アドエル(+カイエル)R18。ドルシア中心。
2014/06/29 【V-Revolution IV】新刊「ヒカリノアリカ」より。
SCC23での無配「Einführung」(「Verbleib des Lichtes」改題)
及び
本篇「Verbleib des Lichtes」導入部
(*少尉時代の年代解釈がちがっていますがそのまま残してあります)
乳母のやわらかな手を憶えている。
まだものごころつくかつかないかのころ。この髪を初めて編んでくれた指を。
これだけはと早くから手ずから編むことをおしえられた。
それは王族に連なるものの密やかなる習い。
口伝ての秘め事は血の誓いでもあった。
* * *
視界が反転した。
次の瞬間には蒼一色に覆われる。めずらしく雲ひとつない空。鈍い痛みとともに状況を理解したときには、天空を見上げる喉もとに鈍く光るものが押しあてられていた。
「そこまで!」
教官の声が響く。
「アードライ、練度評価E。エルエルフ、練度評価…」
その先は聞こえない。耳鳴りがする。野外での一対一による接近戦の模擬戦闘。打ちつけられた痛みよりもあっけなく地に転がされた事実に衝撃を受けた。
蒼天を背に銀糸の髪がなびく。逆光のなか見下ろしてくる青紫の双眸は勝ち誇るでもなくただ淡々として、この身の喉もとを冷徹に狙い定めていた得物を退いた。代わりに助け起こすよう伸べられた手を、反射的に撥ねのけようとして踏みとどまる。未熟な反発心から負けを負けとして受け容れられぬような狭量さは、幼いながらも王族としての誇りがゆるさなかった。コードネームをあたえられ実名を捨て去ろうとも、矜持まで失ってはいない。
口唇を噛みながらもおとなしく伸べられた手を取ってその身を起こしかけたとき、右頬にはらりと髪が落ち掛かった。
「髪が…」
つねに三つ編みに編み込まれた右サイドの髪がほどけている。エルエルフの得物の切っ先が縛った髪紐を掠めたものか。取っていた手を思わず払いのけ、アードライは髪を押さえて飛び退った。
「?」
ふいに豹変したあいての態度にエルエルフが訝しむ視線を向けてくる。
「…きさま…!」
血の気が引くのがわかった。
「なんだというんだ」
「……この私の、髪を…三つ編みを……!」
蒼白になった顔色はつぎには我知らず赤味を差してきて、ふたりの訓練のようすを眺めていた輪の中から茶化した声が上がった。
「なんだぁ? アードライ、負けて髪型の心配かよ?」
「よさないか、ハーノ」
逆立てた金茶の髪の軽口を、そのとなりでおなじように見学していた黒髪が窘める。ともに二期先輩にあたる訓練兵だ。カルルスタインの過酷な調練にあっては実践能力でのみ測られる。エルエルフとアードライは同期のなかでは群を抜いていたから、この年長組とおなじ訓練メニューに放り込まれていたのだった。
そのとき教官による訓練終了と解散の号令がかからなければ、アードライは中途でそれを放棄する羽目に陥っていたかもしれない。それほどに傍目にも彼は動揺していて、それを懸命に自制しようとして失敗していた。
「しっかしめずらしいよな。アードライってふだんは元お貴族さまらしくガキのくせして優雅にかまえてんのにさ」
洗い髪を乾かしながら寮のシャワー室からハーノインが顔を出す。先に済ませてすでに身なりを整えていたイクスアインがあきれたような声を出した。
「ガキって…おまえだってまだガキだろう」
少年期の二年の差は存外大きいが、あのふたりは妙におとなびていたし能力的にもその差を感じさせない程度には早熟だった。
「まあ俺はあんなに育ちはよくないから、たかが三つ編み乱されたくらいで部屋に閉じ籠もるお坊ちゃんの気持ちは理解できないねぇ」
「おまえと比べられてはアードライも不本意だろうよ」
というよりカルルスタイン機関で育成されているだれよりも、おそらく彼は高貴の出だった。むろん当人がそれを口にすることなどなかったが、こうしたことは伏せていてもどこからともなく洩れ伝わってくるものだ。
「噂では、王位継承権を持つれっきとした王族だというからな」
「は。ドルシアの国が乱れたのはそもそも先王がまともに統治できていなかったからじゃねーか」
口調は軽かったがその意味するところは辛辣だ。
「たしかにそうだが。それはアードライ自身には責任のないことだ」
「そんなやつがなにを思って、カルルスタインに入ったのかね?」
「どんな理由だったにせよ、カイン大佐のお役に立つならそれでいいさ。大佐はあのふたりを買っておられるようだし」
「………ま、おなじ戦災孤児にはちがいない。いまとなっては仲間だしな」
大佐への敬愛もあらわに返す同輩に苦笑しつつ、ハーノインは明るく云い做した。
「そういうことだ。それにな、王族にとっての三つ編みには特別な意味があるとも聞く。先の反応から見て、まんざら流説でもないのかも知れないぞ」
「耳ざといよイクスは。なんだよそれ」
「三つ編みは王族の証しであり…第三者のまえでそれを解かれることはおのが恥部を晒すにも等しい行為に当たる、と」
「ちぶ?」
耳に馴染まぬ単語に怪訝そうに鸚鵡返しされて、イクスアインがやや云い淀む。
「…だから、まあ、ようは裸だ」
そう、腰に捲いていたタオルを指差されて、得心がいったらしい。
「へえぇ。そんな大仰なもんなのか、あの三つ編みが」
自室のベッドでアードライは枕に顔をうずめている。そうでもしないと声をあげてのたうってしまいそうだった。
どうしようどうしようどうしよう。
自室とはいうものの、まだ十にも満たない訓練兵に個室があたえられるはずもなく、有象無象の大部屋でないぶんましというだけの相部屋で、しかも同室はいまアードライを混乱させているエルエルフそのひとである。
シャワー室での年長組の会話など知るよしもなかったが、噂は半分事実で半分は虚構だった。
『紅い木曜日』を生き存えた数少ない王族のひとり。そしてその王族にとっての三つ編みは慣習であり象徴であり、ひとまえで解かれることはないというのも真実だ。けれどそれは解かれることがただ恥辱だからなのではなく、解かれまた編まれることに誓約の意味合いがあるからなのだ。
「よりにもよって、なぜあいつなんだ」
同期のなかでは卓越した能力を顕しているふたりだったが、エルエルフはさらにあたまひとつ抜きん出ている。アードライはことあるごとにそれをまのあたりにし、否応なく自覚させられ、実際きょうの訓練だってその一端にすぎなかった。
