「天涯の遊子」高桂篇。全3回。
高杉と桂。もしくはヅラ子。
万斉、顔見せ。
紅桜以降、動乱篇まえ。
「………なに、してんだ。てめぇは、そんな格好で」
上から下までを嘗めるように見つめ、高杉はそう云うのが、やっとだった。
「みてわからんか。ホステスだ。の、バイトだ」
見慣れた無表情、声もつくらずいつものしゃべりのままで、桂は平然としたものだ。
「よく来たな高杉。てか、ほんとに来るとは思わなかった。うれしいぞ」
にこりともせず云われても、心中は量れず、どうにも応えようがない。
黙ったままの高杉と背後に突っ立った万斉を、店の奥の角隅の予約席へと桂は先に立って案内する。ぽつりと万斉が感じ入ったように呟いた。
「迫力の美人でござるぁ。おとことは思えぬ。晋助も隅に置けぬでござる」
「馬鹿か、てめぇ。ありゃあ…」
云いさしたところで。こっちだ、早く座らんか。と桂が横柄に呼ばわった。どんな姿をしようとも桂は桂だ。と、妙なところに安心して、高杉はようやくいつもの調子を取り戻した。
促されるまま奥の席に着き、桂を挟んで万斉が着座する。
「ヅラぁ、なかなか似合うじゃねぇか」
「ヅラじゃない、ヅラ子だ。まずは、なんにする? どんぺりなど、おすすめだぞ」
などと、のっけから最高級銘柄を出してくる。高杉はひとつ横の万斉を見た。
「だとよ、万斉」
「ああ、それでかまわぬでござる。ヅラ子殿。ピンクで頼むでござるよ」
輪をかけたドンペリニョンのロゼ指定に、それまでさんざめいていたホールの客たちが一瞬声を潜める。が、すぐにまた、自分たちとは別世界の住人という顔で、にぎやかに飲み出した。
カウンターに注文の声をかけて桂は感心したように高杉と万斉とを見た。
「鬼兵隊は資金が潤沢なのだなぁ。音楽ぷろでゅーさーというのはそれほど儲かる商売なのか?」
「まあ、一発あたればそれなりに。ヅラ子殿は、拙者をご存じで?」
万斉がまんざらでもない顔で返す。
「むろん。なんといったか、万斉殿。つんぽ殿だったか。あれであろう、お通ちゃんとかいうおなごの」
「これは光栄な。アイドル歌手に興味があるようにも思えんでござるが」
「うむ。あいにくよくは知らんが、友人のかわいがっている弟分が、そのお通ちゃん殿の追っかけをしているのだ」
「それはそれは、ありがたいでござるな。ではその彼を、つぎの寺門通のライブに招待して進ぜるでござるよ」
「ほんとうか? きっとよろこぶ」
「なに。ヅラ子殿、ほんのお近づきのしるしにござれば」
目を輝かせ身を乗りださんばかりの桂と、おのれの存在をしりめに弾む会話に、徐々に高杉の機嫌が斜めにむかう。
「万斉。てめぇ、ちょっとあっちへ行ってろ」
「なにゆえでござるか。晋助。せっかくヅラ子殿と盛り上がってまいったのに」
「いいから、行け。ほらあっちで、さっきのあご女が手を振ってるぜ」
「あご女ではない。アゴ代どのだ」
「あずみだっつってんだろ!」
すこーん、と桂の頭を固く丸めたおしぼりが直撃した。
名残惜しげにひとまず席を移る万斉に、桂が宥めるように、またあとで、と小さく手を振る。万斉相手に、いちいちかわいらしいしぐさがまた、高杉の気にくわない。しかしいざ、ぽつねんと奥の席にふたり残されてみると、会話の端緒がつかめないのだった。
仕事とあってか、桂はかいがいしくグラスに酒を注ぐが、高杉にはどうにも居心地がよくない。斬り結びもせず桂と会えたことは幸いなのだが、桂がなにをもっておのれと会うことを承諾したのかが、皆目わからない。それを素直に問うことも憚られて、高杉はただグラスを煽るしかなかった。
「どうした。ぴっちがはやいな。そんな呑みかたはからだに障るぞ」
「はん。いまさらてめぇが俺のからだの心配でもないだろうがよ」
「それはそれ。これはこれだ。おれの酌が気に食わぬか。ならだれぞほかの」
と、ヘルプにべつのホステスを呼ぼうとする桂をあわてて止める。冗談じゃない。女装の桂ならまだしも、ほかが相手では悪酔いする。しかたなしに高杉は切り出した。
「…どういうつもりだ。ヅラ」
「ヅラじゃない、桂だ。じゃなくてヅラ子だ。貴様とて、こうして会いに来たではないか」
