雨と湿気を厭うティエリアも、雪の日は例外らしい。
降り積もった道を誂えた長靴でさくさくと踏みしめては振り返り残した跡を確かめる。掌に掬い取ってはまた天空に粉雪を撒いた。
「ティエリア?」
濃厚に肌を合わせる夜もただ抱き合って眠るだけの夜もあったが、ともに過ごす穏やかな日々のなかで、隣に眠る気配が酷く魘されるときがあった。
「ティエ…。おい」
白いひたいに汗が滲む。眉根を寄せて低く呻く姿に、わるい夢でも見ているのかと、その肩をかるく揺すった。
「……あ?」
ぱちりと唐突に見開かれた深紅の双眸が、心配げに覗き込む碧緑を認めて、ゆるゆると首を振る。
「……ああ」
「怖い夢でも見たか? ん?」
やわらかに笑みながら、どこかあやすように云って指の背でなめらかな頬を撫でた。
「…」
華奢な腕が無言でしがみついてくる。
「ロックオン…」
こんなとき、きまってティエリアはその名でニールを呼んだ。
だがそれよりほかはなにも云わない。ただそこにニールがいることに安堵したように、それを逃すまいとするように、ただただぎゅっと、ニールの存在を確かめるように。繰り返し名を呼んでしばらくしてそれが治まり落ち着くと、気まずそうに身を退こうとする。
幾度かそんな夜を繰り返した。
ニールはそのたび、黙ったままその身を抱き寄せ、また抱き締めなおす。
なにも問わなかった。なにも聞かなくてもその悪夢の正体を知っている気がした。おのれにも身に覚えがあった。
地上に降りた当初はこんなことは無かったから、そこにはなにかきっかけがあったはずで、その銃爪を引いたのはほかならぬニール自身であったのかもしれない。
たぶん、どこか浮かれていたのだろう。
故国のちいさな宿で、経済特区東京の一角で、初めて訪れた見知らぬ街で、ティエリアと日がな一日ふたりで過ごす、という少しまえまでは想像することさえ叶わなかった現実に。
雪に夢中なティエリアのかわいらしさと、雪化粧した街並みに溶け込むような美しさに目を奪われていた。だから気づくのに遅れたなどいいわけにもならない。買いもの帰りの散歩道。いきなり視界に飛び込んできた光景に、考えるより先にからだがうごいた。
「ティエリア!」
行動は反射的なもので、われに返ったときには身は宙を舞っていた。両手に抱えていた食材が道路に撒き散らされ、驚愕に瞠られた深紅の双眸を至近に捉えた直後、視界が暗転する。昏く沈みゆく視野の片隅で、雪面に足を取られスリップした車は乗り上げた歩道沿いの店の外壁に鼻面をめり込ませてようよう止まった。
「あなたは」
怒りに震える華奢な肩。
「あなたというひとは…!」
震えは声にも伝わっている。
「二度もぼくにあなたを喪わせる気か」
ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながらも、その舌鋒は怯まない。
「ティエ…」
「二度も、ぼくに、あなたを…」
そう嚙んで含めるように繰り返し、震える口唇をきゅっと引き結んだ。
「ごめん。…ごめん、ティエ。そんなつもりは」
四日ぶんの食材を犠牲にしただけですんだのは、たんに運がよかっただけだ。身を挺して大型車からティエリアを庇ったあと、その勢いで街路樹にぶつかり脳震盪を起こしたらしい。運び込まれたのはどうやら救急病院ではなく見覚えのある宿泊先のモーテルの一室だったから、たいしたことはなかったのだろう。けれどほどなく正気づいたニールの目のまえで、あと一歩遅れれば車体に巻き込まれていたのだと、ティエリアは色を失くした顔でニールを厳しく咎めた。
「おまえさんが巻き込まれなくてよかったよ」
そう返すニールにティエリアは蒼白になった顔に、怒りの血を昇らせて、震える声で詰ったのだった。対国連軍戦の折にデュナメスでヴァーチェを庇い、そののちエクシアを送り出したときよりも辛辣に。
あなたは愚かだと。
「あなたに庇われ再びあなたを失くして、どうしてぼくだけがおめおめと無事であることをよろこべると思うんだ」
素通しの眼鏡のむこう、憤怒と安堵と哀切とが入り混じった深紅の双眸から、またはらはらと大粒の涙がこぼれ落ちる。うっすらと打撲の痛みを覚える腕を伸ばして、親指の腹でその目許を拭った。
「わるかった…ティエリア」
詫びながらも、視界に映るティエリアの身に怪我のないのを認めて胸を撫で下ろす。なにがどうなろうと、この存在を失うこととは比ぶべくもない。ましていまのティエリアは、ニールだけのものにはとどまらない存在だ。