「………いや。あいつだから、なのか?」
王族としての誓約をあいつに捧げることが、アードライが胸奥に抱く野望につながる途となるのだろうか。
* * *
「いいかげんここを開けろ、アードライ」
扉の向こうからいつものように平板な声が、多少の情感を乗せてくる。伏せていた顔を枕から擡げて、くぐもった声を返した。
「いまはその顔を見たくない」
溜め息が漏れ聞こえた。
「まったく…、きさまはあのときから変わらないな」
「あのとき…」
まさか覚えているのか。
「あのときもおれを閉め出した。わけがわからない。いったいおれがなにをした。はっきりと云え」
あのとき、三つ編みの意味する真のところはエルエルフにも告げなかった。そうするにはまだアードライ自身が幼すぎた。こころも、からだも。いまだってまだおとなとは云えないが、誓約に足るだけの年齢にはなっている。
現にふたりはすでに個室を持てる身分へと昇格している。だからいまエルエルフとおのれを隔てる扉を開ける義務はアードライにはない。あのときだって締め出しを喰らったエルエルフにはあとから無言で睨まれただけだ。
エルエルフはそうだった。滅多に感情をおもてにしない。なにがあろうとただ冷徹に計算し、非情であっても最良の判断をくだす。
そんなおとこがただいちど周章を垣間見せた瞬間があった。訓練兵として実戦投入された雪山で。遭難しかけた際に、だいじに隠し持っていたらしい一枚の印画紙がこの目に触れた、そのときだ。それがエルエルフにとってのただ一条の光なのだと知った。それは、アードライにとっての希望の光の在処をも確信させるに至るのだが。
写真の肖像は見なかった。目にしたのはその裏に記された『Licht』の文字だけだ。だからそれがまさかあのひとだったとはアードライは気づかなかったのだ。
衝撃は数時間前にもたらされた。実際にそれが起きたのはさらに刻を遡るのだったが、むろんのこと極秘裏のうちに終始している。
「なぜ、黙っていた」
「だから、なんのことだ」
問い糾したいことばは喉もとまで迫り上がっていた。
計画的なものであったのか、ただ成り行きの果てのことであったのかはわからない。問題はそこではない。いずれにせよそれは断念され未遂に終わったのだから。
「…以前にも話したと思うが。私はお目にかかったことがあるんだ」
それだけで通じたのだろう、扉の外からわずかに息を呑む気配があった。エルエルフには滅多に見受けることのない情動だ。
「…アードライ」
おのれは気づかなかったが、軟禁という身のうえからもアードライの語ったその姫がエルエルフにとっての光りのきみだと、彼本人は覚ったはずだ。
こころのやさしい御方だった。リーゼロッテ姫もまたエルエルフをおもい、止め諭したのだろうか。
この歳で、カルルスタイン切っての、と教官にいわしめた才幹が。おのが感情のままに謀った解放と逃亡の道行きを。
「………導き出される結論は。王族には王族ゆえの情報網が未だ存在するということ、か」
シミュレートする材料と要因を脳裡でだけ列挙したのだろう、最後にこぼれ落ちた声音にわずかな苦みがにじむ。
「エルエルフ」
そう、問題は。
アードライは立ち上がり、下ろしていた内鍵を外した。
「ひとが何日何十時間閉じ籠もろうが任務に支障がなければ放っておくのがきみの本分ではなかったか?」
「おまえが食堂に顔を出さないとクーフィアがうるさい」
かつてのふたり同様、突出した能力ゆえに年長組の調練に交じっている。いずれはアードライやエルエルフ、ハーノインやイクスアインと並ぶ、特務大尉に任ぜられるだろう三期下の訓練兵だ。
「あれのやんちゃには手を焼く」
開け放った扉を背に閉じながら、迎え入れたエルエルフを視界に捉える。見返すエルエルフの双眸が、わずかに顰められた。
「おまえ、その髪…」
「…ああ」
あのあといちどとして解かれた姿をだれの目にも晒すことのなかった三つ編みが、その髪にはなかった。
かつて同室であってさえ髪を編むさまも解いた姿も見せたことはない。とどのつまりエルエルフのほうに他者へのそうした興味が薄かったからこそ為せたわけで、だからこそ彼があのときの一件を憶えていたということに、いまさっき少なからず驚いたのだ。
「あれ以来…だな」
「…それにいったいどんな意味がある?」
軽く肩を竦めたアードライに、エルエルフは直截に切り込んでくる。
「いまそれを聞くのか。あのときはなんの関心も持たなかったのに」
そしてあの雪山で真実託した希みさえ、うち捨てて去ろうとしたくせに。
おのれのあからさまな動揺が滑稽に思えるくらいには、あの一件はアードライのなかでのみ深く刻み込まれて、一方的だった。無理もない。ハーノインが茶化したように、自分以外のものにとってはたかだか髪型ひとつのことなのだから。
けれど、あの日を境にアードライにとってのエルエルフという存在は、あきらかに変容した。それがおのが望む革命の途を照らす光であったことに感謝すら覚えたものを。
「あのとき、おれにあったのは不当に締め出しを食ったという事実だけだ。その要因が直前におまえが口走ったことばにあるなら、導き出される結論はひとつしかなかった」
「…え?」
昏く沈んだ眼差しをむけたアードライに、いつもと変わらぬ平静な声が告げる。
「その三つ編みにまつわるいっさいに関わらぬこと」
「な…」
ことばは思いもよらず、銀糸に縁取られた怜悧な顔を見つめ返していた。
解かれた髪に触れるか触れないかの距離でエルエルフの指先がしなやかに閃く。
「だがそのおまえが自ら解いた髪を晒す。いま、このタイミングで。おれが黙していたことをおまえは責めたが、それはなにに対してだ。姫のことか。この髪を乱したことか」
考えてもみなかった。エルエルフがこの三つ編みになにがしかの特異な意味合いを感じとっていながら、あえてそれを無視していたなどと。しかもそれは少なからず、烈しい動揺を見せたアードライの胸中を慮ってのことだった。たとえそれが、おのれに不利益をもたらす事態を回避しようとしたに過ぎないのだとしても。
「エルエルフ。私は」
ああ、どうしようどうしようどうしよう。
ふいに襲ってきたものは、あの日の身ののたうつような混乱とは似て非なる、身のうちが灼け痺れるような惑乱だった。
このものに誓約を捧げるのだ。いやすでに捧げていたのだ、あのときに。
雪山で自ら右腕になれと宣言しておきながら、その奥底に潜んでいたものには目を瞑り耳を塞いだ。