「べつに会いにきたわけじゃねえ。バカ本のやつが勝手に約束だとかぬかしてだな」
適当に頼んだサイドオーダーが運ばれてきて、テーブルに並ぶ。なかの一口サイズのクラッカーに、サラミやらチーズやらアボガドやらフルーツやらが色とりどりに小分けされたそのひとつを、桂は指先で上品に摘まんだ。
「それでもその約束をまもったのだろう。ともあれ、元気そうで安心した」
云いながら高杉の口許にそれを運んでくる。なんだ、このサービスっぷりは。こんなこと、幼少時に病気で寝込だとき以来じゃないのか。こんなサービスをほかの客にもしてるんだろうか。うれしいやら気恥ずかしいやら腹が立つやらで、高杉が真一文字に口を結んでしまったので、桂は苦笑した。
「心配いらん。きょうは特別だ。それに毒など入ってはおらんぞ」
むろん高杉は、そんな懸念を抱いてはいなかったが。そう云って目のまえで高杉に差し出したつまみを、ぱくりとほおばってみせる。その指先と口唇の艶めかしいうごきに、どきりとして、高杉は周章てて目を逸らした。
「……。なにか用か。話でもあんのか」
ふたたび桂手ずから差し出されたつまみをこんどは、しかたない、といった風情で口にしながら、高杉は内心のどぎまぎを押し隠した。これ夢? 夢か。夢なのか。夢ならいつまた、あの悪夢に取って代わるんだろう。
「べつに用はない。話しても無駄なのだろう?」
雛鳥に餌をあたえる親鳥よろしく、おのれの手からつまみを食べた高杉に、桂は満足したのか、至極あっさりと応えた。
「なら、なんでいまさら」
「…元気なら、よいのだ」
目を細め、高杉を眺める。
「…………」
これだから、桂はこまる。こういうときの桂には邪気がない。桂のなかでは意味の通った行動なのだろうが、はたからはまったくもってわけがわからないことを平気でしてのける。
「俺を心配していたとでも?」
「あたりまえだろう」
どこが、あたりまえなんだ。銀時と並んで切っ先突きつけ云い放っておいて。
「あいつは。あれは知ってるのか、俺を呼んだこと」
銀時が承知でやらせているようならたちが悪い。だが、おそらくは違う。
「あれ?…ああ、銀時のことか。いや、知らぬ。てか、顔突き合わせたら、すぐ喧嘩になるではないか。貴様と銀時は。だから云い出しっぺの坂本も、その必要はないと」
高杉の胸をちくりと刺すものがあった。
「あいかわらず、バカ本とはつるんでるようだな」
そうだ。桂が江戸に潜伏しはじめて、坂本が現れて、あの白いものやらなんやらが桂のもとにあるようになってから、よけいにおかしくなったのだ。
「バカ本じゃない、坂本だ。晋助、貴様とて坂本からの通信ゆえ受けたのであろうが」
「あいつはもう、商人だろうがよ。必要とあれば鬼兵隊とだって商いすらぁ」
そもそも坂本は気には障るが、べつだん恨みがあるわけではない。
桂が唐突に手を打った。
「あ、そうだ。思い出した」
「なんだ、突然」
「貴様に云おうと思っていたことが、ひとつだけあったんだ」
となりに座りながら、桂は正面をむかせるように高杉の顔を両手で挟んだ。
おわっ。久々とも呼べる接近に、肌のぬくもりが加わって、高杉は内心で焦る。あいかわらずひんやりとした指先を、温めてやりたい衝動に駆られた。
漆黒の双眸が高杉を捉える。白粉に淡く刷かれた頰紅と三日月眉、鮮やかに紅のひかれた形のよい口唇が、間近に迫った。
「な…んだよ」
それでも、素顔のほうがなおきれいだ、と思う自分は終わっている。だが実際、桂の際立った容貌は化粧をしたほうが目立たなくなる。とおりいっぺんの顔につくってしまうせいだろう。とはいえ、正体を知る自分ですら美女と見まごうほどの、美貌にはちがいない。至近の艶美に高杉がついぼんやり見蕩れていると。
「貴様、エリザベスを斬っただろう。おれだったからよかったようなものの、ほんとうにエリザベスだったらどうするつもりだったんだ」
また、あの白いものの話か。どうするもなにも。もとから気にくわなかったのだ。桂が猫かわいがりするあれに、なんど煮え湯を飲まされたか。
「斬ったに決まってるだろう」
あの瞬間、どれほどせいせいしたことか。
