Armed angel #23 二期終幕後 ニルティエ
実体を得たティエリアとニール、地上休暇のはじまり。
再会後の初エロ。ほぼ全篇とおして R18。
少し長めの全三回。その1。
旧ユニオン領、軌道エレベーター・タワーの静止軌道ステーションを定刻どおりに発ったリニアトレインは、一路地上へと降下してゆく。
四人掛けのコンパートメントに隣り合わせに腰掛け、なんとはなしにティエリアは車窓のモニターを眺めている。座席に無造作に投げ出されていた華奢な手指に、ニールは素手の手指を絡めた。
なめらかな指先がぴくりと微かに撥ねて、けれどもそのまま応えるように握りかえされる。ふたつの紅玉はモニターに向けられたままだったが、意識が指先に流れ込んでくるのを感じて、ニールは笑みを堪えてティエリアのつるりとしたきれいな淡い桜色の爪を親指の腹で撫でた。
あれからゆうに八年は経つのか。
コンパートメントの天井を眺めるようにニールは深くシートに身を委ねる。死者として意識を失くしていた時間もあるからか、実感としてはそれよりもずいぶんと短い。
武力介入開始の三年ほどまえからガンダムマイスターとしての特殊訓練を受けた。当時はまだティエリアのほかにマイスターはおらず、半年が経過したころラグランジュ3のCB偽装ドックから初めて地上に降りることになって、やはりこうして四人掛けのコンパートメントにティエリアとふたりきりで乗車した。もっともあのときには斜向かいに座していて、不機嫌に神経を尖らせるだけの地上嫌いの少年に、室内の空気は気詰まりさを湛えていたのだが。
たぶんあのときにはもう惹かれていた。ただそれは、見た目も能力も異彩を放ちながら周囲と隔絶する年下の同僚への、多分におのれの性質(たち)に所以する好意に過ぎなかったろう。まさかそれが、初ミッションを兼ねていたその地上休暇を終えるころには、断ちがたい恋着へと転化するなど神ならぬ身の知るよしもない。
目のまえにあるのはあのころと寸分たがわぬ秀麗な美貌。ただ纏う空気と面差しだけが、別人のごとくやわらかい。
「…なにか?」
ふいに問い掛けられて、ニールはティエリアの横顔にじっと見入ってしまっていたことに気づいた。
「……ああ、いや。ちょっとむかしを思い出してた」
知らず微苦笑が浮かぶ。
「感傷か。あなたらしいな」
ばっさり切り捨てる云いようは相変わらずだが、口調はやさしい。
「あなたの思い出のなかのぼくは、さぞかし不遜でもの知らずなのだろう」
ティエリアはちいさく肩を竦めて、絡めていた指を解く。それを逃さぬように追いながら、ニールはティエリアを蔽うように半身を捻った。
「……ロックオン」
「『ニール』」
淡くかさねた口唇が離れる束の間、零れたつぶやきにそう返して、ニールは舌先でもういちどティエリアの口腔を訪なう。うすく開かれた朱唇にこんどは深くおのれの口唇を咬ませた。
「…っ」
絡んだ指先が握り込むように攣れる。口蓋をなぞって舌の付け根にまで舌を使い、まだどこかもどかしさを残す舌をおのが口中に引き込んで吸っては、また押し戻して咽奥までを蹂躙する。
「ふ……ぁ、…は…ふ」
飲み干しきれずに口の端から伝い落ちた雫が、ティエリアの喉もとを濡らす。場所を考えれば濃密すぎる口接けに、空いていた車窓側のほうの腕が押し退けるようにニールの肩をつかんだ。
「…ロッ…、ニール…。ニ…」
かまわずつづけられるキスのあいまあいまに囁くように繰り返される名が、しだいに甘く潤んでいくのを耳に心地よく捉えながら、身を乗りだしたニールはティエリアをシートの背に縫いつけて、その華奢な身の稜線を確かめるようになぞり鼻先を紫黒の髪にうずめて頸筋を咬んだ。