王族がこの姿を晒すのは、たがいに将来を許し合い生涯をともにと誓ったあいてにだけ。平時ならばそれは婚姻の夜であり、それが政略のもとに交わされた姻戚であろうと、違えることは王族の誇りを穢すこととなる。
気づかぬままでいればよかったのか。
いままたあらためて解いた髪を晒したのは、自覚のないままの嫉妬ゆえであったのだと。
この髪を解いたものにだけ、この髪は編まれることをゆるすだろう。
我が身に流れる血と魂を捧ぐに能う、それは地上でただひとり。
その唯一をめのまえに、いまこのときに告げるべきことばを懸命に探っている。
====== Verbleib des Lichtes
懸命に探ったことばはけれどけっきょく思うようには出てこず、アードライはおのれの髪に触れそうでいて触れてこないエルエルフの手指をつかみ、その掌に口接けた。
「………」
エルエルフの反応はない。ただいつもの淡々とした眼差しでとられた掌とそれに口唇をうずめるアードライを見ている。
「エルエルフ…」
冷たく清んだ青紫が、見つめ返したアードライの表情を映しだす。おのれのものとは思えないようなどこか切羽詰まった顔だ。視線に囚われたまま目が離せない。吸い寄せられるように、アードライはその青紫に口唇を寄せた。
「…っ」
さすがに驚いたのか肩先が身じろいだが、それもほんのわずかばかりでしかない。けれどその微かな反応でもふだんのエルエルフを知る身には充分すぎた。瞼を覆っていた口唇が頬を彷徨い、そのまま薄く開かれた口唇を食む。
一瞬見開かれた紫水晶の双眸をアードライが見ることはかなわなかったが、初めての口接けは抵抗なく受け容れられた。
軽く触れあわせただけなのに、おのれの鼓動が痛いほどに胸を打つ。とうに修得済のメンタルコントロールはどこへいった? 慣れないそれに耐えるように、アードライはエルエルフを抱きしめた。銀糸の髪の絡む頸筋に顔をうずめ目を閉じる。
「……エルエルフ」
さっきから煩く聞こえてくるのはおのれの心臓の音ばかりで、未だ平常な鼓動を刻んでいる彼が憎らしかった。
「…こうしてきみに触れたかった。たぶんもう…ずっと」
「アードライ」
耳もとでエルエルフの声が響く。
「おまえの髪を解いた、これがおれの咎か?」
咎などない。あるはずがない。
「いいや、これは…誓約だ」
きっぱりと告げて、もういちど口唇で口唇を捉えた。こんどは、深く。
拙い、けれど熱のこもった接吻にエルエルフの舌が応える。それにちからを得て、アードライはおのが熱情の赴くままに口腔を舌で浚い、口唇を甘噛みしてはまた深くその舌を吸った。
息が乱れる。呼吸が苦しい。
惜しみながらも引き剥がされたたがいの口唇に、とろりとした透明な糸が名残を引いた。
熱に浮かされているだろうおのれの赤紫の眸を映す、青紫の双眸。それがめずらしく微かに笑むのを捉えて、アードライは眉根を寄せる。
「…なんだ?」
「いや、王子さまもおとこだったのだなと」
「……エルエルフ!」
云われた意味を覚って、アードライは頬に朱を刷き思わず身を退いた。口接けながら腰に溜まっていく熱を自覚していたが、それをこんなかたちで曝かれるとは。
「なぜ逃げる」
「エルエルフ、私は」
「あたりまえの現象だろう。恥じることでもない」
目線でアードライを捉えたまま、エルエルフはかまわずに軍服の下肢に手を伸べた。
布越しに触れてくる手に抗えなかった。じかに絡みつく手指に、脈動とともに上がる息に、その熱を逃がそうとするので精一杯だった。
「エルエルフ…っ」
はだけた軍服から覗く肌を銀の髪がさらりと撫でる。それまでおなじ高さで見つめていた双眸がふいに下方に流れて、ベッドサイドの窓際に追い込まれていたおのれのまえに跪く。それを見て、周章てた。
「よせ、エルエルフ」
ちらりと視線をよこしただけで、アードライのことばなど意に介さない。つづいたさらなる制止のことばは、温かくぬめった粘膜と舌に雄の証しをくるまれた衝撃に、喉もとで掻き消えた。
「…はっ……はぁ…あ、……は」
止めようと伸ばされたはずの腕で、銀髪を掻き乱しながら為すすべもなく翻弄された。エルエルフはおのれの遠く及ばぬ技巧でアードライを煽り、乱し、容赦なく追い立てていく。
「エル…エルフ…っ」
自慰しか知らぬ身だ。限界はすぐにも来る。もうよせ、やめてくれと懇願することばはきれぎれに零れたが、さしたる意味を持たない。わずかばかり離れた口唇は、かまわない、と短く促しただけでさらなる追撃をやめない。このままでは彼の口中に放つか、寸前に躱されたところで彼を汚してしまうだろう。それだけは避けたかった。なのに。
「ううっあっ」
赤子の手を捻るように手玉にとられ、あげく達せられて。
さすがに飲む気はなかったのかその刹那に口唇は離れたが、放たれた飛沫がわずかにエルエルフの頸筋に絡んで伝い落ちる。膝立ちから身を起こしつつそれを手の甲で拭い、なんの躊躇いもなく舌先で舐めた。
「濃いな」
艶めかしい、ということばが頭をよぎる。ふいに浮かんだ形容にアードライは驚き、ただ茫然とその姿を見つめた。
「……エルエルフ…」
視界からほかのすべてが消えていく。目のまえで佇む銀の髪の少年は、おのれと同い年ではなかったか。いや、そんなことよりも。
「きみは…」
青と赤に染め分けられたたがいの紫の眸が四つに絡む。
「…なんだ、まだ足りなかったか?」
はだけられた上衣に乱された下衣。特務大尉の軍服にはおよそ似つかわしくないおのれのありさまに、アードライは口唇を噛んだ。足りない、ということばが意味するところは明白だったし、向けられた視線のさき、肉体の欲望はおのれの意思をとうに離れている。
平素と変わらぬ冷めた表情に微かな悪戯ごころを覗かせてくるエルエルフに、アードライの負けん気があたまを擡げた。
ずいと目のまえに立つ身の腕をつかみ、全身をつかって傍らのベッドにおなじ軍服の身を押し倒す。
「…きみだけ、そのままというのは気にくわないな」
襟元ひとつ乱してはいなかったエルエルフの上衣に手を掛ける。エルエルフは少しだけおもしろそうな表情を浮かべて、我が身にのし掛かってくるアードライを許容した。
大きく息を吐き、組み敷いていたからだの傍らに汗ばんだ身をころりと返して、寮の個室の味気ない天井を見つめた。これをエルエルフはずっと眺めていたのかとぼんやり思う。
「きみは、その、……慣れているのだな」