「嘆かわしい。あれほどかわいらしいものにどうして刃を向けられる」
「そう思ってんのは、てめぇだけだろ」
桂の手を払って、ふてたようにソファに沈む。
「幼いころは捨て犬や捨て猫を拾っては匿っていた、優しい子だったのに」
高杉がいいかげんまたむかついてきたところへ、桂の話は明後日のほうへと飛んだ。変わらねぇ、こういうところは。
「いつの話をしてんだ、てめぇは」
突然切られた話の舵が、ふいに核心を衝く。
「いまだ。貴様はいまでも、世を憎む一方で、おのれに集うほか寄る辺なきものを捨ておけんだろう」
いつの間にか桂のペースに乗せられた会話に、気づいたときにはもう遅い、というのもいつものことだった。
「俺が似蔵を利用したのは、てめぇも見てたろうが」
踏み込まれるな。踏み込ませるな。防衛線を張るこころの片一方で、捨てたはずのおもいが燻る。
気づけ。気づいてくれ。そして俺を。
「利用したのを怒ったのではない。それを平然と切り捨てる貴様を悲しんだのだ。あの男は、貴様になら利用されてもよい、くらいには考えていたろうからな」
高杉は小さくかぶりを振った。未練だ。
「そうだ。それを俺は知りながら、切り捨てた」
云いながらソファに凭れるそぶりで視線を天井へと逃がす。つねにまっすぐひとの目を見て話す桂の磁場に取り込まれないためには、眸を見ぬことがいちばんだ、と経験上知っていた。
「だが。平然と、ではあるまい」
「莫迦か、てめぇは。なに買い被ってやがる」
この期に及んで。
松陽も桂もこの手を摺り抜けたいま、なにがどうなろうと高杉のかまうところではない。部下のひとりやふたり切り捨てたところで、こころなど痛まない。いちばんたいせつなものを、奪われ、すでに失ったにひとしいこの身が、いまさらなにに傷つくというのか。
「莫迦じゃない。桂だ。貴様はおれではないのだからな」
「…な?」
思いもかけぬせりふに、高杉はうっかり桂を見つめ返した。
続 2008.03.30.
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「………なに、してんだ。てめぇは、そんな格好で」
上から下までを嘗めるように見つめ、高杉はそう云うのが、やっとだった。
「みてわからんか。ホステスだ。の、バイトだ」
見慣れた無表情、声もつくらずいつものしゃべりのままで、桂は平然としたものだ。
「よく来たな高杉。てか、ほんとに来るとは思わなかった。うれしいぞ」
にこりともせず云われても、心中は量れず、どうにも応えようがない。
黙ったままの高杉と背後に突っ立った万斉を、店の奥の角隅の予約席へと桂は先に立って案内する。ぽつりと万斉が感じ入ったように呟いた。
「迫力の美人でござるぁ。おとことは思えぬ。晋助も隅に置けぬでござる」
「馬鹿か、てめぇ。ありゃあ…」
云いさしたところで。こっちだ、早く座らんか。と桂が横柄に呼ばわった。どんな姿をしようとも桂は桂だ。と、妙なところに安心して、高杉はようやくいつもの調子を取り戻した。
促されるまま奥の席に着き、桂を挟んで万斉が着座する。
「ヅラぁ、なかなか似合うじゃねぇか」
「ヅラじゃない、ヅラ子だ。まずは、なんにする? どんぺりなど、おすすめだぞ」
などと、のっけから最高級銘柄を出してくる。高杉はひとつ横の万斉を見た。
「だとよ、万斉」
「ああ、それでかまわぬでござる。ヅラ子殿。ピンクで頼むでござるよ」
輪をかけたドンペリニョンのロゼ指定に、それまでさんざめいていたホールの客たちが一瞬声を潜める。が、すぐにまた、自分たちとは別世界の住人という顔で、にぎやかに飲み出した。
カウンターに注文の声をかけて桂は感心したように高杉と万斉とを見た。
「鬼兵隊は資金が潤沢なのだなぁ。音楽ぷろでゅーさーというのはそれほど儲かる商売なのか?」
「まあ、一発あたればそれなりに。ヅラ子殿は、拙者をご存じで?」
万斉がまんざらでもない顔で返す。
「むろん。なんといったか、万斉殿。つんぽ殿だったか。あれであろう、お通ちゃんとかいうおなごの」
「これは光栄な。アイドル歌手に興味があるようにも思えんでござるが」