「…ぁ、…ニールっ」
肩をつかんでいた指先に、ちからが籠もる。
「だめだ。ニール」
「なにが、だめ?」
わざと不満げに低めた声で囁いて耳朶を甘噛みするニールに、ティエリアは困惑の一瞥を投げてきた。
トレインではアテンダントによる巡回車内サービスが行われている。個室だからむろん鍵はかかるが通常はロックなどされていないし、寝台車でもないのに公衆道徳に反する行為に及んでよい場所ではない。
ニールもそれは承知していたから半分は揶揄いの気分だったのだが、おのれで仕掛けたキスに我が身を煽られて、いささかのっぴきならない状態になりかけていることを自覚する。
「ティエリア…」
そう吐き出した息は自分でも驚くほどに熱い。耳もとにそれを感じて幽かに身を震わせたティエリアの反応が、ずっと抑え込むことを余儀なくされていたニールの欲に拍車を掛ける。
「…ニー…、やめ、」
理性は警鐘を鳴らすのに、感情と劣情が抑制を失っていく。制止の声を口唇で塞いで、素肌を暴くようにまさぐりはじめたニールの掌に、シートに抑え込まれていたティエリアが本気で焦りはじめるのが伝わってくる。それにすらもう掻き立てられるばかりで、ニールはその瞬間たしかに我を忘れた。
「ニール、…ロックオン!、ロックオン・ストラトス!!」
蟀谷への容赦ない一撃とともに、かつて耳に馴染んだ叱責が降ってきた。張り飛ばされた勢いで自分のシートにしたたかに身を打ち付け、立ち返ってきた理性をニールは周章てて繋ぎとめる。
「…つぅ…っ。…ふう」
殴られたあたりを片手で抑えながら、シートに凭れ込んでおおきく息を吐いた。欲に灼かれた熱の抜け落ちた碧緑が、傍らで乱れる息を殺して睨めつける愛しい姿を捉える。掻き立てられた情欲をまだ色濃く残して濡れる深紅の双眸が、怒りを湛えている。
ああ、きれいだな。…かわいいなぁ。
などと、口に出したならもう二三発は殴られそうなことを考えながら、じんじんとした痛みを訴える蟀谷をさすった。
「腕は鈍ってねぇなぁ…。効いた…」
そう苦笑するニールに、ティエリアは桜色に染まった頸筋から頬にさらに血を昇らせて、無言で凄んだ。本来弁の立つティエリアがことばを失うというのは、よほど怒っているか照れているか呆れ果てているかだろう。肩でおおきく息をしたのは、怒気と情欲の両方を逃し鎮めるためか。
「…すまん。ブレーキ壊れてた」
待ち遠しすぎたんだ。ニールをまっすぐ捉えてくるつよい眼差しに、いささか居心地のわるい面持ちで詫びる。
「…『一発殴ってさしあげる』って云ってたっけ。はからずも果たせたな」
「ぼくは……あなたを、殴りたくなどないんだ」
潤んだおおきな紅い眸が、落ち着きを取り戻すとともにいつもの冴えた硬質な硝子の色合いに変わる。
「ぼくだって…あなたが欲しい。あなたに触れたい」
激情のままにではなく、平時に返って紡がれたことばに息を呑んだ。
「ティエリア…」
「ぼくのぜんぶに触れてほしい。…ここではいやだ。それができない」
しごく淡々とまじめに云ってのける氷の美貌に、ニールは魅入られている。
「……おまえ、…っとに、変わんねぇ…。そーゆーとこだけ、…」
ようよう吐き出した声音は、無自覚なままに蠱惑する恋人に翻弄されて困り果て、そのくせ我ながらあきれるくらいにとろけきっていた。
* * *
下手に触れると暴走すると思い知って、そのあとは髪一条にも触れることなく、ニールは地上までの時間を耐えた。正確には、その日宿泊予定のホテルに到着するまでの時間を、だ。
ティエリアのほうでもそうなのか、ただ懲りただけなのか、チェックインをすませ客室係が辞してドアの鍵を下ろすまで、不用意に触れてくるような真似をしなかった。