あいてがだれかなどとは考えたくもなかった。そんなことは関係がない。おのれのほかにこのようなかたちで触れたものがいる、という事実がすでにアードライの胸臆を蝕み妬心を抉る。
おなじように仰のいていたからだが、微かに息を乱したまま鷹揚に応えた。
「べつに。カリキュラムの一環だろう。こんなこと」
「…カリキュラム?」
思いも寄らなかった、という声音で返されたせいか、エルエルフがこちらも意外そうに肩越しにアードライを見遣った。
「訓練兵のころの…」
と、そこまで云い止してなにかに思い至ったのか、エルエルフは唐突に笑い出した。
「エルエルフ、なにを笑う」
「…はっ…はは。いや、なるほど。そうか。あれは個別の…」
低く抑えた笑いを噛み殺しながら、そこにないなにかをつかむよう宙に伸ばされた腕が空気を掻いて、降ろされた下膊がひたいに張り付く銀の前髪ごと両目を覆う。
「特殊カリキュラムだったというわけだ」
顔半分覆われ眸の色は窺えなかったが、かたちのよい鼻梁からつづく口もとに刻まれた笑みは自嘲と呼べるものだった。
「…カルルスタインで、学んだと?」
「あれを学んだというならな」
自分たちは十三の歳にはすべての教練を終えて、十四になるかならずの異例の早さで特務大尉を拝命している。つまりそれ以前に。
「……エルエルフ」
知らなかった。どういうことだ。エージェントに必須の科目は、みな等しく課せられていた。基礎的な体術から高度な戦闘技能、情報の分析と戦術の立案、地理を見ての敵陣営の読み、人心を編み込んだ予測。みなが大なり小なり得手不得手のあるなかでただひとり、そのすべてにおいてカルルスタイン創設以来の評価を修めた、希有の存在が。
「…まあいいさ。おまえが、いやまあおそらくはハーノインもイクスアインもクーフィアも、だな。なくてすんだのなら」
「……なんのために、そんな」
半身を起こし蒼白になって問うアードライにエルエルフはこともなげに応えた。
「使えるものはなんでも使え。あいてがこのからだに性的な関心を抱くならそれを利用しろ。必要な情報を抜き取るにも暗殺するにも、もっとも油断するのはコトの最中だからだ。…手段より、結果だ」
ふいに視界が歪んだ。
「…アードライ?」
いつのまにか覗き込むように見上げていた青紫の双眸が、不思議そうに瞬く。
「…なにを、泣く?」
エルエルフの指先が目尻に触れてきて、初めてアードライはおのれの失態に気づいた。
「すまない、こんなつもりでは」
同情なら、それは不遜というものだ。少なくともアードライの知るエルエルフはそんな感情をよしとはしないだろう。悋気なら、お門違いもはなはだしい。訓練兵の身に選択の余地などなかったはずだから。
「…貴いよ。おまえの育ちのよさは」
「揶揄うな」
拭ってくる手指を押しやって、アードライは彼にしてはいささか乱暴なしぐさでおのれの顔を拭った。
「…だれだ。それをきみに課した教官は」
「聞いてどうする」
「私の胸に納めておく。納めておくが…いつの日か相応の報いをくれてやる」
「いまのおれたちの上官だが?」
絶句した。当時のカルルスタインの教官でいま自分たちの上官に位置するものはひとりしかいない。
「カイン大佐…だと?」
にわかには信じがたかった。
イクスアインなら言下に否定するだろう。ハーノインなら眉を顰めてそれでも首を横に振るはずだ。傍らの幼なじみの心中を慮って。
年長のふたりのカイン大佐への思い入れが自分たちとは質を異にすることを、エルエルフは早い段階で看破していた。その年齢を凌駕する深い洞察力によって。理由が判明したのは後年、ふたりが大佐にいのちを救われた経緯をハーノインからかいつまんで聞かされたからだ。
おれが見ているカインとおまえらが見ているカインは別人のようだな。その場に居合わせたエルエルフはぽつりとだれにともなくそう呟いた。ハーノインはなんとも複雑な表情を浮かべたあと、軽く肩を竦めた。それ、イクスには云うなよ。と。
アードライとて王族の身からすれば『紅い木曜日』の中核人物たる現総統の懐刀に思うところは多々あるが、有能な軍人であることを認めるのに吝かではない。だからこそその厳しい指導にも耐え抜いた。いまはおのれのちからを蓄えるときと、割り切った。それが年端もいかぬ少年の訓練兵をあいてに、そんな非道なカリキュラムを強いたというのか。
「やつは云ったよ、アードライ」
しなやかな腕がアードライのあたまを引き寄せ、耳もとで囁くように告げてくる。
感じるままに感じるがいい。恥じることではない。あいてを思う存分よろこばせてやれ。おまえがよがり乱れれば乱れるだけおとこはその虜になる。だがおまえはそれに溺れるな。どんなときも脳裡の一点に冷めたおのれを置いておけ。エルエルフ、それがおまえのいのちを救う。
「…やめろ。エルエルフ。ちがう、私は」
ではたったいま、よろこばされた自分は。
「わかっている」
もう片方の手が、解かれ乱れたままのアードライの髪を梳いた。
「わかっている…」
やわらかなしぐさとそのいらえに、そのさきを告げることを拒まれた。
「エルエルフ…!」
きみが好きだ、愛していると。
「ちゃんと編んでおけよ。おまえの三つ編み、おれはきらいじゃない」
梳く手指のなめらかなうごきに誘われるように、アードライはエルエルフに身をかさねる。ふたたび、深く。口を吸いからだをつなぎながら、その深奥にこのおもいが届くことを祈った。
* * *
エルエルフ、アードライ、ハーノイン、イクスアイン。先行して着任していた四人に少し遅れてクーフィアが特務大尉に任ぜられたのを機に、五人はカルルスタイン機関を離れ、あらためて特務チーム及びエースパイロットとして正式に軍に配属された。寮生活もそれに合わせて軍配下の兵舎でのそれに切り替わっている。もっとも称号が意味するとおり彼らの立ち位置は通常の軍の序列からは外れていたし、エージェントという職務上もあって、特務の兵舎は別棟になっていた。
他の兵士との軋轢を避ける意味合いもあったろう。トレーニングルームや作戦会議室などは尉官以外の特務に属するものたちとの共用だったが、各々の個室のほか生活の拠点となる食堂や居間、娯楽室などは特権的に専用の共有スペースがあたえられていた。任務多忙で一年の半分もそこで過ごせはしなかったけれど。
それでも五人は幼いときから時間と空間を密にともにしてきた、仲間であり戦友だったのだ。