「うむ。あいにくよくは知らんが、友人のかわいがっている弟分が、そのお通ちゃん殿の追っかけをしているのだ」
「それはそれは、ありがたいでござるな。ではその彼を、つぎの寺門通のライブに招待して進ぜるでござるよ」
「ほんとうか? きっとよろこぶ」
「なに。ヅラ子殿、ほんのお近づきのしるしにござれば」
目を輝かせ身を乗りださんばかりの桂と、おのれの存在をしりめに弾む会話に、徐々に高杉の機嫌が斜めにむかう。
「万斉。てめぇ、ちょっとあっちへ行ってろ」
「なにゆえでござるか。晋助。せっかくヅラ子殿と盛り上がってまいったのに」
「いいから、行け。ほらあっちで、さっきのあご女が手を振ってるぜ」
「あご女ではない。アゴ代どのだ」
「あずみだっつってんだろ!」
すこーん、と桂の頭を固く丸めたおしぼりが直撃した。
名残惜しげにひとまず席を移る万斉に、桂が宥めるように、またあとで、と小さく手を振る。万斉相手に、いちいちかわいらしいしぐさがまた、高杉の気にくわない。しかしいざ、ぽつねんと奥の席にふたり残されてみると、会話の端緒がつかめないのだった。
仕事とあってか、桂はかいがいしくグラスに酒を注ぐが、高杉にはどうにも居心地がよくない。斬り結びもせず桂と会えたことは幸いなのだが、桂がなにをもっておのれと会うことを承諾したのかが、皆目わからない。それを素直に問うことも憚られて、高杉はただグラスを煽るしかなかった。
「どうした。ぴっちがはやいな。そんな呑みかたはからだに障るぞ」
「はん。いまさらてめぇが俺のからだの心配でもないだろうがよ」
「それはそれ。これはこれだ。おれの酌が気に食わぬか。ならだれぞほかの」
と、ヘルプにべつのホステスを呼ぼうとする桂をあわてて止める。冗談じゃない。女装の桂ならまだしも、ほかが相手では悪酔いする。しかたなしに高杉は切り出した。
「…どういうつもりだ。ヅラ」
「ヅラじゃない、桂だ。じゃなくてヅラ子だ。貴様とて、こうして会いに来たではないか」
「べつに会いにきたわけじゃねえ。バカ本のやつが勝手に約束だとかぬかしてだな」
適当に頼んだサイドオーダーが運ばれてきて、テーブルに並ぶ。なかの一口サイズのクラッカーに、サラミやらチーズやらアボガドやらフルーツやらが色とりどりに小分けされたそのひとつを、桂は指先で上品に摘まんだ。
「それでもその約束をまもったのだろう。ともあれ、元気そうで安心した」
云いながら高杉の口許にそれを運んでくる。なんだ、このサービスっぷりは。こんなこと、幼少時に病気で寝込だとき以来じゃないのか。こんなサービスをほかの客にもしてるんだろうか。うれしいやら気恥ずかしいやら腹が立つやらで、高杉が真一文字に口を結んでしまったので、桂は苦笑した。
「心配いらん。きょうは特別だ。それに毒など入ってはおらんぞ」
むろん高杉は、そんな懸念を抱いてはいなかったが。そう云って目のまえで高杉に差し出したつまみを、ぱくりとほおばってみせる。その指先と口唇の艶めかしいうごきに、どきりとして、高杉は周章てて目を逸らした。
「……。なにか用か。話でもあんのか」
ふたたび桂手ずから差し出されたつまみをこんどは、しかたない、といった風情で口にしながら、高杉は内心のどぎまぎを押し隠した。これ夢? 夢か。夢なのか。夢ならいつまた、あの悪夢に取って代わるんだろう。
「べつに用はない。話しても無駄なのだろう?」
雛鳥に餌をあたえる親鳥よろしく、おのれの手からつまみを食べた高杉に、桂は満足したのか、至極あっさりと応えた。
「なら、なんでいまさら」
「…元気なら、よいのだ」
目を細め、高杉を眺める。
「…………」
これだから、桂はこまる。こういうときの桂には邪気がない。桂のなかでは意味の通った行動なのだろうが、はたからはまったくもってわけがわからないことを平気でしてのける。
「俺を心配していたとでも?」
「あたりまえだろう」
どこが、あたりまえなんだ。銀時と並んで切っ先突きつけ云い放っておいて。
「あいつは。あれは知ってるのか、俺を呼んだこと」
銀時が承知でやらせているようならたちが悪い。だが、おそらくは違う。
