四角い夜明けの空に月は白く朧に浮かぶ。
桂はじっと見つめていた。なにをか思って。
* * *
馴染みの定食屋の暖簾をくぐる。いつものように特製の宇治銀時丼を注文しながら銀時はカウンター席の端に腰をおろした。お冷や代わりに湯呑みのほうじ茶がカウンターテーブルに置かれて、それをまずひとくち啜る。卓上で組んだ手の甲に顎を乗せ、気怠げに欠伸をひとつ。ついでに店内をなにげに見渡した。
角隅のテーブル席で見覚えのある黒い着流しの背中がひとり丼飯を掻っ込んでいた。どんぶりにうずたかく積まれた蜷局を巻く黄色い物体に、その背の正体は容易に知れる。込み上げる胸苦しさは、あながちその異様な食いもののせいばかりではない。あの日以来、そいつの姿をじかに目にするのは初めてだ。
あの日。いまは観光地となったかつての城郭の天守閣。行方知れずの桂を捜す銀時はその最高層の天守で、事故で記憶のない桂が薬の副作用によるまだ若やかな姿のまま、土方に抱きしめられているのを見た。
そしておそらくは、その日のうちに。
ぱきん。
口に銜えて割り箸を割る。桂がこの場にいれば見咎めて小言を云うであろう真似をして、運ばれてきた宇治銀時丼にかぶりつく。
あのあと記憶のもどった桂をむちゃくちゃに抱いて、銀時はそれでその一件を腹に納めた。桂に対してはかたを付けたつもりでいたが、いざその相手の張本人を目のまえにすると、やはりいささか胸くそがわるい。視界の端に捉えたマヨ男があのうら若き日の桂を抱いたのだと思うと、もういっそその蜷局を巻くマヨネーズの海にでも沈めて恍惚のままあの世に送ってやろうかとさえ思った。
こちらに気づくこともなく、土方はまるで仇のようにマヨ丼を食っている。苛々としてその憂さをぶつけるように食っている。そう感じたのは銀時自身がいまたのしみにしていた宇治銀時丼を、土方を目にしたとたんやけ食いのように食ってしまっているからだろう。
桂の初めてのおとこは自分だ。それだけはまぎれもない。だが戦時に桂が身を挺して資金繰りをしていた現実を銀時はまのあたりにしたし、当時それに助力した坂本が、いつからとは明確ではなくともついさきごろまで桂とそうした夜を過ごしたことははっきりしている。戦後しばらく潜伏していた桂と寝食をともにしていたはずの高杉に至っては云わずもがなだ。
腐れ縁の幼なじみや死生を共にする盟友であれば、それを詰る資格がおのれにないことを銀時は否が応でも承知していたから、目も瞑れるが。桂を、攘夷志士を敵(かたき)とするはずの幕府の狗が相手とあっては状況は異なる。
桂の記憶がなかったうちのこととはいえ、あの身を土方がどんな顔をして抱き、土方の下で桂がどんな露わな姿を見せたのかと、想像することさえ銀時はこころのうちで拒んだ。
年若いころから幾度となく身を苛んだ強烈な独占欲は、いずれ身を滅ぼす。それをわかっていたから銀時は無意識に蓋をして突きつめては考えない。戦後桂と離れてからはなおさらに、そうすることでおのれを保ってきた。
それなのにまだその記憶も新しいうちによりにもよって見たくもない相手の顔を見る羽目になるなど、厄日かきょうは。
そう銀時が宇治銀時丼の最後の一口を掻っ込んだとき、さきに食事を終えた土方が勘定に立って、カウンターの端にいる存在に気づいた。
その刹那に浮かんだ土方のどうとも名状しがたい苦い表情に、銀時はあえて気怠げなままの眼差しで応じる。なるほど。顔を合わせたくなかったのは向こうとておなじだ。
「…あいかわらず食いもんの趣味の悪ぃヤローだな」
銀時の口の端に付いたあずきの粒に土方が顔を蹙める。
「てめぇにだけは云われたかねぇよ」
それを舌先で舐め取って、銀時は箸を置いた。残りのほうじ茶をぐいと呷って、カウンターに小銭を置く。