「あー。またハーノとイクスがおかずのとりかえっこしてる。ずーるーいー」
オフ本につづく
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乳母のやわらかな手を憶えている。
まだものごころつくかつかないかのころ。この髪を初めて編んでくれた指を。
これだけはと早くから手ずから編むことをおしえられた。
それは王族に連なるものの密やかなる習い。
口伝ての秘め事は血の誓いでもあった。
* * *
視界が反転した。
次の瞬間には蒼一色に覆われる。めずらしく雲ひとつない空。鈍い痛みとともに状況を理解したときには、天空を見上げる喉もとに鈍く光るものが押しあてられていた。
「そこまで!」
教官の声が響く。
「アードライ、練度評価E。エルエルフ、練度評価…」
その先は聞こえない。耳鳴りがする。野外での一対一による接近戦の模擬戦闘。打ちつけられた痛みよりもあっけなく地に転がされた事実に衝撃を受けた。
蒼天を背に銀糸の髪がなびく。逆光のなか見下ろしてくる青紫の双眸は勝ち誇るでもなくただ淡々として、この身の喉もとを冷徹に狙い定めていた得物を退いた。代わりに助け起こすよう伸べられた手を、反射的に撥ねのけようとして踏みとどまる。未熟な反発心から負けを負けとして受け容れられぬような狭量さは、幼いながらも王族としての誇りがゆるさなかった。コードネームをあたえられ実名を捨て去ろうとも、矜持まで失ってはいない。
口唇を噛みながらもおとなしく伸べられた手を取ってその身を起こしかけたとき、右頬にはらりと髪が落ち掛かった。
「髪が…」
つねに三つ編みに編み込まれた右サイドの髪がほどけている。エルエルフの得物の切っ先が縛った髪紐を掠めたものか。取っていた手を思わず払いのけ、アードライは髪を押さえて飛び退った。
「?」
ふいに豹変したあいての態度にエルエルフが訝しむ視線を向けてくる。
「…きさま…!」
血の気が引くのがわかった。
「なんだというんだ」
「……この私の、髪を…三つ編みを……!」
蒼白になった顔色はつぎには我知らず赤味を差してきて、ふたりの訓練のようすを眺めていた輪の中から茶化した声が上がった。
「なんだぁ? アードライ、負けて髪型の心配かよ?」
「よさないか、ハーノ」
逆立てた金茶の髪の軽口を、そのとなりでおなじように見学していた黒髪が窘める。ともに二期先輩にあたる訓練兵だ。カルルスタインの過酷な調練にあっては実践能力でのみ測られる。エルエルフとアードライは同期のなかでは群を抜いていたから、この年長組とおなじ訓練メニューに放り込まれていたのだった。
そのとき教官による訓練終了と解散の号令がかからなければ、アードライは中途でそれを放棄する羽目に陥っていたかもしれない。それほどに傍目にも彼は動揺していて、それを懸命に自制しようとして失敗していた。
「しっかしめずらしいよな。アードライってふだんは元お貴族さまらしくガキのくせして優雅にかまえてんのにさ」
洗い髪を乾かしながら寮のシャワー室からハーノインが顔を出す。先に済ませてすでに身なりを整えていたイクスアインがあきれたような声を出した。
「ガキって…おまえだってまだガキだろう」
少年期の二年の差は存外大きいが、あのふたりは妙におとなびていたし能力的にもその差を感じさせない程度には早熟だった。
「まあ俺はあんなに育ちはよくないから、たかが三つ編み乱されたくらいで部屋に閉じ籠もるお坊ちゃんの気持ちは理解できないねぇ」
「おまえと比べられてはアードライも不本意だろうよ」
というよりカルルスタイン機関で育成されているだれよりも、おそらく彼は高貴の出だった。むろん当人がそれを口にすることなどなかったが、こうしたことは伏せていてもどこからともなく洩れ伝わってくるものだ。
「噂では、王位継承権を持つれっきとした王族だというからな」
「は。ドルシアの国が乱れたのはそもそも先王がまともに統治できていなかったからじゃねーか」
口調は軽かったがその意味するところは辛辣だ。
「たしかにそうだが。それはアードライ自身には責任のないことだ」
「そんなやつがなにを思って、カルルスタインに入ったのかね?」
「どんな理由だったにせよ、カイン大佐のお役に立つならそれでいいさ。大佐はあのふたりを買っておられるようだし」
「………ま、おなじ戦災孤児にはちがいない。いまとなっては仲間だしな」
大佐への敬愛もあらわに返す同輩に苦笑しつつ、ハーノインは明るく云い做した。
「そういうことだ。それにな、王族にとっての三つ編みには特別な意味があるとも聞く。先の反応から見て、まんざら流説でもないのかも知れないぞ」
「耳ざといよイクスは。なんだよそれ」
「三つ編みは王族の証しであり…第三者のまえでそれを解かれることはおのが恥部を晒すにも等しい行為に当たる、と」
「ちぶ?」
耳に馴染まぬ単語に怪訝そうに鸚鵡返しされて、イクスアインがやや云い淀む。
「…だから、まあ、ようは裸だ」
そう、腰に捲いていたタオルを指差されて、得心がいったらしい。
「へえぇ。そんな大仰なもんなのか、あの三つ編みが」
自室のベッドでアードライは枕に顔をうずめている。そうでもしないと声をあげてのたうってしまいそうだった。
どうしようどうしようどうしよう。
自室とはいうものの、まだ十にも満たない訓練兵に個室があたえられるはずもなく、有象無象の大部屋でないぶんましというだけの相部屋で、しかも同室はいまアードライを混乱させているエルエルフそのひとである。
シャワー室での年長組の会話など知るよしもなかったが、噂は半分事実で半分は虚構だった。
『紅い木曜日』を生き存えた数少ない王族のひとり。そしてその王族にとっての三つ編みは慣習であり象徴であり、ひとまえで解かれることはないというのも真実だ。けれどそれは解かれることがただ恥辱だからなのではなく、解かれまた編まれることに誓約の意味合いがあるからなのだ。
「よりにもよって、なぜあいつなんだ」
同期のなかでは卓越した能力を顕しているふたりだったが、エルエルフはさらにあたまひとつ抜きん出ている。アードライはことあるごとにそれをまのあたりにし、否応なく自覚させられ、実際きょうの訓練だってその一端にすぎなかった。
「………いや。あいつだから、なのか?」
王族としての誓約をあいつに捧げることが、アードライが胸奥に抱く野望につながる途となるのだろうか。
* * *