王留美の別荘群はべつとして、CB時代に泊まった宿はミッションでそれなりのグレードが必要とされないかぎりはビジネスライクなものがほとんどだったし、ニールひとりの地上休暇であればランチア・ラリーで寝泊まりすることもあったくらいなのだが、今宵の宿はごく一般的なシティホテルである。それもこのあとは宿も目的地もほぼ白紙という気儘さだ。
通されたのはスタンダードよりはワンランククラスアップされたツインルームで、着ていた薄手のトレンチコートをウォークインクローゼットのハンガーに掛けたところで、ニールはどさりとソファに腰を降ろした。
「はぁ」
深く溜め息を吐く。
「…長かっ…た」
「……同意する」
我知らずこぼれ落ちたことばに、ティエリアが控えめに肯く。あのあと意識的に逸らされてきた視線がどちらからともなく合わさって、ほぼ同時に吹き出した。
とはいえティエリアのそれはニールに比せば淡く、ただ息を吐いてほんのりと笑んだ程度のものだったのだけれど。それでもかつてのティエリアにはありえなかった情動だ。
「これで、心置きなく?」
笑いながら傍らに立っていた細腰を抱き寄せ招いた。その手をティエリアが軽く叩く。
「シャワーくらい浴びさせて欲しい」
「んじゃ、いっしょに入る?」
過去の経験上、ニールといっしょにバスルームを使えばどうなるかを学習しているティエリアは、かるく睨めて首を振った。
「いやだ。云ったはずだ。ぜんぶに触れてほしい。ちゃんと、したい」
なにごとも徹底的にやるティエリア・アーデはこんなところでも健在だ。
繰り返される衒いのないことばに眩暈を覚える。渇望と歓喜は惑乱となってニールを鷲摑みに揺さぶるのだ。
仄かな湿り気を帯びた紫黒の髪に口接けながら、シャワーのぬくもりを残す肌をバスローブ越しに感じている。臀のまろみに添って滑らせた指が、ふんわりとしたタオル地の向こうの秘めた峡谷を象って、腕のなかのしなやかな細身のからだがふるりと震えた。
「…なぁ…」
さらさらと艶めく紫黒に鼻先と唇を埋め込んで、ニールは目を閉じた。匂いというものを感じさせないティエリアの、肌から幽かに香るこれはバスで使ったシャボンのそれだろう。
「こんなこと訊けた義理じゃねぇってのは重々承知のうえなんだが…」
「はい?」
きっちりと前を合わせて着込んだティエリアとちがい、かるく羽織ってゆるく紐を結んだだけのニールのバスローブの背をつかみ、肩口に頬をあずけていたティエリアが問うように首を傾げる。
「だれにも…触れさせたりしてねぇ…よな?」
「このからだを?」
「…ん」
華奢な手指が胡桃色の髪に差し込まれ、変わらぬ身長差のぶん下方から覗く紅い眸がニールの碧緑を捉えた。
「このからだは…生まれたてだが?」
「あ。いや、そういう意味じゃ、…なくてだな」
それで云うなら、ニールのからだだって生成されて稼動からは一年と経っていない。
ティエリアはくすりと笑みを零して、双眸を撓ませる。問われたことの真意はちゃんとわかっているという表情だった。
「もちろんだ。————ああ、でも、ただ…」
あたりまえのことを、といった風情で断言してニールを安堵させたのも束の間、思い出したようにそのさきを継いだことばに不安が差す。
「…ただ、なに?」
「刹那の頬にキスした」
「……刹那の?」
内心ではぎょっとして目を剥きながら、平静を装って先を促す。
「そうしたら逆にキスを返されたことは、あった」
「返されたって…ほっぺにか」
「口唇だ」
ぴくりと、おのれの頬が引きつるのをニールは感じた。
「刹那が、か?」
ニールのなかではきかん坊のイメージがいまだつよく残るが、実際の刹那は四年の歳月を物語るような成長を見せていた。