あの子はヴェーダからのたいせつな預かりものなのだ。ロックオン。
そう語っていたドクターモレノは、どこまでティエリアのことを、イノベイター、いやイノベイドのことを、知っていたのだろうか。
頬に差し伸べたニールの手を取り唇をあてて、ティエリアは薬指の指輪をかりりと嚙んだ。うつむいた拍子にはらりと落ちた紫黒の髪が、その表情を隠した。
そうだ。理由はわかっている。
これは、無垢なる魂におのれが刻みつけた傷だ。
* * *
軌道エレベーターで旧ユニオン領に降り立ってのち、旧AEU領アイルランドに向かい、経済特区東京を経て、旧人革領へと渡る。
地上休暇の旅行気分もあり、そのじつ徐々に変わりゆく世界のさまをじかに見ていようという意識がどこか抜けきらずにあったのかもしれない。
表裏を問わず政財界に少なからぬ影響力を有していた王商会が、若き当主・王留美の暴走と死亡を受けてその座から転げ落ちて失墜した。
リボンズの手の内で転がされていた独立治安維持部隊アロウズの解体から、地球連邦軍に吸収されなかったなかには不穏分子もゼロではない。
いまだ火種が燻っているのはなにも中東域に限ったことではないのだ。
変革する世界の歪みも統一へ向かう道への綻びも、一足飛びになくなるわけはなく、ただそこを目指すのだという意志が地球連邦として明確に掲げられた、それが大いなる最初の一歩というだけのことだ。
むろんそれは現地球連邦大統領の舵取り如何ではあった。和平に尽力し世界を飛び回っているアザディスタンの皇女マリナ・イスマイール。いまは連邦政府の一角を担う、元カタロンの雄クラウス・グラード。そして、その各所の火種を潰すべく現体制への審判も含めて独自の活動を続けているCB。そうした異なる立場にあるものが、それぞれの場所から目指す未来の一点へと協調してゆくほか、途はない。
ヴェーダはその指針となり、また同時にバックアップを担うものでもある。ヴェーダの第一義は人類の存続。護るべき人間たちの未来のためにイノベイドのティエリアは存在する。
だからせめて。
個としての、ひととしてのティエリアを護り温める存在が、ひとつくらいあっていいだろうと思うのだ。そうありたい、とニールは願った。
その自分がティエリアを不安にさせるようでは本末転倒というものだ。
金色に煌めいていた双眸が落ち着いたいつもの深紅の色を取り戻した。
「よ。お帰り」
それを認めて、ニールは笑顔でソファに歩み寄る。
ヴェーダから意識体をいまの肉体に移してのちも、ティエリアは定期的にヴェーダとの直接リンクを持っている。留守番のリジェネはマメに定時報告を入れてくるような性格ではないし、ヴェーダの各レベルの階層の隅々までを網羅し把握できるのはティエリアだけなのだからいたしかたない。
隣に腰をおろしたニールから差し出された紅茶のカップを手にして、ティエリアはちいさく息を吐く。
「どうした? 浮かない顔だな」
「想定内のことではあったが…」
ひとくち飲んでかるく口を湿し、応えるでもなく呟いた。
「純粋種の第一号? …て、刹那だろう、それ」
「刹那は公に認定された存在ではない」
最終決戦の際、刹那がダブルオーライザーで引き起こしたトランザムバーストで、偶然イノベイターとして覚醒したというその人物が、地球連邦軍管理下で被検体とされているという。元アロウズ所属、デカルト・シャーマン。
「現連邦軍の軍人として、自ら協力を申し出たかたちになっている」
人類の革新としてのイノベイターという未来、脳量子波を使える潜在因子を持つものたち、そしてイノベイドというヴェーダの生体端末の存在。それらはすでにもう、ヴェーダによって公式に地球連邦政府と世界の民に明かされている。
いまもって秘されているのは、先駆者であるところの刹那・F・セイエイと、生体端末でありながらその母体であるヴェーダを掌握するにまで至ったティエリア・アーデという存在くらいだろう。
「実質モルモット扱い、てな感じだろうぜ…。あのときおまえが刹那の存在を時期尚早と伏せたのは正解だったわけだ」
このさきイノベイターが増えていけば、旧タイプの人間とのあいだで軋轢も生まれるだろうことは想像に難くない。
「それも乗り越えてこその、人間という種の変革なんだろうが」
「いまぼくは、ひとはそれを為せると信じている。…が、人間というものは、やはりあやういのだな」
「ヴェーダを通して連邦軍に働きかけるのか?」
ティエリアは静かに首を振った。