「いいかげんここを開けろ、アードライ」
扉の向こうからいつものように平板な声が、多少の情感を乗せてくる。伏せていた顔を枕から擡げて、くぐもった声を返した。
「いまはその顔を見たくない」
溜め息が漏れ聞こえた。
「まったく…、きさまはあのときから変わらないな」
「あのとき…」
まさか覚えているのか。
「あのときもおれを閉め出した。わけがわからない。いったいおれがなにをした。はっきりと云え」
あのとき、三つ編みの意味する真のところはエルエルフにも告げなかった。そうするにはまだアードライ自身が幼すぎた。こころも、からだも。いまだってまだおとなとは云えないが、誓約に足るだけの年齢にはなっている。
現にふたりはすでに個室を持てる身分へと昇格している。だからいまエルエルフとおのれを隔てる扉を開ける義務はアードライにはない。あのときだって締め出しを喰らったエルエルフにはあとから無言で睨まれただけだ。
エルエルフはそうだった。滅多に感情をおもてにしない。なにがあろうとただ冷徹に計算し、非情であっても最良の判断をくだす。
そんなおとこがただいちど周章を垣間見せた瞬間があった。訓練兵として実戦投入された雪山で。遭難しかけた際に、だいじに隠し持っていたらしい一枚の印画紙がこの目に触れた、そのときだ。それがエルエルフにとってのただ一条の光なのだと知った。それは、アードライにとっての希望の光の在処をも確信させるに至るのだが。
写真の肖像は見なかった。目にしたのはその裏に記された『Licht』の文字だけだ。だからそれがまさかあのひとだったとはアードライは気づかなかったのだ。
衝撃は数時間前にもたらされた。実際にそれが起きたのはさらに刻を遡るのだったが、むろんのこと極秘裏のうちに終始している。
「なぜ、黙っていた」
「だから、なんのことだ」
問い糾したいことばは喉もとまで迫り上がっていた。
計画的なものであったのか、ただ成り行きの果てのことであったのかはわからない。問題はそこではない。いずれにせよそれは断念され未遂に終わったのだから。
「…以前にも話したと思うが。私はお目にかかったことがあるんだ」
それだけで通じたのだろう、扉の外からわずかに息を呑む気配があった。エルエルフには滅多に見受けることのない情動だ。
「…アードライ」
おのれは気づかなかったが、軟禁という身のうえからもアードライの語ったその姫がエルエルフにとっての光りのきみだと、彼本人は覚ったはずだ。
こころのやさしい御方だった。リーゼロッテ姫もまたエルエルフをおもい、止め諭したのだろうか。
この歳で、カルルスタイン切っての、と教官にいわしめた才幹が。おのが感情のままに謀った解放と逃亡の道行きを。
「………導き出される結論は。王族には王族ゆえの情報網が未だ存在するということ、か」
シミュレートする材料と要因を脳裡でだけ列挙したのだろう、最後にこぼれ落ちた声音にわずかな苦みがにじむ。
「エルエルフ」
そう、問題は。
アードライは立ち上がり、下ろしていた内鍵を外した。
「ひとが何日何十時間閉じ籠もろうが任務に支障がなければ放っておくのがきみの本分ではなかったか?」
「おまえが食堂に顔を出さないとクーフィアがうるさい」
かつてのふたり同様、突出した能力ゆえに年長組の調練に交じっている。いずれはアードライやエルエルフ、ハーノインやイクスアインと並ぶ、特務大尉に任ぜられるだろう三期下の訓練兵だ。
「あれのやんちゃには手を焼く」
開け放った扉を背に閉じながら、迎え入れたエルエルフを視界に捉える。見返すエルエルフの双眸が、わずかに顰められた。
「おまえ、その髪…」
「…ああ」
あのあといちどとして解かれた姿をだれの目にも晒すことのなかった三つ編みが、その髪にはなかった。
かつて同室であってさえ髪を編むさまも解いた姿も見せたことはない。とどのつまりエルエルフのほうに他者へのそうした興味が薄かったからこそ為せたわけで、だからこそ彼があのときの一件を憶えていたということに、いまさっき少なからず驚いたのだ。
「あれ以来…だな」
「…それにいったいどんな意味がある?」
軽く肩を竦めたアードライに、エルエルフは直截に切り込んでくる。
「いまそれを聞くのか。あのときはなんの関心も持たなかったのに」
そしてあの雪山で真実託した希みさえ、うち捨てて去ろうとしたくせに。
おのれのあからさまな動揺が滑稽に思えるくらいには、あの一件はアードライのなかでのみ深く刻み込まれて、一方的だった。無理もない。ハーノインが茶化したように、自分以外のものにとってはたかだか髪型ひとつのことなのだから。
けれど、あの日を境にアードライにとってのエルエルフという存在は、あきらかに変容した。それがおのが望む革命の途を照らす光であったことに感謝すら覚えたものを。
「あのとき、おれにあったのは不当に締め出しを食ったという事実だけだ。その要因が直前におまえが口走ったことばにあるなら、導き出される結論はひとつしかなかった」
「…え?」
昏く沈んだ眼差しをむけたアードライに、いつもと変わらぬ平静な声が告げる。
「その三つ編みにまつわるいっさいに関わらぬこと」
「な…」
ことばは思いもよらず、銀糸に縁取られた怜悧な顔を見つめ返していた。
解かれた髪に触れるか触れないかの距離でエルエルフの指先がしなやかに閃く。
「だがそのおまえが自ら解いた髪を晒す。いま、このタイミングで。おれが黙していたことをおまえは責めたが、それはなにに対してだ。姫のことか。この髪を乱したことか」
考えてもみなかった。エルエルフがこの三つ編みになにがしかの特異な意味合いを感じとっていながら、あえてそれを無視していたなどと。しかもそれは少なからず、烈しい動揺を見せたアードライの胸中を慮ってのことだった。たとえそれが、おのれに不利益をもたらす事態を回避しようとしたに過ぎないのだとしても。
「エルエルフ。私は」
ああ、どうしようどうしようどうしよう。
ふいに襲ってきたものは、あの日の身ののたうつような混乱とは似て非なる、身のうちが灼け痺れるような惑乱だった。
このものに誓約を捧げるのだ。いやすでに捧げていたのだ、あのときに。
雪山で自ら右腕になれと宣言しておきながら、その奥底に潜んでいたものには目を瞑り耳を塞いだ。
王族がこの姿を晒すのは、たがいに将来を許し合い生涯をともにと誓ったあいてにだけ。平時ならばそれは婚姻の夜であり、それが政略のもとに交わされた姻戚であろうと、違えることは王族の誇りを穢すこととなる。