アロウズのパーティに乗り込んだときも、エアポートで再会を果たしたときも、ふたりのあいだに五年前には見られなかった深い信頼が育まれていることは、ニールも承知していた。が。
「…………あのやろ…」
黙っていればニールに知るすべなどないものを、わるびれもせずすなおに告げてしまうティエリアは、裏を返せば、そういう意味でのやましさがないからだろう。刹那がプトレマイオスのみなを家族のように思っていることも、その口からじかに聞いている。それ以上の情愛をティエリアに向けていることも、だ。
ニールが抱いているような恋情ではないと刹那は云い切ったが、それがどんなかたちであれ『特別』であることに相違はない。
「そういえば、そのとき刹那が」
…ロックオンに殴られるな。
呟いたということばを口真似でなぞられて、ニールは脱力したようにティエリアの肩に顎をあずけた。
「わかってて、やったのかよ。刹那のやつ…」
「刹那はあなたに似てきた」
ティエリアはニールの背を抱きしめなおして、やわらかに呟く。
「あなたのぶんも、あなたの代わりに、変わろうとしていた」
「…俺の、代わりに…?」
俺は…おまえになりたかった。
あのとき、ティエリアの遺体を浄めながら、たしかに刹那は云っていたが。
「夢であなたにそう云われていると」
碧緑の双眸が驚きに瞠られる。
「……」
おのれは刹那におのれを負わせてしまっていたのか。
復讐の果ての身勝手な死が落とした影は、ニール自身が思ってもみなかったところにまで根を張り枝を伸ばしている。
「だいじょうぶだ」
ニールのおもてに浮かんだ苦い痛みに、ティエリアは背に回していた両腕を解いて精悍なラインを描く頬を掌で包みこむように撫でた。
続 2012.04.24.
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旧ユニオン領、軌道エレベーター・タワーの静止軌道ステーションを定刻どおりに発ったリニアトレインは、一路地上へと降下してゆく。
四人掛けのコンパートメントに隣り合わせに腰掛け、なんとはなしにティエリアは車窓のモニターを眺めている。座席に無造作に投げ出されていた華奢な手指に、ニールは素手の手指を絡めた。
なめらかな指先がぴくりと微かに撥ねて、けれどもそのまま応えるように握りかえされる。ふたつの紅玉はモニターに向けられたままだったが、意識が指先に流れ込んでくるのを感じて、ニールは笑みを堪えてティエリアのつるりとしたきれいな淡い桜色の爪を親指の腹で撫でた。
あれからゆうに八年は経つのか。
コンパートメントの天井を眺めるようにニールは深くシートに身を委ねる。死者として意識を失くしていた時間もあるからか、実感としてはそれよりもずいぶんと短い。
武力介入開始の三年ほどまえからガンダムマイスターとしての特殊訓練を受けた。当時はまだティエリアのほかにマイスターはおらず、半年が経過したころラグランジュ3のCB偽装ドックから初めて地上に降りることになって、やはりこうして四人掛けのコンパートメントにティエリアとふたりきりで乗車した。もっともあのときには斜向かいに座していて、不機嫌に神経を尖らせるだけの地上嫌いの少年に、室内の空気は気詰まりさを湛えていたのだが。
たぶんあのときにはもう惹かれていた。ただそれは、見た目も能力も異彩を放ちながら周囲と隔絶する年下の同僚への、多分におのれの性質(たち)に所以する好意に過ぎなかったろう。まさかそれが、初ミッションを兼ねていたその地上休暇を終えるころには、断ちがたい恋着へと転化するなど神ならぬ身の知るよしもない。