「ごっそさん」
わざと鷹揚にゆっくりとした足取りで店の戸口に向かう。こちらが件のことを気にしていると思われるのは癪だった。
「万事屋」
なにげなく、けれどたがいに牽制しあっているのがわかる足取りでさきに出た土方が、店先で振り返りもせず云った。
「ちゃんともう治ってんだろうな」
だれがともなにがとも問わず。しかしそれがなにを指すかは明白だ。
「その目でたしかめてみれば」
できないだろうことを承知で返す。桂はあのあとほどなくして本来のいまの姿に戻り、世話になっていた万事屋をあとにした。そののちは銀時でさえ姿を見ていない。真選組のこいつにとってはなおさら気軽に顔の見られる存在ではないのだ。
「…程度の低い厭味だな」
「俺ぁあのときちゃんと忠告したぜ。多串くん」
てめーがいましてることは、手前ぇの首を絞めてるだけだよ。
「だれが多串だ。俺もちゃんと云っといたはずだがな」
桂に惚れていると。そう雄弁に語る目は、いつにも増して据わっている。ああ、こいつ相当キてるな、と銀時は察したが。
「それで。記憶のないこどもを抱いて満足したかい」
ことさら挑発めいたことばが出たのは、やはり銀時のほうでも鬱憤が溜まっていたせいだ。
「て、めぇ」
云うより早く抜き放たれた土方の刀を、反射的に木刀で受け止めいなす。
「こんなところで本身振りかざすか、狂犬ですかてめぇは、このやろー」
すわ刃傷沙汰か、と涌き起こった周囲の雑踏のざわめきに、土方はその一振りで剣を鞘に納めたものの。まだ抑えかねる衝動を紛らすように煙草を口に銜えて火を点ける。雑踏の視線が鬱陶しいのは銀時もおなじだったから、ともにさっさとその場をあとにした。
「なんで付いてきやがる」
「付いてなんていってませんーこっちが万事屋の方角なんですぅ」
嘘ではないが、たったかと怒りにまかせて歩く土方の歩調に、食らいついていっているのだからそう取られるのも無理はない。というか、銀時はこのとき完全にそのつもりだった。もののついでにもう少し憂さを晴らさせてもらおうという、嫌がらせにほかならない。どうあれ銀時は、桂をまちがいなくいちばん抱いているおとこである。ふたたび触れられるかすら知れぬ身からすれば、これほどに業腹を煮やす存在もあるまい。
土方が据わった目のまま、ぎろりと斜め後方を睨む。それをへらりと笑って銀時はいつものように受け流す。
「よゆうのつもりか。万事屋」
当然のように銀時のいちいちが気に障るらしい土方は、川沿いに出たあたりで歩調をゆるめ、短くなった煙草を吐き捨てつづけざまにつぎを銜えた。
「桂にてめぇの手を払い除けられたときには、泣きそうな面してやがったくせによ」
「知らねーなぁ。いっぺん眼医者にでも行ったほうがいいんじゃねぇの」
そう飄々と返しながらも、銀時にとっては二度と思い出したくもないことをあげつらわれて、おのれの腹に冷たいものが落ちてくるのを自覚する。やっぱ殺スかコノヤロウ。
「ついでに禁煙外来にでも行ってきやがれ。苛々にまかせてヤニ摂取増量して病んで死ね」
「ああ? 云ってることがむちゃくちゃだろうが、てめぇはよぉ」
「ありゃ煙草なんぞよりたちがわるいっつってんだよ」
「……っ」
土方がことばに詰まる。擬えた意味を正確に察した顔で、憎々しげに銀時を見返した。
「てめぇに同情されるほど落ちぶれちゃいねぇ」
切羽詰まった渇望に身を灼かれ、低く掠れたものいいにそれ以上の塗炭の苦しみが見てとれた。
「だれが、んなもんするか。せいぜい苦しんでのたうちまわりやがれ」
あれを絶つ苦悶なら、おのれだとて心身ともに味わっている。
深く交わり触れてから、傍らにあってさえときに餓(かつ)えた。二度と会うこともないと自ら手放したあとに、絶望や諦念や慚愧と乖離するこの身の欲はながくおのれを苛んだ。
