「天涯の遊子」土桂篇。終話。
土方と桂。山崎の出番がちょこっと。
桂の江戸潜伏後あたりから、紅桜直後まで。時系列。
「そちらこそ、おれがやった情報は役に立てているのだろうな」
「辻斬りが、人斬り似蔵か。あれから姿をくらまして、出てきやがらねぇよ。…なあ、桂」
肩口からの傷に包帯を巻き直しながら、あれから、治療のたび感じていた疑念を口にした。
「なんだ」
「あんた、ほんとに似蔵にやられたのか。似蔵ごときにやられる腕前とは、どうしたって思えねえ」
すうっと、桂は目を細めた。笑っているのか、警戒しているのか、どちらともとれる表情で、土方を見た。
「なるほど、まんざら莫迦ではないな」
「てめぇは、いちいちひとの神経逆なでしてぇらしいな」
ことばほどには苛立つようすもなく、土方が応じる。
たかが数日でも朝夕に食卓を挟み面付き合わせて過ごす時間は、密度がちがう。桂のもの云いにも慣れてきていた。
「詮索無用。幕府の狗の手には余る」
「やっぱり、ほかになにかあるんだな?」
土方が思わず身を乗りだすのを、桂は軽く制した。
「聞かぬがいい。芋侍。貴様は骨の髄まで真選組だろう。聞いては、黙ってはいられまい」
それはつまり、土方が知れば否応なく真選組も介入せざるを得なくなる事態だ、ということか。仮に知ってのち、土方が黙っていたなら、それは。
「貴様が主にいま以上の裏切りは、貴様の信念にも悖るだろうからな」
「………」
「おれも、存外甘い。これでも情報を漏らしているには違いないのだから」
云って、桂が苦笑した。
ざわり、としたなにかが、土方の背をなでた。まだだ。まだ早い。
「桂、俺ぁ」
「…いまが頃合いのようだ」
まだこの時間を失いたくない。
「明日には、貴様の主に、おれのことを告げるがいい。適当に脚色して、おれをたすけて匿ったなどとは、云わぬことだぞ」
「桂」
むろん長く続くなどとは思っていない。桂がいうとおり、おのれは真選組の人間だ。最後の土壇場で選ぶのは、まちがいなく真選組であり、近藤であった。だがまだ土方には、見つかっていないのだ。仲間に黙って務めを裏切ってまで、桂を介抱した理由。これほどに自分を揺るがすものの正体が、見えていなかった。
「むろん、そのころには、もうおれはここにはおるまいが、な」
いたずらっぽく、そう付け加えるのを桂は忘れなかった。
「…蕎麦は、どうするよ」
「…そうだな。蕎麦は惜しいが、我が身と秤にかけるわけにもゆかぬ」
「惜しいのは、蕎麦だけか」
自分でも思いもよらぬせりふが、土方の口をついて出ていた。
少し驚いたように、桂は土方を見た。
「ちっとでも、俺といた時間を惜しいとはおもわねぇのかよ」
出た声音の低さに、土方自身が驚いていた。なにを云っているんだ、俺は。いや、ちがう。これが、理由だったのだ。
「…血迷うなよ」
桂のそれは、ことばとは裏腹なやわらかな口調だった。
「貴様という人間のひととなりをわずかとはいえ知れたことは、良くも悪くも、おれにとって得難い時間だったのだからな」
「おめぇが俺の、なにを知ったと?」
変わらず押し殺したような声のまま、桂を睨める。
「貴様が二律背反に悩める若造だということと」
少しだけ云い淀んで、桂は繋ぐ。
「すこぶるやさしいおとこだ、ということだ。…土方」
どきりとした。
初めて、名を呼ばれた。こんなときに。それは思いのほか、温かな色を帯びていた。
「俺のどこがやさしい。たすけたことか?匿ったことか? そいつはただの甘ちゃんなだけだろう?」
自嘲をこめて云う土方の、桂は眸を見つめた。
「ちがう。煙草だ」
「煙草?」
思いもよらないことばに、土方は目を瞠る。
「貴様は職務中にも煙草を銜えて離さないような、不届きものだ」
「へいへい」
つとめて軽口で応じた。そうでもしないと、桂のその眸に呑まれそうで。
「それがいちども喫わなかった。おれの、いや、傷病人のいるまえでは」
云われてみれば、そのとおりだった。屯所では存分に喫っていたし、ここで喫いたくなったときは部屋を出た。自覚のないまま、桂の身を気遣っていたということか。それはそれで、やさしいというよりは恥ずかしい気がして、土方はあたまを抱えた。
「んなものは、ただの常識だろうが」
「貴様のようなやつに、道を誤らせるわけにはゆかぬ。むろんたがいの信念は異なろうが、侍として、貴様が貴様の主に顔向けできなくなっては、おれも寝覚めが悪い」