気づかぬままでいればよかったのか。
いままたあらためて解いた髪を晒したのは、自覚のないままの嫉妬ゆえであったのだと。
この髪を解いたものにだけ、この髪は編まれることをゆるすだろう。
我が身に流れる血と魂を捧ぐに能う、それは地上でただひとり。
その唯一をめのまえに、いまこのときに告げるべきことばを懸命に探っている。
====== Verbleib des Lichtes
懸命に探ったことばはけれどけっきょく思うようには出てこず、アードライはおのれの髪に触れそうでいて触れてこないエルエルフの手指をつかみ、その掌に口接けた。
「………」
エルエルフの反応はない。ただいつもの淡々とした眼差しでとられた掌とそれに口唇をうずめるアードライを見ている。
「エルエルフ…」
冷たく清んだ青紫が、見つめ返したアードライの表情を映しだす。おのれのものとは思えないようなどこか切羽詰まった顔だ。視線に囚われたまま目が離せない。吸い寄せられるように、アードライはその青紫に口唇を寄せた。
「…っ」
さすがに驚いたのか肩先が身じろいだが、それもほんのわずかばかりでしかない。けれどその微かな反応でもふだんのエルエルフを知る身には充分すぎた。瞼を覆っていた口唇が頬を彷徨い、そのまま薄く開かれた口唇を食む。
一瞬見開かれた紫水晶の双眸をアードライが見ることはかなわなかったが、初めての口接けは抵抗なく受け容れられた。
軽く触れあわせただけなのに、おのれの鼓動が痛いほどに胸を打つ。とうに修得済のメンタルコントロールはどこへいった? 慣れないそれに耐えるように、アードライはエルエルフを抱きしめた。銀糸の髪の絡む頸筋に顔をうずめ目を閉じる。
「……エルエルフ」
さっきから煩く聞こえてくるのはおのれの心臓の音ばかりで、未だ平常な鼓動を刻んでいる彼が憎らしかった。
「…こうしてきみに触れたかった。たぶんもう…ずっと」
「アードライ」
耳もとでエルエルフの声が響く。
「おまえの髪を解いた、これがおれの咎か?」
咎などない。あるはずがない。
「いいや、これは…誓約だ」
きっぱりと告げて、もういちど口唇で口唇を捉えた。こんどは、深く。
拙い、けれど熱のこもった接吻にエルエルフの舌が応える。それにちからを得て、アードライはおのが熱情の赴くままに口腔を舌で浚い、口唇を甘噛みしてはまた深くその舌を吸った。
息が乱れる。呼吸が苦しい。
惜しみながらも引き剥がされたたがいの口唇に、とろりとした透明な糸が名残を引いた。
熱に浮かされているだろうおのれの赤紫の眸を映す、青紫の双眸。それがめずらしく微かに笑むのを捉えて、アードライは眉根を寄せる。
「…なんだ?」
「いや、王子さまもおとこだったのだなと」
「……エルエルフ!」
云われた意味を覚って、アードライは頬に朱を刷き思わず身を退いた。口接けながら腰に溜まっていく熱を自覚していたが、それをこんなかたちで曝かれるとは。
「なぜ逃げる」
「エルエルフ、私は」
「あたりまえの現象だろう。恥じることでもない」
目線でアードライを捉えたまま、エルエルフはかまわずに軍服の下肢に手を伸べた。
布越しに触れてくる手に抗えなかった。じかに絡みつく手指に、脈動とともに上がる息に、その熱を逃がそうとするので精一杯だった。
「エルエルフ…っ」
はだけた軍服から覗く肌を銀の髪がさらりと撫でる。それまでおなじ高さで見つめていた双眸がふいに下方に流れて、ベッドサイドの窓際に追い込まれていたおのれのまえに跪く。それを見て、周章てた。
「よせ、エルエルフ」
ちらりと視線をよこしただけで、アードライのことばなど意に介さない。つづいたさらなる制止のことばは、温かくぬめった粘膜と舌に雄の証しをくるまれた衝撃に、喉もとで掻き消えた。
「…はっ……はぁ…あ、……は」
止めようと伸ばされたはずの腕で、銀髪を掻き乱しながら為すすべもなく翻弄された。エルエルフはおのれの遠く及ばぬ技巧でアードライを煽り、乱し、容赦なく追い立てていく。
「エル…エルフ…っ」
自慰しか知らぬ身だ。限界はすぐにも来る。もうよせ、やめてくれと懇願することばはきれぎれに零れたが、さしたる意味を持たない。わずかばかり離れた口唇は、かまわない、と短く促しただけでさらなる追撃をやめない。このままでは彼の口中に放つか、寸前に躱されたところで彼を汚してしまうだろう。それだけは避けたかった。なのに。
「ううっあっ」
赤子の手を捻るように手玉にとられ、あげく達せられて。
さすがに飲む気はなかったのかその刹那に口唇は離れたが、放たれた飛沫がわずかにエルエルフの頸筋に絡んで伝い落ちる。膝立ちから身を起こしつつそれを手の甲で拭い、なんの躊躇いもなく舌先で舐めた。
「濃いな」
艶めかしい、ということばが頭をよぎる。ふいに浮かんだ形容にアードライは驚き、ただ茫然とその姿を見つめた。
「……エルエルフ…」
視界からほかのすべてが消えていく。目のまえで佇む銀の髪の少年は、おのれと同い年ではなかったか。いや、そんなことよりも。
「きみは…」
青と赤に染め分けられたたがいの紫の眸が四つに絡む。
「…なんだ、まだ足りなかったか?」
はだけられた上衣に乱された下衣。特務大尉の軍服にはおよそ似つかわしくないおのれのありさまに、アードライは口唇を噛んだ。足りない、ということばが意味するところは明白だったし、向けられた視線のさき、肉体の欲望はおのれの意思をとうに離れている。
平素と変わらぬ冷めた表情に微かな悪戯ごころを覗かせてくるエルエルフに、アードライの負けん気があたまを擡げた。
ずいと目のまえに立つ身の腕をつかみ、全身をつかって傍らのベッドにおなじ軍服の身を押し倒す。
「…きみだけ、そのままというのは気にくわないな」
襟元ひとつ乱してはいなかったエルエルフの上衣に手を掛ける。エルエルフは少しだけおもしろそうな表情を浮かべて、我が身にのし掛かってくるアードライを許容した。
大きく息を吐き、組み敷いていたからだの傍らに汗ばんだ身をころりと返して、寮の個室の味気ない天井を見つめた。これをエルエルフはずっと眺めていたのかとぼんやり思う。
「きみは、その、……慣れているのだな」
あいてがだれかなどとは考えたくもなかった。そんなことは関係がない。おのれのほかにこのようなかたちで触れたものがいる、という事実がすでにアードライの胸臆を蝕み妬心を抉る。