「ぼくが口を差し挟む問題ではない」
ヴェーダとともに人類の選択を見守る。イノベイドのティエリアのスタンスはそこにある。助力は惜しまないが、その行き先を決めるのはあくまで人間の側に委ねられている。
「…だよな。しかしトランザムバーストの影響で覚醒が起こりうるなら、ほかにも純粋種が出ている可能性があるんじゃねえのか」
「当時あの宙域に派兵されていた軍人たちのなかからはほかにそういう報告は上がってきていない。居合わせた民間人の有無やカタロンの兵たちのことまではわからないが」
ソファの隣に腰掛け、一向に表情の晴れないティエリアの肩をそっと抱きよせる。ティエリアはごく自然に、そんなニールに身をあずけてきた。
* * *
「オーライ、と」
ライルの声が、ミッション終了を告げた。
現地球連邦政府要人の集う集会にテロ行為が仕掛けられるという予測を弾き出したスメラギ・李・ノリエガのミッションプランは、ヴェーダの推奨を承けて実行され事無きを得た。
「毎度のことながら的確だな、うちの戦術予報士どのは」
バックアップに回った刹那と合流して、小型艇でプトレマイオス2への帰還の途につく。四人しかいないガンダムマイスターのうち、ティエリア・アーデを失い、アレルヤ・ハプティズムが長期休暇に入っている現状、ミッションの担い手は現ロックオン・ストラトスであるライル・ディランディと刹那・F・セイエイにほぼ限られてくる。うごかせるガンダムもリペアされたデュナメスしかない状態ではあったが、幸いにもそれを必要とするような規模のミッションは最終決戦以降発動されていない。以前のようなおおっぴらにニュース沙汰になるような、派手な活動は現状ほぼ皆無と云える。
「どうかしたか、刹那」
操縦席の刹那にライルが話を振った。寡黙なのはいつものことだが、少しようすがおかしい。
イノベイターとして覚醒した刹那は以前よりとっつきにくくなった。とはいえそれはあくまでライルから見た印象であり、初期からのクルーに云わせれば『以前の刹那に少し戻った』感があるらしい。彼らの云う"以前"というのは、CBが国連軍に敗退したころまでの、ライルの与り知らぬころのことである。
「…いや、少し妙な感じを受けただけだ」
「ふうん? そりゃまた、なにに?」
「うまく説明できない。…おまえは、きょう俺たちが接触した不穏分子の連中に、どこか違和感を感じなかったか、ロックオン」
「違和感ねぇ…」
ライルは少し首を傾げて、副操縦席から刹那を見遣る。
「あっさり片付きすぎたきらいはあるかな。俺が感じたのはそのくらいだ」
「…そうか」
「なにか引っ掛かるんならヴェーダに報告がてら聞いてみたらどうだ。おまえさんは、俺たちよりそのへんは敏いんだろうからさ。ヴェーダには教官殿だっているんだろ?」
その名に、刹那はわずかに首を振った。
「いや…邪魔をしたくない。こんなことであいつを煩わせるのもな」
「邪魔って、なんの」
「…ティエリアはいまヴェーダのもとで眠ってるんだ。せっかくの休息時間を壊したくない」
一瞬戸惑ったような逡巡ののちそう応えた刹那に、ライルはかるくうなずく。
「それもそうか。教官殿は生真面目に働き過ぎだったしなぁ」
実際のティエリアはふたたび実体を得て、いまニールのもとで休暇を過ごしているわけだが、戦死した双子の兄の再生と復活を知らされてさえいないライルにありのままを告げるわけにもいかない。それに、煩わせたくないというのも本心だ。
先般、刹那がトレミーのみなにはないしょで会したティエリアの姿が思い浮かぶ。
しあわせそうだった。ニールの傍らで穏やかに笑っていた。それをひとときの休暇だと云いきったティエリアを、まだあの時間から引き戻したくはなかった。
CBの活動は現在ふたたびヴェーダの予測とバックアップと推奨を受けている。それらは連邦政府では立ち入れない領域で処理されていることになるが、スメラギのミッションプランは必ずヴェーダを通しているのだから、当然ティエリアもまたそれを把握しているだろう。
「もちろん報告は入れておく」
イオリア計画のもとでうごいていたときのように詳細なレポートをそのつど提出するようなことはないが、ミッションプランを諮っている以上はそれなりの報告義務もある。ヴェーダのもとを離れていようと、ティエリアはおそらくそれにも目を通しているはずだ。
刹那はミッションレポートに、ライルの所感とおのれの感じた違和感をひとこと添えるにとどめた。
* * *
続 2012.11.07.