「俺はべつに、大将に顔向けできねえようなことは、してねぇよ。まだ」
桂におのれの身を案じるようなそぶりを見せられて、土方はいたたまれなくなった。あたまを抱え込んだまま、面(おもて)を上げられない。なにか口にしてはいけないことを口走ってしまいそうだった。
「まだならば、まだのうちに、終えておけ」
そんなわけにいくか。勝手に終わらせるな。始まってもいないのに。いや、土方のなかでは、とうに始まってしまっていたのだ。
これまでことばにならなかったなにかが、喉元まで迫り上がってくる。なんだ。だめだ。これは、口にすることじゃねえ。だがいまを逃せば、つぎは永遠にやってこない。来るわけがない。いましか、云えない。
「俺は、ただ、あんたと、…おなじ場所でおなじ時間を過ごしたかっただけだ」
「…………」
「おめぇが経てきた過去に、いまの俺を、俺という存在を、対等な場所に置いてほしかっただけだ」
云いながら、土方はその口を押さえた。そうなのだ。そうなりたかった。敵味方を超えて、桂という希有な生き方をしてきた存在に、おのれを認めさせたい。その生き様に、ひけをとらぬおとこでありたいと、いつのまにか考えていた。
そして、そのうえで。
「おめぇが、欲しい、と思った」
押さえた口から、抑えきれないものが溢れ出ていた。身を抱え込み、面を伏せ、土方はうごけなかった。
ああ、云っちまった。
なにを莫迦なことをと、桂は笑うだろう。嘲るだろう。修羅の戦場の経験すらない若造が、身の丈を超えたものを望んでいると、蔑むだろう。だが、自分でも思いがけず零れ出たことばは、紛れもなく土方のなかの一片の真実だった。
どこかで、侍として憧れていた。どこかで、おとことして惹かれていた。いつのまに、ひとりのひととして恋うていたのか。
「…土方」
常のごとく感情を乗せない声で、黙って聞いていた桂が口を開いた。ぴくりと、土方の肩が揺れる。おそろしいほどの切迫感に肺腑が潰れそうだった。なにを云われるのか、どう返されるのか、他人の反応にここまで怯えたことは、かつてなかった。
「おまえに、おれはやれぬが…」
土方はぎゅっと、目をつぶる。唇を嚙み締めた。
「てか、この身は国に捧げたものゆえ、だれにも、やるわけにはゆかぬが」
ほう、と桂は、ひとつ息を吐(つ)いた。
「貴様にその覚悟があるのなら、追ってこい」
え、と思わず土方は面を上げる。桂と、目があった。
「貴様は、貴様の信念のもとで、おのれを磨けばよい。おなじ経験を踏むことだけが、対等であることにはならんはずだ」
そして、にやりと笑った。
「その結果、おれを希むだけの価値があると、おのれでおのれを見定めたなら。堂々と、おれを口説きに来るがいい」
土方は、呆気にとられた。とっさにことばが出ない。
こいつは、このおとこは。
「…どこまでも、傲慢なやろーだな。てめぇは」
「そんなこと、承知のうえではないのか」
桂は一笑した。そうだ。承知のうえで、自分は。
「追ってこいだぁ? 云われなくても、おめぇを追うのはな、こちとらの務めなんだよ」
「まあ、無駄足に終わるだろうがな」
憎々しいほどの余裕だった。
こうしたことのあしらいに慣れているのだと、土方は思った。このまま、なめられたまま、逃げられてたまるか。もうこちらの気持ちは明かしてしまっている。拒絶しなかったことを後悔させてやる。
「桂」
云って、桂の半身を力任せに引き寄せる。反駁の間をあたえずに思い切り深く、その口唇を奪った。
* * *
桂一派と高杉一派が派手にやり合ったという情報を山崎が持ってきた。ガキふたり連れた、ばか強い白髪頭の侍が、桂に荷担したと。
なるほど。桂の黙していたことは、これか。定食屋でマヨネーズをひねり出しながら報告を聞いていた土方は、はたとその手を止めた。
池田屋の一件でも桂に関わっていた白銀髪。土方の刀を折った男。まてよ。白髪の。そうだ。どこか引っかかっていたのは、それ以前の。あのときだ。桂が、無防備にじっと見つめていた、あのとき。視線のさきにいたのも、たしか白髪のーーー。
「おい、山崎。なんつった? あれ」
「はい?」
「あの、万事屋。なまえ、なんていった」
「なまえ、ですか? 万事屋の旦那の。え、と」
報告書を繰る。
「坂田、ですね。坂田銀時」
「…銀時」
鸚鵡返しにつぶやいて、土方は嚙み締める。
…ぎん?