目のまえにあるのはあのころと寸分たがわぬ秀麗な美貌。ただ纏う空気と面差しだけが、別人のごとくやわらかい。
「…なにか?」
ふいに問い掛けられて、ニールはティエリアの横顔にじっと見入ってしまっていたことに気づいた。
「……ああ、いや。ちょっとむかしを思い出してた」
知らず微苦笑が浮かぶ。
「感傷か。あなたらしいな」
ばっさり切り捨てる云いようは相変わらずだが、口調はやさしい。
「あなたの思い出のなかのぼくは、さぞかし不遜でもの知らずなのだろう」
ティエリアはちいさく肩を竦めて、絡めていた指を解く。それを逃さぬように追いながら、ニールはティエリアを蔽うように半身を捻った。
「……ロックオン」
「『ニール』」
淡くかさねた口唇が離れる束の間、零れたつぶやきにそう返して、ニールは舌先でもういちどティエリアの口腔を訪なう。うすく開かれた朱唇にこんどは深くおのれの口唇を咬ませた。
「…っ」
絡んだ指先が握り込むように攣れる。口蓋をなぞって舌の付け根にまで舌を使い、まだどこかもどかしさを残す舌をおのが口中に引き込んで吸っては、また押し戻して咽奥までを蹂躙する。
「ふ……ぁ、…は…ふ」
飲み干しきれずに口の端から伝い落ちた雫が、ティエリアの喉もとを濡らす。場所を考えれば濃密すぎる口接けに、空いていた車窓側のほうの腕が押し退けるようにニールの肩をつかんだ。
「…ロッ…、ニール…。ニ…」
かまわずつづけられるキスのあいまあいまに囁くように繰り返される名が、しだいに甘く潤んでいくのを耳に心地よく捉えながら、身を乗りだしたニールはティエリアをシートの背に縫いつけて、その華奢な身の稜線を確かめるようになぞり鼻先を紫黒の髪にうずめて頸筋を咬んだ。
「…ぁ、…ニールっ」
肩をつかんでいた指先に、ちからが籠もる。
「だめだ。ニール」
「なにが、だめ?」
わざと不満げに低めた声で囁いて耳朶を甘噛みするニールに、ティエリアは困惑の一瞥を投げてきた。
トレインではアテンダントによる巡回車内サービスが行われている。個室だからむろん鍵はかかるが通常はロックなどされていないし、寝台車でもないのに公衆道徳に反する行為に及んでよい場所ではない。
ニールもそれは承知していたから半分は揶揄いの気分だったのだが、おのれで仕掛けたキスに我が身を煽られて、いささかのっぴきならない状態になりかけていることを自覚する。
「ティエリア…」
そう吐き出した息は自分でも驚くほどに熱い。耳もとにそれを感じて幽かに身を震わせたティエリアの反応が、ずっと抑え込むことを余儀なくされていたニールの欲に拍車を掛ける。
「…ニー…、やめ、」
理性は警鐘を鳴らすのに、感情と劣情が抑制を失っていく。制止の声を口唇で塞いで、素肌を暴くようにまさぐりはじめたニールの掌に、シートに抑え込まれていたティエリアが本気で焦りはじめるのが伝わってくる。それにすらもう掻き立てられるばかりで、ニールはその瞬間たしかに我を忘れた。
「ニール、…ロックオン!、ロックオン・ストラトス!!」
蟀谷への容赦ない一撃とともに、かつて耳に馴染んだ叱責が降ってきた。張り飛ばされた勢いで自分のシートにしたたかに身を打ち付け、立ち返ってきた理性をニールは周章てて繋ぎとめる。
「…つぅ…っ。…ふう」
殴られたあたりを片手で抑えながら、シートに凭れ込んでおおきく息を吐いた。欲に灼かれた熱の抜け落ちた碧緑が、傍らで乱れる息を殺して睨めつける愛しい姿を捉える。掻き立てられた情欲をまだ色濃く残して濡れる深紅の双眸が、怒りを湛えている。
ああ、きれいだな。…かわいいなぁ。
などと、口に出したならもう二三発は殴られそうなことを考えながら、じんじんとした痛みを訴える蟀谷をさすった。
