るものからでござる」
手近に時刻をしめすものがなかった。だが感覚的に丑の刻はとうにまわっているよう思われる。
「快援…。辰馬、いや、坂本からか。内容は?」
「直に、と」
「ふん。もったいつけやがる。いいぜ、回しな」
どうせもう眠れそうにない。眠ったところで悪夢のつづきを見るだけの気がして、高杉は通信回線を自室につなぐよう命じて万斉を下がらせた。
床を這い出し、いつもの派手な柄物に着替える。着物とともに枕元に置いていた冊子を手に取って、なんとはなしに眺めた。表紙から中程までがざっくりと深く切り込まれている。あのとき。桂の刀がこの身を一閃し、ついた傷だ。その刀傷をそっと掌で撫で、高杉は懐にだいじそうに仕舞い込んだ。
未練、だった。
黒かった画面が明色に切り替わったとたん、薄茶のガラス眼鏡に黒いもじゃもじゃの毛玉が、豪快に笑って現れた。
「あっはっはっー。元気じゃったか、晋坊」
モニターの向こうの相も変わらぬ脳天気な面に、一瞬出たことを後悔する。
「いいかげんその呼び名は止めろ。だいち、てめぇ何時だと思ってやがる」
「どうせ眠れんかったがやろ」
見透かすようなことを云って、坂本は高杉を酒に誘ってきた。
「江戸でしょうえい店をみつけたがやき。明後日あたりどうろう」
「江戸ぉ?てめぇ俺が指名手配犯とわかってて、わざわざ出向けってのか」
「なにを殊勝なことゆうちゅう。鬼兵隊の船艇(ふね)がちょくちょく陸(おか)に降りちゅうのは知っちゅう。そのたんび江戸を徘徊しちゅうくせに」
「…ふん。こそこそと動静探ってやがんな。なにたくらんでやがる」
「おんしをさなぐっちゅうのは別件のことじゃ。なんちゃーじゃたくらきなどいやーせん。いまはただ旧友として誘っちゅうばあだ」
坂本は悪びれない。鬼兵隊に探りを入れていることを隠そうともせず、ぬけぬけと云いながら、だが付け足されたことばに、耳を疑った。
「小太郎に会いたいろう」
とっさに返す言葉を高杉は持たなかった。
「会わせちゃるき、来いや」
高杉は、きりと口唇を咬んだ。
「…てめぇ。俺とあいつの一件は知ってんだろうが」
「派手にやりあったにかぁーらんの」
坂本の口調はのんびりとしてまるで変わるところがない。
「それで、よくそんなせりふが吐けるな」
「会いたくないがか?」
単刀直入に訊かれて、返答につまる。
「俺より、ヅラが厭がるだろうぜ」
自嘲気味なことばが漏れた。いまさらだ。会いたいだろうと問われて否定できない、拒絶できないおのれが、哀れだ。
「いんや。小太郎の了承は取ってある。晋助が会う気があるならかまんと」
ふたたび高杉はかたまった。思考が渦を巻く。まさか。いや。本気だろうか。会っていまさらなにを話せというのか。なに考えてるんだ。会えばぶった斬ると云ったその口で。
高杉の混乱を知ってか知らずか、坂本は勝手に話を進めていく。
「じゃー、明後日いやもう明日か。駕籠屋を迎えにやるき。なに、心配じゃったら腕の立つやつでも連れてきたらええ。ほれ、さっき出たやつ、あれでもいいやか。ただしああした場じゃー刃傷沙汰は御法度やき。せられんよ」
高杉の返事をまたず通信を切ろうとした坂本に、周章てて高杉はようやく返した。
「ンな無粋なまねはしやしねぇ。まてバカ本。てめぇ、んなことのために緊急回線使いやがったのか」
からからと坂本は笑った。
「緊急やか。わしはこのあとちっくと地球から離れるちや。通信もままならんようになるがで。ほいたら約束やき。必ずな」
なに?