熱に浮かされた桂の、口をついたなまえ。
あれか。あいつか。野郎が、桂の戦友。桂の、幼なじみ。桂と肩を並べて立っていたおとこか。あの死んだ魚のような目をした野郎が。かつて攘夷の英雄として、桂とともに在ったおとこなのか。
マヨ丼をかっ込みながら、土方は、腹の奥からふつふつと煮えたぎるものが湧き出るのを感じた。
あの傲慢で、したたかで、美しく、だが妙にかわいらしい、桂という存在と、過去を共有するもの。
見つめていた、あの眼差し。おのれの指先に絡んだ桂の指。あのおとこと、まちがえたのか。桂。
食後の一服を喫いながら、坂田を洗うように、山崎に命じた。
ほぼ見当のついた野郎の背景をわざわざ探らせたのは、桂のこころの奥深くに棲むおとこへの、嫌がらせ以外のなにものでもない。
了 2008.01.22.
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「そちらこそ、おれがやった情報は役に立てているのだろうな」
「辻斬りが、人斬り似蔵か。あれから姿をくらまして、出てきやがらねぇよ。…なあ、桂」
肩口からの傷に包帯を巻き直しながら、あれから、治療のたび感じていた疑念を口にした。
「なんだ」
「あんた、ほんとに似蔵にやられたのか。似蔵ごときにやられる腕前とは、どうしたって思えねえ」
すうっと、桂は目を細めた。笑っているのか、警戒しているのか、どちらともとれる表情で、土方を見た。
「なるほど、まんざら莫迦ではないな」
「てめぇは、いちいちひとの神経逆なでしてぇらしいな」
ことばほどには苛立つようすもなく、土方が応じる。
たかが数日でも朝夕に食卓を挟み面付き合わせて過ごす時間は、密度がちがう。桂のもの云いにも慣れてきていた。
「詮索無用。幕府の狗の手には余る」
「やっぱり、ほかになにかあるんだな?」
土方が思わず身を乗りだすのを、桂は軽く制した。
「聞かぬがいい。芋侍。貴様は骨の髄まで真選組だろう。聞いては、黙ってはいられまい」
それはつまり、土方が知れば否応なく真選組も介入せざるを得なくなる事態だ、ということか。仮に知ってのち、土方が黙っていたなら、それは。
「貴様が主にいま以上の裏切りは、貴様の信念にも悖るだろうからな」
「………」
「おれも、存外甘い。これでも情報を漏らしているには違いないのだから」
云って、桂が苦笑した。
ざわり、としたなにかが、土方の背をなでた。まだだ。まだ早い。
「桂、俺ぁ」
「…いまが頃合いのようだ」
まだこの時間を失いたくない。
「明日には、貴様の主に、おれのことを告げるがいい。適当に脚色して、おれをたすけて匿ったなどとは、云わぬことだぞ」
「桂」
むろん長く続くなどとは思っていない。桂がいうとおり、おのれは真選組の人間だ。最後の土壇場で選ぶのは、まちがいなく真選組であり、近藤であった。だがまだ土方には、見つかっていないのだ。仲間に黙って務めを裏切ってまで、桂を介抱した理由。これほどに自分を揺るがすものの正体が、見えていなかった。
「むろん、そのころには、もうおれはここにはおるまいが、な」
いたずらっぽく、そう付け加えるのを桂は忘れなかった。
「…蕎麦は、どうするよ」
「…そうだな。蕎麦は惜しいが、我が身と秤にかけるわけにもゆかぬ」
「惜しいのは、蕎麦だけか」
自分でも思いもよらぬせりふが、土方の口をついて出ていた。
少し驚いたように、桂は土方を見た。
「ちっとでも、俺といた時間を惜しいとはおもわねぇのかよ」