あれは至高の供物。病み付きの媚薬。代わるものなどあろうはずもない。いちど開いたが最後、絡めとられて身じろぎもならない。そうだ。いま土方をじわじわと浸食するものが、おのれには手に取るようにわかる。
夜ごと襲い来る撓る雪肌の幻影、秘めた深奥を穿つ愉楽の白昼夢。
それが、てめぇの受ける罰だ。たとえいっときでもこの俺からあいつを奪った罪業だ。
これがどれほど身勝手で傲慢な感情であろうと、知りながらそれを抑えられないおのが業の深さを物語ろうと、まぎれもない銀時の本音なのだ。あのときのように冷えて空ろに凝ったこころは、桂にしか溶かせない。銀時にとって桂は、ただの惚れた腫れたのあいてではない。
「…ゆるせねぇのは俺だからか」
土方のつとめて抑えた口調が、銀時の耳を打った。
「は?なにをだ。ありゃ俺のもんだと云わなかったか?」
「そのわりにゃあ、桂を。高杉のやろうにはずいぶんと勝手させてるようじゃねぇか。どうせ、たつまとかってぇのもなんだろう」
据えた眼(まなこ)で土方は、銀時のささくれを剥くようなことばを吐く。
「てめぇとあいつらとじゃまるきり次元がちがうんだよ」
そういやこいつは高杉とも、桂絡みでなにやらことを構えたんだっけ。
「ああ、そうかい。そうやっててめぇは…てめぇらは桂をがんじがらめにしてるわけだ」
「な、に?」
知らず、声が喉にからんだ。
「たつまってのは知らねぇが、てめぇも高杉も過去からの因縁で桂を縛り付けてるだけじゃねぇのかい」
銀時の紅い双眸がすぅっと細められる。
「…なにが云いてぇ」
「桂が惚れてるわけじゃねぇ」
ぴくりと、頬の肉が攣れた。
「むかしのこたぁ知らねぇよ。だが少なくともいまは、ちがう。そうじゃねぇのかい」
「相当キてるとは思ったが、禁断症状でおかしくなったか、ああ?」
いつになく低く落とした声音になる。
「そうかもな。そう思っとけや」
ふっと息を吐いて土方は、ことさらに軽い口調で云い足した。
「過去のしがらみなんざ、ないほうがいいのかもしれねぇなぁ」
いま初めてそう思ったぜ。
銜え煙草をふかしながら、土方は川向こうへと橋を渡る。速いとはいえぬ足取りだが、こんどは銀時もそれを追わなかった。追えなかった。
「あの、マヨが」
そう吐き捨てて、踵を返す。堤を川上へ辿った。
過去を共有することが必ずしもアドバンテージにならないことに、土方は気づいた。だからといっていますぐ桂とどうこうなるわけでもなかったし、土方が真選組である以上、むこうのしがらみだっておいそれと断ち切れるものじゃない。
「…ったく。半端な同情なんかするもんじゃないねぇ」
鬱憤を晴らすつもりもあったが、反面たしかに銀時はそうした気分を拭えないでいたのだ。おなじおとこの性(さが)として。
「ヅラはさぁ…俺にちゃんと云ったんだよ」
好きだと。大好きだと。
「俺も云ったし」
だけどあいつは、攘夷をやめないし。高杉をたいせつにおもうことも、辰馬を頼みとすることも、変わらないんだろう。
銀時だっていちどは諦めた。つらくて捨てた。この手からこぼれ落ちる恐怖に耐えきれずに自ら手を放した。その銀時を捜し出しておきながら、桂はいまもまだどことなく距離を置く。
「痛ぇところを突きやがる」
それでもおたがい離れられない。そのくせくっついたままでもいられない。好いては離れ、離れては引き合う。俺たちはその繰り返しだ。そんな不確定さをほかになんと呼べというのだろう。
堤の上をぶらりぶらり、銀時は薄暮の空を仰ぐ。
あの日。天守の物見の窓の切り取る四角い夜明けの空に、白く朧に浮かぶ月を桂はじっと見つめていた。
白銀の月を照らす陽光の何処にかあるを、知りもしないで。
了 2010.06.21.