「ちょ…待て」
待たずに通信は切り替わり、店の地図と予約時間と駕籠屋と落ち合う場所がメール添付で送られてきて、切れた。呆然として、高杉はそれをただ眺めた。
誘うだけ誘って、坂本は江戸にはいないという。ここへ行けば桂に会えるというのか。というか、差しで会えと? いや、護衛付きでもかまわないとさえ云った。わからない。それを桂は承諾したという。桂のほうも護衛付きだということだろうか。それともこの店自体が。
「罠、なのか」
口では云いながら、理性と経験と感情とがそれを否定した。相手はあの桂だ。闇討ちのようなまねはするまい。さしあたり快援隊に闇討ちにされるような覚えもないし、それならそれで、坂本が桂のなまえを利用するはずもなかった。
「危険っす。晋助さま」
案の定反対するまた子の懸念を、万斉が一笑に付した。
「拙者が同行する以上、晋助には指一本触れさせんでござるよ」
飄々として、万斉は喜んで同道するという。
「なに、仮になにかあったとしても、桂とは一手死合うてみたかったのでござる。よい機会でござろう」
この男もどこまで本気かわからない。高杉のもとに身を置き、高杉の命(めい)に従ってはいるいが、腹の底が見えないという点では全幅の信頼をおけるわけではない。それでも高杉が万斉を手許に置くのは、それを引き換えても見合う能力と利用価値があり、その腕が立つからだ。この男に付け込まれることがあれば、それはおのれがそれまでの器だっただけのこと。そう、高杉が自身を見切っているからに過ぎない。
かつての、攘夷戦争のころに桂や銀時や坂本たちに置いた信頼とは、おのずと質も方向性も違う。あのころとはなにもかもが違うのだ。
* * *
「なんだ、こりゃぁ」
派手派手しいその看板をまえに、高杉は思わず声をあげた。
「なんだもなにも、見てのとおりでござる」
提灯に飾られた看板には、かまっ娘倶楽部。
「おかまバーでござろうな」
坂本の指示どおりに訪ねた高杉たちを出迎えたのは、顎のたくましいホステスであった。
「いらっしゃい。ママから伺っておりますわ。坂本さんのご友人ですわね」
あやうく出掛かったことばを呑み込んだのは、指示に坂本からの注意書きがしたためられていたからだ。曰く、ホステスの悪口は厳禁。おさわり禁止。でないと西郷ママに殺される。
そのママことマドマーゼル西郷が、かつての攘夷志士、鬼神・西郷特盛。白フンの西郷だとは、知らされたいまでも俄には信じがたかったが。次いで目のまえに現れた見あげるほどの女装の偉丈夫に、高杉もさすがの万斉もやや腰が引けたのは否めない。
西郷ママはにこやかに笑いながら、腰のものをお預かりします、と有無をいわさぬ調子で云い、あずみという源氏名のさきほどのホステスに受け付け奥へとしまわせた。
このまま威に呑まれてはいられない。高杉は平静を装って口を開いた。
「来てるか?」
西郷ママがにっとわらって、カウンター奥に呼びかける。
「お待ちかね。ヅラ子、ご指名よ」
聞き覚えのあるようなないような源氏名を呼んだ。
「はぁい」
奥から返った耳慣れた声に、高杉はあやうく持っていた煙管を取り落とすところだった。まさか。しかし、いまの声はたしかに。
「晋助?どうしたでござるか」
万斉には、桂の声にさしたる覚えのあるはずもない。果たして現れたのは。
艶やかな黒髪を肩のあたりでゆるく結わえた、粋な着物姿の姐さんといっていい。小作りの顔に似つかわしい小さめの口唇とすっと通った鼻梁、切れ長の黒眼勝ちな眸の、美貌の女性。もとい、美貌の女装の、桂である。
続 2008.03.30.
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血溜まりの中に蹲る人影がある。長い黒髪が浮かぶように散っている。ぱっくりと開いた刀傷からはまだ鮮血があふれ出している。なのにその顔はすでに紙のように白い。
「…かつら?」
ぼんやりと、高杉はその場景を眺める。あたりは音を失ったかのようで、聞こえてくるのは耳障りなおのれの呼吸音だけだ。
流れでる血汐の先には、白く濁った鈍色の刃。ところどころ赤黒く染まり、伝い落ちるそれが柄までをべっとりと濡らしていた。その鍔のない柄を握るのはおのれの、強張った手。 手? おのれの?
ゆっくりと高杉は、また刀の柄から人影へと視線を巡らす。鮮紅色で繋がったそのふたつを交互にながめ、高杉は声にならない悲鳴をあげた。
こたろう!