出た声音の低さに、土方自身が驚いていた。なにを云っているんだ、俺は。いや、ちがう。これが、理由だったのだ。
「…血迷うなよ」
桂のそれは、ことばとは裏腹なやわらかな口調だった。
「貴様という人間のひととなりをわずかとはいえ知れたことは、良くも悪くも、おれにとって得難い時間だったのだからな」
「おめぇが俺の、なにを知ったと?」
変わらず押し殺したような声のまま、桂を睨める。
「貴様が二律背反に悩める若造だということと」
少しだけ云い淀んで、桂は繋ぐ。
「すこぶるやさしいおとこだ、ということだ。…土方」
どきりとした。
初めて、名を呼ばれた。こんなときに。それは思いのほか、温かな色を帯びていた。
「俺のどこがやさしい。たすけたことか?匿ったことか? そいつはただの甘ちゃんなだけだろう?」
自嘲をこめて云う土方の、桂は眸を見つめた。
「ちがう。煙草だ」
「煙草?」
思いもよらないことばに、土方は目を瞠る。
「貴様は職務中にも煙草を銜えて離さないような、不届きものだ」
「へいへい」
つとめて軽口で応じた。そうでもしないと、桂のその眸に呑まれそうで。
「それがいちども喫わなかった。おれの、いや、傷病人のいるまえでは」
云われてみれば、そのとおりだった。屯所では存分に喫っていたし、ここで喫いたくなったときは部屋を出た。自覚のないまま、桂の身を気遣っていたということか。それはそれで、やさしいというよりは恥ずかしい気がして、土方はあたまを抱えた。
「んなものは、ただの常識だろうが」
「貴様のようなやつに、道を誤らせるわけにはゆかぬ。むろんたがいの信念は異なろうが、侍として、貴様が貴様の主に顔向けできなくなっては、おれも寝覚めが悪い」
「俺はべつに、大将に顔向けできねえようなことは、してねぇよ。まだ」
桂におのれの身を案じるようなそぶりを見せられて、土方はいたたまれなくなった。あたまを抱え込んだまま、面(おもて)を上げられない。なにか口にしてはいけないことを口走ってしまいそうだった。
「まだならば、まだのうちに、終えておけ」
そんなわけにいくか。勝手に終わらせるな。始まってもいないのに。いや、土方のなかでは、とうに始まってしまっていたのだ。
これまでことばにならなかったなにかが、喉元まで迫り上がってくる。なんだ。だめだ。これは、口にすることじゃねえ。だがいまを逃せば、つぎは永遠にやってこない。来るわけがない。いましか、云えない。
「俺は、ただ、あんたと、…おなじ場所でおなじ時間を過ごしたかっただけだ」
「…………」
「おめぇが経てきた過去に、いまの俺を、俺という存在を、対等な場所に置いてほしかっただけだ」
云いながら、土方はその口を押さえた。そうなのだ。そうなりたかった。敵味方を超えて、桂という希有な生き方をしてきた存在に、おのれを認めさせたい。その生き様に、ひけをとらぬおとこでありたいと、いつのまにか考えていた。
そして、そのうえで。
「おめぇが、欲しい、と思った」
押さえた口から、抑えきれないものが溢れ出ていた。身を抱え込み、面を伏せ、土方はうごけなかった。
ああ、云っちまった。
なにを莫迦なことをと、桂は笑うだろう。嘲るだろう。修羅の戦場の経験すらない若造が、身の丈を超えたものを望んでいると、蔑むだろう。だが、自分でも思いがけず零れ出たことばは、紛れもなく土方のなかの一片の真実だった。
どこかで、侍として憧れていた。どこかで、おとことして惹かれていた。いつのまに、ひとりのひととして恋うていたのか。