「腕は鈍ってねぇなぁ…。効いた…」
そう苦笑するニールに、ティエリアは桜色に染まった頸筋から頬にさらに血を昇らせて、無言で凄んだ。本来弁の立つティエリアがことばを失うというのは、よほど怒っているか照れているか呆れ果てているかだろう。肩でおおきく息をしたのは、怒気と情欲の両方を逃し鎮めるためか。
「…すまん。ブレーキ壊れてた」
待ち遠しすぎたんだ。ニールをまっすぐ捉えてくるつよい眼差しに、いささか居心地のわるい面持ちで詫びる。
「…『一発殴ってさしあげる』って云ってたっけ。はからずも果たせたな」
「ぼくは……あなたを、殴りたくなどないんだ」
潤んだおおきな紅い眸が、落ち着きを取り戻すとともにいつもの冴えた硬質な硝子の色合いに変わる。
「ぼくだって…あなたが欲しい。あなたに触れたい」
激情のままにではなく、平時に返って紡がれたことばに息を呑んだ。
「ティエリア…」
「ぼくのぜんぶに触れてほしい。…ここではいやだ。それができない」
しごく淡々とまじめに云ってのける氷の美貌に、ニールは魅入られている。
「……おまえ、…っとに、変わんねぇ…。そーゆーとこだけ、…」
ようよう吐き出した声音は、無自覚なままに蠱惑する恋人に翻弄されて困り果て、そのくせ我ながらあきれるくらいにとろけきっていた。
* * *
下手に触れると暴走すると思い知って、そのあとは髪一条にも触れることなく、ニールは地上までの時間を耐えた。正確には、その日宿泊予定のホテルに到着するまでの時間を、だ。
ティエリアのほうでもそうなのか、ただ懲りただけなのか、チェックインをすませ客室係が辞してドアの鍵を下ろすまで、不用意に触れてくるような真似をしなかった。
王留美の別荘群はべつとして、CB時代に泊まった宿はミッションでそれなりのグレードが必要とされないかぎりはビジネスライクなものがほとんどだったし、ニールひとりの地上休暇であればランチア・ラリーで寝泊まりすることもあったくらいなのだが、今宵の宿はごく一般的なシティホテルである。それもこのあとは宿も目的地もほぼ白紙という気儘さだ。
通されたのはスタンダードよりはワンランククラスアップされたツインルームで、着ていた薄手のトレンチコートをウォークインクローゼットのハンガーに掛けたところで、ニールはどさりとソファに腰を降ろした。
「はぁ」
深く溜め息を吐く。
「…長かっ…た」
「……同意する」
我知らずこぼれ落ちたことばに、ティエリアが控えめに肯く。あのあと意識的に逸らされてきた視線がどちらからともなく合わさって、ほぼ同時に吹き出した。
とはいえティエリアのそれはニールに比せば淡く、ただ息を吐いてほんのりと笑んだ程度のものだったのだけれど。それでもかつてのティエリアにはありえなかった情動だ。
「これで、心置きなく?」
笑いながら傍らに立っていた細腰を抱き寄せ招いた。その手をティエリアが軽く叩く。
「シャワーくらい浴びさせて欲しい」
「んじゃ、いっしょに入る?」
過去の経験上、ニールといっしょにバスルームを使えばどうなるかを学習しているティエリアは、かるく睨めて首を振った。
「いやだ。云ったはずだ。ぜんぶに触れてほしい。ちゃんと、したい」
なにごとも徹底的にやるティエリア・アーデはこんなところでも健在だ。
繰り返される衒いのないことばに眩暈を覚える。渇望と歓喜は惑乱となってニールを鷲摑みに揺さぶるのだ。
仄かな湿り気を帯びた紫黒の髪に口接けながら、シャワーのぬくもりを残す肌をバスローブ越しに感じている。臀のまろみに添って滑らせた指が、ふんわりとしたタオル地の向こうの秘めた峡谷を象って、腕のなかのしなやかな細身のからだがふるりと震えた。