* * *
跳ね起きた高杉は、目のまえの真闇をひたと見据えた。
動悸がする。ふとんのへりを握りしめた手が汗ばんでいる。全身にいやな汗をかいているのがわかった。
どれほど目をこらしても、しかしそこにあの鮮やかな血の色はない。
もういちどゆっくりと瞬きをし、見つめ直した暗闇はやはりいつもの寝間のそれで、高杉は大きく息を吐き出した。
夢か。それはそうだろう。血溜まりに沈むなら、この身のはずだ。桂か、あるいは銀時に、斬られて。むろん、銀時に斬られるのは御免だが。
「どうせなら桂だよなぁ」
未練だと思う。桂を本気で殺めたいなどと考えたことはない。なのにこんな夢を見るのは、天人に桂を売るような真似をしたことへの後ろめたさか。それとも、殺してでもおのがもとへ留め置けばよかったのだという、心の闇の後悔か。いずれにせよ、未練だ。
高杉は虚空の闇に向かって自嘲した。
「くくっ」
まったく、おのれというやつは。笑うしかない。
おのれはまだこんなにも桂の存在を欲しているのか。これほどに深く、桂にこの身を浸食されていようとは。いや、わかっていた。わかっていたのに。
しばしぼんやりと身を起こしたまま寝床に座り込んでいると。襖の向こうに気配を感じて、高杉はようすを窺った。間を置かず密やかに声が掛かる。
「晋助。起きているでござるか」
「万斉か。ああ。なんだ」
「緊急通信が。快援隊と名告るものからでござる」
手近に時刻をしめすものがなかった。だが感覚的に丑の刻はとうにまわっているよう思われる。
「快援…。辰馬、いや、坂本からか。内容は?」
「直に、と」
「ふん。もったいつけやがる。いいぜ、回しな」
どうせもう眠れそうにない。眠ったところで悪夢のつづきを見るだけの気がして、高杉は通信回線を自室につなぐよう命じて万斉を下がらせた。
床を這い出し、いつもの派手な柄物に着替える。着物とともに枕元に置いていた冊子を手に取って、なんとはなしに眺めた。表紙から中程までがざっくりと深く切り込まれている。あのとき。桂の刀がこの身を一閃し、ついた傷だ。その刀傷をそっと掌で撫で、高杉は懐にだいじそうに仕舞い込んだ。
未練、だった。
黒かった画面が明色に切り替わったとたん、薄茶のガラス眼鏡に黒いもじゃもじゃの毛玉が、豪快に笑って現れた。
「あっはっはっー。元気じゃったか、晋坊」
モニターの向こうの相も変わらぬ脳天気な面に、一瞬出たことを後悔する。
「いいかげんその呼び名は止めろ。だいち、てめぇ何時だと思ってやがる」
「どうせ眠れんかったがやろ」
見透かすようなことを云って、坂本は高杉を酒に誘ってきた。
「江戸でしょうえい店をみつけたがやき。明後日あたりどうろう」
「江戸ぉ?てめぇ俺が指名手配犯とわかってて、わざわざ出向けってのか」
「なにを殊勝なことゆうちゅう。鬼兵隊の船艇(ふね)がちょくちょく陸(おか)に降りちゅうのは知っちゅう。そのたんび江戸を徘徊しちゅうくせに」
「…ふん。こそこそと動静探ってやがんな。なにたくらんでやがる」
「おんしをさなぐっちゅうのは別件のことじゃ。なんちゃーじゃたくらきなどいやーせん。いまはただ旧友として誘っちゅうばあだ」
坂本は悪びれない。鬼兵隊に探りを入れていることを隠そうともせず、ぬけぬけと云いながら、だが付け足されたことばに、耳を疑った。
「小太郎に会いたいろう」
とっさに返す言葉を高杉は持たなかった。
「会わせちゃるき、来いや」
高杉は、きりと口唇を咬んだ。
「…てめぇ。俺とあいつの一件は知ってんだろうが」
「派手にやりあったにかぁーらんの」
坂本の口調はのんびりとしてまるで変わるところがない。
「それで、よくそんなせりふが吐けるな」
「会いたくないがか?」
単刀直入に訊かれて、返答につまる。
「俺より、ヅラが厭がるだろうぜ」
自嘲気味なことばが漏れた。いまさらだ。会いたいだろうと問われて否定できない、拒絶できないおのれが、哀れだ。
「いんや。小太郎の了承は取ってある。晋助が会う気があるならかまんと」
ふたたび高杉はかたまった。思考が渦を巻く。まさか。いや。本気だろうか。会っていまさらなにを話せというのか。なに考えてるんだ。会えばぶった斬ると云ったその口で。
高杉の混乱を知ってか知らずか、坂本は勝手に話を進めていく。
「じゃー、明後日いやもう明日か。駕籠屋を迎えにやるき。なに、心配じゃったら腕の立つやつでも連れてきたらええ。ほれ、さっき出たやつ、あれでもいいやか。ただしああした場じゃー刃傷沙汰は御法度やき。せられんよ」
高杉の返事をまたず通信を切ろうとした坂本に、周章てて高杉はようやく返した。
「ンな無粋なまねはしやしねぇ。まてバカ本。てめぇ、んなことのために緊急回線使いやがったのか」
からからと坂本は笑った。
「緊急やか。わしはこのあとちっくと地球から離れるちや。通信もままならんようになるがで。ほいたら約束やき。必ずな」
なに?