「…土方」
常のごとく感情を乗せない声で、黙って聞いていた桂が口を開いた。ぴくりと、土方の肩が揺れる。おそろしいほどの切迫感に肺腑が潰れそうだった。なにを云われるのか、どう返されるのか、他人の反応にここまで怯えたことは、かつてなかった。
「おまえに、おれはやれぬが…」
土方はぎゅっと、目をつぶる。唇を嚙み締めた。
「てか、この身は国に捧げたものゆえ、だれにも、やるわけにはゆかぬが」
ほう、と桂は、ひとつ息を吐(つ)いた。
「貴様にその覚悟があるのなら、追ってこい」
え、と思わず土方は面を上げる。桂と、目があった。
「貴様は、貴様の信念のもとで、おのれを磨けばよい。おなじ経験を踏むことだけが、対等であることにはならんはずだ」
そして、にやりと笑った。
「その結果、おれを希むだけの価値があると、おのれでおのれを見定めたなら。堂々と、おれを口説きに来るがいい」
土方は、呆気にとられた。とっさにことばが出ない。
こいつは、このおとこは。
「…どこまでも、傲慢なやろーだな。てめぇは」
「そんなこと、承知のうえではないのか」
桂は一笑した。そうだ。承知のうえで、自分は。
「追ってこいだぁ? 云われなくても、おめぇを追うのはな、こちとらの務めなんだよ」
「まあ、無駄足に終わるだろうがな」
憎々しいほどの余裕だった。
こうしたことのあしらいに慣れているのだと、土方は思った。このまま、なめられたまま、逃げられてたまるか。もうこちらの気持ちは明かしてしまっている。拒絶しなかったことを後悔させてやる。
「桂」
云って、桂の半身を力任せに引き寄せる。反駁の間をあたえずに思い切り深く、その口唇を奪った。
* * *
桂一派と高杉一派が派手にやり合ったという情報を山崎が持ってきた。ガキふたり連れた、ばか強い白髪頭の侍が、桂に荷担したと。
なるほど。桂の黙していたことは、これか。定食屋でマヨネーズをひねり出しながら報告を聞いていた土方は、はたとその手を止めた。
池田屋の一件でも桂に関わっていた白銀髪。土方の刀を折った男。まてよ。白髪の。そうだ。どこか引っかかっていたのは、それ以前の。あのときだ。桂が、無防備にじっと見つめていた、あのとき。視線のさきにいたのも、たしか白髪のーーー。
「おい、山崎。なんつった? あれ」
「はい?」
「あの、万事屋。なまえ、なんていった」
「なまえ、ですか? 万事屋の旦那の。え、と」
報告書を繰る。
「坂田、ですね。坂田銀時」
「…銀時」
鸚鵡返しにつぶやいて、土方は嚙み締める。
…ぎん?
熱に浮かされた桂の、口をついたなまえ。
あれか。あいつか。野郎が、桂の戦友。桂の、幼なじみ。桂と肩を並べて立っていたおとこか。あの死んだ魚のような目をした野郎が。かつて攘夷の英雄として、桂とともに在ったおとこなのか。
マヨ丼をかっ込みながら、土方は、腹の奥からふつふつと煮えたぎるものが湧き出るのを感じた。
あの傲慢で、したたかで、美しく、だが妙にかわいらしい、桂という存在と、過去を共有するもの。
見つめていた、あの眼差し。おのれの指先に絡んだ桂の指。あのおとこと、まちがえたのか。桂。
食後の一服を喫いながら、坂田を洗うように、山崎に命じた。
ほぼ見当のついた野郎の背景をわざわざ探らせたのは、桂のこころの奥深くに棲むおとこへの、嫌がらせ以外のなにものでもない。
了 2008.01.22.
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