「…なぁ…」
さらさらと艶めく紫黒に鼻先と唇を埋め込んで、ニールは目を閉じた。匂いというものを感じさせないティエリアの、肌から幽かに香るこれはバスで使ったシャボンのそれだろう。
「こんなこと訊けた義理じゃねぇってのは重々承知のうえなんだが…」
「はい?」
きっちりと前を合わせて着込んだティエリアとちがい、かるく羽織ってゆるく紐を結んだだけのニールのバスローブの背をつかみ、肩口に頬をあずけていたティエリアが問うように首を傾げる。
「だれにも…触れさせたりしてねぇ…よな?」
「このからだを?」
「…ん」
華奢な手指が胡桃色の髪に差し込まれ、変わらぬ身長差のぶん下方から覗く紅い眸がニールの碧緑を捉えた。
「このからだは…生まれたてだが?」
「あ。いや、そういう意味じゃ、…なくてだな」
それで云うなら、ニールのからだだって生成されて稼動からは一年と経っていない。
ティエリアはくすりと笑みを零して、双眸を撓ませる。問われたことの真意はちゃんとわかっているという表情だった。
「もちろんだ。————ああ、でも、ただ…」
あたりまえのことを、といった風情で断言してニールを安堵させたのも束の間、思い出したようにそのさきを継いだことばに不安が差す。
「…ただ、なに?」
「刹那の頬にキスした」
「……刹那の?」
内心ではぎょっとして目を剥きながら、平静を装って先を促す。
「そうしたら逆にキスを返されたことは、あった」
「返されたって…ほっぺにか」
「口唇だ」
ぴくりと、おのれの頬が引きつるのをニールは感じた。
「刹那が、か?」
ニールのなかではきかん坊のイメージがいまだつよく残るが、実際の刹那は四年の歳月を物語るような成長を見せていた。
アロウズのパーティに乗り込んだときも、エアポートで再会を果たしたときも、ふたりのあいだに五年前には見られなかった深い信頼が育まれていることは、ニールも承知していた。が。
「…………あのやろ…」
黙っていればニールに知るすべなどないものを、わるびれもせずすなおに告げてしまうティエリアは、裏を返せば、そういう意味でのやましさがないからだろう。刹那がプトレマイオスのみなを家族のように思っていることも、その口からじかに聞いている。それ以上の情愛をティエリアに向けていることも、だ。
ニールが抱いているような恋情ではないと刹那は云い切ったが、それがどんなかたちであれ『特別』であることに相違はない。
「そういえば、そのとき刹那が」
…ロックオンに殴られるな。
呟いたということばを口真似でなぞられて、ニールは脱力したようにティエリアの肩に顎をあずけた。
「わかってて、やったのかよ。刹那のやつ…」
「刹那はあなたに似てきた」
ティエリアはニールの背を抱きしめなおして、やわらかに呟く。
「あなたのぶんも、あなたの代わりに、変わろうとしていた」
「…俺の、代わりに…?」
俺は…おまえになりたかった。
あのとき、ティエリアの遺体を浄めながら、たしかに刹那は云っていたが。
「夢であなたにそう云われていると」
碧緑の双眸が驚きに瞠られる。
「……」
おのれは刹那におのれを負わせてしまっていたのか。
復讐の果ての身勝手な死が落とした影は、ニール自身が思ってもみなかったところにまで根を張り枝を伸ばしている。
「だいじょうぶだ」
ニールのおもてに浮かんだ苦い痛みに、ティエリアは背に回していた両腕を解いて精悍なラインを描く頬を掌で包みこむように撫でた。
続 2012.04.24.
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