おなじように仰のいていたからだが、微かに息を乱したまま鷹揚に応えた。
「べつに。カリキュラムの一環だろう。こんなこと」
「…カリキュラム?」
思いも寄らなかった、という声音で返されたせいか、エルエルフがこちらも意外そうに肩越しにアードライを見遣った。
「訓練兵のころの…」
と、そこまで云い止してなにかに思い至ったのか、エルエルフは唐突に笑い出した。
「エルエルフ、なにを笑う」
「…はっ…はは。いや、なるほど。そうか。あれは個別の…」
低く抑えた笑いを噛み殺しながら、そこにないなにかをつかむよう宙に伸ばされた腕が空気を掻いて、降ろされた下膊がひたいに張り付く銀の前髪ごと両目を覆う。
「特殊カリキュラムだったというわけだ」
顔半分覆われ眸の色は窺えなかったが、かたちのよい鼻梁からつづく口もとに刻まれた笑みは自嘲と呼べるものだった。
「…カルルスタインで、学んだと?」
「あれを学んだというならな」
自分たちは十三の歳にはすべての教練を終えて、十四になるかならずの異例の早さで特務大尉を拝命している。つまりそれ以前に。
「……エルエルフ」
知らなかった。どういうことだ。エージェントに必須の科目は、みな等しく課せられていた。基礎的な体術から高度な戦闘技能、情報の分析と戦術の立案、地理を見ての敵陣営の読み、人心を編み込んだ予測。みなが大なり小なり得手不得手のあるなかでただひとり、そのすべてにおいてカルルスタイン創設以来の評価を修めた、希有の存在が。
「…まあいいさ。おまえが、いやまあおそらくはハーノインもイクスアインもクーフィアも、だな。なくてすんだのなら」
「……なんのために、そんな」
半身を起こし蒼白になって問うアードライにエルエルフはこともなげに応えた。
「使えるものはなんでも使え。あいてがこのからだに性的な関心を抱くならそれを利用しろ。必要な情報を抜き取るにも暗殺するにも、もっとも油断するのはコトの最中だからだ。…手段より、結果だ」
ふいに視界が歪んだ。
「…アードライ?」
いつのまにか覗き込むように見上げていた青紫の双眸が、不思議そうに瞬く。
「…なにを、泣く?」
エルエルフの指先が目尻に触れてきて、初めてアードライはおのれの失態に気づいた。
「すまない、こんなつもりでは」
同情なら、それは不遜というものだ。少なくともアードライの知るエルエルフはそんな感情をよしとはしないだろう。悋気なら、お門違いもはなはだしい。訓練兵の身に選択の余地などなかったはずだから。
「…貴いよ。おまえの育ちのよさは」
「揶揄うな」
拭ってくる手指を押しやって、アードライは彼にしてはいささか乱暴なしぐさでおのれの顔を拭った。
「…だれだ。それをきみに課した教官は」
「聞いてどうする」
「私の胸に納めておく。納めておくが…いつの日か相応の報いをくれてやる」
「いまのおれたちの上官だが?」
絶句した。当時のカルルスタインの教官でいま自分たちの上官に位置するものはひとりしかいない。
「カイン大佐…だと?」
にわかには信じがたかった。
イクスアインなら言下に否定するだろう。ハーノインなら眉を顰めてそれでも首を横に振るはずだ。傍らの幼なじみの心中を慮って。
年長のふたりのカイン大佐への思い入れが自分たちとは質を異にすることを、エルエルフは早い段階で看破していた。その年齢を凌駕する深い洞察力によって。理由が判明したのは後年、ふたりが大佐にいのちを救われた経緯をハーノインからかいつまんで聞かされたからだ。
おれが見ているカインとおまえらが見ているカインは別人のようだな。その場に居合わせたエルエルフはぽつりとだれにともなくそう呟いた。ハーノインはなんとも複雑な表情を浮かべたあと、軽く肩を竦めた。それ、イクスには云うなよ。と。
アードライとて王族の身からすれば『紅い木曜日』の中核人物たる現総統の懐刀に思うところは多々あるが、有能な軍人であることを認めるのに吝かではない。だからこそその厳しい指導にも耐え抜いた。いまはおのれのちからを蓄えるときと、割り切った。それが年端もいかぬ少年の訓練兵をあいてに、そんな非道なカリキュラムを強いたというのか。
「やつは云ったよ、アードライ」
しなやかな腕がアードライのあたまを引き寄せ、耳もとで囁くように告げてくる。
感じるままに感じるがいい。恥じることではない。あいてを思う存分よろこばせてやれ。おまえがよがり乱れれば乱れるだけおとこはその虜になる。だがおまえはそれに溺れるな。どんなときも脳裡の一点に冷めたおのれを置いておけ。エルエルフ、それがおまえのいのちを救う。
「…やめろ。エルエルフ。ちがう、私は」
ではたったいま、よろこばされた自分は。
「わかっている」
もう片方の手が、解かれ乱れたままのアードライの髪を梳いた。
「わかっている…」
やわらかなしぐさとそのいらえに、そのさきを告げることを拒まれた。
「エルエルフ…!」
きみが好きだ、愛していると。
「ちゃんと編んでおけよ。おまえの三つ編み、おれはきらいじゃない」
梳く手指のなめらかなうごきに誘われるように、アードライはエルエルフに身をかさねる。ふたたび、深く。口を吸いからだをつなぎながら、その深奥にこのおもいが届くことを祈った。
* * *
エルエルフ、アードライ、ハーノイン、イクスアイン。先行して着任していた四人に少し遅れてクーフィアが特務大尉に任ぜられたのを機に、五人はカルルスタイン機関を離れ、あらためて特務チーム及びエースパイロットとして正式に軍に配属された。寮生活もそれに合わせて軍配下の兵舎でのそれに切り替わっている。もっとも称号が意味するとおり彼らの立ち位置は通常の軍の序列からは外れていたし、エージェントという職務上もあって、特務の兵舎は別棟になっていた。
他の兵士との軋轢を避ける意味合いもあったろう。トレーニングルームや作戦会議室などは尉官以外の特務に属するものたちとの共用だったが、各々の個室のほか生活の拠点となる食堂や居間、娯楽室などは特権的に専用の共有スペースがあたえられていた。任務多忙で一年の半分もそこで過ごせはしなかったけれど。
それでも五人は幼いときから時間と空間を密にともにしてきた、仲間であり戦友だったのだ。
「あー。またハーノとイクスがおかずのとりかえっこしてる。ずーるーいー」
オフ本につづく
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