「あれ?…ああ、銀時のことか。いや、知らぬ。てか、顔突き合わせたら、すぐ喧嘩になるではないか。貴様と銀時は。だから云い出しっぺの坂本も、その必要はないと」
高杉の胸をちくりと刺すものがあった。
「あいかわらず、バカ本とはつるんでるようだな」
そうだ。桂が江戸に潜伏しはじめて、坂本が現れて、あの白いものやらなんやらが桂のもとにあるようになってから、よけいにおかしくなったのだ。
「バカ本じゃない、坂本だ。晋助、貴様とて坂本からの通信ゆえ受けたのであろうが」
「あいつはもう、商人だろうがよ。必要とあれば鬼兵隊とだって商いすらぁ」
そもそも坂本は気には障るが、べつだん恨みがあるわけではない。
桂が唐突に手を打った。
「あ、そうだ。思い出した」
「なんだ、突然」
「貴様に云おうと思っていたことが、ひとつだけあったんだ」
となりに座りながら、桂は正面をむかせるように高杉の顔を両手で挟んだ。
おわっ。久々とも呼べる接近に、肌のぬくもりが加わって、高杉は内心で焦る。あいかわらずひんやりとした指先を、温めてやりたい衝動に駆られた。
漆黒の双眸が高杉を捉える。白粉に淡く刷かれた頰紅と三日月眉、鮮やかに紅のひかれた形のよい口唇が、間近に迫った。
「な…んだよ」
それでも、素顔のほうがなおきれいだ、と思う自分は終わっている。だが実際、桂の際立った容貌は化粧をしたほうが目立たなくなる。とおりいっぺんの顔につくってしまうせいだろう。とはいえ、正体を知る自分ですら美女と見まごうほどの、美貌にはちがいない。至近の艶美に高杉がついぼんやり見蕩れていると。
「貴様、エリザベスを斬っただろう。おれだったからよかったようなものの、ほんとうにエリザベスだったらどうするつもりだったんだ」
また、あの白いものの話か。どうするもなにも。もとから気にくわなかったのだ。桂が猫かわいがりするあれに、なんど煮え湯を飲まされたか。
「斬ったに決まってるだろう」
あの瞬間、どれほどせいせいしたことか。
「嘆かわしい。あれほどかわいらしいものにどうして刃を向けられる」
「そう思ってんのは、てめぇだけだろ」
桂の手を払って、ふてたようにソファに沈む。
「幼いころは捨て犬や捨て猫を拾っては匿っていた、優しい子だったのに」
高杉がいいかげんまたむかついてきたところへ、桂の話は明後日のほうへと飛んだ。変わらねぇ、こういうところは。
「いつの話をしてんだ、てめぇは」
突然切られた話の舵が、ふいに核心を衝く。
「いまだ。貴様はいまでも、世を憎む一方で、おのれに集うほか寄る辺なきものを捨ておけんだろう」
いつの間にか桂のペースに乗せられた会話に、気づいたときにはもう遅い、というのもいつものことだった。
「俺が似蔵を利用したのは、てめぇも見てたろうが」
踏み込まれるな。踏み込ませるな。防衛線を張るこころの片一方で、捨てたはずのおもいが燻る。
気づけ。気づいてくれ。そして俺を。
「利用したのを怒ったのではない。それを平然と切り捨てる貴様を悲しんだのだ。あの男は、貴様になら利用されてもよい、くらいには考えていたろうからな」
高杉は小さくかぶりを振った。未練だ。
「そうだ。それを俺は知りながら、切り捨てた」
云いながらソファに凭れるそぶりで視線を天井へと逃がす。つねにまっすぐひとの目を見て話す桂の磁場に取り込まれないためには、眸を見ぬことがいちばんだ、と経験上知っていた。
「だが。平然と、ではあるまい」
「莫迦か、てめぇは。なに買い被ってやがる」
この期に及んで。
松陽も桂もこの手を摺り抜けたいま、なにがどうなろうと高杉のかまうところではない。部下のひとりやふたり切り捨てたところで、こころなど痛まない。いちばんたいせつなものを、奪われ、すでに失ったにひとしいこの身が、いまさらなにに傷つくというのか。
「莫迦じゃない。桂だ。貴様はおれではないのだからな」
「…な?」
思いもかけぬせりふに、高杉はうっかり桂を見つめ返した。
続 2008.03.30.
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