「ちょ…待て」
待たずに通信は切り替わり、店の地図と予約時間と駕籠屋と落ち合う場所がメール添付で送られてきて、切れた。呆然として、高杉はそれをただ眺めた。
誘うだけ誘って、坂本は江戸にはいないという。ここへ行けば桂に会えるというのか。というか、差しで会えと? いや、護衛付きでもかまわないとさえ云った。わからない。それを桂は承諾したという。桂のほうも護衛付きだということだろうか。それともこの店自体が。
「罠、なのか」
口では云いながら、理性と経験と感情とがそれを否定した。相手はあの桂だ。闇討ちのようなまねはするまい。さしあたり快援隊に闇討ちにされるような覚えもないし、それならそれで、坂本が桂のなまえを利用するはずもなかった。
「危険っす。晋助さま」
案の定反対するまた子の懸念を、万斉が一笑に付した。
「拙者が同行する以上、晋助には指一本触れさせんでござるよ」
飄々として、万斉は喜んで同道するという。
「なに、仮になにかあったとしても、桂とは一手死合うてみたかったのでござる。よい機会でござろう」
この男もどこまで本気かわからない。高杉のもとに身を置き、高杉の命(めい)に従ってはいるいが、腹の底が見えないという点では全幅の信頼をおけるわけではない。それでも高杉が万斉を手許に置くのは、それを引き換えても見合う能力と利用価値があり、その腕が立つからだ。この男に付け込まれることがあれば、それはおのれがそれまでの器だっただけのこと。そう、高杉が自身を見切っているからに過ぎない。
かつての、攘夷戦争のころに桂や銀時や坂本たちに置いた信頼とは、おのずと質も方向性も違う。あのころとはなにもかもが違うのだ。
* * *
「なんだ、こりゃぁ」
派手派手しいその看板をまえに、高杉は思わず声をあげた。
「なんだもなにも、見てのとおりでござる」
提灯に飾られた看板には、かまっ娘倶楽部。
「おかまバーでござろうな」
坂本の指示どおりに訪ねた高杉たちを出迎えたのは、顎のたくましいホステスであった。
「いらっしゃい。ママから伺っておりますわ。坂本さんのご友人ですわね」
あやうく出掛かったことばを呑み込んだのは、指示に坂本からの注意書きがしたためられていたからだ。曰く、ホステスの悪口は厳禁。おさわり禁止。でないと西郷ママに殺される。
そのママことマドマーゼル西郷が、かつての攘夷志士、鬼神・西郷特盛。白フンの西郷だとは、知らされたいまでも俄には信じがたかったが。次いで目のまえに現れた見あげるほどの女装の偉丈夫に、高杉もさすがの万斉もやや腰が引けたのは否めない。
西郷ママはにこやかに笑いながら、腰のものをお預かりします、と有無をいわさぬ調子で云い、あずみという源氏名のさきほどのホステスに受け付け奥へとしまわせた。
このまま威に呑まれてはいられない。高杉は平静を装って口を開いた。
「来てるか?」
西郷ママがにっとわらって、カウンター奥に呼びかける。
「お待ちかね。ヅラ子、ご指名よ」
聞き覚えのあるようなないような源氏名を呼んだ。
「はぁい」
奥から返った耳慣れた声に、高杉はあやうく持っていた煙管を取り落とすところだった。まさか。しかし、いまの声はたしかに。
「晋助?どうしたでござるか」
万斉には、桂の声にさしたる覚えのあるはずもない。果たして現れたのは。
艶やかな黒髪を肩のあたりでゆるく結わえた、粋な着物姿の姐さんといっていい。小作りの顔に似つかわしい小さめの口唇とすっと通った鼻梁、切れ長の黒眼勝ちな眸の、美貌の女性。もとい、美貌の女装の、桂である。
続 2008.03.30.
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